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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2013年3月

2013年3月31日 (日)

うれしさの共有は不自然?

 ちょっと久しぶりにパートナーと散歩をしながら話をしました。最近の自分の状況について話をしたら、やっぱり「それで、私に何を言って欲しいわけ?」「どういう風に答えられるのが嬉しいわけ?」と聞かれました (^ ^;)ゞ

 そこで私は最近この記事に書いてきたような話をしたんですが、一応は「そういうことなのか」と思ってくれたようではありました。それに加えて私は「何を言って欲しいのか」というような聞かれ方をすると、定型の側は「あなたの話は意味が分からない」とか「聞く気になれない」とか、要するにうんざりして会話を拒否されているように感じてしまう、ということを彼女に言ったら、逆に「それはあなたでもそうなの?」と聞かれました。

 というのは、他の人にはそういう聞き方は彼女はしないそうで、私だからそんな風に聞くんだ、ということでした。それはどう応答することが私にとって必要なのかが彼女は分からないから、そうやって聞くことで役に立つ応答ができればいいと思ってとのことでした。

 私はそれを聞いて、「へー」と思いましたが、そういう聞かれ方をすると、私の方はほとんど自動的に「ああ、拒否されている」とか「否定されている」と感じてしまうんですね。まあこれからはそういう言われ方をしても、「拒否じゃないんだな」ということは頭で理解できるので、ちょっとは楽になると思いますけれど、感覚的にはすぐには馴れないでしょうね。

 それから彼女が自分の感情を他の人と共有したいと感じるかどうか、それから自分にとって辛い感情を他の人とコミュニケーションをすることで立て直そうとすることがあるかどうかを聞いてみました。

 たとえば面白いと感じたことについては、「それを理解してくれる人」には話すことがあるし、腹の立ったことについても「それを理解してくれる人」には話すことがある、ということでした。定型の場合は多分「みんなに聞いてもらいたい」というような大雑把な感じになるように思えるんですが、彼女の場合「それを理解してくれる人」という限定がつくのは、誰にでも話すと、思いも寄らない形で反感を持たれたり、怒られたりといった経験を繰り返しているからでした。そうやって何度も痛い目に遭っていて、しかもなぜ相手がそれで怒るのかが彼女には理解できなかったりするので、慎重になるんですね。

 そんな風に面白いことや腹の立つことについては他の人に話すこともあるわけですけれど、嬉しかったことを積極的に人に話す、という気持ちはやっぱりないんだそうです。何故かというと、それは自分のことなんだから、相手に押し売りをするような話ではないといった感じを持っているようです。

 私は、定型の場合は自分が嬉しく感じたことを相手にも聞いて欲しくなることがよくあって、そして相手もそれを喜んでくれたりすると、うれしさが倍増する、という話をしました。それは「この人も自分の喜びを共有してくれる」ということが嬉しいんだ、という説明の仕方をしました。

 それについてはなんか不自然さを感じるらしいです。例えば誰かが「いやあ、嬉しいことにこんなことがあってね」とか説明して、それを聞いた人たちが「ほんと!それはよかったね!」とか喜んであげる、そのやりとりが、なんだか大げさな、無理してやっているようなものに感じられるらしいんです。相手の人(特に親しい人)にいいことがあったりすれば、それを聞いたこちらもうれしくなる、ということは彼女も分かると言います。でもそんな大げさなやりとりをするのは不自然だと感じるようなんですね。もしかすると感情が突き動かされる強さがお互いに違うのかも知れません。

 これまでずっと、私は自分に何かいいことがあったときに、嬉しくて彼女に報告をしても、「ああ、そう」くらいで終わってしまうことがほとんどで、「わあ、よかったね!」と一緒に笑顔で喜んでもらえた記憶が無いので、ずいぶんと寂しい思いをしてきたし、「よかった」とは全然思ってもらえないのかと理解してきたんですが、少なくとも「よかった」という点についてはそう思ってくれていたんですね。ただ、それが定型的に「大げさに」表現されることはない、ということで。

 それにしても彼女とはもう結構な年月を一緒に暮らしてきたわけですけれど、こんな「基本的」なことも分かってなかったんですね。というか、まさかそんな「基本的」なところで感じ方に大きな違いがある、ということを想像できなかったということなんだろうと思います。

2013年3月29日 (金)

もやもやとイライラ

 昨日の記事「もやもや」にいただいた玄さんの短めのコメントで、また「ああ、そうか!」と思えることがいくつかありました。

 玄さんは定型のもやもやした話は理解しづらいということ、それからそういう話を「理解できない自分」に「イラ」っとする、と書いていらっしゃいます。

 私がまずここで思い起こしたのは、私のパートナーの表情のことです。私が自分でもまだ整理できないもやもやした気持ちを、彼女に話を聞いてもらうことで整理したいと考えて話し出すと、彼女は何か怒ったような表情をするんですね。それで自分が何か悪いことでも言ったかと心配になって「何か怒ってるの?」と聞くんですが、全然怒っていないといつも言うのです。でも、やっぱりその表情は怒っているようにしか見えなくて、あるいはなんだか話をするのを拒否されているような感じがしてしまうわけです。それでも彼女に聞くと私の話は聞くと言ってくれるので、私の方は話しづらくなるのを避けるために、彼女の方を見なかったり、ソファーに寝っ転がって目をつぶって話したり、という「工夫」もしました。

 最近は話し始める前に「今ちょっと話を聞いてもらってもいいかな」などと尋ねてみて、OKが出たら話し始めたりするんですが、以前ほどではないような気もするけれど、やっぱり眉間にしわを寄せてちょっと怒ったような顔になっています。彼女としては私に協力して話は聞いてくれる気になっているし、決して私を拒否しているのでもなければ、私に怒っているのでもないだろうというふうには思うのですが。

 そのことがほんとによく分からなかったのですが、今回の玄さんの「イラ」っとする、でふっと分かったような気がしました。彼女はもやもやした整理されていない私の話を聞かされて、ほんとに理解しづらくて、それで「理解できないこと」にイライラしてるんだな、と思ったのです。あるいはまたこれから「理解しづらい話を聞かなければいけない」ということを考えてそんな表情にすっとなるのでしょう。ある意味でそのイライラを我慢しながら一生懸命聞いてくれている、というのがその表情の意味なのではないかと思いました。

 もしそういう私の理解が的外れでないのだとすれば、私は彼女にそういう表情をされたとき、自分が怒られているんじゃないかとか、嫌われているんじゃないかと心配するのではなくて、そこまでイライラを我慢しながら頑張って私のために聞いてくれていることに感謝をしなければならないんじゃないかという気がします。

 実際先日もそうやって我慢しながら聞いて考えたあと、彼女が言ってくれた言葉は私がもやもやした気持ちを整理する上でとても大切な手がかりになるものでした。彼女なりに一生懸命考えてくれていることはそういうことでも分かります。

