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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2013年4月21日 (日)

アスペ的世界への入り口?

 コメント欄でも少し書きましたけれど、するりさんのコメントを拝見していて、これまでの皆さんのコメントや、なによりパートナーとの生活を通して、アスペの方たちの感じ方、考え方、生き方というのは「もしかするとこんな感じなんだろうか」と想像し始めていたことが、「ああ、やっぱりそんなに大きく間違ってないようだ」と感じてうれしくなりました。

 ちょっと単純化しすぎかも知れませんが、玄さんとの遣り取りでは理性的な形での理解についてすごく助けていただいている気がするし、そしてするりさんとの今回の遣り取りでは感情的な面についてその思いが伝わってくるような気がしています。

 どう表現するのがいいのかまだよく分かりませんが、「違い」を理解するための「共通する部分」という手がかりというか、足場が少しずつ見え始めているような感覚があるのです。

 たとえば、するりさんの

 「私の例で言うと、自身の素はかなり感覚人間ですが、定型さんと違う感覚がゆえに、定型さんの感覚を無理やり理屈をこねくり返した上でどうにか納得させています。」

 という言葉、違う文化の人たちとの仕事とか、友だちづきあいをする中で、私もそういうことをするように思います。それで次のようなことになる。

 「ASは理屈っぽいと言われますが、私自身は自分の感覚と違うものは理屈や分析を通さないと理解出来ないから、という理由でやむを得ず「理屈人間モード」を使っている感じです。」
 感覚的に理解しにくい世界を、なんとか理性で理解しようとするわけですよね。そうすると定型からは「あの人は感情がないのか」とか、「感情を理解できないのか」とか「共感する力がないのか」とか思われ、そういう風に決めつけられたりする。

 でも実際はそんなことなくて、それは理解しがたい定型の世界でなんとか生きるために、ぎりぎり模索してきた生活の知恵の結果そうなっているだけのことで、アスペの方にはアスペの方の感情の世界があるし、それを伝えたい思いも、それが伝わらない悲しみもある。

 私のパートナーだって自分の思いが私にどうしても伝わらなくて、涙することが何度か(も?)ありました。子どもの頃は猫がうらやましかったそうです。なぜなら猫はしっぽで感情を伝えられるのに、自分の感情はうまく相手に伝わっていかないという思いがあったからと言うことでした。

 久しぶりに例に出しますけれど、繭さんの写真の世界もとても感覚的に豊かに伝わってくるものを持っています。

 ただ、感情の表現の仕方、感情の読み取り方が違う、そこで定型社会の中で「理屈っぽい」と言われる生き方を選ぶしかなかったりするのに、それを否定されてしまうと、

 「「じゃあどないせえっちゅーねん!のたれ死にしろということか!」と叫びそうになるのを抑えています」

 ということになるのは、無理もないというか、当然というか、ものすごくまともな感覚ではないでしょうか。定型だって、例えば無理矢理勉強ばっかりさせられて、友だちと思いっきり遊ぶことも否定されてできないような子ども時代を送らせられたとして、大きくなってから「あなたは社会性が足りないね。人付き合いが下手でダメだ。異性の気持ちも理解できないし」とか言われたら、もう立つ瀬がないだろうと思います。

 もちろん定型が社会経験が足りなくて人付き合いがうまくできないという話と、アスペの方たちが定型とのつきあいがうまくいかない、ということとは同じではないと思っています。そこにはたんに「経験が足りてるかどうか」という違いを超えて、上にも書いたような「感じ方の違い」とか「表現の仕方の違い」とか「理解の仕方の違い」が根っこにあって、それは多分生まれつきの部分が大きいからです。

 大事なことは「定型とは感情の持ち方や表現、理解の仕方が違う」ということを、勘違いして「アスペの人は感情が足りない」とか「社会性がない」というような単純な決めつけをしないことだろうと思います。定型の目から見てアスペの方の社会性に不自然なところがあるとすれば、それはアスペの人にとっては理解しにくい異質な定型の社会性に無理矢理合わせているからだと思えるわけです。

 アスペの人にはアスペの人なりの適度な人との距離感とか自然な接し方があるんだ、という(アスペの方たちにはあまりに当たり前だと思える)理解が、私の中でだんだんと確信に近くなってきています。何が適度な距離感か、何が自然な接し方なのかについては、アスペの方の中でも個人差は大きそうな気もしますけれど。

