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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2013年4月29日 (月)

新しいステップ?

 このところ、自分自身の気持ちの持ち方が変わってきていることを感じ続けています。一言で言うと身構えがだんだんとれてきた、という感じでしょうか。なんの身構えかというと、パートナーと向き合うときに、お互いにアスペと定型のズレがあるのだから、自分にとって意外だったり驚きだったり、場合によっては傷ついたりするようなことがあっても、あわててそのまま決めつけないで「いや、これには別の意味があるのかも知れない」と考えられるようにしよう、というような身構えです。

 でもそれってある意味ではとても緊張した関係という風にも言えますよね。自分の自然な感じ方を押さえつけて、頭でその意味を考える、ということをするわけですから。その緊張がだんだん取れてきた感じがするんです。

 なんでそういうふうに変わってきているのか。「慣れてきた」という言い方もできるかもしれませんが、でも一緒に暮らすようになってからかなりの年月が経っている中で、その中のこの2,3年以降の変化、中でもこの半年くらい(?)に目立ってきた変化なわけですから、たんに「慣れた」ということだけではうまく表現出来なさそうです。

 多分この記事をしばらく前から読み直してみれば、その変化が自分でももう少しはっきりしてくるのかもしれませんが(面倒くさがりなのでしませんけど (^ ^;)ゞ )、「ああ、なんかほんとに感じ方とか考え方とか違うんだなあ」というのが、実感として納得できるようになってきて、その上で「彼女なりにほんとに自分(パンダ)に対していろいろ考えてくれているんだなあ」ということが感じられてくることと、深く関係していそうな気がします。

 それと、「なるほど、こんな感じでこれまで生活していたとすれば、それはいろいろ大変だったろうな」とか「もしそうなら、こんな風な考え方や感じ方をするのも無理はないなあ」というようなことを自分なりに「共感的」に感じられるようになってきたことも大事だと思えます。もちろんこの「共感」というのは私の方が勝手に感じているもので、どこまで彼女の大変さをうまく感じ取れているのかは何とも言えませんけど、とにかく自分としてはそう感じるわけです。

 もちろん変化している(と感じられる)のは自分だけではなくて、彼女の方も何か柔らかくなってきている感じもしています。お互いの関係が柔らかくなってきている気がするんです。

 これまでたどたどしい足取りでしたが、お互い何にショックを受けるのか、何が嬉しいことなのか、といったことを説明し合うことをちょっとずつ積み重ねてきたことも、ここに来て効果が出てきたのかも知れません。多分彼女は彼女なりにそこで理解したことに気を遣ってくれているんだろうと思いますし。

 そういう、アスペと定型のズレに合わせた形で「相手に気を遣う」ということについて、「慣れてきた」というふうには言えるのかも知れません。緊張して構えて頭で考えなくても、なんとなく感覚的にそれができはじめているんでしょうか。

 まあ、今も変化の途中なんでしょうが、でもなにか新しいステップに入ったのかなあと思う今日この頃でした。

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コメント

>自分にとって意外だったり驚きだったり、場合によっては傷ついたりするようなことがあっても、あわててそのまま決めつけないで「いや、これには別の意味があるのかも知れない」と考えられるようにしよう、というような身構えです。
自分の自然な感じ方を押さえつけて、頭でその意味を考える、ということをするわけですから。

はじめまして。
自分はADHDで、自閉症スペクトラムについてはほぼ無い~薄っすら傾向があるかも??位の発達障害当事者ですが、物事の理解が理屈っぽいので頭で他人の言動・行動を理解するのはむしろ自然です。

だから、それを緊張した関係って感じるのはちょっと不思議でした(笑)。

自分は相手の表情から感情を推測することも出来るし、言外の意味もそれなりに適切に予想できるし、病気の時は心配されたい方なので、定型発達っぽさもあると思います。
ただ、論理整合性に対する執着も強いので、定型発達とアスペルガーの中間ぽい位置にいるのかもしれません。

そのせいか、自分は自閉症スペクトラムっぽい人とも定型発達っぽい人とも、どちらともわりと上手くやれてきた感じで、それは【人によって前提が全然違う】のが自分の中で当たり前だからなんですよね。
だから相手によって、その都度その人の言動をどう解釈するかのプロトコルみたいなものを調整します。
むしろそうせずに全員に似た前提を適用する方が不思議でした(笑)。

もっと多くの人が、【皆それぞれ前提が違うのが当然】って感覚が根付いたら楽になるのになあと思っています。

ときはるさん

 はじめまして。どうぞよろしくお願いします。

 論理的整合性に執着が強いということで、
 ちょっと理屈っぽく考えてみたんですが、

「むしろそうせずに全員に似た前提を適用する方が不思議でした(笑)。」

 というのは、ある意味ではそういう「前提を適用する必要はない」という
 前提をときはるさんがお持ちだったと言うことになるのでしょうか。
 だからその前提にはずれる人は「不思議」に思える……
 なんか言葉遊びみたいになるとよくないですけど (^ ^;)ゞ

