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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2013年2月

2013年2月28日 (木)

申し訳ない

 これはもちろん「お互い様」の話ではあるんですが、なんだか最近、自分がパートナーの思いを分かってあげられないことについて「申し訳ない」という気持ちが混じってきていることに気がつきました。

 もちろん「どうしてこういうときにこんな対応になるんだろう?」とか「なんでここでそれを言う?」とか、私の理解の基準からははずれることで、いらっとしたり落ち込んだり、ということはいまも時々あるんですけれど、でも決して「悪意」でやっていることではないことは分かってきたし、逆にそれが彼女の気遣いだったりということもあることが分かってくるわけです。

 そうすると、そんな風に彼女なりに一生懸命気遣ってくれていることに対して、自分がどうしても感情的に理解できなくて、いらっとしたりしてしまう、ということについて、なんだか「理解できなくてごめんなさい」という気持ちが湧いてくるんですね。

 もちろん彼女の方だって私のことが理解しきれないわけで、「あんたが悪い訳じゃないだろう?」と聞かれれば、たしかに私が一方的に悪いとか、そう言う話とは違います。アスペと定型の多数決の論理で言えば、私の方が正しい、という話にさえなるのかもしれません。

 でも、彼女もほんとに頑張ってくれているんだなあ、ということが折に触れて感じられてくる。大変な状況の中、必死で誠実に頑張ってくれているんだなあと思えることが増えてくる。そうするとなんだかそれをストレートに受け止められなくて、理解しきれないことについて、申し訳ないなあと言う気持ちが湧いて来るみたいです。

 仮に彼女の方が「私の方が正しいんだ。あんたが悪い」という態度であれば、それは私の方だって、「あんたのせいでこれだけ大変な思いをしてきたんだ」と対抗したくもなるでしょうが、我が家の場合は今はそう言う状態ではないのです。

 もし自分が万能の理解力を持って彼女に接することができれば、それは問題ないんでしょうけれど、そんなことあり得ませんから、どうあがいたってお互いのズレは残り続けるわけです。そのことで彼女に悲しい思いをさせることもあるわけで、そんなことを思うとなんか申し訳ない、という気持ちが自然に湧いてきてしまいます。いや、そう言いながらもまた彼女の言動で「いらっ」と来たりはするんですけどね (^ ^;)ゞ

2013年2月27日 (水)

イソップの壺と皿のお話し

 イソップ物語りにこんな話があったのをふと思い出しました。ちょっと不正確ですけど(SHINさんから正しい話を教えていただきました m(_ _)m)。

 あるとき鶴が狐を招待してご馳走をふるまった。鶴は細長い壺にご馳走を入れ、その細長いくちばしを差し入れて「おいしいでしょう」と言った。狐はその壺から食べようとしたが口も入らず舌も届かず、何も食べられないままに帰って行った。
 しばらくして今度は狐が鶴を招待してご馳走を振る舞った。狐は平らなおさらにご馳走を入れて嘗めながら食べて「おいしいでしょう」と腹一杯に食べた。鶴は長いくちばしでは平らな皿からうまく食べることができず、お腹をすかせたまま帰って行った。

 狐はもしかして仕返しをしたのだったかも知れませんが、なんにしても自分のやり方としては「相手のために」やっていることが、全然相手には通用せず、むしろ意地悪をされていることになって終わる、という話ですね。

 アスペと定型の間のお互いの「気遣い」も知らず知らずにそういうことになっている場合がとても多いのではないでしょうか。うちの場合もそういうことに気づかされることが少しずつ積み重なってきています。

 壺と皿というわかりやすい形でイソップはそのことを語ってくれました。そういう話なら私たちにもすぐにそのおかしさがイメージでき、理解できます。(そう考えると改めてイソップってすごい人だなと思います)ただ、理屈としては同じ事なんだけど、アスペと定型のズレは壺と皿のようにははっきりと目に見えないのですよね。だからお互いのズレに気づくのが難しい。

 さて、私たちは狐と鶴より一歩先に進めるのでしょうか?

2013年2月21日 (木)

定型はアスペの苦労を理解できる?