 「もやもやしているから話をして整理をしたい」定型と、「もやもやしているから理解しづらくてイライラする」アスペの間のズレがあの表情に出てるんだな、と思うとなんか分かったような気になります。

 

2013年3月28日 (木)

もやもや

 前の記事「ひとりごと」に玄さんが次のようなコメントを寄せて下さいました。

『僕は、パンダさんの「パートナーさんに話しかけたい気分」ていうのはわかるんです。話しかけて、思いつくままにやり取りをするのは、楽しいと思いますよ。ただ、そこには「なんとなく」とか「目的無く」といいつつ、「反論されたくない」が根底にあるんですね。それならば、目的は「僕の思ったこと・気付いたことを、君にも同意してほしい」と断言したほうがスッキリするのだと思います。』

 会話を楽しむかどうか、というのは個人差が大きいのかも知れないなと思いました。たしかに玄さんなら楽しんでいらっしゃりそうです。私のパートナーの場合は知り合った最初の頃から、「どんどん会話がはずむ」というタイプではなかったように思います。学生時代にしていた家庭教師の教え子が遊びに来て、一緒に夕飯を食べたとき、もくもくと静かに食べている私たちの様子を見て、「なんか変!」とすごく言ってたことを思い出します。なんかそれがうちでは普通になっていたんですね。

 それはさておき、今回の玄さんのコメントですごく興味深く感じたことは、『そこには「なんとなく」とか「目的無く」といいつつ、「反論されたくない」が根底にある』と書かれていることでした。これ、私のパートナーも同じ事をよく私に言うんです。「定型の人(パンダを含む)は会話をしたいといいながら、「結局反論されずにただ聞いて欲しいだけなんだ」というようなことをこれまで何回も言われました。今も言われています。

 たしかに「聞いて欲しい」という気持ちはあるんですが、でもそういう風に彼女に言われると、「なんか違うんだけどなあ」と思い続けていたことが、ちょっと分かってきたような気がします。

 最近どなたかが同じようなことをコメントで書かれていたように思いますが、私がよく思うのは、「いきなり反論するのではなくて、まずはこちらが言いたいことを聞いて(受け止めて)理解して欲しい」ということです。でもこう書くと多分こんな反論が来そうです。「もちろん反論するには相手の言うことを理解する必要があるのだから、反論していると言うことはすでに理解していると言うことに決まっているじゃないか」

 もしそういう反論が来るとすれば、ここでもお互いの話はすれ違ってしまうことになります。とくに「なんとなく」話がしたいときは、自分が話したいこと、考えたいことがあるんだけど、それはまだ自分でももやもやしていて、よく分からない場合のことが多いと思います。そのもやもやした状態で話を相手に聞いてもらいながら、だんだんと自分が何を考えているのかを整理していきたいという感じなんですね。それは「自分の考え方が正しいんだ」ということを最初から主張したいというのとも違うので、「君にも同意して欲しい」ということとはちょっと違うんだと思います。

 だからそのもやもやしたきもちでの発言の一部について、いきなり反論が来ても、「いや、そういう議論をしたいんじゃなくて……」という思いになります。じゃあ何を求めているのかというと、「つまりあなたの言いたいことは○○ということなんだろうか?」とか、「その考えだと○○についてはどういうふうに理解することになるのかな?」とか、こちらの考えを整理する手がかりを与えて欲しい、ということなんじゃないかと思うんですね。

 そしてそうやって話し合った結果「なるほど、あなたはこういう風に考えて、こういうことを言いたかった訳か」という感じで問題が共有された後なら、「そういう考え方があることは分かるけど、でもその考えだと○○という問題が残るんじゃない?」などの反論が出てくることは歓迎なんですね。そのプロセスが省略されて、いきなり最初から反論が出てくると、まだ自分の言いたいことが全部整理されていない段階のことですから、なんだか言葉尻を捕まえて表面的な反論をされたり、一部の話から全体を否定されたような気持ちになって欲求不満がたまるのだと思います。

 ただし、今私はこんな風に説明を試みていますけれど、そういう風に「まず相手に話をじっくり聞いてこちらの考え方や気持ちを理解して欲しい」というステップを大事にするのは、とても「日本的」な部分が大きいかも知れません。海外の人と話をするときなどは、最初からバンバンと否定されてバトルのような議論になることも少なくないと思えるからです。多分アメリカなんかもそういう文化を持っていると思います。とはいえ、その中ではいわゆるカウンセリングみたいな「仕事」では「相手の話をじっくり聞く」ということが重視されることもありますし、それ以外の場面でも必ずしもバトルだけではないような気がします。

 そんな風に考えてみると、やっぱり定型は自分でもはっきりしないもやもやした段階から相手の人と話をして、そこで「一緒に考えてほしい」という気持ちがあるんだと思います。それに対してアスペの方たちは会話はもっとクリアなものであるべきだ、という考えが強いのではないでしょうか。もしクリアになっていないもやもやした段階なら、自分の中でもっと整理してから話をすべきだと感じられているのかも知れません。

 もちろん、私という一人の定型の人間からみたときにそう言う違いがあるのではないだろうかと想像してみただけのことですので、アスペの方たちから見れば、また「随分見当違いなことを言ってるな」と思われるかも知れませんね。その辺はどうなんでしょうね。

2013年3月27日 (水)

ひとりごと

 私のパートナーが苦手な会話に、井戸端会議のように話の目的や筋が「論理的」にはっきりしていないようなものがあります。そのことは本などを見てみても、他のアスペの方たちにもかなり共通したことのようですね。

 じゃあ、井戸端会議をしている側は「何のために何を話しているの?」と改めて聞かれても、それは会議のようにテーマが明確なわけではないし、なんとなく会話を楽しんでいる、という感じですから、答えに困るのではないでしょうか?なんとなく誰かが思い出した気になる話、面白い話、うわさ話などを語り出して、それをきっかけにまた誰かが思い出したり気づいたことを話していく。話はとりとめもなく続いていって、それで満足するような会話なのですし。

 話しているときにはそんなこと全然意識していませんけれど、あえて理屈を付けるとすれば、「そのときに直接役に立つような話ではなくて、そこにいる人たちが<自分たちの生きている世間>について、いろいろ情報交換をして、お互いに理解を深めたり、お互いの理解をすりあわせたり、<自分たち>が共有する情報を増やしていく」ことに井戸端会議の意味があるんだろうと思います。

 そうやって情報を共有している<自分たち>という仲間が作られていくわけですし、そのことがベースになって次の<集団行動>がやりやすくなったりもする。だからもしそこでかなり大事な「うわさ話」が出てきてみんなで熱心に話されたりしているときに、後からその場のひとからはなんとなく<あの人は私たちの仲間じゃないな>と思われている人がやってきたりしたときには、急に話題が変わってしまうことも起こります。「この話を共有しているのは<自分たち>だけで、あなたはよそ者よ」ということを、暗黙のうちにみんなで確認しているわけでしょう。

