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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2013年4月

2013年4月29日 (月)

新しいステップ?

 このところ、自分自身の気持ちの持ち方が変わってきていることを感じ続けています。一言で言うと身構えがだんだんとれてきた、という感じでしょうか。なんの身構えかというと、パートナーと向き合うときに、お互いにアスペと定型のズレがあるのだから、自分にとって意外だったり驚きだったり、場合によっては傷ついたりするようなことがあっても、あわててそのまま決めつけないで「いや、これには別の意味があるのかも知れない」と考えられるようにしよう、というような身構えです。

 でもそれってある意味ではとても緊張した関係という風にも言えますよね。自分の自然な感じ方を押さえつけて、頭でその意味を考える、ということをするわけですから。その緊張がだんだん取れてきた感じがするんです。

 なんでそういうふうに変わってきているのか。「慣れてきた」という言い方もできるかもしれませんが、でも一緒に暮らすようになってからかなりの年月が経っている中で、その中のこの2,3年以降の変化、中でもこの半年くらい(?)に目立ってきた変化なわけですから、たんに「慣れた」ということだけではうまく表現出来なさそうです。

 多分この記事をしばらく前から読み直してみれば、その変化が自分でももう少しはっきりしてくるのかもしれませんが(面倒くさがりなのでしませんけど (^ ^;)ゞ )、「ああ、なんかほんとに感じ方とか考え方とか違うんだなあ」というのが、実感として納得できるようになってきて、その上で「彼女なりにほんとに自分(パンダ)に対していろいろ考えてくれているんだなあ」ということが感じられてくることと、深く関係していそうな気がします。

 それと、「なるほど、こんな感じでこれまで生活していたとすれば、それはいろいろ大変だったろうな」とか「もしそうなら、こんな風な考え方や感じ方をするのも無理はないなあ」というようなことを自分なりに「共感的」に感じられるようになってきたことも大事だと思えます。もちろんこの「共感」というのは私の方が勝手に感じているもので、どこまで彼女の大変さをうまく感じ取れているのかは何とも言えませんけど、とにかく自分としてはそう感じるわけです。

 もちろん変化している(と感じられる)のは自分だけではなくて、彼女の方も何か柔らかくなってきている感じもしています。お互いの関係が柔らかくなってきている気がするんです。

 これまでたどたどしい足取りでしたが、お互い何にショックを受けるのか、何が嬉しいことなのか、といったことを説明し合うことをちょっとずつ積み重ねてきたことも、ここに来て効果が出てきたのかも知れません。多分彼女は彼女なりにそこで理解したことに気を遣ってくれているんだろうと思いますし。

 そういう、アスペと定型のズレに合わせた形で「相手に気を遣う」ということについて、「慣れてきた」というふうには言えるのかも知れません。緊張して構えて頭で考えなくても、なんとなく感覚的にそれができはじめているんでしょうか。

 まあ、今も変化の途中なんでしょうが、でもなにか新しいステップに入ったのかなあと思う今日この頃でした。

2013年4月24日 (水)

思い遣り

 これ、300番目の記事になるらしいです。我ながらちょっと驚き。

  するりさんの「相手の逃げ道を断たず、適度な距離を保つスキルのことを(定型は)「思いやり」「優しさ」と呼んでいるのかもしれませんね。相変わらず『そんなの薄っぺらい~、本当の思いやりってもんは・・・』と言いたい自分がいたりして。。。」という言葉がとても響いています。

 ストレートにものを言うことを控え、とにかく相手を傷つけないように、ソフトにソフトに、という話し方は日本で極端に強くて、違う国の人と話していると、もっともっとストレートで、びっくりするようなこともよくあります。学生時代に韓国の留学生の女の子が居て、すごく日本語が上手なのに、言うことがとてもストレートできつくて、その子がいないときにみんなで「やっぱり日本語の軟らかい表現とかはあれだけ日本語の出来る人でもまだむつかしいのかな」などと言っていたのですが、そのあとみんなで韓国に遊びに行ったときに「わ、これ、韓国式なんだ」とびっくりしました。

 いや、日本だって、ちょっと例は古いけど、高倉健みたいに口べただけど、思いやりは深そう、という人は人気があったり、うんと田舎の人とか東北人とかは口べたででも思い遣りが深かったり、そんなイメージもありますよね。田舎の人は暖かい、みたいなイメージ。

 そんなイメージをものすご~く引き延ばして、一切無駄なお世辞やクッションのある言葉などを言わず、ほんとに実質本意、直接に感じたこと、意味のあることだけを言う。そして口先でどうこうするのではなくて、本当に生きていく上で必要なこと、必要な思い遣りを一生懸命考える、という生き方を想像すると、もしかするとするりさんの上の言葉に繋がっていくのでしょうか?

