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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2013年4月17日 (水)

違いに慣れる

 以前、私のパートナーが「自分にとっては一緒に暮らしている、と言うこと自体が特別の人だということなんだ」と言っていたことを書いたことがあります。つまり、彼女にとって他人と一緒にいることは緊張を強いられることで、それでへとへとになってしまうことなのだけれど、全く素とは言わないまでも、かなり素の状態でそれほど緊張せずに生活を共にできる、ということは本当に特別のことだし、それができる人(この場合私)は特別の意味を持った人だ、ということです。

 そのことを書いたときは、「一緒にいるだけで特別扱いなんだ」ということにちょっと愕然と下思いもありました。もっと情緒的な、共感的関係とか、心情的にも支え合う関係とか、そういうことがなくて「物理的に一緒にいる」だけというのは、なんだかとても冷たい関係と感じられてしまいましたし、言ってみれば「離婚への秒読み段階」の状態にも感じられたからです。

 その上にさらに「完全に一人で居られる時間がそれなりにないとだめ」ということで、まあ定型の私でもよほど悩みを抱えたりしたときには、完全に一人になりたいことはありますが、そういう感じではなくて、ある程度定期的に「完全に素で居られる」時間が必要ということらしいです。つまりは私と居るときにも緊張が完全に取れてのんびりできるところまでは行かないのですね。

 そういうのは私にはかなり辛いことでした。

 けれども最近、ふと気がついてみると、そのことに以前ほどには辛さを感じなくなっているようなのです。そればかりか、彼女が本当に他の人とのコミュニケーションに相当の努力を払っている、ということが少しずつでも感じられるようになるほど、その彼女が自分とは一緒にいられる、ということがそれだけでほんとに大きな意味を持つんだなあ、ということが少しずつ実感されるようにもなり始めたようです。

 そのことによって、自分がどこまで気持ちの上で満足ができるのか、安定できるのか、ということについてはまだ何とも言えませんけれど、少なくとも辛さはかなり減少しているようです。お互いの感じ方の違いについて理解が進んでくることで、さらにその違いに慣れるということが進んでいるのかも知れません。

 違いに慣れると言うことと、以前パートナーに求めていたものを諦めていく、ということとが同じことなのかどうかはまだよく分かりません。諦めるというのは場合によってはもう相手との関係を諦める、ということに繋がる場合だってあるでしょうし。今はあんまりそういう感じは持っていませんが、さてこれからどんな展開になるのでしょうね。

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コメント

定型がASの人に「自分にとっては一緒に暮らしている、と言うこと自体が特別の人だということなんだ」と言われるなんて、最高の親愛と信頼の賛美だと思います。

また定型がASの人に「一緒にいるだけで(自分は)特別扱いなんだ」と思えたら、自信や喜びやが持てると思います。

その言葉の意味は、定型にはかなり過酷な・・・感情との折り合いをつける日々を積み重ねてこそ「なるほどな」と納得せざるを得ないものになるように思いますが、奥様の言われた言葉はASと定型のカップルの真髄のような気がします。

私は亡くなったASの友人に「僕の前からはいつの間にか人が居なくなっていた。まだ話しが終わってない、まだ約束が残っている、明日からも今後も会えるものだと思っているのに、フッと人は僕から遠ざかり居なくなる。だから僕は、そのことが「謎」のまま残ってしまう。
そんな僕にトマトさんは、くらいついてくる・・・というか、あきらめないで居てくれる。対面し続けてくれる人はトマトさんが初めてだ。適切な言葉かどうかは解らないけれど、トマトさんは僕にとって、居て当たり前なんです」
その言葉を聞いたときは「はぁ?当たり前ってナニよ!」と腹が立ち
「残念だね、居て当たり前をかけがえの無い人なんです、と表現してくれたらニッコリできたんだけどなぁ」と言い返したものでした。

居て当たり前・・・今は「最高の言葉をありがとう」と思います。


トマトさん

 亡くなったトマトさんのご友人に言われた言葉への反応と
 それへの感じ方の変化が、「ああ、やっぱりそうなのか」と感じました。
 なんていうのか、定型がアスペ的表現に慣れていく共通の道筋
 みたいなものがある程度あるのかもしれないですね。

 今のところ私はまだ「最高の言葉をありがとう」というところまでは
 到達していませんけれど、いずれそうなるのかもしれませんね。

今回のパンダさんのお話から、改めてパンダさんは「心情的な支え合い」を求めているのだな、と思いました。

誤解を与えそうなので、あまり言いたくないのですが、僕は「心情的な支え合い」や「好きかどうか」は重視していません。
僕自身は無味乾燥で冷酷な人物だった時期もありますが、それはさておき、「ウェット過ぎるのが好みでない」という程度問題に捉え直すことができると思っています。