 だから「何でも話せる友だち」というのは、とても大事だし、それだけお互いのつながりが強いことにもなります。

 というようなことを考えていて、ふと気がついたことがあります。私は時々なんとなくパートナーと話をしたくなって、なんとなく話しかけることがありますが、そういうときによく彼女から「だからなんだっていうの?」と聞かれます。「今日はいいお天気だね!」と言うと、「そんなこと見ればわかるじゃない」と答えられるのもそういうやりとりのひとつですが、あれも別に「天気」それ自体が問題というわけじゃなくて、「ああ、きもちがいいなあ」という自分の気分とか精神状態を相手の人に伝えているわけだし、それに対する答えを聞いて、相手の人がどんな気分でいるのかを結果として知ることもできる、ということになるんだと思いますが、そうやって自分の状態を相手に伝える、というやり方はパートナーにとっては意味のないことに感じられるようです。もし本当に必要ならストレートに「今日は気分がいい」ということを伝えればいい、ということなんだろうなと思います。

 この「直接はっきりした目的があって話をする」のではなくて、話す本人も「何となく話したい」という気分が相手に受け取ってもらいにくい、というのは多分定型の側がアスペのパートナーに対して感じやすいことの一つではないかと思います。そうすると、「何でも話せる関係」(もちろん完全にすべてということはないにしても)が大事だと思い、夫婦はそういう関係だと思っている人にとっては、なんだか自分がそういう人間と思われていないのだろうかという寂しい気持ちになっていくでしょう。

 それでタイトルの「ひとりごと」の話になるんですが、私にとって「今日はいいお天気だね!」はなんとなく出てくるひとりごとと、なにか目的があって相手に話しかけることの間にある言葉なんだなと思うのです。その「ひとりごと」を相手の人が拾ってくれて、話を展開させてくれれば、会話になっていくし、拾ってくれなければひとりごとでそのまま消えていくし、どっちにも行く可能性を持ったそんな言葉を、定型はよく口に出すんじゃないでしょうか。

 感情と理性のことについて書いたときも、定型は両方が入り交じった理解の仕方をよくするのに対して、アスペの方はもしかすると割合そこははっきり切り離そうとする傾向が強いのではないか、ということを書きました。ある意味でそれと同じように、「ひとりごと」と「意味のある会話」についても、定型はその中間の曖昧な言葉が結構多いのに対して、アスペの方はその区別を明確にする傾向が強いのではないかと感じたのです。

 もしそうだとすれば、アスペの方にとっては定型の話し方は曖昧で意味がわかりにくい、という風に感じられる場面が沢山出てくるでしょうし、逆に定型の方は、「なんとなくだけど相手と共有したい大事な話」を聞いてもらえなかったり「だからなんだって言うの?」と否定された気分になって寂しい思いをすることがしばしばある、というズレが生まれていくんじゃないかなと思いました。

 

2013年3月23日 (土)

地雷

 定型とアスペのコミュニケーションの中で、お互いに相手の「地雷」を踏む、ということがよくあります。この「地雷」という言い方、よくできた例えだなと思うのですが、それがどこにあるのかは普通見えません。「ここから先は地雷原だ」という注意をされていたとしても、なにしろどこに埋まっているのか見えないのだから、できることはせいぜい先に歩いている人の足跡を忠実にたどっていくくらいで、それだって少しでもずれてしまえばとたんに「爆発」の可能性があるわけです。

 でも不思議なことに、定型の地雷は他の定型からは大体は見えるんですね。もちろんときどき見損なって大けがをすることがありますが、普通は見えているのでちゃんと避けながらすたすたと歩いていける。そしてどうもアスペの方同士も、お互いの地雷はよく見えているように感じられます。それなのに、定型はアスペの地雷を見ることができず、アスペは定型の地雷を見ることができない。

 このブログを訪れて下さる方の多くは、多分そういう自分には見えない地雷を何度も何度も踏んで、ぼろぼろに傷ついた体験を持っていらっしゃる方、あるいは現在も日常生活の中で踏み続け、傷つき続けていらっしゃる方なんだろうと想像します。そうやって傷つきながらも、なお「なんとか相手の人の地雷を見えるようになって、お互いに幸せな関係を作ることができないか」と一生懸命に考えていらっしゃる方たちが多いのでしょう。

 そこに地雷原があることは重々理解しながら、なおそれでも勇気を振り絞って一歩を踏み出す。慎重に慎重に踏み出したつもりでも、でもやっぱり踏んでしまうんですね。「え?まさかここに地雷があるとは……」と呆然としながら、再び傷つくことになります。

 ただし、本物の地雷と違うのは、踏んだ方が激しく傷つくのは同じとしても、地雷を踏まれた方もとても傷ついていると言うことでしょうか。多分この地雷を爆発させる火薬のエネルギー源は、傷口を踏まれた事による激痛なのではないかと思ったりします。

 今、私とパートナーがやっていることは、地雷の例えで言えば、お互いに中々見えにくい地雷を相手が踏みそうになると「ここに地雷があるよ」と教え合うことなのかもしれません。そして不幸にして地雷をすでに踏んでしまった場合には(実際に本物の地雷を踏んだときにそうするように)、「今踏んだよ。動かないで!」と注意して、足と地雷の間にそっと別の物を滑り込ませて、地雷のボタンが足を上げたときに跳ね上がって爆発しないように慎重に対応して、たとえ爆発しても怪我が最小限で済むようにする。そんなことなのかもしれません。

 玄さんも時々私の書いた記事などについて、そういう「注意」をして下さいますが、とても有り難いことだと思います。

 そんな風に考えてみると、アスペと定型のコミュニケーションということを考える時にとても大事なことの一つは、「そこに地雷があるよ」ということを説明し合うことなのかも知れません。ただしむつかしいのは「そこ」といって指さして分かるものではなく、一生懸命説明した積もりでも、それ自体がお互いに伝わりにくいという問題があることです。だから説明の仕方を工夫することがとても大事になる。

 それからもうひとつ大事だなと思えることは、地雷にできるだけ細工をして「踏んで足を離したらすぐに爆発」とならずに、爆発までに少し時間がかかるように工夫をし、また歩く方もバタバタと歩くのではなくて、ゆっくり足を離して、相手の人が「今地雷を踏んだよ」と注意できる時間を確保することかも知れません。

 理想はやっぱり相手の地雷が目に見えるようになることです。これは全然不可能なことではなくて、経験によって少しずつですが、有りそうな場所がわかってきたり、場合によっては見える地雷も出てきたりすると思います。もちろん完全に見えることは不可能に近いと思うのですが、それでもお互いの被害を最小限にする努力には意味があると思えます。