 私のパートナーはこれまで職業をいくつか変えているのですが、仕事のことも余り話す人ではなかったこともあり、転職するときにも私に相談をすることなどもほとんどなく、基本的に自分ですべてを決めていました。なので、私は「自分の求めている仕事、働き甲斐のある仕事を模索しているのかな」と、当時は考えていました。そして彼女が「天職」をみつけるまで、私の方がしっかり稼いで家を支えていればいいのかなとも思っていました。

 けれども、アスペと定型の問題が分かってから、そういう私の理解自体が全然的外れだったことが分かってきました。彼女は実際は職場の人間関係に苦労して、仕事を変えてきたんですね。もちろん、「自分にあった仕事」を探している、という面もないわけではないし、その結果福祉関係の仕事にたどり着いたということはあるわけですけれども。でもやっぱり仕事を変える直接のきっかけは「ここよりももっと自分を活かせる職業を見つけた」からではなかったわけです。

 アスペの彼女がどんな風に多数派の定型の中で苦労するのか、ということは当時の私には全然想像もできないことでしたから、私なら当然のこととしてこなしている定型的なコミュニケーションというところで彼女が大変な努力をしていることも全く想像できなかったわけです。だから彼女が「すごく頑張っている」ということをごくまれに話してくれることがあっても、その中身は私には「?」で、「まあ、そういう問題ならすぐに解決するだろう」とか、「なんだか自分(パンダ)が抱えている問題に比べれば随分軽い問題を大げさに言うんだなあ」とか、どうしても現実感を持つことができなかったんですね。

 どうして現実感をもてなかったんだろう、ということですが、たとえば自転車に乗れる人が、乗れない人から「どうやったらうまく乗れるの?」と相談されたとします。でも自転車に乗れる人で自分がどうやって乗れているのかをちゃんと相手の人にも分かるように説明できる人ってどのくらいいるんでしょう?私はやっぱりそれは無理で、「まあ、最初は補助輪付けて乗っていて、慣れてきたら片側ずつ補助輪外したら、そのうちこつがつかめてきてあるときふっと乗れるようになるよ」ということくらいしか言えないと思います。実際には乗れるようになるには、なんか理屈があるんでしょうけれど、それは「こつ」とでも表現するしかないような、言葉にできにくいもので、「こつ」さえ掴めば別に何の苦労もなく自由に乗り回せるようになるので、そうなると逆に「乗れない」ということが分かんなくなっちゃったりするわけですね。

 同じように定型が定型的なコミュニケーションを身につけていく過程だって、なんだか知らないうちに「コツ」を掴んでいることが多くて、もちろん「教わる」部分も多いんだけど、それも説明されればわりとすぐに分かってしまうことが多い。でもなぜその説明で自分がすっと理解できちゃうのか、ということを、その説明で理解できない(たとえばアスペの)人に説明できるかというと、「そんなこと何度か聞いていれば分かるじゃない」とか、「上手な人のやり方を見てたらそのうち分かるよ」くらいしか説明しようがないでしょう。そうすると、それでもわからないということについてなんだか現実感がもてなくなります。

 立場を変えて考えてみると、たとえば彼女が病気になったときは、側に人に付き添っていて欲しいとか、お腹が痛いときにはさすってもらうと嬉しいとか、そういうことが全くないと言います(そういえばラマーズ法で出産したときも、私が一生懸命「ひっひっ、ふー」とか呼吸を合わせて補助するようなことをやったわけですけど、彼女は全く一人で生んだような感覚を持っていたのでがっくりしたことがありました。それもそういう訳だったんですね!)。定型の私は「もちろん」その逆で、さすがに24時間べったりくっついていて欲しいとは思いませんけど、時々痛いところやなにかをさすってもらったり、会話をさせてもらったりすることはとても支えになることですから、そういう支えを必要としないで生きていけるということが分からない。「どうやったらそうなれるの?」と彼女に聞いても彼女も説明できないでしょう。
 
 そんな風にお互いの関係を理解して、仮に彼女の立場に立って見れば、私が彼女の訴えを理解できないことについて、「自分はこんなに苦労して努力しているのに、なんでこの人(パンダ)はその努力を理解し、評価してくれないんだろう?」という気持ちになったんだろうと、今になって思えるようになってきました。そして実際、「どうせ分かってくれない」というような彼女の言葉を、何度も聞いてきています。

 アスペと定型のズレと言うことに自分なりの理解がだんだん深まってから、改めて当時のことをそんな風に考えると、彼女が私に対して何度も繰り返してきたこの「絶望感」がわかるような気がしてきます。そしてその絶望のたび毎に彼女は「これは理解されないことだ」と判断して、「言っても無駄なことはあきらめるしかない」と思うようになる。でもそれは私の方から見ればよくわからないことで、そうやって訳も分からずだんだんと「心を閉ざされていく」ようにも思える展開があったんだろうと思います。

  彼女は今も仕事から帰ったあとは、不機嫌そうな顔をしていることがよくあります。以前はそのことについて、私に対して不機嫌なんだ、私という人間が嫌いなんだ、と感じていたんですが、今は「職場でまた頑張ってきたんだな」という風に思えるようになり始めています。私にはなかなか気づけない部分で、職場で頑張って彼女なりの理解で周りに合わせ続け、愛想も良くするように心がけ、ぐったりして家に帰ってくるわけですから、せめて自分の家でくらい、愛想など考えずに素の自分に戻りたいわけですよね。それで外で随分無理して愛想良くする分、その反動で素の自分に戻ると余計に無愛想な不機嫌な気分になってしまう。しばらく前から多分そういうことなんだなと頭では理解し始めていましたが、何故か今それが実感として理解できるようになり始めているようです。

