感情的コミュニケーション
アスペ的「愛」と定型的「愛」? に寄せられたみなさんのコメントを拝見していて、トマトさんではないですが、改めてこの問題ほんとに大事なんだなと感じています。
ちょっと見ると、玄さんとするりさんのこの問題についての考え方、感じ方は違っているようにも見えるのですが、でも私はむしろ共通するところがそのベースにあるかもしれないと思いました。
違って見えるのは、玄さんは「(感情という?)対象が『検出できないくらい小さい』」と書かれているのに対して、するりさんはむしろ感情に大きく左右されるからこそ「『感情的にならないように』『穏やかで平穏に』をひたすら願っていると言えるかもしれません」と書かれてるところによく見て取れます。
そのまま理解すれば、玄さんはそもそも「感情」の動きがとても小さい。で、理性的。するりさんは逆に「感情」の動きがとても大きい。だから、理性的になる。そんな話ですよね。でももしかすると玄さんは子どもの頃の経験でそういう感情の力を知って、早い内から理性的に対応する生き方を身につけられてきたという可能性もあるなあと思ったのです。それが深く身についているから、今では「検出できないくらい小さい」という状態になっているのかもしれない。
もちろん私の勝手な想像で、的外れなのかも知れませんけれども。
私の理解が的外れであるにせよ、そうでないにせよ、少なくともアスペの方の一部は、するりさんのように感情に振り回されて苦しむ可能性を感じて、感情的な他者との関わりをできるだけ避けようとされていて、それがもう習い性になっている結果、今度は感情的コミュニケーションをしようとする定型と噛み合わなくなってしまう、ということが起こっているのだと思います。
そういえば私のパートナーも、「もうこの人との関係は一切続けられない」と思ったときには、激しく怒りの感情も出すことはある、と言っていました。逆に言えば、仕事モードの時は普段そうならないように、理性的にコントロールしているんでしょうね。でもその結果として、すごくストレスを抱えてしまうこともあるように感じています。
定型はこの「感情」の問題については、「相手とのコミュニケーションで支えてもらったり、解決してもらったりする」ということをよくやるんだと思います。そしてそこには愛情の問題も入っていて、愛のある関係というのは、そういう感情的な問題について、お互いに表現しあって支え合える関係、というイメージがあります。それで傷ついたときにはなぐさめてあげる(もらう)、さびしいときにはよりそってあげる(もらう)、怒りに自分がコントロール出来ないような状態の時は一緒に怒ったり(怒ってもらったり)、あるいはなだめて(なだめられて)落ち着けるようにする。そんな「感情的コミュニケーション」にすごく頼っていて、愛する人には特にそれを強く求めるし、求められることを願う。
多分一般的な定型的な感じ方で言うと、そういうことをよくする夫婦は「お互いに思い遣りを持ったいい夫婦」に見えるし、そうしない夫婦は「お互いの気持ちが離れてしまった、寂しい夫婦」という見え方になると思います。
それで、愛情の問題は多分定型の場合、性愛の問題と切り離しがたくなるのでしょう。私はセックスというのはとても大事なコミュニケーションのひとつだと思っているのですが、それはかなりむき出しな感情(欲望?)を相手に表すことだし、また受け止めることだし、そこでお互いに「相手が喜んでくれることが嬉しい」とか、「一体化する」という(玄さんの言葉を借りれば)「同一性」みたいなことも絡んできます。
そうすると、もしアスペの方(の一部?)が感情的なコミュニケーションを避ける傾向があるとすれば、そういう性愛の問題についてもアスペと定型でズレが起こってしまうことになりますよね。
定型は他人との「感情的コミュニケーション」で自分の感情の問題に対処しようとするし、アスペの方(の一部?)は「感情的コミュニケーション」を避けて、できるだけ穏やかな状態を保ち、また理性的に対処しようとする、という傾向があるのかもしれません。
そんなふうに考えると、パートナーのこともまた少し理解が進むような気がしました。
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