 地雷の仕組みを理解することもできればいいですね。上に書いたように多分地雷はその人の深い「傷」に関係しているように思えるのですが、何がどう傷になっているのかを理解できれば、それは地雷が見え始めることにもつながるでしょう。

 一番確実な方法は地雷原から離れることですが、なんらかの理由で地雷原から離れることは無理だったり、あるいは地雷原があってもその地域に別の魅力もあって、そこを離れたくない場合もあるでしょう。そうなら地雷を踏まない工夫、そして例え踏んでもその爆発力を小さくする工夫を積み重ねることが大事になると思います。

 ほんとに手探り足探りの世界ですけど、大勢の人でやれば、少しずつでも見えてくるものがあると思います。

2013年3月21日 (木)

感情とふるまい

 またまた玄さんのコメントが刺激的で、自分の理解を整理する手がかりをいくつもいただける感じがしています。今回は特に最近感じている「感情の意味」について玄さんの書かれたことを引用しながら少し書いてみたいと思います。

 まずは『相手の感情への感想なんて持てないので、感情を表さないで欲しい。こっちは、自分の本音の感情さえも認識していないだから、どう思うかなんて聞かないで欲しい。(僕の個人的な心情です) 』

 ここに書かれていること、私のパートナーもよく似たことを話すんです。特に「自分の本音の感情さえも認識していない」という話はときどき聞きます。ずっとわからないということではなくて、気がつくのにすごく時間がかかる、とか、場合によっては気づかないままずっと過ぎてしまうこともある、ということのようです。

 最初はそう言われても私の方はよく理解ができず、「感情がないという意味なんだろうか?」とか「感情はあるのに、抑圧して気づかないようにしているんだろうか」とかいろいろ考えました。でも本当はそうではないんですよね。アスペの方たちも感情の世界はしっかりある。そのことは玄さんの次の言葉にもよく表現されているように思います。

 『それと付け加えるなら、ASは感情の高ぶりが発生すると、そこから抜けられなくなる。それに怖れを感じているという部分があるかもしれません。だから、日常の精神レベルを保つために意識的に習慣としてウェットになることを避ける傾向がありえます。理解しにくいかもしれませんが、感情を口に出さない、感情に行動を左右されない「武士」なんです。』

 この玄さんの言葉を読んで私が考えたことは、感情の役割が定型の場合とアスペの方の場合でだいぶん異なるのではないかということです。定型も感情が高まることはいろんな場合にあるわけですが、そのときに玄さんが書かれているような「感情を口に出さない」「感情に行動を左右されない」という対応をすることもありますが、それ以上に定型にとって効果があるのが、他人に自分の気持ちを話したり、相手と「感情のやりとりをする」ことなのだと思うのです。玄さんが次のように書かれているのもそういう意味になるのではないでしょうか。 

『定型は「他人の言動→自分の感情→自分の言動→他人の感情→他人の言動(最初に戻る)」というサイクルがあると信じているんですね。そのサイクルに乗らないから、怒られるという気がします。 このサイクル案の矢印全部を、僕は信用していないのだと今、分かりました。』

 玄さんは「定型は……サイクルがあると信じているんですね」と書かれていますが、定型の場合、実際にそのサイクルを使うことで、お互いの感情を調整していて、それで大体の場合は問題を解決しているので、そのサイクルを「信じられる」のです。玄さんや、多分私のパートナーなどもそこが信じられないのは、感情の働き方や理解の仕方が定型とは何か異なるので、お互いに感情をやりとりして問題を解決するというやりかたは現実的でなくて、むしろ感情を関わらせないで、理性的な行動で問題を解決しようとされるのではないでしょうか。

ASが結婚してからの関係をどう感じるかという所。その状態が続くことを期待して生活するわけですが、それが当たり前と思っているわけでない(感謝しているということです)ということと、むしろ不安感は常にそばにあるということです。感謝したり不安がったりの表現が無いだけです。』

 という風に書かれていることも、上のように考えると少し理解しやすくなるような気がします。

 コメントの欄にも少し書きましたが、定型は感情を他人とやりとりすることで、お互いの関係を近づけたり離したり、調整していきます。ですから、相手の感情を理解することや自分の感情を伝えることがとても大事なことで、それがうまくいかなくなると、不安になるんですね。そして自分が予想したり期待したりした表現が相手の人から出てこないと混乱し、自分が何か相手の人に悪いことをしたのかと心配したり、相手の人が自分にマイナスの感情を持っているのではないかと考えたりしてしまうのです。

 アスペの方はそれに対して、(私には理由はよく分かりませんが)相手の感情を読み取ることや自分の感情を理解することが苦手なのか、あるいは定型とは異なる理解の仕方をされるので、人との関係を調整するときに別の方法を模索され続けている。それは大勢の定型の中で孤立した努力になりやすいですから、とても苦労の多い、辛い作業になるのではないでしょうか。

 そうやって感情という問題にどう対応するか、についてとても異なるやりかたで人間関係を作り上げてきたアスペと定型が、お互いにその違いに気づかずに「自分のやり方が普通なのだろう」と思ってカップルとして生活し始め、お互いに相手の行動の意味が分からずに混乱した状態になっていくのだと思えます。
 

 

2013年3月16日 (土)

寂しい?心配?

 パートナーを家に残して私が出かけるときに、ときどきふざけて「帰ってくるまで寂しいだろうけど、我慢するんだよ」と言うと、彼女はちょっと笑いながら、あるいは迷惑そうな顔をしながら、必ず「ぜんぜん」などとあっさり否定します。ちょっとした遊びのようなものでもあるのですが、今日は「ぜんぜん」と言われて、「あ、そう。じゃあもう帰らない」と突っ込んでみました。彼女は「なんでそういう話になるわけ?」と聞いてきます。「だって居なくても全然寂しくないんでしょう?じゃ、必要ないじゃない」と答えるんですが、「どこに行くのか、どこにいるのか分かってるのに、なんで寂しいわけ?」と納得がいかない様子。

 「じゃあ、どこにいるかわかんないとどうなるの?」と聞くと「それは心配になる」ということでした。ふーむ。そう言えば「寂しい」という言葉は彼女から今まで聞いた記憶がないんですが、「心配」という言葉は何度か聞いたことがあります。先日も夜、帰りが遅くなったときに、メールで大丈夫かと聞いてこられたんですが、それも「心配」という感じなんですね。

 どこでどうしているかが分かっているときは、心配することはもちろんないし、それで自分の側にいないこと(それも出張などでかなり長期にわたるときでも)について「寂しい」という感覚はあんまりないようです。そうすると「あれ?自分という人間は必要ないのかなあ」と思わされたりするんですが、でも何かの事情でどこにいるのか、何をしているのか分からない状態になったときはすごく心配をして、帰った後にはほんとに心配していた、という感じが分かったりするんですね。

 「心配をする」というのは「寂しい」という感覚のように「相手と一緒にいることを必要とする」ということとは少し違うのかも知れないけど、「相手が大事だ」という感覚には繋がっているんですよね?つまり「相手のことを大事に思う」ということでは「寂しい」という感覚とも繋がっているんだけど、それがどんな風に表現されるか、感じられるか、というところで彼女と私の間にはズレがあるのかも知れません。

 「寂しい」と「大事」と「心配」、この三つのつながりや区別について、ちょっと考えていきたい感じです。

2013年3月15日 (金)

ああ勘違い

 この間朝食の時パンを食べながら、ふと久しくサンドイッチを食べていないことに気がついて、その話をしました。その二日後、朝ふと見るとサンドイッチができているではないですか!