 「アスペと定型を共に生きる」の本の中で、最初の方に東山伸夫さんとカレンさんが離婚しようとするときにお互いに交わした手紙を載せています。それを読んだとき、そういう状況で伸夫さんの方が離婚後の生活費その他について具体的にカレンさんに提案していることが、「なんで別れようと言っている人にここまでいろいろ考えてあげるんだろう?」となんだかとても不思議な感じがしていました。全然ぴんとこなかったし、その意味でなんだか現実味がない文章にも感じられたのです。

 それから、私のパートナーが自分が私のために頑張ってやってくれていること、というのを伝えてくれるのですが、それはほんとうに生活の上での具体的な作業のことで、その意味では私も分担できることだし、「私のために」特別にやってくれているというふうにも思えなかったし、なんでそれで「一生懸命パンダのことを考えている」ことになるのか、全然ぴんときませんでした。で、彼女の方はその頑張りが私に伝わらないことで、繰り返し絶望的な感じになっていました。

 私にとってはたとえば家事をやる、ということなら、別に特別のことではなくて、誰もがみんなやっていることです。そう思うと「私のために」ということの意味がわからなくなってしまっていたんですね。

 でも最近、その思いがどれほど深いのか、ということをだんだんと感じられるようになってきたみたいです。私も鬱だったり、仕事上の困難だったり、いろいろと大変な状態になることがあって、彼女にもいろんな心配をかけることがあるわけですけれども、なんて言うのか、揺るぎなく「一緒にいてくれる」という感じなんですね。(私の勝手な思いこみなのかも知れないけれど)

 以前玄さんが「一緒に暮らす」ということがそれだけでどれほど大きな意味を持つことなのか、なぜそのことを感じ、共有してもらえないのか、ということを訴えられていましたが、そのことにもつながっていくのかもしれません。ちょっと変な言い方かも知れませんが、ある意味本気で、一生懸命一緒に暮らしてくれているような気がします。

 そうすると東山伸夫さんみたいに、たとえ離婚した後でも、カレンさんの生活の心配をするのが当然、というような生き方にもなっていくのかもしれないし、私が幸せになるのなら、素晴らしい出会いがあればその人と結婚すべきだ、自分は何か相談して意見を聞きたいときとかに話をしてもらえるつながりが残ればいい、と彼女が真剣に言うのも、私には驚きでしたが、やはりそういう「本気さ」につながることなのかもしれません。

 アスペの方たちを変に美化するような意図はないつもりですが、アスペの方たちが大事にしようとする人とのつながり(社会性)、ということを考えるときに、そういうポイントがひとつ大事になってくるのではないだろうかと、そんなことも思うこの頃です。

 

 

2013年4月21日 (日)

アスペ的世界への入り口?

 コメント欄でも少し書きましたけれど、するりさんのコメントを拝見していて、これまでの皆さんのコメントや、なによりパートナーとの生活を通して、アスペの方たちの感じ方、考え方、生き方というのは「もしかするとこんな感じなんだろうか」と想像し始めていたことが、「ああ、やっぱりそんなに大きく間違ってないようだ」と感じてうれしくなりました。

 ちょっと単純化しすぎかも知れませんが、玄さんとの遣り取りでは理性的な形での理解についてすごく助けていただいている気がするし、そしてするりさんとの今回の遣り取りでは感情的な面についてその思いが伝わってくるような気がしています。

 どう表現するのがいいのかまだよく分かりませんが、「違い」を理解するための「共通する部分」という手がかりというか、足場が少しずつ見え始めているような感覚があるのです。

 たとえば、するりさんの

 「私の例で言うと、自身の素はかなり感覚人間ですが、定型さんと違う感覚がゆえに、定型さんの感覚を無理やり理屈をこねくり返した上でどうにか納得させています。」

 という言葉、違う文化の人たちとの仕事とか、友だちづきあいをする中で、私もそういうことをするように思います。それで次のようなことになる。

 「ASは理屈っぽいと言われますが、私自身は自分の感覚と違うものは理屈や分析を通さないと理解出来ないから、という理由でやむを得ず「理屈人間モード」を使っている感じです。」
 感覚的に理解しにくい世界を、なんとか理性で理解しようとするわけですよね。そうすると定型からは「あの人は感情がないのか」とか、「感情を理解できないのか」とか「共感する力がないのか」とか思われ、そういう風に決めつけられたりする。

