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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2013年3月31日 (日)

うれしさの共有は不自然?

 ちょっと久しぶりにパートナーと散歩をしながら話をしました。最近の自分の状況について話をしたら、やっぱり「それで、私に何を言って欲しいわけ?」「どういう風に答えられるのが嬉しいわけ?」と聞かれました (^ ^;)ゞ

 そこで私は最近この記事に書いてきたような話をしたんですが、一応は「そういうことなのか」と思ってくれたようではありました。それに加えて私は「何を言って欲しいのか」というような聞かれ方をすると、定型の側は「あなたの話は意味が分からない」とか「聞く気になれない」とか、要するにうんざりして会話を拒否されているように感じてしまう、ということを彼女に言ったら、逆に「それはあなたでもそうなの?」と聞かれました。

 というのは、他の人にはそういう聞き方は彼女はしないそうで、私だからそんな風に聞くんだ、ということでした。それはどう応答することが私にとって必要なのかが彼女は分からないから、そうやって聞くことで役に立つ応答ができればいいと思ってとのことでした。

 私はそれを聞いて、「へー」と思いましたが、そういう聞かれ方をすると、私の方はほとんど自動的に「ああ、拒否されている」とか「否定されている」と感じてしまうんですね。まあこれからはそういう言われ方をしても、「拒否じゃないんだな」ということは頭で理解できるので、ちょっとは楽になると思いますけれど、感覚的にはすぐには馴れないでしょうね。

 それから彼女が自分の感情を他の人と共有したいと感じるかどうか、それから自分にとって辛い感情を他の人とコミュニケーションをすることで立て直そうとすることがあるかどうかを聞いてみました。

 たとえば面白いと感じたことについては、「それを理解してくれる人」には話すことがあるし、腹の立ったことについても「それを理解してくれる人」には話すことがある、ということでした。定型の場合は多分「みんなに聞いてもらいたい」というような大雑把な感じになるように思えるんですが、彼女の場合「それを理解してくれる人」という限定がつくのは、誰にでも話すと、思いも寄らない形で反感を持たれたり、怒られたりといった経験を繰り返しているからでした。そうやって何度も痛い目に遭っていて、しかもなぜ相手がそれで怒るのかが彼女には理解できなかったりするので、慎重になるんですね。

 そんな風に面白いことや腹の立つことについては他の人に話すこともあるわけですけれど、嬉しかったことを積極的に人に話す、という気持ちはやっぱりないんだそうです。何故かというと、それは自分のことなんだから、相手に押し売りをするような話ではないといった感じを持っているようです。

 私は、定型の場合は自分が嬉しく感じたことを相手にも聞いて欲しくなることがよくあって、そして相手もそれを喜んでくれたりすると、うれしさが倍増する、という話をしました。それは「この人も自分の喜びを共有してくれる」ということが嬉しいんだ、という説明の仕方をしました。

 それについてはなんか不自然さを感じるらしいです。例えば誰かが「いやあ、嬉しいことにこんなことがあってね」とか説明して、それを聞いた人たちが「ほんと!それはよかったね!」とか喜んであげる、そのやりとりが、なんだか大げさな、無理してやっているようなものに感じられるらしいんです。相手の人(特に親しい人)にいいことがあったりすれば、それを聞いたこちらもうれしくなる、ということは彼女も分かると言います。でもそんな大げさなやりとりをするのは不自然だと感じるようなんですね。もしかすると感情が突き動かされる強さがお互いに違うのかも知れません。

 これまでずっと、私は自分に何かいいことがあったときに、嬉しくて彼女に報告をしても、「ああ、そう」くらいで終わってしまうことがほとんどで、「わあ、よかったね!」と一緒に笑顔で喜んでもらえた記憶が無いので、ずいぶんと寂しい思いをしてきたし、「よかった」とは全然思ってもらえないのかと理解してきたんですが、少なくとも「よかった」という点についてはそう思ってくれていたんですね。ただ、それが定型的に「大げさに」表現されることはない、ということで。

 それにしても彼女とはもう結構な年月を一緒に暮らしてきたわけですけれど、こんな「基本的」なことも分かってなかったんですね。というか、まさかそんな「基本的」なところで感じ方に大きな違いがある、ということを想像できなかったということなんだろうと思います。

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コメント

私は、今でこそ、
どう反応されるか不安のあまりない相手であれば、
嬉しい報告を聞いたらいくらかは考えを発言して楽しそうにできることもあります。
しばらく前までは、できませんでした。

それでもなお、反応度合いとかが薄いかも?とは思いますが、
実際に定型的にどう見えてるかは分かりません。。

今でも、たとえば人が髪切ったとか、そういうのは周囲が盛り上がってるのを眺めるだけで終わります。

>「それを理解してくれる人」限定
と同じ感じなのかな…。

taさん

 コメントありがとうございます。
 やはり経験(と努力?)によって、少しずつ変わって行かれるんですね。

 よろしければ教えていただきたいのは、
 「楽しそうにできることもあります」と書かれているのは、
 「実際に楽しいからそれが自然に表現できる」という意味なのか、
 それとも「周りに合わせて楽しそうにしたほうがいい」と思ってそうする
 という意味なのか、どちらに近い感じでしょうか?