 私はパートナーが私のために作ってくれたと思ってすごく嬉しくなって、「ありがとう!」と思いっきり笑顔で御礼を言いました。ところが彼女はきょとんとした顔で「なんで?」

 で、私は「いや、僕のためにサンドイッチ作ってくれたんでしょう?」というと、表情も変えずに「いや別に」。「だってこの間サンドイッチの話を僕がしたじゃない!」「え?全然記憶にないけど」「いや、そんなこといっても、実は無意識に僕のために作ってくれたんじゃないの?」「やめてよ、そんな気持ち悪い話」……

 そのあと息子にこの話をしました。息子は即座に「サンドイッチという言葉を聞いて、お母さんが自分が食べたいと思ったんだろうね」と言いました。

 まあ、サンドイッチ美味しかったからいいんですが……(^ ^;)ゞ

 

2013年3月14日 (木)

おつきあいのパターン

 ある記念パーティーに参加する機会があって、いろいろな方たちがいましたが、普段の仕事や生活ではほとんど関わることのない領域の方たちにも多く接することになりました。

 そこでなんとなく感じたのですが、ああ、なんかこの人たちの世界は自分が生きている世界とは違った理屈で動いているみたいだなあ、と思えたんです。まあ、どっちかというと私の生きている世界の方が狭くて傍流で変わっているのかも知れませんが (^ ^;)ゞ、とにかく、「ふーん、これがこの社会の人たちの付き合い方なのか」と妙に感心してしまいました。

 で、そのときなるほどなあと思ったんですが、そういう世界の中では私は言ってみれば「コミュニケーションに障がいを持っている人間」になるんだろうなあという気になりました。何かその人たちが微妙に大事だと考えている付き合い方に、自分が全然鈍感なんだなと思えたわけです。そうするとそのコミュニケーションの中にうまく居続けることは難しくなります。そしていずれやんわりとはじかれていくことにもなるでしょう。

 考えてみると、自分を含めて多くの人は、ほんとに身の回りの人々との小さなつながりの中で日常生活を送っているように思います。もちろん営業とかをされている方なら、かなりいろんな方たちと接する機会があるんでしょうけれど、それにしてもその方たちみんなと深いつながりができるわけでもないでしょうし、ある意味うわべの関係で済ませる部分も多いでしょう。接し方もなんかおきまりのパターンができちゃったりするでしょうし。

 ああ、そうですね、このおきまりのパターンみたいなものを、世の中の人たちはそれぞれ自分が生きているところで、いつも接する人たちとの間に作り上げているんだろうと思います。で、そのパターンはそれぞれに個性的で、他の人が入ってきてもすぐに馴れるかどうかは分からないし、場合によっては馴れるのがものすごく難しい場合もある。

 今回私が体験したのは、このうち多分「馴れるのは難しそうだなあ」と感じられるものでした。そういう世界にすごく魅力を感じられたり、どうしようもなく必要であったりすれば、頑張って馴れるしかないんでしょうが、あんまり積極的にそんな気持ちにもなれそうにないですし、どっちかといえばこれまでのような自分なりのペースで行けた方が楽でいい。

 そうすると、やっぱりその世界のルールからはみ出ることになって、まあ周囲をうろうろおつきあいするくらいはできるかも知れないけど、中にどんどんはいっていくことは難しいんだろうという気になりました。

 アスペの方が定型の社会の中で感じることも、そういうことに近い部分があるのかなと思いましたが、さてどうなのでしょう?

(そう言えば同じような話をトマトさんが書いていらっしゃいましたね (^ ^;)ゞ)


2013年3月10日 (日)

理性と感情

 定型は個人差はあるにしても多かれ少なかれ「共感」というものにこだわりを持っていて、コミュニケーションの中で上手に相手に共感を示すことが大事だし、また共感されることを喜ぶ。でもアスペの方にとっては往々にしてそういう定型の感情的な共感の作り方が「謎」の部分になり、定型からは不適切と見なされる応答をしてしまって、ひどい目に遭うという経験が繰り返される。

 その結果、アスペの方の中にはある段階で気がついて、「どうやったらひどい目に遭わなくて済むのか」ということを何とか経験の中から学び取ろうと、一生懸命定型的なコミュニケーションを冷静に観察して、そこから安全なパターンを少しずつ見つけ出していって実地に応用していく。それがうまくできればできるほど、定型の社会の中ではトラブルになることが少なくなり、「適応」できたことになっていく。

 ただ、そこでアスペの方が見いだしたコミュニケーションのパターンとかルールというものは、自分自身の素直な感情の動きから言えば、全然ずれたもので、だから理性的には「こう対処しないとまずいことになる」とか「こう対処しておけばうまくいく」ということは分かっても、感情的には「そうすることが自然だし、当然だし、そうしたい」という風には感じられない。だから私のパートナーもそうですし、玄さんからのご紹介の(「息子と僕のアスペルガー物語り」 )でも著者が書かれているみたいに、「定型同士の会話では本当のことを言ってはいけない(ことが多い)」といった理解になったりもする(もちろんその理解で全く間違っているわけではないのですが、でもやっぱりちょっと理解は定型とはずれます。問題は本当のことを言うときの気の使い方にあると思えるので)。

 だからアスペの方は世の中では「本当に感じたことを言う」ことは我慢し、なんとか相手に合わせて頑張ってコミュニケーションをされるので、家に帰るとぐったりしてしまう。場合によってはそうやって定型のやり方に無理矢理合わせることがハードすぎて、鬱になってしまったりすることもある。

 「息子と僕のアスペルガー物語り」を読んでいて、改めて私が自分の理解を整理したことの一つはそういうことでした。

 それと同時に、その記事を読んでいて「やっぱりそうか」と嬉しくなったことは、アスペの方だってとても豊かな感情の世界を持っていらっしゃること、それだけじゃなくて、たとえばその記事のタイトルにもあるように「息子と僕」が同じアスペとして同じような苦労をしていることに「僕(=著者)」がすごく「共感」されたり同情されたりしていて、その意味でアスペの方にだってちゃんと共感の力があるんだ、ということがわかりやすくいろいろ実際の経験談の中に書かれていることでした。