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コメント

私は、ASの友人に関わって「自分のここが変った」という点は、喋り方が理屈っぽくなった・・ということです。厳密に言うと、理屈っぽくしゃべれるようにもなった、です。

ASの人に、定型の当たり前を説明するとき。定型にASの人の感覚を説明するとき。ASの人に自分の考えを言うときや質問するときや質問に答えるとき。
ここでのやりとりもそうですが、定型同士とのやりとりとは脳チャンネルを変えたように、ASの人相手では、感覚は想像モードに、言語は丁寧国語モードになり、理解は変換モードを無意識のうちに駆使することになります。

そして理解できたことを、定型に説明するときは、定型の感覚に合う、または近い「例」の選択もしなきゃ受け入れてもらえない。

そうすると、ASの人にも定型にも、説明口調になっちゃって、定型には「トマトはアスペルガーの話しになると固い喋り方になるね」とか言われますが、いつもの"ニュアンスでポーン"では理解されないので仕方無いです。

定型は、TPOによって様々な表現スタイル無意識にを使い分ける。
場所や相手や必要性や空気に無意識に合わそうとする。

でも、ASの人はそれを無意識には出来ないので、大きな負荷がかかる。
この「負荷がかかる」というところに、定型側の理解や受容の「入り口」があると感じます。

定型は「あなたの当たり前が私には当たり前ではない」などと言われると、その人に反感を持ちますが「あなたの当たり前が私には難易度が高いのです」と言われると「なんだか大変そう」と無意識に気持ちが近づき「それはどういう意味なんだろう」と疑問や関心につながることが多いと思います。

そうやって、お互いが相手の心を開いたり、引き寄せたりする「言い方」を掴むのは大切ではないでしょうか?
お互いの入り口を閉ざすか、開くかは、返事の仕方や説明の仕方次第ということもあります。
日常の会話の中で沢山、チャンスがあると思います。

トマトさん

 なるほど!「通訳」をしようとすると、やっぱりそうなるんですね!

 アスペの方と話をするときは定型も「論理的」にならないといけない部分が
 でてくると言うことですよね。こちらの感覚ではつかみきれないので、
 理屈で整理しないといけなくなる……
 とすると、やはりここもお互い同じことになるわけか。方向は逆だけど。

 定型が同じ定型同士なら相手に合わせることがわりに自然にできる、
 というのもそうですね。アスペの方に定型が「合わせる」のはとても難しいけど。
 アスペの方もやっぱりいろいろな定型のパターンには振り回される
 (一貫性がなく、裏があるように見える)ということなのかなと思います。

 なんか社会性ということも、定型的な社会性と、アスペ的な社会性が
 あるのかもしれないと思ったりします。
 同じ動物でも猫の社会性と犬の社会性がすごく違うみたいに。
 そのふたつの社会性をどんな風につなげられるのか。
 
 「相手の心を開いたり、引き寄せたりする言い方」というのは
 その二つの社会性を結ぶ通訳の言葉だったりするのでしょうか。 

パンダさんへ

拙いコメントを取り上げていただきありがとうございます。

「小さい頃から勉強漬けで、将来のために我慢ばかり強いられてろくに友達と遊ばせてもらえず大人になったのに、勉強ばかりしてたからお前はカタいんだよ、そんなだから彼女出来ないんだ・・・とか言われたりしたら立つ瀬がない」
というたとえは、「そうそう!そんな感じ!うまいこと言う!」と頷きっぱなしでした。

でも・・・定型さんがこれを言われた場合、「立つ瀬がない」とはいえ、私のように「むっかぁーー!!聞き捨てならん!なんだそれ!」とまで行くのか。

どうも周りを見る限りでは「そこまで言うなんて、ちょっと非常識な人だな」と内心は思いつつ
「これから大学デビューしてキャラ変えるもんね~」とか
「俺、今話題の草食系男子なんすよ~」とかいう切り返しをして、時には笑いもとりつつ受け流している人も多い印象で、そういう切り返しスキルも「社会性」の一つと認識されているように思えます。

ところが私にとっての「社会性」は、長年「いかに相手に対して誠実な態度で向き合ったか」だったので、嫌味すらもいちいち真に受けて腹を立てる事態になっていました。
それでも、昔に比べたら少しは「むっかぁー!なんだそれ!」と思う割合は減ってきました。

それこそ意図的に、「人間は完ぺきな存在ではない。ゆえに、自分の中の誠実は有限であり、有限の誠実を嫌味な人にまで無駄遣いする必要性はない」という、合理的割り切りをしたというか・・・