 でも実際はそんなことなくて、それは理解しがたい定型の世界でなんとか生きるために、ぎりぎり模索してきた生活の知恵の結果そうなっているだけのことで、アスペの方にはアスペの方の感情の世界があるし、それを伝えたい思いも、それが伝わらない悲しみもある。

 私のパートナーだって自分の思いが私にどうしても伝わらなくて、涙することが何度か(も?)ありました。子どもの頃は猫がうらやましかったそうです。なぜなら猫はしっぽで感情を伝えられるのに、自分の感情はうまく相手に伝わっていかないという思いがあったからと言うことでした。

 久しぶりに例に出しますけれど、繭さんの写真の世界もとても感覚的に豊かに伝わってくるものを持っています。

 ただ、感情の表現の仕方、感情の読み取り方が違う、そこで定型社会の中で「理屈っぽい」と言われる生き方を選ぶしかなかったりするのに、それを否定されてしまうと、

 「「じゃあどないせえっちゅーねん!のたれ死にしろということか!」と叫びそうになるのを抑えています」

 ということになるのは、無理もないというか、当然というか、ものすごくまともな感覚ではないでしょうか。定型だって、例えば無理矢理勉強ばっかりさせられて、友だちと思いっきり遊ぶことも否定されてできないような子ども時代を送らせられたとして、大きくなってから「あなたは社会性が足りないね。人付き合いが下手でダメだ。異性の気持ちも理解できないし」とか言われたら、もう立つ瀬がないだろうと思います。

 もちろん定型が社会経験が足りなくて人付き合いがうまくできないという話と、アスペの方たちが定型とのつきあいがうまくいかない、ということとは同じではないと思っています。そこにはたんに「経験が足りてるかどうか」という違いを超えて、上にも書いたような「感じ方の違い」とか「表現の仕方の違い」とか「理解の仕方の違い」が根っこにあって、それは多分生まれつきの部分が大きいからです。

 大事なことは「定型とは感情の持ち方や表現、理解の仕方が違う」ということを、勘違いして「アスペの人は感情が足りない」とか「社会性がない」というような単純な決めつけをしないことだろうと思います。定型の目から見てアスペの方の社会性に不自然なところがあるとすれば、それはアスペの人にとっては理解しにくい異質な定型の社会性に無理矢理合わせているからだと思えるわけです。

 アスペの人にはアスペの人なりの適度な人との距離感とか自然な接し方があるんだ、という(アスペの方たちにはあまりに当たり前だと思える)理解が、私の中でだんだんと確信に近くなってきています。何が適度な距離感か、何が自然な接し方なのかについては、アスペの方の中でも個人差は大きそうな気もしますけれど。

2013年4月19日 (金)

並大抵じゃなかったんだなあ

 Yahoo!の特集記事のコーナーで、夫婦関係について集めているのがあって、どういう夫婦が危機的かとか、どういう言葉や行動が危機を産むかとか、危機的になったときにどうやって対処したらいいかとか、そんな内容がいろいろ含まれてました。

 それで、ちょっと興味を持って見てみたんですが、たとえばこうなると離婚間近、というような説明の所なんか見ても、ああ、「こんなこともあったなあ」としみじみ思うし、危機にどうやって対処するかのいろんな方法については、「なあんだ、こんなことぐらい、もう全部やりつくしてきたよ」と感じられるものでした (^ ^;)ゞ

 結局このコーナーを書いている人たち、カップルにサジェスチョンしている人たちの頭の中には「定型同士のカップル」のイメージしかないんですね。逆に言えば、そういう「定型的発想」の枠の中で考えている限り、アスペと定型のカップルに危機が訪れた場合には対応できないんだ、ということが改めてよく分かりました。