 それと、もし「実際に楽しい」からそう表現している場合には、
 (たとえば)子どもの頃には割に表現していたのに、
 いろいろトラブルを経て、表現しなくなっていたのが復活した、
 ということなのか、それとも子どもの頃から表現はしなかったのを
 最近表現されるようになった、ということなのかということも
 教えていただけたら嬉しいです。

パンダさんのパートナーさんの「役立つ」に同意。僕は誰かから「役立つ」情報をもらえると嬉しいので、誰かに喜んで貰いたければ「役立つ」情報を渡せばいい、という考え方を持っています。
対話を通じて、二人が役立つ情報に辿り着かないのだとしたら、自分は無力と感じますし、相手はもう話し掛けてきてくれなくなるのでは、と心配になります。つまり、ただ聞いて「ヨカッタネ」という返事しかしない状況は、バッドエンドを想起するのです。
「役立ちたい」と思うからこそ、曖昧な話を真剣に聞き、問題点が整理されていないと見えれば助け舟の確認質問をするのです。話し手の考えがまとまっていなくても、一向に構わない。一緒に考えて方向性を見出せれば、笑顔になれるはず。それなのに、真摯に確認したら「細かいことは、どうでもいい」、所感を述べると顔色が変わる、役に立ちたいのに「聞くだけでいい」と言われるのです。「自分は相手にとって何なの!?」という事態です。

まあ、経験的に「ヨカッタネ」と返すことでかなり相手は満足するらしいことを知っているので、「話を聞いて!」の意味自体が二つあるくらいの認識でもいいのかも。

パンダさんのお話の中にあった、パートナーさんの言葉「理解してくれる人」で思ったことを書きます。
ASDは自分が物事を解釈した時の感覚や表現が「少数派」だということを感じながら成長してきたと思います。その過程で、周りの人々が「面白い子だ、もっと言ってみな」という雰囲気なら、発言する機会が増えるでしょうね。「何を言っているんだ?」という反応の多い環境ならば、より「慎重」に育つと思います。思ったことをそのまま口に出し怒られる経験が重なれば、頭の中で考えてばかりになる(見た目には「無口」)傾向になると思います。
辛い・嬉しいという心情を「言っても同意して貰えないのが当たり前」の世界認識が先鋭化していけば、意見や感想は「人それぞれ違うのが自然」であって、「同意ありきで感想を言うとバカを見る」=「発言は他人と違うことが前提」という考え方に進み、他人の意見に同意するのは「自分に不誠実な迎合であり、空々しい」ということにさえなります。極端な表現ではありますが、ヒントになりますでしょうか。

仲間と喜び合うことが無い代わりに、敵を陥れて嘲る心も無いんですよね。哀れんだり、うらやんだりの気持ちも、ASは弱いと思います。

いつの頃からか僕は、自分に「相手が喜びそうな」ことが起きた時に、「いいことがあった」と言えばよいのだと気付きました。先に書いた「迎合」ではありますが、二人で上手くやっていくための精神的な投資であります。

パンダさん

「実際に楽しいからそれが自然に表現できる」場合は、そのことを自分自身かなり嬉しく思ってたり、
今、考えた事を相手に伝えないと伝わらないなら嫌だ
って場合だけで、

そこまで強い思いがなければ
「見かけ上」笑顔になれたりすることもある感じです(人生経験上、印象をよくしようとしてるんでしょうね)。
中身ではその表現ほどではなかったり。

>子どもの頃には割に表現していたのに、
>いろいろトラブルを経て、表現しなくなっていたのが復活した、
>それとも子どもの頃から表現はしなかったのを
>最近表現されるようになった、ということなのか

どっちかいうと前者ですが
子供時代より対外的な表現ができてきたかも?
という節もあります。

前者といえる部分は、子供のころは
自由に発言できる相手にはできてたモノがあって、
それが人間関係が大変になってきて、何もできなくなって、
今、また自由にする感覚を(意識して)少しやってみようと思えてきて。

後者のほうは・・・

最近ほんとに表情が変わった、
前はもっと表情豊かにするよう言ってたのに、今は自然にできてる…
と人に言われ、
確かに「今まで振り返っても、こんな風までではなかったかも」。
と思うので。

まとめると、
自然なときは勝手に…な部分はありつつも、
人に色々と表さないと通じないらしい…という学習と
そうならば、自分がこう見えてほしいから反応を考えてみよう、
という思いが混ざって、って気がします。

taさん

 お答え下さってありがとうございます。
 パートナーについての経験でも、私が気づかないうちに
 「これはこうやっても伝わらない」と彼女が判断すると、
 ますます表現すること自体をやめてしまう場合が有ったように思います。
 なにか表現も弱い感じだし、それが伝わらないときの
 諦め(?)も早いという印象がなんとなくありました。

