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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2013年5月

2013年5月21日 (火)

感情的コミュニケーション

 

アスペ的「愛」と定型的「愛」? に寄せられたみなさんのコメントを拝見していて、トマトさんではないですが、改めてこの問題ほんとに大事なんだなと感じています。

 ちょっと見ると、玄さんとするりさんのこの問題についての考え方、感じ方は違っているようにも見えるのですが、でも私はむしろ共通するところがそのベースにあるかもしれないと思いました。

 違って見えるのは、玄さんは「(感情という?)対象が『検出できないくらい小さい』」と書かれているのに対して、するりさんはむしろ感情に大きく左右されるからこそ「『感情的にならないように』『穏やかで平穏に』をひたすら願っていると言えるかもしれません」と書かれてるところによく見て取れます。

 そのまま理解すれば、玄さんはそもそも「感情」の動きがとても小さい。で、理性的。するりさんは逆に「感情」の動きがとても大きい。だから、理性的になる。そんな話ですよね。でももしかすると玄さんは子どもの頃の経験でそういう感情の力を知って、早い内から理性的に対応する生き方を身につけられてきたという可能性もあるなあと思ったのです。それが深く身についているから、今では「検出できないくらい小さい」という状態になっているのかもしれない。

 もちろん私の勝手な想像で、的外れなのかも知れませんけれども。 

 私の理解が的外れであるにせよ、そうでないにせよ、少なくともアスペの方の一部は、するりさんのように感情に振り回されて苦しむ可能性を感じて、感情的な他者との関わりをできるだけ避けようとされていて、それがもう習い性になっている結果、今度は感情的コミュニケーションをしようとする定型と噛み合わなくなってしまう、ということが起こっているのだと思います。

 そういえば私のパートナーも、「もうこの人との関係は一切続けられない」と思ったときには、激しく怒りの感情も出すことはある、と言っていました。逆に言えば、仕事モードの時は普段そうならないように、理性的にコントロールしているんでしょうね。でもその結果として、すごくストレスを抱えてしまうこともあるように感じています。

 定型はこの「感情」の問題については、「相手とのコミュニケーションで支えてもらったり、解決してもらったりする」ということをよくやるんだと思います。そしてそこには愛情の問題も入っていて、愛のある関係というのは、そういう感情的な問題について、お互いに表現しあって支え合える関係、というイメージがあります。それで傷ついたときにはなぐさめてあげる(もらう)、さびしいときにはよりそってあげる(もらう)、怒りに自分がコントロール出来ないような状態の時は一緒に怒ったり(怒ってもらったり)、あるいはなだめて(なだめられて)落ち着けるようにする。そんな「感情的コミュニケーション」にすごく頼っていて、愛する人には特にそれを強く求めるし、求められることを願う。

 多分一般的な定型的な感じ方で言うと、そういうことをよくする夫婦は「お互いに思い遣りを持ったいい夫婦」に見えるし、そうしない夫婦は「お互いの気持ちが離れてしまった、寂しい夫婦」という見え方になると思います。

 それで、愛情の問題は多分定型の場合、性愛の問題と切り離しがたくなるのでしょう。私はセックスというのはとても大事なコミュニケーションのひとつだと思っているのですが、それはかなりむき出しな感情(欲望?)を相手に表すことだし、また受け止めることだし、そこでお互いに「相手が喜んでくれることが嬉しい」とか、「一体化する」という(玄さんの言葉を借りれば)「同一性」みたいなことも絡んできます。

 そうすると、もしアスペの方(の一部?)が感情的なコミュニケーションを避ける傾向があるとすれば、そういう性愛の問題についてもアスペと定型でズレが起こってしまうことになりますよね。

 定型は他人との「感情的コミュニケーション」で自分の感情の問題に対処しようとするし、アスペの方(の一部?)は「感情的コミュニケーション」を避けて、できるだけ穏やかな状態を保ち、また理性的に対処しようとする、という傾向があるのかもしれません。