 何度も書いてきたと思いますが、私もかつてはその「定型的発想」の枠でしか考えていない、ということに気がついていませんでしたし、気がつかなかったから、その枠の中で自然に考えつくことでいろいろ対応しようと頑張りましたし、その結果、もうできることは全てやり尽くした感があって、それなのに一向に関係は良くなるどころか悪化していくようにしか思えなくて、鬱にもなりましたし、力尽きて離婚も考えると言う風になったわけです。そのときには「自分の力もここまでか」という気持ちもありましたし、「やっぱり相手が悪いんだよな、自分は悪くないよな」という気持ちもありました。

 そこで「アスペと定型」というズレがあったんだという発想が、彼女自身が自分のことをそう理解するようになってから生まれて、初めてそれまで自分が知らず知らずに固まってきた「定型の枠」をちょっとずつゆるめてお互いの関係を考え直すことができはじめたわけです。

 それから3年ほどが経ちますが、最初の頃の全くの暗中模索という感じではないにしても、やっぱり手探りの状態が続いていることは確かです。今は私には離婚という考えは無くなっているように思いますが、パートナーにそれを言うと、そんなことは分からない、というような答えがまだ返ってきますね。実際、将来のことはお釈迦様でもわからない(?)でしょう。

 それも無理もないと言えば無理もないことですよね。だって生まれてから今までずっと疑いもなくそうやってきたし、骨の髄まで「定型」だったわけですから、それを今になってたった何年かで完全に発想を切り換え、行動を切り換え、さらには「感情の持ち方」まで調整するなんて、そんなことやれと言う方が無理でしょう。第一「どうやったらいいのか」というコツや目標からしてはっきり見えている訳じゃなくて、それから手探りな訳ですから。

 なんにしても上に書いたコーナーを見て、「ああこんなことやりつくしてきたよ」と感じたときに、アスペと定型のカップルが抱える問題って、そんなに問題なくすごしている時やそういうカップルの場合はいいとしても、一旦ズレが目立ち始めてこじれてしまうと、定型同士なら「はいこれでおしまい」というレベルに簡単になってしまうんだなあと思いましたし、それに向き合うことって並大抵の努力じゃないんだなあと、なんかちょっと他人事みたいですがそう思いました。

 で、彼女にその話をして、「まあ、かなり頑張ってきたんだね」と共感を求めてしみじみ言ったら、「誰も頑張ってないとは言って無いじゃない」と言われました。はい、たしかにそれはその通りです。もうちょっと力抜いて適当になってもいいのかなあ……

 

2013年4月17日 (水)

違いに慣れる

 以前、私のパートナーが「自分にとっては一緒に暮らしている、と言うこと自体が特別の人だということなんだ」と言っていたことを書いたことがあります。つまり、彼女にとって他人と一緒にいることは緊張を強いられることで、それでへとへとになってしまうことなのだけれど、全く素とは言わないまでも、かなり素の状態でそれほど緊張せずに生活を共にできる、ということは本当に特別のことだし、それができる人(この場合私)は特別の意味を持った人だ、ということです。

 そのことを書いたときは、「一緒にいるだけで特別扱いなんだ」ということにちょっと愕然と下思いもありました。もっと情緒的な、共感的関係とか、心情的にも支え合う関係とか、そういうことがなくて「物理的に一緒にいる」だけというのは、なんだかとても冷たい関係と感じられてしまいましたし、言ってみれば「離婚への秒読み段階」の状態にも感じられたからです。

 その上にさらに「完全に一人で居られる時間がそれなりにないとだめ」ということで、まあ定型の私でもよほど悩みを抱えたりしたときには、完全に一人になりたいことはありますが、そういう感じではなくて、ある程度定期的に「完全に素で居られる」時間が必要ということらしいです。つまりは私と居るときにも緊張が完全に取れてのんびりできるところまでは行かないのですね。

 そういうのは私にはかなり辛いことでした。

 けれども最近、ふと気がついてみると、そのことに以前ほどには辛さを感じなくなっているようなのです。そればかりか、彼女が本当に他の人とのコミュニケーションに相当の努力を払っている、ということが少しずつでも感じられるようになるほど、その彼女が自分とは一緒にいられる、ということがそれだけでほんとに大きな意味を持つんだなあ、ということが少しずつ実感されるようにもなり始めたようです。

 そのことによって、自分がどこまで気持ちの上で満足ができるのか、安定できるのか、ということについてはまだ何とも言えませんけれど、少なくとも辛さはかなり減少しているようです。お互いの感じ方の違いについて理解が進んでくることで、さらにその違いに慣れるということが進んでいるのかも知れません。

 違いに慣れると言うことと、以前パートナーに求めていたものを諦めていく、ということとが同じことなのかどうかはまだよく分かりません。諦めるというのは場合によってはもう相手との関係を諦める、ということに繋がる場合だってあるでしょうし。今はあんまりそういう感じは持っていませんが、さてこれからどんな展開になるのでしょうね。

2013年4月15日 (月)

打てば響く?

