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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2013年3月28日 (木)

もやもや

 前の記事「ひとりごと」に玄さんが次のようなコメントを寄せて下さいました。

『僕は、パンダさんの「パートナーさんに話しかけたい気分」ていうのはわかるんです。話しかけて、思いつくままにやり取りをするのは、楽しいと思いますよ。ただ、そこには「なんとなく」とか「目的無く」といいつつ、「反論されたくない」が根底にあるんですね。それならば、目的は「僕の思ったこと・気付いたことを、君にも同意してほしい」と断言したほうがスッキリするのだと思います。』

 会話を楽しむかどうか、というのは個人差が大きいのかも知れないなと思いました。たしかに玄さんなら楽しんでいらっしゃりそうです。私のパートナーの場合は知り合った最初の頃から、「どんどん会話がはずむ」というタイプではなかったように思います。学生時代にしていた家庭教師の教え子が遊びに来て、一緒に夕飯を食べたとき、もくもくと静かに食べている私たちの様子を見て、「なんか変!」とすごく言ってたことを思い出します。なんかそれがうちでは普通になっていたんですね。

 それはさておき、今回の玄さんのコメントですごく興味深く感じたことは、『そこには「なんとなく」とか「目的無く」といいつつ、「反論されたくない」が根底にある』と書かれていることでした。これ、私のパートナーも同じ事をよく私に言うんです。「定型の人(パンダを含む)は会話をしたいといいながら、「結局反論されずにただ聞いて欲しいだけなんだ」というようなことをこれまで何回も言われました。今も言われています。

 たしかに「聞いて欲しい」という気持ちはあるんですが、でもそういう風に彼女に言われると、「なんか違うんだけどなあ」と思い続けていたことが、ちょっと分かってきたような気がします。

 最近どなたかが同じようなことをコメントで書かれていたように思いますが、私がよく思うのは、「いきなり反論するのではなくて、まずはこちらが言いたいことを聞いて(受け止めて)理解して欲しい」ということです。でもこう書くと多分こんな反論が来そうです。「もちろん反論するには相手の言うことを理解する必要があるのだから、反論していると言うことはすでに理解していると言うことに決まっているじゃないか」

 もしそういう反論が来るとすれば、ここでもお互いの話はすれ違ってしまうことになります。とくに「なんとなく」話がしたいときは、自分が話したいこと、考えたいことがあるんだけど、それはまだ自分でももやもやしていて、よく分からない場合のことが多いと思います。そのもやもやした状態で話を相手に聞いてもらいながら、だんだんと自分が何を考えているのかを整理していきたいという感じなんですね。それは「自分の考え方が正しいんだ」ということを最初から主張したいというのとも違うので、「君にも同意して欲しい」ということとはちょっと違うんだと思います。

 だからそのもやもやしたきもちでの発言の一部について、いきなり反論が来ても、「いや、そういう議論をしたいんじゃなくて……」という思いになります。じゃあ何を求めているのかというと、「つまりあなたの言いたいことは○○ということなんだろうか?」とか、「その考えだと○○についてはどういうふうに理解することになるのかな?」とか、こちらの考えを整理する手がかりを与えて欲しい、ということなんじゃないかと思うんですね。

 そしてそうやって話し合った結果「なるほど、あなたはこういう風に考えて、こういうことを言いたかった訳か」という感じで問題が共有された後なら、「そういう考え方があることは分かるけど、でもその考えだと○○という問題が残るんじゃない?」などの反論が出てくることは歓迎なんですね。そのプロセスが省略されて、いきなり最初から反論が出てくると、まだ自分の言いたいことが全部整理されていない段階のことですから、なんだか言葉尻を捕まえて表面的な反論をされたり、一部の話から全体を否定されたような気持ちになって欲求不満がたまるのだと思います。

 ただし、今私はこんな風に説明を試みていますけれど、そういう風に「まず相手に話をじっくり聞いてこちらの考え方や気持ちを理解して欲しい」というステップを大事にするのは、とても「日本的」な部分が大きいかも知れません。海外の人と話をするときなどは、最初からバンバンと否定されてバトルのような議論になることも少なくないと思えるからです。多分アメリカなんかもそういう文化を持っていると思います。とはいえ、その中ではいわゆるカウンセリングみたいな「仕事」では「相手の話をじっくり聞く」ということが重視されることもありますし、それ以外の場面でも必ずしもバトルだけではないような気がします。

 そんな風に考えてみると、やっぱり定型は自分でもはっきりしないもやもやした段階から相手の人と話をして、そこで「一緒に考えてほしい」という気持ちがあるんだと思います。それに対してアスペの方たちは会話はもっとクリアなものであるべきだ、という考えが強いのではないでしょうか。もしクリアになっていないもやもやした段階なら、自分の中でもっと整理してから話をすべきだと感じられているのかも知れません。

 もちろん、私という一人の定型の人間からみたときにそう言う違いがあるのではないだろうかと想像してみただけのことですので、アスペの方たちから見れば、また「随分見当違いなことを言ってるな」と思われるかも知れませんね。その辺はどうなんでしょうね。

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コメント

おはようございます。
うーん、クリアであるべきと「考えて」いるのでなく、音声情報はクリア(内容が完結)していてもらわないと「理解しづらい」のでしょうね。
理解できない自分にイラっとしているという面もあります。

こんばんは

 ということは、逆に考えると、アスペの方の場合、自分の中でまだクリアになりきれない問題について誰かと話をして考えを整理したい、という思いをもたれることはあまりないのでしょうか。そんなことがまた新しい疑問として湧いてきました。もしそうならそういうところにもお互いの個性があるんですね。

アスぺ、定型に関わらず「シンプルに聞きたい」という場合も「自分の答えありきで話す」という場合もあるのではないでしょうか?

私はASの人に「どうも考えがまとまらないのでトマトさんの意見を聞きたいのですが」と言われることはあります。
そのときは、相手の耳が開いている(聞き入れる態勢が出来ている)ので、話しもスムーズ感があります。
そのときは「一緒に考えた」という感じがするのですけれどね。


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