 そんなふうに考えると、パートナーのこともまた少し理解が進むような気がしました。

2013年5月14日 (火)

「好き」か「金づる」か

 

トマトさんのコメントの結びの言葉

「でも・・・ないないづくしで「無い」がいっぱい集まった先に、まったく新しいものが「あった!」という発見が、ASと定型のコミュニケーションだと感じます。」

 これは私の最近の感覚に近いことを表現して下さっているように感じました。先のことはもちろん予想しきるのは無理ですけれど、以前ならば「アスペと定型(というか、彼女と私)はここまで違うのか!」という「発見」がともすれば落ち込む原因にもなっていたのが、最近は「ああ、ここも違うんだね」という「確認」みたいな感じで、それほどショックに思うこともなく、「じゃあそこは別の方法を考えよう」とか「まあ、ここはこだわらないでおこう」といったふうに感じられることが多くなったように思います。

 そして玄さんやするりさんとのやりとりでも何度か書かせていただいたように、具体的な表現の仕方とか、やり方は正反対に見えても、つっこんでその意味を考えていくと、お互いおんなじようなことを考えたり、悩んだりしてるんだな、という風に、トマトさんの言う「あった!」が見えてくることが増えてきています。

 パートナーも以前自分がアスペであるという意識をはっきりと持つようになってからしばらくは、そのことで全く意図せずに定型の子どもたちや私を苦しめたんだ、と自分を責め続けることが続いていたんですが(特に子どもの問題は親としてはつらいですよね)、わからないなりにお互いに相手の視点から問題を考える努力を続けてきた中で、今は「定型はこれだから困る」みたいな感じで、私が怒られることも増えてきました。

 なんだかようやく「対等」な立場でお互いの問題を考えることができはじめているのかな、という気がします。彼女の方から一種の「からかい」みたいなことをして私を「いじめ」てきて、お互いににたにたする、みたいなことも起こってきていますし、仕事モードではなく、家庭モードの時にも私が求めていた定型的な関わり方を、自分からあまり無理ない形で(アスペ的な変更も加えつつ)してくれることも出てきました。

 やっぱりまたこの先、思いもしないような大きな問題が襲いかかってくるのかどうか、それは分かりませんけれど、とりあえず今は「落ちるところまで落ちた」という状態から、トマトさんのいう「あった!」の状態に変わってきているということなのでしょうね。

 この間もすごくおかしかったんですが、今の世の中の状況もあって、私も経済的にいろいろ考えなければならないことが多いんですが、パートナーには最後の砦として、「金づるの私を大事にしなさい」と申しつけられました (^ ^;)ゞ。で、私が「僕から好きだと言われるより、金づるだから大事にする、と言われた方がずっと嬉しいんでしょう?」と聞いたら、もう一も二もなく肯定されて、私は大笑いしました。なんかちょっと気持ちのフックがかかったような気になりました。

 彼女についての私の理解が的外れでないのかどうかは何とも言えませんが、少なくとも私の方は勝手にそんな感想をもてるような状態、ということではありますね。

2013年5月12日 (日)

アスペ的「愛」と定型的「愛」?

 

掲示板の方で玄さんが書かれていた

「僕の家族へのありかたは「存在」そのものです。家族の各メンバーの「健康管理・精神的な安定・社会に触れる・知識欲をかきたて満たす」といった各プロジェクトを推進するリーダーといった感じです。「愛ありき」ではありません。愛がなくなったら解散するというものではありませんから。」

 という説明が、ようやく感覚的にも少し分かり始めてきたように思います。以前私はどなたかのコメントでロマンチストだというような感想を頂いたことがありましたし、多分アスペのパートナーをお持ちの方で特に苦しまれる方にはそういう傾向の方が多いのではないかとも思うのですが、何にしても「家族には愛が必要」という感覚は、定型の側は比較的持ちやすいのではないかと思います。