 「打てば響く」という言葉をふと思い出しました。というのはパートナーと話をしていて、生活上の話は別として、「二人の関係について」みたいなちょっと込み入ったことを話題にすると、「打てども響かない」という感じになるなあと思ったからです。

 私の話しかけ方、問いかけ方が多分定型的な発想で、伝わりにくいんだろうなと想像しますけれど、彼女の場合、私の問いかけに「うーん」という感じで考え込んでしまうことが多いんですね。私としてはそんなに複雑でわかりにくい話をしているつもりはないので、彼女が何をそれほど考え込んでいるのかはよくわからないことが多いです。それで、最近はゆっくりと待つことを心がけて居るんですが、そのうちに苦労して絞り出すように、何らかの答えを言ってくれたり、あるいは逆に質問されたりします。

 で、それが何往復かあって、彼女も疲れたかなと思って、「まあ、ちょっと聞いてみたくなってね」という感じで「もう会話を終わろうか」という提案をすると、彼女は「はーっ」とため息をついて終了したりします。何か悪いことを言ったかな、という心配もあって聞いてみると、「何を聞きたい(または言いたい)のかが分からないから」と言われる、ということがよくあります。

 玄さんが掲示板の方で「突っ込んではいけない話」というテーマを設定されていましたが、私がふと疑問に思って聞いてみたくなったり、「このことを理解して欲しい」と思って話したくなることの中には、もしかすればアスペの方にとっては「突っ込んではいけない話」に分類されるようなものが多いのかも知れません。そうすると当然のこととして「打てば響く」といった会話にはなりませんし。

 なんで「突っ込んではいけない話」がそれぞれにあるのかなと考えると、アスペにしろ定型にしろ「そこは当たり前のこととしてそれ以上考えない」という部分があって、その部分がお互いにだいぶ違ったものなのではないかと思ったりします。人が「当たり前」と思っていることって、改めて聞かれると答えに困りますよね。子どももある時期「なんで?なんで?」と大人に聞き続けたりすることがありますが、その単純な質問を繰り返されると、だいたいすぐに答えに詰まってしまいます。で「それはそうなってるの!」としか言えなくなってしまう。

 「そこは理屈抜きにそうなってるの」と思っている部分がお互いに共通していれば、そのことを足場に「打てば響く」ような会話も成り立つのでしょうが、逆にお互いに「相手にとって当たり前のことは自分にとっては全く疑問」という関係になってしまうと、いつも「自分にとっての当たり前」が相手から問われ続けてしまいますから、「打たれれば考え込む」ということになってしまうでしょう。

 ただ、これは私の思い違いの可能性もあるのですけれど、最近、話をしていてそのときは彼女がしんどそうな感じでも、翌日とかしばらくしてからとか、なんか明るくなっているように感じられることがあるんです。もしかすると、彼女なりにじっくり考えることがあって、その結果かも知れないと思ってちょっと期待したりしています。と言っても、彼女自身がそのように言葉で説明してくれるわけではないので、ほんとに私の思いこみの自己満足かも知れないのですが。

 ということは、今日の話も「あせらずゆっくりゆっくり語り合い、伝えあっていきましょう」という話に落ち着くのかな?ま、これも模索の一つです。

 

2013年4月14日 (日)

スキンシップは計算?

 ご多聞に漏れず、私のパートナーもスキンシップは得意ではありません。スキンシップをされることで心が安らぐということはないそうですし、「近くに寄られる」ということもやはり緊張する原因になりやすく、のんびりしたいときにはある程度離れていることが必要になります。

 だから逆に私に対してスキンシップをすることについても、彼女は「申し訳ないことをする」という感覚になってしまい、いわば罪悪感を持ってしまう、という話は以前にも書きました。

 けれどもケアを必要としている定型の人に対してスキンシップが大きな意味を持っている、ということは彼女は知識としても体験としてもよく分かっています。身体的なケアをする際に手を握ってあげたり、背中を撫でてあげることで身体の緊張がほぐれ、ケアの作業がしやすくなることがわかっていて、そこは徹底して「計算」して「プロの技術」としてそれをするのだそうです。