 多分、大事なことはふたつあって、
 ひとつは自分の前提は相手の人と共有されているとは限らない、
 ということについて、気をつけることと、
 もうひとつは、そうは言っても何も全く前提を持たないで
 考えたり想像したり理解したりすることは無理なことだ、ということを
 忘れないことだと思います。

 なんかその二つのバランスをうまく取りながら、
 コミュニケーションのしかたをそれぞれに工夫するしかないのかなと
 私はそんな風に感じています。
 

>「前提を適用する必要はない」という
 前提をときはるさんがお持ちだったと言うことになるのでしょうか。
 だからその前提にはずれる人は「不思議」に思える……

いや、これはわざわざ前提を考える以前の問題でしたね。
子供の頃から普通に人と関わってきた経験から理解できたことです。

例えば普通に会話をして相手の言ったことをそのまま理解して捉えた時に、上手く行く相手と行かない相手がいますよね。
その人が言ったことに言外の意味を持たせるタイプも居れば、ストレートな人もいます。言い方が直截的でも何の他意もない場合もあるし、嫌味が籠められている場合もあります。
そういう感じで、関わってきた人たちの一連の言動を観察して、その整合性を分析して、その分析を元にコミュニケーションをとり、認識のずれをフィードバックする経験を積んだら、必然的に「個々の人たちにはそれぞれ固有の論理がある」というのは余りにも当然の理屈として分かる事だったので。

そしてその考えに沿って普通に思ったようにやると、いわゆるKYな人とも、いわゆるフツーな人とも問題なくコミュニケーションが取れたので、皆それぞれ前提が違うという考えの確信度が強まった感じです。


だから、「何で他の人たちは普通に人がそれぞれ個々に異なる前提(その異質性の幅は人それぞれだけど)を持って生きているのが分からないんだろう?」「なんでそんなにすぐ簡単に決め付けられるんだろう?」と疑問でした。まあ自分と一定以上似た人に囲まれて育ったから、そうなるのかもしれませんね。


そして確かに前提が完全に0な所から物を考えることは出来ませんから、それは個々の人の持つ前提が大きく異なる可能性があることを踏まえて、複数の可能性を想定すればいいんだと思います。
そこでの自分の解釈や判断を絶対のものとは見なさずに保留の要素を持ちつつ、相手との継時的な関係の中で、相手の性質や考えをゆっくり見極めていけば結構色々分かるもんだと思います。


その上で、その相手が自分と相性が良いかどうかはまた別の問題ではあると思いますが(=.=;)

ときはるさん

 お返事遅くなりました m(_ _)m

 「そして確かに前提が完全に0な所から物を考えることは出来ませんから、それは個々の人の持つ前提が大きく異なる可能性があることを踏まえて、複数の可能性を想定すればいいんだと思います。」

 おっしゃるとおりと思います。それでも現実になかなかそこがうまく行かないのは、「複数の可能性を想定する」という場合に、やっぱり「想定しきれない可能性」がその時々で残ってしまうことだという気がします。

 このブログでもいろいろ情報の交換が続いてきましたけれど、みなさん「お互いに違う」ということは頭では分かってるし、予想もしていて、その意味では「複数の可能性を想定しよう」という気持ちはお持ちの方が大部分だと思います。それなのに、定型の側がアスペの方からの情報を教えていただくと、「え?そこも違うの?」「そこまで違うの?」と驚くことがよくありましたし、多分アスペの方が定型の話を聞いてもそうだったのではないかと思います。

 つまり、「複数の可能性を想定する」ということ自体、自分が気がつかないで前提にしている足場の上でその想像力が発揮されるし、だとすれば、その足場に縛られて、気がつくことのできない可能性が常にあるんだと思うんです。それはどれだけ自分の想像力を豊かにしても追いつかないことで、そこで改めて自分の足場を見直して、少しずつ想像力の幅を広げていく、という地道な作業をやっていくしかないのかなと思っています。

 別の言い方をすれば、「神様のようにすべてを理解する」ということは無理なことなんだから、分からないことに出会ったときに、少しずつ考えていくしかないんだけど、それがとても大変なことでもあるというわけだと思います。

 何しろ、空を飛ぶことも出来ないのに、あるいは空中に立つことも出来ないのに、自分が立っている足場を自分で掘り崩しながら、同時に新しい足場を探していく、というややこしい作業をやることになるのですから、大変ですよね。

 ただ、それを一人でやるのではなくて、たとえば定型の足場を持っている人がアスペの方の足場を教えてもらって、それを理解する工夫を重ねていく、という形で語り合いを続けていくと、ずいぶんと新しい可能性が見えてきやすくなるように思います。もちろんそれでも時間のかかる作業であることは間違いないと思えますけれど。

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