 そうすると、アスペと定型の違いを「共感能力の有無」とかいうことでかたづけることはできないことにもなります。もちろん「感情の有無」ということでは絶対にありません。違いは多分感情の動き方、特にコミュニケーションの中での感情の働き方にあって、その違いがお互いに理解しにくいのです。その結果「感情抜きにパターンを理解して合わせる」ということでなんとか対処しようとすることになる。理性的に、、という言い方もできるのかも。

 一般的には多数派の定型のやり方にアスペの方が合わせなければならないことが多いから、最初に書いたような展開になるんだと思いますが、実は逆も言えるんだと言うことが私には感じられるようになってきました。というのは、パートナーに合わせて、パートナーに無理のない形でコミュニケーションを取ろうと努力してみると、やっぱりそれは自分の素直な気持ちの動きには合わないやり方なので、言ってみれば自分の感情を殺して、というか、感情を関わらせないで形を合わせる、ということになっていくんですね。彼女にとっては自然なことが私には不自然なことなので、どうしてもそうなっていきます。

 ただ、ここはやはり定型に強い傾向なのかも知れないけれど、それは苦しいことであって、やっぱり感情がかかわった、共感的なやりとりをより多く求めたくなるのも偽らざる気持ちとして残るわけです。パターンを理解するだけではだめで、そこに含まれている彼女の気持ちも理解したいという「欲望」がなくならない……

 ということを考えていて、ふと思ったことがあるんですが、もしかするとアスペの方は理性の部分と感情の部分をかなりクリアに切り分けるという傾向があるのに対し、定型の方はそれをつなげようとする傾向がある、というズレがあるのではないでしょうか?いや、これはもちろんふと思ったことで、もしかすれば生まれつきの違いではなくて、上に書いたような環境で生きていく中でお互いに身につけたやり方が異なるようになった、ということなのかもしれないし、その辺はまだよく分からないのですが、とりあえずそう考えるといくつかのことがちょっと理解しやすくなる感じもあって、これからぼちぼち注目して考えていきたいと思っています。

 

 

2013年3月 9日 (土)

理解と共感の間

 

玄さんが掲示板の方にご紹介下さった記事「息子と僕のアスペルガー物語り」 が私にはものすごく面白くて勉強になりました。掲示板にも書きましたけど、こちらのブログの中でこれまで書いてきたいくつかの疑問についてもいくつも答えを見いだすことができましたし、アスペの方の世界が定型の私にもなんだかとてもわかりやすく伝わってくる感じもありました。パートナーがその話を聞いて「自分をそんな風に表現できる人はいいね」と言っていましたが、これも才能なのでしょうね。

 いや、もちろん私がアスペの方の世界を分かった感じがする、といっても、「ほんとにその通りだよな。自分と一緒だよ」ということではありません。もしそういうのを「共感」というなら、共感をしているのではありません。でも「なるほど、そういうふうに見えるのなら、そう感じたり振る舞ったりするのは当然なんだろうな」とか、いうことがある種の実感を伴って伝わってくる感じなんですね。それは「知的な理解」というのともちょっとちがって、言ってみれば「理解」と「共感」の間くらいの感じでしょうか。

 もうちょっとそこの説明を試みるとすれば、形式的に知的に「パターン」を知識として「理解する」という話ではなくて、もっと感情的なものを含むんだけど、自分が同じように感じる人間なのではない、感じ方は異なっている、ということは分かっています。ただ、もし自分が同じような見方をする人間であって、同じような状況に置かれたとしたら、自分だってそうなるだろうな、ということが感じられる、ということです。その意味で「違い」を前提にしながら「感情的にも理解する」という、「理解」と「共感」の間の感じがするわけです。「想像の範囲に入ってくる」という言い方もできるかも知れません。

 それで、それを読み終えて、今感じていることの一つは、なにか「ほっとした」ということです。このところ今までよりもアスペの方の世界について、感情を伴った理解ができる範囲が拡がってきた感じを持ったと同時に、そういう自分の理解の仕方についてパートナーとうまく共有できない感じがあったりして、結局何らかの形で理解し合えるのか、結局無理なのか、なんだかよく分かんなくて煮詰まっていた部分があるのですが、何かまたひとつ新しい可能性を見せてもらえたような気もしています。

 少し話は変わりますが、アスペということが広く取り上げられるようになり始めたのが、前にも書いたようにわずか30年ほど前からで、大人の発達障害というような形で急速に本やテレビなどで紹介されるようになったのはほんの数年のことでしょう。それは30年前からアスペが増えた、ということではなくて、「それまでさほど気にされなかったことが、今の世の中で特に問題にされるようになった」ということであるはずです。

 先日パートナーとも話をしていたんですが、この世の中に生きている人の中で、どんな世の中になっても「障害」として見られる部分を全く持たないなんていう人はないんじゃないかと思います。状況が変われば私だって○○障害とかいう名前を付けられるのかも知れないし、アスペの方が全然障害として見られなくなる状況もあり得るでしょう。昔の巫女さんなんかも今の精神医学からすれば、なんかの精神障害として診断名がつくでしょうし、ほんとに「障害」の境目とか種類とかは、結局「その世の中で一応生きて行かれる何らかの役割を果たしていくことができるか」というようなところで決められていくわけですし、だから世の中の仕組みとか技術とかが変われば「障害」の範囲も種類も変化していく。

 そう考えると、今「定型」とか「健常」とか言われている人も、それぞれにものすごく個性的だし、いろんな「問題」も抱えていたりするし、それは他の人からは「理解困難」な部分だったりもするはず。たんに今の世の中ではそんなに問題にされていないだけのことで。

 アスペの方について自分なりに少し理解が進んできたと感じたら、何故かそういうことを改めてリアルに感じるようにもなりました。だからなんなの?と言われると、よくわかりませんけど…… (^ ^;)ゞ

 

 

2013年3月 8日 (金)

「傷」を共有できるか

 このところ、これまではぴんと来なかったパートナーの言葉が、「ああ、こういう感じで苦しんできたと言うことなのかな」という風に、私なりに実感をある程度持って理解できることが増えてきたように感じていて、そのことを書いてきています。

 それで、彼女に「ああ、やっと分かってくれたんだね」と感じてもらいたくて、読んでもらったりするんですが、なかなか感想はもらえません。それに読んでもらうときは「すぐに感想を求められたりするとしんどくなるから、それは期待しないで」と言われているので、私の方も積極的に聞くことはできるだけ控えて居るんですが、でもやっぱり反応を期待する気持ちがなくなるわけではないわけです。

 で、それとなく聞いたりすることがあるんですが、そのときよく言われることが「あなたが期待しているような反応はできないし」ということなんですね。まあ、私としては「あんたが書いてることは的外れだよ」でもいいので、考える手がかりがもらえれば有り難いのですけれど、それでもやっぱり上に書いたように「こう感じてくれたらうれしいな」というのは確かにあって、そのことは彼女も察していて、しかもそれに応えられるような反応にはならないと感じている訳です。