 定型の、少なくとも私にとってはスキンシップは親密な間柄ではとても自然なことで、それによって心が安らぐし、また相手を安らがせてあげたいときにもスキンシップをしたくなります。そこには頭で考えての「計算」はなくて、ごく「自然な心の動き」で「そうしたい」という気持ちになるわけです。逆にそうしないことは相手との間に距離があることを意味するし、「冷たい関係」というふうに感じてしまうことになります。

 そうすると定型とアスペのカップルでは(恋愛最盛期はもしかすると少し違うかもしれませんが)、ほんとに奇妙なすれ違いが起こってしまうことになります。つまり、

 定型が相手に親しみを感じればスキンシップをしたくなり、逆なら避けるようになる。
 アスペが相手に親しみを感じればスキンシップを避け、逆なら計算でそれをすることもある。

 というすごくねじれたずれた関係が成り立ってしまうわけです。彼女と話をしていて、つまりそういうことなんだね、という話になりました。

 これは頭で考えてそうなる、ということではないし、育った環境によってそういう風な性格になった、ということでもなさそうに思えます。やっぱり生まれながらの違いからくるズレという気がするんですね。(「自閉度」の強いカナータイプの自閉の子でも、ある種の身体接触を自分から求めてくることもあったので、接触が全く意味がないと言うことではないと思いますが、かなりその雰囲気は違いますし)

 それで彼女からこういう疑問を投げかけられたんです。「スキンシップが大事というなら、プロの計算でそう対応することはできなくはないけど、そんな風にされるのはいやでしょう?」と。

 たしかに「計算」でされると言われると、ちょっと引いてしまいます。なんだか商売をされて、手玉に取られているような感じになってしまいますし (^ ^;)ゞ

 でも、ごく素朴な気持ちとしてはそれを求める自然な気持ちはやはり消えません。それを消す方法は完全な悟りを開くかプラトニックラブになるか……。どちらも凡人の私には難しそうです。さてどうするのがいいのか、あちらを立てればこちらが立たず、とても難しい問題です。

 多分、アスペと定型の間では、こんな形の難問がいっぱいあるのでしょうね。うーん、頭が痛い!

2013年4月13日 (土)

記事の書き方

 最近自分の中に起こりつつある変化なのかなと思うのですが、このブログへのコメントや掲示板の方にアスペの方が書かれている「痛み」や、私のパートナーがこれまで語ってきた「痛み」について(「痛み」という表現がアスペの方自身にとって適切かどうかはよく分かりませんが)、少しずつ実感として分かる感じがする時が出てきたように思います。

 どんな風にそう感じるのかというと、「もし自分が同じような状況におかれ続けたとしたら、とても辛いだろうな」と思ったり、「もしそういう状況に対処しなければならないとしたら、そういう形になるのも無理はない気がするな」と感じたりすることがあるのです。

 もちろんそういう私の「共感」の仕方が、ほんとにうまくアスペの方の気持ちを共有できているのかどうかはわかりません。これもまた定型的な発想で勝手にずれた思いこみをしているだけなのかも知れません。ただ、仮にそれがずれた思いこみだったとしても、私のパートナーに対する姿勢とか態度、あるいはアスペの方が書かれるコメントなどを読むときの姿勢に、以前とは違った部分が生まれてきているのは確かだと感じます。

 ああ、今これを書きながら、こういう書き方だとパートナーからは「具体的にどういうことなのかが全然分からないから、それについて私は何も判断できない」と言われそうな気がしてきました。と言っても、もしそうだとしても、じゃあどういうふうに具体的に書いたらいいのか、まだよく分からないレベルに私はいるようです。今後の宿題ですね。

 今までこのブログの記事を書くときには、基本的には自分の素のままで、できるだけ具体的な自分の体験を中心に書くようにしてきました。ただしアスペの方にも伝わりやすい表現で、共有しやすいような問題提起をする、ということについては、どうすればそれができるのかが全然分からないままでしたし、そこはあまり深く考えないようにして自由に書いてきました(というか、考えても分からないわけですが)。

 けれども、これからはもしかすると少しずつでも、「よりアスペの方にも伝わりやすい」書き方を意識して書いていくことができはじめるかも知れません。いや、もちろん全然私の思い違いで、相変わらず分かりにくかったり、もっとひどくなったりするかもしれませんが、それでも試行錯誤しながら、ほんのちょっとずつでも変わって行けたらいいなと思います。