 いつも通り、まとまりのわるい文章ですが、今日のところはこの辺で……(^ ^;)ゞ

2013年2月17日 (日)

婚約者がアスペなら……

 カップルの中でアスペと定型のズレの問題を抱えている場合にも、いろんなパターンがありますよね。まずはアスペ(あるいは定型)なのは男性の方なのか、女性の方なのかということは基本的なことだし、また自分と相手がアスペと定型という違いを持っていると考えたり理解したりしているのはどちらなのか、あるいは両方共なのかということも大きいです。もちろんアスペと一口に言ってもすごく個性がそれぞれにあって、定型にもいろんな性格の人がいる。どういう組み合わせのカップルなのかはほんとに千差万別という感じでしょう。

 それからアスペと定型のズレという問題が意識され始めたのが何時なのか、というのも大きな問題で、まだ結婚していないうちなのか、結婚してからなのか。結婚後であっても子どもが産まれる前なのか後なのか、さらに子どもが幼児の頃なのか、小学生の頃なのか、思春期になってからなのか、そういうこともいろいろです。そういう「意識した時期」の違いというのは、お互いに訳の分からない葛藤に苦しむ時間の長さや、その内容の違いにも影響すると思うし、カップルを解消することになるにしても、あるいは改めて続けていく気持ちになるにしても、そのズレの問題の受け止め方とか姿勢とか、そういうものに影響していくように思います。

 たとえば私の場合だったら出会って私の完全な一目惚れで、それから一緒に暮らし始め、子どもができる頃まではほぼラブラブの幸せな時期を過ごしたように思いますし、その後子どもが産まれてから子育ての仕方などを巡って、それまで見過ごしていたズレが見過ごせないレベルになってきて、さらに実家との関係なども絡んでわけのわからない葛藤が表面化してきて、子どもが思春期になっていよいよ本格的に子ども自身が大きな悩みを抱えて引きこもったりするようになり、ついには私の精神も限界になってきて、それまで抱えていたいろんな矛盾が吹き出し、家庭でも仕事上でも沢山のトラブルを抱えてほぼ崩壊状態になる、という経過ののちに、初めてパートナーが自分をアスペとして自覚するようになって、私もその理解を共有することで関係がだんだん変わってきた、という経過だったわけです。

 カレンさんご夫妻も同じように比較的遅い時期にアスペと定型のズレに気がついたのですけれども、「アスペルガーと定型を共に生きる」の中でもお二人に語っていただいたように、そこまでの経過も、お二人の関係に転機が訪れたきっかけやその後の乗りこえ方なども、また私の場合とは違うお二人の個性的な展開をされています。やはり「アスペと定型」というところでは共通でも、それぞれのカップルが抱えている状況やそれまでに作り上げられてきたそれぞれの方の個性などによって、問題の現れ方や対処の仕方、展開の仕方もほんとにそれぞれのカップルに個性的なものになっていくわけですよね。
 最近ある男性から、婚約者とのトラブルが続くようになって、彼女がアスペルガーであることに気がついたのだけれども、これから先、どうこの問題に向き合っていけばいいのか、という質問を受けました。具体的に詳しい状況を私が理解できているわけでもありませんし、そもそもうえに書いたような「多様性」を大前提にしての話ですけれど、そういう質問について今の私が考えられることがあるとすれば何かなあと思いました。
 まだゴールインをされていないお二人な訳ですが、これから一緒に人生を歩んでいく中で、どんなカップルでも多かれ少なかれ必ず問題を抱えるように、お二人もいろんな困難に出会って行かれるでしょう。そしてその中に、お二人の場合はアスペと定型のズレという課題が含まれていることは間違いないと思えるわけです。だとすれば、そういう課題を一緒に抱えながら、場合によってはそのことに大きな価値を見いだしながら、一緒に生きていくという気持ちを共有できるかどうか、そこはまず何より大事な問題になるように思うんです。
 そのためにはゴールインを焦るよりも、お二人でこの問題に関する本やネットのいろんな情報を見たり、もし機会があれば経験者のお話を直接伺ったりしながら、ゆっくりと話し合ってみられたらどうかなと思います。そうやってお互いにじっくりと語り合いながら、「この人とこの問題に一緒に向き合っていこう」という気持ちに改めてなれるかなれないか。どんな人にも向き不向きはありますから、この問題にだってそう言う気持ちに割に自然になっていく人もいれば、どうしても後ろ向きの気持ちになる人だってあるだろうと思います。もちろん相手の人との相性もあります。そのところをあまり無理のない形で探ってみられることが大事になるんじゃないかという気がします。