定型風に翻訳すると「嫌味なことを言う人にいちいち100%の力で相手する必要はない。軽く受け流すことも必要」というスキルを採り入れたといったところです。


そしてその頃から「丸くなった」「変わったね」と言われるようになりましたが、「誠実に対応せずさりげなくあしらうスキル」は私にとっては「不誠実、利己的で身勝手」なんですよね。
なのに周りは全く反対の評価をする。

世の中って摩訶不思議だ・・・と驚愕してしまいました。

トマトさん


「あなたの当たり前が私の当たり前ではない」・・・これ、どうやら喧嘩腰口調でなくて穏やかにいわれても反感持つもののようですね。

「あなたの人生に私は参加させてもらえないの?閉めだされたの?」というような感じなんですかね・・・。

もう、最近は諦めの境地です。

「そうじゃないんだよ、そういう意味じゃないんだよ」といくら言っても「でも気持ちがついていかない(あ、これはパンダさんの話ではありません!)」に帰結するので(でも私たちはその言い訳を使えないから、ずっるーい!!と思ってしまいます)、逆に玄さんの言うところの「ボランティア精神」を発揮して相手を機嫌よくするしか道はないのかなぁと思うようになってきた、というか・・・。

でもそうしたら、本質から外れそうな気もして・・・。

悩ましいです。

パンダさん、コミュニケーションの世界で、定型は、言葉の意味と同等かそれ以上に「耳障りの良さが無いと言葉として適切でない」という感覚があると思うんです。

ASの人は、そこの部分が蛇足というかイラナイモノ扱いになっちゃう人が多い。

その違いが・・・「入り口」の一番先にくるやっかいな関門だと思います。

ASの人にはあえて(かなり頑張って)、耳障りの良い言葉をとっぱらって、シャープ過ぎて失礼千万と感じる言い方をすることがあります。
それを定型にしたら、そのまま関係悪化しちゃうので、通常の「相手を怒らせない、相手に理解しやすそうな例とか出しながら」会話します。

例えば挨拶が出来ない人への注意として、
ASの人には「挨拶はこの会社の規則なので、出来なければ辞めてもらいます」とルール重視の内容で伝える。
定型には「挨拶すると気持ちが良いでしょ」と感覚重視の内容を言う。

定型もASも、この二つの世界の使い分けが出来るか出来ないかが、その先の理解につながるか否かだと思います。現実の日常のつきあいでは。

なかなか理屈や理想道理にはいかないですけどぉ。


するりさんへ

もっ・・・ものすごくびっくりしました!!!!!
根拠を聞かれたら上手く説明できませんが、私は勝手に、するりさんは女性とばかり思い込んでいたからです。

前から、ASの人のコメントから感じる、男女のイメージがほとんど当たらなかったのですかが。男性だと思い込んでやりとりしていた人が、何ヶ月か立って女性だと知り、ボー然としたり、その逆も多かったですが、するりさん男性だったのですね。

いや、男性だから女性だからどうだ、ということは無いのですが「思い込みはいけない」ということをASの人に学んだという私のおごりは、またまた吹っ飛びました。
なんだろうなぁ・・・この勝手な思い込みは。

くしくも時間差で、するりさんのご質問に接触するコメントを挙げてしまいました。

ASの人が「ものごとの真理」を言うのに対して、定型は「ものごとの真理より相手の心理」を優先しているような気がします。

トマトさん 

えええ〜!!! 私女性ですよぉ! 
パンダさんが男性だから、定型男性目線を想像…正確に言えば私の友人や知人との会話を類推したりして書いてみただけなんですが…

どうでもいいところに食い付かれて結局内容は霞んじゃった… 

するりさん・・・
ごめんなさい。読み違えてましたぁ。

トマトさん 

いえいえ、こちらこそ、よく読んだら男性目線に配慮したつもりがはしょった部分もあって、余計ややこしく空回りしたかもしれませんね。 
私は本来論理的じゃないから論理性を持った文章を書くのはハードル高いです(苦笑)でも、こうやって書くことで頭の中を整理出来るので、ありがたいですね。

するりさん、お許しいただいて、ありがとうございます。
ホントにすみません!
過去どなたかに「トマトさんはところどころ大穴が開いているような・・・」とご指摘を受けたのが、またまたリアルに「ホントにそうだ!!」と痛感します。

するりさんの
「あなたの当たり前が私の当たり前ではない」へのコメントは、沢山のASの方が共感するものではないかと思いました。とても当たり前のことを説明しているだけなのに、なぜ定型は「ムッ」としたり「そんな言い方しなくても」と気分を害するのか。