2013年4月 6日 (土)

痛みの難しさ

 なんか考えてみると不思議だなあと言う気もするんですが、定型の側がアスペ的な言葉や言い方にすごく傷ついてしまう、ということがありますよね。それがあまりに見事というのか、ほんとにピンポイントで狙いすましたようにすっと気持ちの襞に入り込んできてぐさっと来る。

 昨日もパートナーとの間で、日常生活のほんの何気ない遣り取りの中で、全く予期しない形でそういう種類の言葉(言い方を含めて)がすっと心臓を突き刺すような感じになることがありました。

 とっさにしんどそうになった私を見て、彼女は「また言い方が悪かった?」と聞いてきて、傷つけようとする気持ちは全くなかった、ということを説明してくれました。

 私も彼女にそういう意図はなかったことは分かってはいるのですが、ただその言葉の調子に私の身体が自動的に反応して傷ついてしまうんですね。こういうのって難しいなあと改めて感じています。

 以前に比べて今は彼女のいろんな態度や言葉について、昔ならすごくショックを受けていたようなものについて、「ああ、これはそういう意味じゃないんだよな」という感じですっと受け流すことができるようになってきたと思います。それでもしかすると「油断」していたのかもしれません。そこに久しぶりに突き刺さる物がやってきてしまいました。

 逆に言えばアスペの方の場合も定型の言葉や態度などで、定型が気づかないうちに同じような傷つき方をされているということなんだと思うのですが、その場合は定型には何気ない悪気のない言葉がピンポイントでぐさっと来るのでしょうね。

 もちろんこういうことは何も定型とアスペの間にだけ起こることではなくて、定型同士の間でも何気ない一言が相手の人を深く傷つけてしまうことがときどきあります。そういうときの傷つき方、傷つけ方と、定型とアスペの間で起こるそれと、結局同じことなのか、やっぱり定型とアスペの間に起こりやすいなにかの特徴的なものが別にあるのか。そこは私にはまだ全然わかりません。もしかするとそのあたりの「しくみ」が分かると、何か対処の仕方が見つかるかも知れませんけれど。

 いずれにしても、そういう感情的なものって、ほんとに瞬間的に自動的に起こってしまって、「意識して調整する」みたいなことが難しいところですよね。「慣れる」ということしかないのかもしれないし、でも下手に「鈍感になる」ということだと、今度は自分が別の定型の人に対して傷つけることを言いやすくなってしまうのかも知れないし、ここはほんとに難しいところだなと改めて思い知るようなことでした。(内容そのものはある意味些細なことではあったんですけどね)

2013年4月 5日 (金)

「鈍い」と「見切り」

 前の記事で玄さんのコメントですごく目が開かれた思いがしたことを書きました。もちろんそこでの私の理解が果たして玄さんの考えにうまく沿ったものなのか、それともまた例によって定型的な見方で勝手に思いこんでいるだけなのか、それは私にはわかりません。でも少なくとも自分自身ではそんな気持ちになりました。

 それからそこで私が「理解」したことは、多分前から玄さんや私のパートナーや、色んな方から色んな言葉で繰り返し語られてきたことなんだろうな、ということも書きました。ですから、もしかして私の理解が的外れでなければ「何を今頃言っているんだろう、前から言い続けているだろうに」と思われるでしょうし、的外れなら「これだけ言ってもやっぱりわかんないのか」とあきれられるかも知れません。

 実際、私がパートナーに対して「分かった。こういうことなんだよね」と言うと、がっくりされたように「だからずっとそのことを言ってきたじゃない。やっぱり全然伝わっていなかったんだよね」と言われることも少なくありません。そう言われるのも仕方がなくて、私も前から彼女がそのようなことを言っていたことは、そう言われて思い出すことができるんです。でもそのときは全然ぴんとこなかったし、それが大事なことだとも気づかないような、そんな感じなんですね。

 相手の人から見れば「なんて鈍い人なんだ」と思われるかも知れません。そしてそう思われても仕方ないなと思えます。でも、じゃあもっと賢くなって、注意深くなって、そしたらもっとはやく理解できたのだろうか、と考えると、それも無理だったろうなあ、というふうに感じます。少なくとも私の能力ではそこまでの理解力はやっぱりなくて、しつこくしつこく言われ続けて、ようやく何かの機会に、ふっと「あ、こういうことなのか」と思えるようになるんですね。