 言い換えると、もしかすれば定型同士のつながりというのは、アスペの方に比べてとても変化しやすく、ある意味でもろさを持っているのかも知れないですね。よく言えばそれは柔軟性を持っていると言うことでもあるんでしょうけれど。だからなんかの形で「愛」の持続とか、発展とかを確かめ合えなくなると、危険な状態になっていく。

 だからそのもろさを持った「家族」というものを保つために、なんだかいろんな工夫を積み重ねてきたのが定型中心の人間の歴史なのかなと言う気もします。以前、動物からの進化ということから人間の家族の特徴を考える、みたいな話を聞いたか読んだかしたのですが、何で人間は他の動物と違って一年中発情期(!)を持つようになったのか、というと、「子供を作る」ということ以外に、「夫婦をつなぎ止めておく」ための仕組みとしてそういう身体になったんだ、という説でした。

 生物としてそういう仕組みを作り上げてきて、さらに社会としても、たとえばキリスト教のカトリックなんかでは「結婚は神との約束」だから一度結婚したら最後まで添い遂げなければならない、という事になっているみたいですし、それだと離婚が出来なくなるので、イギリスの王はわざわざカトリックをやめてイギリス正教会を作って離婚OKにした、という話も聞いたことがあります。もちろんそれで離婚はOKになったとしても、夫婦が夫婦である限りは特別な関係として持続「しなければいけない」という、宗教的な制約はなくならないわけでしょう。

 そんな風に社会的な力で「夫婦」をつなぎ止めないといけない不安定さを定型が多数派の世の中はいつも持っているんだと思います。それで定型は性愛にもつながるような「愛」の確認をお互いにできなくなると、精神的にも「危機」が訪れやすいんじゃないでしょうか。

 その点ではアスペの方の感覚はだいぶ違うのかなと思います。わざわざ社会的に制約されなくても、「結婚したらそのまま添い遂げるのが当たり前」で、「具体的に生活を一緒に作っていく」「その中でお互いに相手のことを考えて助け合う」というつながりがそこにあれば、それこそが大事だし、ある意味それで十分なのだろうと想像します。定型的な感覚での「愛」というのはそこで必要とは考えられない。というか、そうやって一緒に生きていくことそれ自体がアスペ的な「家族愛」のあり方と言った方がいいのかも知れませんね。パートナーを見ていると、そんな気がします。
 
 

2013年5月 4日 (土)

フツー対自分のみ

 トマトさんが書かれている「話の前提が、定型は「世間一般と自分が同化した所のフツー」からスタートしているのに対して、ASは「あくまで自分のみ」からスタートしていることが多い」ということ、「ああ、そうそう、そんな感じ、そんな感じ」という風に思いました。ちょうど最近もわもわとイメージが湧いてきて、どういう言葉で表現したらいいだろう、と思っていたことを、うまいこと言葉にして下さった感じがします。

 玄さんが「会話で伝わるのは三割」と書いていらして、パートナーに聞いてみたら、彼女の場合は一割か二割という感覚だそうです。で、逆に聞かれたんですが、漠然とした感覚から言えば、定型同士の普通の話なら7,8割は伝わるし、少し込み入った話でも6割は伝わる感じで話をするという印象が自分にはあります。もちろん細かく突っ込んでいけば微妙なズレはいろいろある筈なので、もっと低い評価になるでしょうけれど、まあ大雑把な感じでは。

 それにたとえば「自分の親は自分のことを自分以上に理解してるところがある」とか、「親友に指摘されて初めてそれまで分からなかった自分が分かるようになった」というように、定型の場合は「自分以上に相手が自分を理解する」ということがあると感じたりもします。私も定型の中では聞き上手と言われることがありますが、相手の人の話を聞いて「それって、つまりこういうことかな」と自分が理解したことを言うと、「そうそう、そうなんです。」とか「あ、そうか、自分が考えていたことはそういうことだったんだ!」とか、すごく納得されることもあります。

