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  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2013年3月 8日 (金)

「傷」を共有できるか

 このところ、これまではぴんと来なかったパートナーの言葉が、「ああ、こういう感じで苦しんできたと言うことなのかな」という風に、私なりに実感をある程度持って理解できることが増えてきたように感じていて、そのことを書いてきています。

 それで、彼女に「ああ、やっと分かってくれたんだね」と感じてもらいたくて、読んでもらったりするんですが、なかなか感想はもらえません。それに読んでもらうときは「すぐに感想を求められたりするとしんどくなるから、それは期待しないで」と言われているので、私の方も積極的に聞くことはできるだけ控えて居るんですが、でもやっぱり反応を期待する気持ちがなくなるわけではないわけです。

 で、それとなく聞いたりすることがあるんですが、そのときよく言われることが「あなたが期待しているような反応はできないし」ということなんですね。まあ、私としては「あんたが書いてることは的外れだよ」でもいいので、考える手がかりがもらえれば有り難いのですけれど、それでもやっぱり上に書いたように「こう感じてくれたらうれしいな」というのは確かにあって、そのことは彼女も察していて、しかもそれに応えられるような反応にはならないと感じている訳です。

 たとえば私としては「以前はぴんとこなかったんだけど、こういうことなんだと感じられるようになってきた」というのはお互いの理解が深まることだと思うので、プラスのイメージなんです。けれども彼女の話を聞いていると、同じ事について彼女が感じるのは「やっぱり全然伝わってなかったんだ」という過去の話を確認して、そのときのつらさを思い出してしんどくなる、ということだったりするようです。つまり、同じ話なんだけど、受け止め方が正反対なのですね。

 で、私が「分かってもらえた、と感じたら、理解が共有できる部分が増えたと言うことでうれしくはならないの?」と聞くと、「なんで相手が分かったらうれしいのか分からない」と言われます。この辺は少し微妙で、「相手に理解されて嬉しい」という場合もないではないようなんですけれど、少なくとも以前に理解されずに苦しんだ、という経験がある場合には、その苦しみを思い出すことの方が大きいと言うことなのかも知れません。

 この辺は同じアスペの人でも、もしかすると人によっていろいろかも知れないとも思います。というのは、それまでの経験の中で、子ども時代からわりあいゆったりと受容されて育ってこられた方の場合には、より積極的な意味を感じるかも知れないし、逆に私のパートナーのようにそういう面では厳しい状況を生きてきた人はそこで受けてきた「傷」の方が前面に出てきやすいのかも知れないと思うからです。

 前に書いた杉山登志郎さんが、アスペで診察に来られる方に、以前傷ついた体験(トラウマ)を思い出してもらいながら、ちょっとした器具で両手に交互に電気的なのか振動なのか分かりませんが、なんかの刺激を与え、そのあと深呼吸をしてもらう、というような「治療」でそのトラウマ体験についての辛い思い出を和らげてしまう、ということをやっていましたが、そういうのがあるということは、やっぱりそういう「心の傷」を抱えてそれが日常生活の中でもつらい影響をもたらしている人は、アスペの人には特に多いのでしょうね。

 定型同士の場合だと、「今まで分からなかったけど、知らず知らずのうちにこんな風にあなたのことを傷つけていたんだね。」と本心から相手に伝えることは、相手の人の傷を癒す上で大事な働きをすることが多いと思うんですけど、その理屈はアスペと定型の間では単純には通用しない場合がある、ということを教えられたように思います。

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コメント

パンダさんのパートナーさんの場合、人間関係の目標を「共感」に置いているわけではなくて、一方のパンダさんは「共感がゴール」と信じて疑わない、その点がズレなのだとは思います。(定型の方でも、共感を重視する度合いはいろいろな気がしますし、ASDでも共感を重視する人がいるかもしれません。)

想像ですがパンダさんは、他人を理解することと共感することを混同している、あるいは、セットで在るべきと強く信じておられるかのようです。(僕は理解と共感は区別すべきと思います)パートナーさんの反応は、僕の感覚に照らせば「理解して欲しいけど、共感は期待しない」ということに基づいているように思われます。
この考えでは、仮にパンダさんが「理解しているよ」というメッセージを発したとして、「共感しているよ」という概念が入っている(ともするとソレが前面に出る)と、情報の精度がぐっと落ちたように感じられて、頭に入って来ないし、無理に返答を強いられたらまともに反応できない(機嫌を損ねる言葉が出てしまう!)かも。

玄さん

 はい、多分そう言うようなことなんじゃないかと私も思います。

 すこし訂正を入れるとすれば、私の場合「共感がゴール」というよりも
 「共有をゴールとしたい」ということがベースなんだと思うところです。
 この共有と共感の関係はもちろん微妙なわけですけれど。

 「現実に一緒に暮らしている」ということで「共有できている」
 という満足感が得られるのではないんです。
 もしかするとパートナーの場合はそれで満足なのかも知れないですが。
 そのあたり、「結婚生活」というものに何を求めているのか、
 ということのズレが重要な問題になるのかも知れません。

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