 それに対してパートナーの方はとても「現実的」と言うことなのかも知れないですが、何度か言って伝わらないと分かると、「もうこの人はわからないんだ」というふうに比較的早く見切りを付けて、「伝わらない」ことを前提に別の対処の仕方をしたりすることが多かったのだと思います。

 そういう「見切り」が積み重なっていくと、私から見ればどんどん関係が切られていくような気持ちになっていきます。ますます話ができなくなっていくという感じになっていきますし。そして行き着く先は「ああ、彼女はもう私を必要としていないんだ」という解釈なんですね。彼女は現実的な対処をしているだけで、全然そういう気がないということはあとから分かってきたことなんですけれども。

 なんとなく思うことは、アスペの方は生まれつきなのか、あるいは子ども時代からの経験でそういう対応を身につけてこられたのかわかりませんが、その辺の「見切り」がかなり早く、そして見切った後の態度の切り替わりがとてもはっきりしている、という傾向があるのかなということです。定型にとってはやっぱりアスペの方たちの考え方、感じ方を理解するのは難しいことだと思うので、たとえ小さなことでもちょっとわかりはじめるためにも時間がかかるんですね。でもその猶予が与えられないままにすっと見切られてしまう、という展開が意外に多いのかも知れません。もちろんどちらが悪いというような話ではなく、お互いの個性の組み合わせでそうなるんだと思います。

2013年4月 2日 (火)

<同じ>にたどり着く

 

玄さんのコメントを読んで、ある意味(良い意味で)衝撃的でした。といっても意外だったとかそう言うことではなくて、「ここまで来て、ようやく定型とアスペと<同じ>という足場にたどり着き始めたか!」という気持ちになったのです。玄さんはこんなことを書かれています。

 「「役立ちたい」と思うからこそ、曖昧な話を真剣に聞き、問題点が整理されていないと見えれば助け舟の確認質問をするのです。話し手の考えがまとまっていなくても、一向に構わない。一緒に考えて方向性を見出せれば、笑顔になれるはず。それなのに、真摯に確認したら「細かいことは、どうでもいい」、所感を述べると顔色が変わる、役に立ちたいのに「聞くだけでいい」と言われるのです。「自分は相手にとって何なの!?」という事態です。」

 パートナーの為に役立ちたい、相手のためになりたい、と心から思ってされている。ただ、残念なことにそのためにされていることの具体的な中身が、相手が望んでいることとずれてしまい、コミュニケーションがうまくいかないのです。

 うまく行かない、ということを強調すれば、これは悲しいできごとです。でも「本当に相手のために役立ちたいと思っている」ということを強調すれば、それは嬉しい出来事です。

 私とパートナーの関係がだいぶんやわらかくなってきているのも、私の側から言えば、彼女が本当に私のことを思ってしてくれている(その具体的内容は私が望むような物とはずれていたとしても)ということが、だんだんと実感されてきたことが背景にあります。「ああ、本当にお互いに相手のために、と思ってやっているんだな」ということ、その意味でお互い「同じ」気持ちを共有して居るんだな、ということが感じられてくる。

 それが実感されてくると、そこでお互いの関係を前向きに築き直す足場が見え始めてくるような気がするのです。玄さんのコメントは、玄さんもそういう思いを強く持って奥さんに向き合われていることを感じさせてくれました。残念ながらそれがうまく奥さんに伝わらないところがまだあるのかも知れないのですけれど、でも今回のコメントを頂いて、何故か玄さんのその思いがすごく素直に私の中に響いてきたように感じたんです。

 玄さんには「なにを今頃になって」と怒られるかも知れません。自分はずっと同じスタンスでコメントをしてきたのに、全然理解していなかったのか、とあきれられるかも知れません。そう言われても私には言い訳ができませんが、何でか分からないけれど、ようやく何か直接心に響く形で感じられたのです。本当に何故なんでしょう?

 ああ、この人はほんとに相手(奥さん)のことを心配してくれて居るんだな、ということが素直に感じられるようになると、そこには大きな信頼の心が育っていきます。もちろん今まで玄さんを信頼していなかったと言うことではないのですが、なにか信頼感のレベルが変わる感じがするんですね。

 やりかたや表現は違っても、「同じ人間だ!」という思いがどこかで湧いてくるような気もします。

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