それは、語感(言葉から受ける主観的な 印象)の問題だと思います。同じ意味の言葉でも、言い回しや語気で聞く側の印象が全く違うので、主旨が同じでも
突き放された感覚になったり、相談されたような感覚になったりすると思います。

ASの人は顔の表情から感情が読み取れない、とよく言われますが、定型は「語感」つまり、言葉にも感情やニュアンスという表情を持たせてやりとりしているので、そこんとこがASの人にとってはややこしい関門ではないかと思います。

定型は、主旨より語感優先のタイプがすごく多いと思いますが・・いかがでしょう。

トマトさん


定型さんが語感に支配されやすいというのはその通りだと私も思います。

前のコメントに「あなたの当たり前が私の当たり前ではない」に反発するのは、「閉めだされたような、疎外感を味わってしまうからだろう」という主旨のことを書きましたが、もっと本質的なことが関わっているような気がします。


例えが悪いですが、AS側は定型さんは「あなたの当たり前が私の当たり前教」という宗教に入っていると考えたら一番分かりやすいのではないかと思います。


「あなたの当たり前が私の当たり前」を信じて疑わないのに、「あなたの当たり前は私の当たり前ではない」と言われると、「神様なんていない」と、神様の存在、ひいては自分の存在も全否定されたような感じで居ても立ってもいられなくなる、というような状況ではないかなと思うのです。

教えに懐疑的になった時点でたいていの人はアウトです。

だって自身の土台・・・行動様式、哲学、死生観等・・・は神様(前提)が存在すると思っているからこそ成り立っているのに、そこを「そんなものは存在しないし、信じない」と言われたら、生活がひっくり返ってしまうくらい怖いことですから、リアクションとして出てくるのは「反発」になるか、疲弊していたら「鬱」になるかのどちらかなのだろうな、と。

「速球ストレート的発言(って、本人はそんなことすら思っちゃいないのですが)」は、定型の人達にとって「完膚無きままに叩きのめして逃げ道を封鎖された」と思われてるのかも。

相手の逃げ道を断たず、適度な距離を保つスキルのことを「思いやり」「優しさ」と呼んでいるのかもしれませんね。

相変わらず「そんなの薄っぺらい~、本当の思いやりってもんは・・・」と言いたい自分がいたりして。。。


<補足>

宗教という微妙なたとえを出してしまいましたが、あくまで例えでありまして、宗教を冒涜する気はございません。
価値観の違い、という意味で宗教者vs無神論者を出しましたが、定型が、ASが、という意味は含んでいません。
ご理解のほどよろしくお願いします。

するりさんへ

語感に支配される・・の意味がちょいと違うと感じまして。

定型が多数派感覚や多数派常識の信者となり「普通はこれが当たり前だ。世間では皆これが当たり前だ」みたいなことを言うとします。
ASも個人崇拝者で「自分はこれが当たり前だ、これ以外は解らない」みたいなことを言うとします。

そんなとき「あなたの当たり前は私の当たり前ではないのです」と、静かな口調、抑揚の無い言い方、無表情で言われると、定型は、
(相手に撥ね付けられた)(威嚇されている)(ケンカ売ってるの?)(へ理屈だ)・・・などと、その言い回しでマイナス感情を抱いてしまうのです。
つまり、アスぺ世界への入り口が「言い方ひとつ」で閉ざされる状態です。

「挨拶の意味がわからない大人が居る分けない」などと多数派感覚で断言する定型友人に、私は「いや、存在する」などとストレート球を投げず「ところが・・そうでも・・ないんだなァ」と首をゆっくり左肩か右肩にかしげてみせます。定型は「つられる」というサガがあるので、わずかながら少し同じ動きをします。(親しい人に有効)

わずかでも相手の頭が、私と同じ方向に動いたり、私の動作を目で追ってくれたら「えっ?」という疑問が沸いた証拠。そこから、こちらの説明を始めると、意外に耳を傾けてくれます。(これは、あくまで一例ですが)

相手に聞く態勢になってもらう工夫を、定型は「すみません(今、話しかけて良いですか)」とか「なるほど(と、一端受け入れた態度をアピールしつつ)」とか、一拍置く・・という会話リズムを作ってやりとりしているので、、唐突に主旨だけ言われたりして、持ち前の会話リズムが崩れると、混乱したり怒ってしまうのだと思います。