 でもtaさんが書かれているように、逆に経験によって
 びっくりするくらいに表情豊かな時もあります。
 つい先日もある人と彼女が電話で話をしていたんですが、
 まるでカウンセラーのように「共感的」に頷いたりして
 柔らかく話をずっと聞いていて驚きました。
 で、そのあと彼女に聞いたら、「プロのモードだから」
 というようなことを言っていました。
 仕事の経験の中で培われた表現なんですね。
 だから日常の自然なということではないのでしょうけれど、
 私から見ると、そちらが自然なことに見える、というのは
 なんだか皮肉な感じもします。

 でも私も最近はだいぶそういう「逆転」の関係に
 馴れてきた感じもしています。


玄さん

『他人の意見に同意するのは「自分に不誠実な迎合であり、空々しい」ということにさえなります。』

 これは私も少し感覚的に分かる感じもします。私自身、自分自身の感覚にまで至る位に納得しないと、人に安易に同意できない、という傾向が結構強い方です。ただ相手の人の話はいきなり否定することは少なく(よほど余裕がないときはだめですが (^ ^;)ゞ)、理解しようとじっくり聞くことも好きですから、同意できなくてもコミュニケーションがうまく行かなくなることは、比較的少なくて済んでいるのかもしれません。

 いずれにしても、大雑把に同意する、というのはやっぱり「不誠実」という感覚が私にあるのは確かで、しかもそういう傾向は他の人よりかなり強いので、それで上に書かれた玄さんのお話も、わりに感覚的に理解しやすく感じるのかも知れません。
 

パンダさん、奥様が【ある人と彼女が電話で話をしていたんですが、まるでカウンセラーのように「共感的」に頷いたりして 柔らかく話をずっと聞いていて驚きました。】とありますが

私の友人の23歳の息子さん(自閉圏)がコンビニに勤めていて、きびきびとした動作で声も大きく明確で仕事の覚えも早くミスが無いので、アルバイト半年で店長代理として仕入れまで任されるようになりました(他のベテランパートさんを抜いて)。

で・・・気がついたのです。彼と「会話」がしたかったら、そのコンビニに行き店内のこと限定で質問すれば良いのだと。
「お母さん、元気?」「暖かくなってきましたね」とか業務以外の世間話しは戸惑う。「これっておいしいの?」とか感想を聞くと言葉が出ない。
彼の想定範囲の「ドッグフードはありますか?」とか「コピー機の紙が無くなったんですけど」という対応マニュアルにある範囲なら、ドンと来い!というスムーズさ頼もしさで対応してくれる。
本人は「仕事だから」と言いますが、彼とのコミュニケーションがとれる唯一の場所なのです。

先日、彼とその母親とファミレスで食事したのですが、そこで彼はいつもの固い無表情で挨拶も会話もできなかったです。
コンビニでは大きな声で「こんにちわぁ」「ありがとうございましたぁ」と、業務発声といえど挨拶言葉を言ってくれるので、こちらも「こんにちは」「またねー」と挨拶を返せるのです。

自閉圏の人には、その人の好きな場所でその人の興味や仕事の範疇でコミュニケーションをとると、その自閉圏の人を知っている人はなんだかとても感心したり嬉しくなったりするものだなと思いました。
彼の母親も「時々コンビニに行って、立ち読みのふりしながら息子の声を聞いてるの」と、嬉しそうです。

コンビニ勤務は、彼の小学生の時からの夢でしたから、希望の場所で生き生きと働き、仕事ぶりを認められ信頼されている彼を見ると、幸せを感じます。
コンビニはルーチンワークなので彼に合っていると思いますが、パンダさんの奥様は様々な人の様々な相談や要望に対応するお仕事ですから、自閉圏の人が継続できているということは、とても珍しいというか貴重な例ではないでしょうか。

トマトさん

 コンビニの彼の話、とても印象的です。
 彼くらいに「自閉度」が高かったら、私も彼女と知り合った段階で気がついたのでしょうね。
 私自身カナータイプの自閉の子たちとはある程度付き合いがあったので、「高機能自閉」
 といった理解が成り立ったかも知れません。
 実際もう亡くなった義父は技術者でしたがコミュニケーションがとても独特で、
 「ああ、この人は高機能自閉なんだろうな」と思っていました。
 でも、義父に比べればパートナーはコミュニケーションはスムーズで、
 だからその自閉的な感じも「性格」の範囲の問題なんだろう、
 という理解でずっときてしまったんです。

 その結果、ズレがたまりにたまって、しかもそれをアスペと定型の問題としては
 理解できないまま、ほんとに悲惨な状況にまで至ったんですね。

 「微妙な違い」ということの難しさでしょうか。

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