 たとえば私としては「以前はぴんとこなかったんだけど、こういうことなんだと感じられるようになってきた」というのはお互いの理解が深まることだと思うので、プラスのイメージなんです。けれども彼女の話を聞いていると、同じ事について彼女が感じるのは「やっぱり全然伝わってなかったんだ」という過去の話を確認して、そのときのつらさを思い出してしんどくなる、ということだったりするようです。つまり、同じ話なんだけど、受け止め方が正反対なのですね。

 で、私が「分かってもらえた、と感じたら、理解が共有できる部分が増えたと言うことでうれしくはならないの?」と聞くと、「なんで相手が分かったらうれしいのか分からない」と言われます。この辺は少し微妙で、「相手に理解されて嬉しい」という場合もないではないようなんですけれど、少なくとも以前に理解されずに苦しんだ、という経験がある場合には、その苦しみを思い出すことの方が大きいと言うことなのかも知れません。

 この辺は同じアスペの人でも、もしかすると人によっていろいろかも知れないとも思います。というのは、それまでの経験の中で、子ども時代からわりあいゆったりと受容されて育ってこられた方の場合には、より積極的な意味を感じるかも知れないし、逆に私のパートナーのようにそういう面では厳しい状況を生きてきた人はそこで受けてきた「傷」の方が前面に出てきやすいのかも知れないと思うからです。

 前に書いた杉山登志郎さんが、アスペで診察に来られる方に、以前傷ついた体験(トラウマ)を思い出してもらいながら、ちょっとした器具で両手に交互に電気的なのか振動なのか分かりませんが、なんかの刺激を与え、そのあと深呼吸をしてもらう、というような「治療」でそのトラウマ体験についての辛い思い出を和らげてしまう、ということをやっていましたが、そういうのがあるということは、やっぱりそういう「心の傷」を抱えてそれが日常生活の中でもつらい影響をもたらしている人は、アスペの人には特に多いのでしょうね。

 定型同士の場合だと、「今まで分からなかったけど、知らず知らずのうちにこんな風にあなたのことを傷つけていたんだね。」と本心から相手に伝えることは、相手の人の傷を癒す上で大事な働きをすることが多いと思うんですけど、その理屈はアスペと定型の間では単純には通用しない場合がある、ということを教えられたように思います。

2013年3月 7日 (木)

感情を見極めること

 

この間、「パートナーが不機嫌なときに、以前は自分(パンダ)に対して怒っているのだと思っていたけれども、最近は疲れてそうなってるんだと思えるようになってきた」というようなことを書きました。 もちろんそれはうそではないんですが、ただ、ちょっとそれだけでは足りなくて、実際に彼女が私のせいでいらいらしている場合もあるわけです。まあ彼女に言わせれば疲れ+いらいらで、そのいらいらの原因も私の場合もあるし、他の人の場合もあるし、自分でも分からないこともあるし、という話ですけれど。

 それで思うんですが、少なくともその不機嫌さが私が何かの原因になっているのか、そのほかのことなのか、ということの区別ができるようになれば随分と私の方は気持ちが楽になるんじゃないかと。

 そこで思い出したのが昔カナータイプの自閉の子どもたちとつきあう機会があったときのことです。彼らがいらだっているとき、場合によっては激しい自傷的な行動をしたりもして痛々しいんですけど、やっぱり周りの人は何を怒っているのか分からないことが多かったんですね。これは彼らとの付き合いが長い経験者の人たちでもそうでした。

 でも時々分かることがあって、それは何か思い通りにならないことがあったときだったりしますが、その「思い通りにならなかった」場面と、不機嫌になる場面が時間的にすごく離れていたりすることもしばしばあって、すぐには思いつきにくい。いろいろ考えているうちに、「ああ、あのときのことが気に入らなかったんだ」と周囲の人が気づくことがある、という感じだったりしました。もちろん比較的すぐに機嫌が悪くなって原因が分かりやすいときもあるし、また同じパターンが繰り返されることで「ああ、またあれだな」と気づける場合もあるし、逆に「多分、あれじゃないかなあ」と思うんだけど、ほんとはよく分からない、ということもあるわけですが。

 で、そういうときに、よく理由が分からない不機嫌さに出会って戸惑っちゃった頃のことを思い出したというわけです。

 またここで立場を変えて、アスペの方からすれば、定型の表情の意味とか理解しにくいことが多いわけですよね。私も時々雰囲気をなごませようとして笑うと「なんでここで笑えるの?」とか怒られたり、ちょっと考え事をして黙っていると「何を怒っているの?」と言われたりすることがあって、びっくりしたりしますけど。そういう風に定型の世界はアスペの方には区別できないような、訳の分からないことがたくさんあって、すごくしんどい思いをされているのかなと想像します。

 ここのところ、お互いに「今は怒っているのかどうか」そして「(怒っている場合は)自分について怒られているのかどうか」が簡単に相手に伝わるような、そういう手がかりが見つかるか、あるいは伝え方をみつけるかできるといいのになと思ったりするんですね。

 ただ、ひとつ難しいのは、彼女も時々言うんだけど「自分でも理由が分からない」という場合が結構あるらしいということでしょうか。そういうときはお手上げなのかなあ。

2013年3月 6日 (水)

早期対応(カップル編)

 一昨日書いたことの続きでふと思ったんですが、子どもが成長し、変化ていくように、夫婦というものも年と共にだんだん変わっていきますよね。ある意味では成長なのかもしれないし、場合によっては泥沼に落ち込んでいく過程なのかも知れないですけど。

 それで、アスペと定型のカップルの場合は、定型同士とはまた違う「泥沼」への危険性がやっぱりあると思えるわけですが、一昨日紹介したみたいに、子どもが小さいうちから対応をしていけば、アスペと定型のズレから来る問題がだいぶん軽くなったりするのだとすれば、同じようにアスペと定型の夫婦についても、結婚してまもなくとか、あるいは結婚する前から「どういう問題が起こりうる」みたいなことを知っておけば、それだけでもずいぶんとその後の展開が違うかも知れません。

 ……とまあ、それだけのことなんですが。

2013年3月 5日 (火)

共感と共苦

 ある人がどこかで書いていたんですが(題名とか忘れてしまった (^ ^;)ゞ )、今の世の中、共感と言うことはすごく言うけど、昔(50年以上前の、特に農村とか)は、「共苦」の世界がとても大事で、それが失われて居るんじゃないか、という話でした。

 共苦って、耳慣れない言葉で、多分その人が作った言葉ですけど、要するに苦労を共にする、みたいな話です。昔、農村とかは特にそうだったようですけど、「生きていく」ということ自体が大変だった。農作業とかも辛いですしね(って、私は経験ないからそう聞いただけですけど……)。