逆に不思議なのが、なぜ「一緒にいることの特別さ」を定型の方が分かってくれないのかということです。自分がここに生きて存在していることがまずミラクルで、君がここに生きていることもミラクル。ふたりが一緒にいるということは、ミラクルの2乗ですよ。一緒にいられれば、それ以上を望むこともないとさえ思えるのに、一緒にいる「だけ」って言われると、存在を軽んじられている気がします。

ASが完全に一人でいたいと思うのは、定型と一緒にいると相手の次の行動を先回りしあったり、目が合ったら表情を作ったりという作業に追われてエラーできないのが苦しいので、逃避したいということかもしれませんね。相手が嫌いなのではなく、相手が不機嫌になるのが嫌なんです。
こっちが「のんびりOFF」の時間を過ごしているときに、「なんで不機嫌なの?」という言い掛かりを付けられないようにする方法・・・「相手から見られない所にいく」そういうことです。

これは程度問題にもよるのですが

たとえば、ASの側の訴えが
「仕事から帰って2、30分くらい、一人になってアロマを焚いたり横になったりして充電したい。でないと仕事モードon→家モードoffの状態にできない。それがないと皆と気持ちよく家族団欒出来ない」・・・くらいのレベルの訴えだったら
無駄に「家の中でもオンスイッチ?あなたにとって私は何?心休まる存在じゃないってこと??キーッ!!!」とか思わなくてもいいのに。
と、私は思ってしまいます。

オン・オフスイッチなのは生活上のAS本人の色々な工夫で(あくまで定型目線で)目立たなくなっても、治るということはないのでここを否定したら危険です・・・「一人で20分も部屋にこもるのはルール違反、私といてリラックスせよ」と押し付けられてその通りにしたところで、仕事モード→オフから家モード→オンに切り替えるチャンスを失いそれを引きずると疲れが溜まる一方です。

ASは、オン・オフ切り替えによって、かろうじて自身の社会生活が成り立っていることを直感的に察知してそういう行動を採っているのに、それを失くしたら他のところで歪みが出て全体のクオリティ・・・注意力、判断力・・・が著しく下がってしまう。

そうしたら益々、定型の人の機嫌を損ねてしまう。負のスパイラルです。


結局、その状況と「20分籠る」のどちらがまだマシかということで・・・AS、定型問わず、QOL(クオリティ・オブ・ライフ)を重視すると自ずと答えは出るかな、と。


まぁ、これが2、30分籠るんじゃなくて土日になったらずっと部屋から出てこないとか、帰宅した時に家の中が緊急事態になってたにも関わらず、一人だけ「それでもいつも通り20分籠ってから合流するわ」なんて言ったら、それはただの我儘ですけどね。


生命線だから見逃して欲しい部分と、ただの自己本位な性格とたしなめられてもしょうがない部分。
欠点は長所にもなり得るし、その逆も然り。

AS、定型に限らず万人にとって、そこの見極めが必要だと思います。

玄さん

 「今回のパンダさんのお話から、改めてパンダさんは「心情的な支え合い」を求めているのだな、と思いました。」

 はい、そうなんですね。多分定型の中でもその気持ちは強い方だと思います。
 相手の気持ちを深く理解したい、自分の気持ちも理解して欲しい、
 そういう欲望があるんですね。
 定型同士の関係だと、「ああ、そこまで理解してくれた」という感じで
 喜んでもらえることもあります。

「逆に不思議なのが、なぜ「一緒にいることの特別さ」を定型の方が分かってくれないのかということです。」

 この玄さんの疑問が「ああ、なるほどなあ。そういう風に感じられるんだなあ」
 と言う風に少し納得できるようになってきたのが私の最近の変化だと思います。
 以前はなんでそういう疑問を持たれるのか、ほんとによく分からなかったです。

 昨日もパートナーに話してたんですが、玄さんが書かれることって、よく彼女から
 言われていることに通じることが多くって、そうすると一人から言われるだけでは
 なんだかぴんとこなくても、二人から言われると、「ああ、ほんとにアスペの方は
 そんな感じ方をするんだなあ」と思えるようになることがよくあります。


するりさん

 「結局、その状況と「20分籠る」のどちらがまだマシかということで・・・AS、定型問わず、QOL(クオリティ・オブ・ライフ)を重視すると自ずと答えは出るかな、と。」

 ここがするりさんのこれまでの経験から導き出された「生きる知恵」のようなものなのでしょうね。私なりに理解はできるように感じます。

 最近は私は彼女が一人になりたそうだな、と感じるときは、基本的には邪魔しないようにしていますし、そのことで以前のように「自分って彼女にとって何の意味があるんだろう?」というような疑問を持つことも無くなってきました。それよりも「そういう時間を大事にしてあげたい」という気持ちが強まってきたような気がします。