 その話をパートナーにしたら「気持ち悪い」と言われました。なんとなく彼女がそう感じることがわかる気もするんですが、もしかするとそういう「場合によって本人より他人がその人のことが分かることがある」という世界は、アスペの方にとっては一種「オカルトの世界」に感じられるのかも知れません。テレパシーの世界とか。

 でも別にそんなややこしい世界の話ではなくて、相手の人の話の筋や置かれた状況を整理して考えていけば「それならこういうことになるだろうな」とか、相手の人の表情や行動や言葉からいろんな手がかりが得られますから、そこから考えれば「当然こういう事だろう」という推測が働くだけのことなんです。ある意味とても「合理的」な理解なんですね。ただし「感情の動きの理解」も含めての話ですけれど。

 すると彼女から「じゃあ、なんでアスペの人のことは分からなくて苦労するわけ?」と聞かれたんですが、そこはやっぱり定型とアスペの感じ方や考え方にかなりの違いがあって、定型にとっては「合理的」に思えることが、アスペの方の考え方には通用しないことがとても多いからだろうということになります。定型同士で威力を発揮する「理解の仕方」が通用しない世界を持っていらっしゃるから、難しいんですね。そこは逆に言えばアスペの方の「理解の仕方」が定型の世界では通用しないので、アスペの方が苦労するのと同じだと思います。

 それで、定型的な理解の仕方と、アスペ的な理解の仕方の違いは何だろう、ということをいろいろ考えていくときに、最初に引用させていただいたトマトさんの見方がかなり大事なポイントを指摘されて居るんじゃないか、という気がするんです。

 人とのコミュニケーションは、まあ大体の所は通じる、という漠然とした感覚を持って生きている場合と、逆に通じることはとても難しいことだ、という感覚を持って生きている場合では、世の中の見え方もすごく変わるでしょうし、コミュニケーションするときの構えも違うでしょうし、相手に対する「信頼の持ち方」なんかも違ってくると思えます。

 その違いは生まれながらにと言うより、実際にコミュニケーションをする中で通じたり通じなかったりという経験を積み重ねることで、できあがってくるものだと思います。(もちろん、アスペの方が定型の中で通じないという経験を多くするのは、コミュニケーション以前の所で感じ方や注目するポイントの違いとか、生まれながらの違いがベースにあると思えるのですが)

 その結果として「個人」を出発点として考えることが徹底していて、その感覚で他者との関係を調節するアスペと、「常識」という他の人と共通しているものを出発点として、その感覚で他者との関係を調節する定型との、「社会性」の違いが生まれてくる。定型はアスペの方からしばしば「それが普通でしょう」とか「常識でしょう」「当たり前じゃない」とか、そういう言葉を投げつけられて苦しむ、ということを訴えられていますけれど、定型がアスペの方とのコミュニケーションに苦労したときには、やっぱり「共通する常識がある」という強い感覚にすがるんだと思います。

 定型の中では「個性派」と言われ、お互いに「個性的」であることを大事にしてきたつもりの私でも、パートナーとの間ではやっぱり最後には「そんなの常識でしょう」という言葉が出てきましたものね。それだけ定型の「常識の共有」への無意識の信念を足場にした生き方は強烈なんだと思います。逆に言えば「個人」を無意識の信念にしているアスペの方の生き方も強烈なんでしょうけれど。

2013年5月 3日 (金)

伝わる?