 最近、パートナーがこれまで子どもの頃から虐めにあい続けてきたり、友だちができなかったり、できてもいつの間にか遠ざかられていたり、仕事についても人間関係が大変だったり……、そういう人生のことを思うと、本当に苦労の連続だったと思えるわけです。もちろん私は私なりに結構大変な家庭に育ったし、臨床心理の人には「サバイバーだ」とずいぶん感心されたこともあるので、平均よりは苦労は多かったのかも知れないですが、でもそれとはまた随分違うところで、彼女はすごく孤独に苦労してきたと思います。

 私と結婚した頃は「守ってくれる人が欲しかった」という気持ちだったようです。初めて彼女の両親にご挨拶に行ったときには、二人きりになったときに私に「ようやく自分の側に居てくれる人ができたと感じた」というような意味のことを話していたことを覚えています。

 でもその私は彼女のそういう気持ちがよく分かってなかったわけだし、「守られる女性」ではなくて、「自立した女性」というのが私の大切にしていた考え方で、彼女もそういう人だと感じていたのですから、ズレも大きかった。あえて言えば「自立せざるを得ない女性」だったわけですね。でも安定して自立できるためには子どもの頃に十分守られて育つということも大事かなと思えるのですが、彼女にはその条件はほんとに薄かった。

 これは何度か書きましたが、彼女が福祉関係の仕事で頑張っています。そこではなんらかの事情でそれまでの「普通の生活」を失った人に、少しでも「普通」に近づける手助けをすることに、彼女なりのやりがいを感じているということです。

 なんて言うのか、そこでは別に「共感的な関係を作る」とか言うことがメインなのではないわけです。もちろん「反感を持たれる」ことは避けなければならないし、そこは彼女も苦労するのだと思いますが、でも一番大事なことは「ちゃんと生活が送れる」ということ。

 そのことを考えると、最初に書いた「共苦」のことが思い出されるのです。「生きていく」ということ自体が大変だということ。そこを大事に人に関わること。

 私がいろいろ悩んだりして、話を聞いて欲しくて、共感して欲しくて、という場合でも、彼女との関係ではなかなかそうはなりにくくて、でも彼女は彼女なりに一生懸命私のことを支えようとしてくれていたということも最近ようやく分かってきました。それは「共感による支え」なのではなくて、私の生活をしっかりと支える(経済的なことの協力とか、家事のこととか)ことだったんです。「共苦」といってもいいのかもしれません。

 今思えばやっぱり、時々彼女が言っていたんですよね。「これだけ頑張ってるのに、認めてもらえないのか」という意味のことを。でも私は全然ぴんとこなかった。私が求めていたのは「共感」だったわけで、生活のことではなかったわけですから。

 今になってようやく彼女にとって「一緒に生きていく」ということが何を意味することなのか、少しですが感じ取れるようになり始めた気がします。それはこれまでの私の生き方の中では見過ごされてきた大事な部分なのかもしれない。いや多分そうなんだろうという気がします。

2013年3月 4日 (月)

二次障害が生まれる環境

 中島美嘉の歌に「雪の華」というのがありますよね。(作詞Satomi作曲松本良喜)

  のびたかげを歩道に並べ
  夕闇の中を君と歩いてる
  手をつないでいつまでもずっと
  そばにいれたなら泣けちゃうくらい。

 うーん、なんて定型的な!と思いませんか?

  今年、最初の雪の華を
  2人寄り添って
  眺めているこの時間に
  幸せがあふれ出す
  甘えとか弱さじゃない
  ただ、君を愛している
  心からそう思った。

 幸せだけじゃなくて、歌詞に定型もあふれ出してる (^ ^;)ゞ


 話は突然変わりますが、昨日、パートナーが見るというのでETV特集の「人とうまくつきあえない~いじめ・虐待と自閉症スペクトラム」というのを見ました。

 この場でも前にコメントや掲示板で語られていた「見えている世界、聞こえている世界、感じている世界」自体がアスペと定型ではずれているという話も、脳のどの部分がよく働いているか等の実験で見せてくれてました。そんななじみの話もいろいろ出てくる中で、特に強調されていたことの一つが、今大人のアスペの方たちが鬱やフラッシュバックなどいろいろな症状に苦しんでいらっしゃることの大きな理由が、定型とは違った特性を持っていることにお互いに気がつかずに、虐めや虐待などのシビアな環境にさらされ続けたことだ、ということでした。いわゆる二次障害というものですね。

 滋賀県(?かな)では1歳半乳児検診で自閉症スペクトラムの可能性のある子をチェックすることを始めているということですが、15%の子が可能性ありで引っかかってくるそうです。まあ、いくらなんでも15%は多すぎと思いますけどね。この年齢だと個人差も大きいから、のんびりの子も沢山引っかかっているんでしょう。いずれにせよ、親が望めばそれから保健所が成人になるまでずっとフォローしてくれるという形になってるらしいです。

 1200例くらいの自閉症スペクトラムの親子を診てきた杉山登志郎というお医者さんの話とかでは、子どもの頃にシビアな環境を調節してあげることができれば、大人になってからもずいぶんと違うということで、今まで精神病として問題になったケースの多くに、実は自閉症スペクトラムの背景があったのではないかと考えていました。だから、これから精神病についての考え方もかなり根本から変わって行かざるを得ないだろうと言っていました。

 全体としては「早期発見・早期対応」が大事だし、効果がある、という感じの番組になっていました。

 そのことについては、あまり極端に「早期発見・早期対応」ということを強調しすぎてかえってストレスが大きくなって悪い結果を生む、ということがなければ、私も意味のあることだと思います。ただ、もうひとつ気になったのは、今どうしてそんなに自閉症スペクトラムの子どもにとってシビアな環境が多いんだろうか、ということでした。

 アスペという特徴を持った子どもが産まれてくる割合というのは、多分昔からそんなに変わらないはずです。でもアスペということが世界的に問題になったのはせいぜいこの30年位のことですよね。「発見」ということでもまあ70年くらいのもの。それまでだって「アスペ」も「定型」もずっといたはずなんです。実際歴史物とか読んでると、「あ、この人アスペだったんじゃない?」と思える人もぼちぼち出てきたりしますし。

 ということは、昔もアスペと定型のズレはあったんだけど、少なくとも今ほどには問題にならなかったり、ほどほどに折り合いを付ける世の中になっていたんじゃないでしょうか。それが世の中の仕組みとかいろいろ変わってきたことで、だんだん折り合いがつかなくなってきて、多数派の定型の世界からアスペの方がはみ出してしまう環境が作られてきた。その結果、ズレが目に見えて目立ってきて、虐めや虐待の原因にもなってきた。そうすると、それまではまあ適当にうまく育ったから大人になってもそれなりに「ちょっと変わってる」と言われるくらいですんでいたものが、今は「二次障害」にまで追い込まれちゃって、それで済まなくなっちゃっている。

 そんなことがあるんじゃないかなと思いました。

 

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