定型とASが、お互いの未知の概念を知らせ合うとき・・お互いに架ける橋みたいな「言い方」を探ることが大切だと思います。
定型には「語気の柔らかさ」が有効で、ASには「感情を交えない言い方」が有効とか・・ですね。


トマトさん

話しを色々展開しすぎちゃいましたね。
トマトさんの論点に戻します~


さて、本題に行く前の導入部分で食いついてもらえるか、拒否反応を示されるかどうかを軸にして考えると、まぁ確かにな、語感の第一印象で決まっちゃうかもな、そして私も別のシチュエーションでそれあるわ、と思いました。詳しくは後に書きますが。


さて、定型側がASに「こういう言い方は嫌だから改善して欲しい」という要望を箇条書きにして、そこに書いてあることをASが実行しても、AS側は自分の感覚と違うことを理屈フィルターを通してやるわけですから過剰に芝居がかったり、逆に棒読み(いずれも定型比)になったりして、定型の求めているリアクションとズレることが多いと思います。

そこで、「大袈裟すぎ!そこまでしなくていい」とか「しぶしぶやられても嬉しくないよ」になり、最終的に「もうちょっと肩の力抜いて普通にやったらいいよ」になったら、前にも書きましたように、私は「うるさーい!結局私が何やっても文句言うだけじゃない!」を、ここでもたどるような気がします。。

少しでも歩み寄ったら、定型比ではなく、あくまでその人比で、その努力を褒めてほしいな、と。
それが多少ずれていようが、道半ばだろうが・・・。


パンダさん&トマトさん


さて、ここからが質問なんですが、前記のように今はぎこちなく始めた習慣が数年後、かなり改善したとします。

その時、当時を振り返って「最近は自然に出来るようになったけど、最初の頃はひどかったよね~」と笑い話にして振り返るの、定型さんはよくしてますが、あれ、心理的抵抗あまりないんですかね?

私はこれ、ものすごく苦手なんです。

決して堅物人間ではなく、冗談は好きだしお笑いも大好きなんですが、これは笑えません。

だって、当時は私なりに一生懸命全力でぶつかってがんばてて、お笑いをやってたわけではないし、何よりあの頃ニコニコしてたように見えたあなたは、本当は残念な思いや苛立ちを隠して私を見てたのか・・・私気付かなかったよ・・・と自己嫌悪と惨めさで一杯になってしまうから。


お互いが「あの時はひどかった」という認識だたら全く落ち込まないんです。
「そりゃそうだ」と普通に納得するんですけど、
「今まで言わなかったけど、実はあの時すごく残念に思ってたんだよね~」に続く言葉が「でも最近はだいぶ良くなったよね」の場合、前半部分でもうだめです(苦笑)
そして、後半の相手が一番言いたいであろうことが聞けてない。やっぱり語感に支配されてるのかな、と。

今まで言わないでおいたなら、最後まで言わないで~!

ここ、定型さんはあまり気にならないポイントなんですかね?

するりさん

 「『最近は自然に出来るようになったけど、最初の頃はひどかったよね~』と笑い話にして振り返るの、定型さんはよくしてますが、あれ、心理的抵抗あまりないんですかね?」

 ということなんですけど、まあ、少なくとも今は私は言わないと思います。あとはどういう文脈でその話が出たかによっても少し変わるかも知れませんね。

 なんで今は言わないと思うかというと、「今は自然」とか「最初はひどかった」という言い方が、やっぱり定型基準そのまんまになってしまっていると思うからです。定型にとっては自然とか、定型にとってはつらかったとか、そういうことならまだOKだと思うんですけど……

 結局定型的な基準に合わせることが「当然」という、多くの方が普通に持っている感覚でそういうことばが悪気無く出てくるんだと思います。ただ、アスペの方がそれを言われたときには当然傷つくわけですよね。残念ですが、定型が自分の力でそのことに気づくのは結構難しいことなのかなと思います。私もパートナーとの関係があって、長い時間をかけて初めてそういう定型的基準をだれにとっても「当たり前」ではないんだ、ということを納得できるようになってきたのですし。

 そういうところ、少数派の人はやっぱり損もするし苦労もしますよね。

するりさんへ

『最近は自然に出来るようになったけど、最初の頃はひどかったよね~』の笑い話、以前ASの友人に「もう、その話は良いじやありませんか」と嫌がられ「何故?誉めてるんだよ」というやりとりがありました。

そうか・・・過去の話でも笑い話にならないってことありますよね。
どんなささいな事だと思われることでも、気をつけるるようにします。

教えていただいて、ありがとうございました。

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