 私とパートナーの個人的(個カップル的?)な経験の話が、一体他の皆さんにどんな風にお役に立つのか、相変わらずよくは分からないままに感じたことを好き勝手に書いています。もちろん好き勝手に書くと言っても、当然プライベートなことの全てを書けるわけではありませんし、私の目を通して理解できたことしか書けないのですから、どうしたって見方に偏りを避けることも出来ません。その結果、もしかするとみなさんに誤解を与えるようなこともあるのかもしれませんし、まあそこは「ブログ」というものの限界もありますから、仕方ないのでしょうね。

 ところで最近、パートナーと議論(という言葉を今日は彼女は使いました)をしていて、また変化が出てきた感じです。というのは、これまでは私の方から「ちょっと話をしてもいい?」とか、「話したいことがあるんだけど」という感じで話を始めることがほとんどだったのですが、このところ、彼女の方から議論を始めてくれるようになったんです。

 彼女が今日も言っていましたが、その議論というのは彼女にとって疲れるし、苦しい作業なんだそうです。私の方は議論によって自分の頭を整理したり、相手との理解を深めあったりするのが好きな方なので、その議論がしんどい作業だという彼女の話を聞くと、なんだか申し訳ない気持ちにもなっていました。でも彼女が「しんどいけど、大事だと思うからつきあう」と言ってくれていたので私の方から話しかけてきていました。それが今度はたとえしんどくても、彼女の方から議論したい、という風になってきたんですね。

 どういうときにそうなるのかと考えてみると、昨夜もそうでしたが、お互いの考え方や感じ方、理解がずれて、あまりのズレにいらいらして口論みたいになったあと、少し時間をおいてとか、翌日にとか、彼女の方から話しかけて議論が始まるという感じです。時間をおけばお互いにある程度冷静になっていますから、話もよりスムーズに(と言ってもアスペと定型のコミュニケーションペースでですけれど)進みます。

 今日の話の中で私が一番嬉しかったことは、彼女の「自分はアスペだと思う」という訴えから始まって、手探りでお互いの理解のし直しや、ズレの発見みたいなことをやってきたことについて、彼女がそのお陰で職場でもうまく対応できることが増えたし、周囲のアスペと思える人に役立つアドバイスもできるようになってきたと言ってくれたことでした。

 これまでこのブログについて彼女に話したり、あるいはお互いの問題について彼女と「議論」したりし続けてきて、私の方は理解が深まったり、自分自身が変化したりしたことが随分多くあるという実感を持っていたのですが、そのことで彼女がプラスの変化をしたと自分自身感じているということは、聞いたことがなかったんですね。むしろ議論のときの「しんどそうな様子」、議論が終わったときの「ああ、ようやく終わった」というような深いため息なんかを見聞きし続けてきていたので、彼女にとってはしんどいだけなのかなあ、という思いが消えなかったわけです。

 ところがその話をすると、彼女は「今までもずっと同じ事を言ってきたじゃない」というんですね。でもそう言われても私には全然ぴんとこなくて、たしかに職場のアスペの人にアドバイスした話とか、そういうのは聞いた覚えがあるんですが、それが私とのコミュニケーションの中で得た理解によって、という風には言われた記憶がないわけなんです。

 つまりそういうところでも、彼女は伝えたと思っているし、私の方はそういう文脈の話だったとは全然気づかないままで聞いているという、またもや見事なズレが起こっていたことになります。

 その話からのつながりで出てきた話ですが、私の方は「こういう簡単な言い方なら当たり前に伝わるだろう」と思って話していることが全然伝わってなくて驚く、ということが今も続いていますけれど、それに対して彼女の方は「相手には自分の気持ちは伝わらないということが大前提で伝えている」と言っていました。それは子どもの頃から徹底して自分の伝えたいことが回りに理解してもらえないという経験から、身に染みついた態度のようです。

 そうすると、彼女が「伝えた」と言っても、そもそも定型に対しては伝わりにくい表現なんでしょうし、さらに「どうせ伝わらない」という気持ちがあれば、ますます伝わりにくくなるという悪循環が生まれているだろうと思うんですね。いつかどこかでそれが「あ、伝わる」という感じが出てきて、良い方の循環に切り替わってくれるといいんだけどなあ。

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