 つまり、何が言いたいのかというと、「AとBとどっちが大きいか比べてみよう」というような、合理的な判断も、頭ではある程度はできるんですが、定型の場合、そこに「自分の気持ちがその判断についていくかどうか」ということがまだ問題になるんだと思うんです。頭での理解と、気持ちまで含んだ納得とは違って、その二つが一致していないと辛くなるんですね。無理をしているような状態になってしまいます。

 ただ、そんな風に書きましたけど、じゃあアスペの方は頭での理解と気持ちでの納得との関係ということはどうなっているんだろう、というのは今の私にはまだほんとに謎の部分です。多分オンのときには「頭での理解」で頑張られているから、本当の気持ちに無理がたまってきて、オフの時間が大切になる、というようなことが、あるのだと思うので、問題はその二つがずれているときにどんな風にそれを解決しようとするか、その違いにあるような気もしているのですが……

 

↑のコメントで間違いがありました。

正しくは、「仕事モードon→仕事モードoff→家モードon」の、三段構造です。ややこしいですね(笑)


パンダさんが奥様の意思を心から尊重していらっしゃるのは今までの記事を読んだから頭で理解している、ではなくそれこそ肌感覚で理解してますよ。大丈夫です。


さて、頭では分かっても気持ちがついていかないことは勿論社会でも家でも沢山あります。
定型さん以上にあると思いますよ。なんてったって少数派ですから自分の感覚が通用しないの前提です。


厄介なのは私の場合、女性特有のべっちょりした部分も持ち合わせていることです。
要するに、「共感してほしい」「頭では分かっても心がついていかない」は、定型さんのとは多少形は違えどあります。
だから、決して「周りなんかどうでもいい、私は私の道を行く!」的な感じではなく、「ああ、やっぱり分かってもらえないなぁ」という失望は内心では結構あったり、ジレンマも持ってます。


意外かもしれませんが、小さいころから強烈な定型女子社会に揉まれてきたAS女性は自他共に「それはない、私はもっとクールだ」と否定したりしても実際はそういう心の動きをたどる人、結構いるんじゃないかなぁと思います。無意識なだけで。


私の例で言うと、自身の素はかなり感覚人間ですが、定型さんと違う感覚がゆえに、定型さんの感覚を無理やり理屈をこねくり返した上でどうにか納得させています。

ASは理屈っぽいと言われますが、私自身は自分の感覚と違うものは理屈や分析を通さないと理解出来ないから、という理由でやむを得ず「理屈人間モード」を使っている感じです。
本音を言えば、学者じゃあるまいし、出来たら使いたくないモードです・・・。

でも、自分の素でなくても、とにかくある程度は適応しなきゃ生きていけませんので、そこに、多数派の定型さんのように「苦手だから」とか「心がついていかない」とかいう言い訳(すいません、ちょっとキツイい表現ですが適当なのが見当たらない・・・)が入る余地はないから理屈モード全開でやるしかない・・・という感じでしょうか。

AとBならどちらをとる?みたいな合理的発想も、生きていく上で身に付けた知恵です。
なので、これもしたくてしてるわけではないんですね。
少なくとも私は自分の感覚ではなく、あえてやってます。

ここら辺は性差とか学者的理系脳や文系脳とかもあるので元々超合理的思考の人やドライな人もいるでしょう。
でも、最終的な結論としては感覚人間Asの私も超合理的志向のASさんと同じところに落ち着くんです。

それは

「自分の感覚がそのまま使えない世界において、合理的割り切りは間違いなく「えいっ!!」と前に進むための原動力になっている」という認識です。

「合理的思考」はいわば外国で生きていく上での「翻訳機」のようなものです。
「最後の砦」なので、そこを「理屈っぽいなー、もっと心から感じたように振舞いなよ」とか言われた日には「じゃあどないせえっちゅーねん!のたれ死にしろということか!」と叫びそうになるのを抑えていますので、顔は相当ひきつっているはず・・・です(苦笑)

するりさん

 打てば響く、という感じのコメントをありがとうございました m(_ _)m

 「ASは理屈っぽいと言われますが、私自身は自分の感覚と違うものは理屈や分析を通さないと理解出来ないから、という理由でやむを得ず「理屈人間モード」を使っている感じです。」

 この感じ、とても理解できるように思えます。なるほど、やはりそうだったのか!
 と思いました。

「「合理的思考」はいわば外国で生きていく上での「翻訳機」のようなものです。「最後の砦」なので、そこを「理屈っぽいなー、もっと心から感じたように振舞いなよ」とか言われた日には「じゃあどないせえっちゅーねん!のたれ死にしろということか!」と叫びそうになるのを抑えていますので、顔は相当ひきつっているはず・・・です(苦笑)」

 これなんかもほんとにリアルに伝わってくる感じがしますし、私のパートナーが時々言うこともすごくわかりやすくなりました。

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