 玄さんが「この場所(このブログ)が「ASDをネガティブに受け止めない、対等な個人として付き合える人間関係を目指して『互いにブラッシュアップ』する」道場だ」と書いて下さっていますが、私も最近パートナーと「この問題を共有する」こと「この問題を一緒に生きる」ことが、二人にとって夫婦でありつづけることの大事な意味になるんじゃないかと思うようになりました。もしそういうところで「自分はかなり無理をしないとだめだ」と感じられるようであれば、折角ゴールインされてもその後が不幸になってしまう可能性があると思いますし、そこはそれぞれのカップルの方が自分達の実情を見つめて、そのお二人にあった形で判断することかなという気がします。
 もちろん二人で人生を歩んでいくうえで「アスペと定型」の問題は、決して小さくはないけれど、でも唯一の問題だというわけでもありません。たとえそこで多少のしんどさを抱えられても、それ以上にお二人が共有できる大事な価値あるものがあれば、それはそれで十分にやっていけるのかもしれません。そのあたりも含めてすこしゆっくり考えてみられたらいいですよね。

 とりあえず今私の頭に思い浮かんだのはそんなことですが、また他にもいろいろ見方があるだろうと思います。コメントを下さる方もあるかもしれません。いろいろ参考になさって下さい。

2013年2月12日 (火)

時間

 前から少しずつ感じていたことですが、最近特に大事だし、実際に意味があると強く感じられるようになったこと、それは「待つ」とか「時間をおく」ということです。

 私のパートナーの場合も(?)自分の行動については自分でしっかり考えて、自分なりの見通しを持って準備をして行うことが大事です。急に事態が変化したり、予定が狂ったり、新しい問題が生じたりすると、とても険しい顔つきになり、あきらかにイライラしている感じも伝わってくるし、小さな事でも怒られたり(本人は怒ってはいないと言うのですが……)、いろいろとうまく行かなくなります。

 私が原因でないときでもそうですから、ましてや私が頼まれたことを忘れていたり、何か失敗をしたりしたときなどは当然のように厳しい結果を覚悟しなければいけなくなります (^ ^;)ゞ

 でも、最近やってることでいえば、たとえば何か頼まれごとを忘れたときとか、それに気がついたらすぐにメールで伝えて謝っておくんです。そうすると、仕事から帰って顔を合わせる頃になると数時間経っていますから、全然違うんですね。イライラした感じがほんとに少なくなるし、場合によってはこちらが忘れてしまった理由を考えて、積極的に許してくれるというのか、理解してくれることもあったりします。

 先日も娘が自分のアパートの隣に住んでいる外国のお友達をうちに招待したいと言うことで、一泊していきました。パートナーはもともとお客さん(特に初めての知らない人)は苦手ですけれど、今回はいろいろ準備する時間もたっぷりあって、彼女なりに気持ちよくもてなし、お客さんもとても喜んで帰って行きました。それもあってか、その後、「○○さんは来てもらっても大丈夫だからね」などと、私が親しくて彼女も何度も接して親しんでいる人の名前を具体的に挙げて教えてくれたりもしています。

 彼女自身が納得して状況を受け入れ、それに自分から積極的に対応するにはやっぱり私なんかよりは時間が必要で、そうやって自分の納得した状態を作ることが出来れば、ずいぶん柔軟にいろいろ対応してもらえるんだなあと実感することが増えてきています。逆に言えば、これまで自分はいかにあわただしく生きてきたのか、ということなのかもしれません。そうやってあわただしく忙しく生きてくる中で、自分の中にいろんな無理がたまっていたなあと、そういうことも感じます。

 もちろん私は私の時間の使い方とか、感じ方がある訳なので、彼女にすべてを合わせることはできないし、またその必要も無いのだろうという気がします。ただ、お互いにその辺の感覚が違うということを理解した上で、時々相手の時間に合わせてみることで、自分自身についてもまた見つめ直すことができるような気がします。

 

2013年2月 7日 (木)

ちょっとうれしかったこと

 ちょっとうれしかったことがありました。

 パートナーが笑顔で私の目を見ながら話してくれたんです。短い時間ですけど。

 今までそういうことってどのくらいあったかなあ。

 もちろん仕事上ではある程度はそういうことをするんでしょうけれど、

 家族になるとそこは全然違うみたいなんで……

 ささやかな幸せ、というものでしょうか。

2013年2月 2日 (土)

同情と共感と

 玄さんから「パンダさんは、ASDを可哀想な境遇であるように度々書かれていますが、僕から見れば、定型ゆえにストレスや悩み苦しみを持つ状況もあるように感じますので、お互い様かと。」というコメントを頂いて、ああ、ここはもしかすると大事なポイントになるかも、と思いました。

 まずひとつめに言えるのは、たしかに「可哀想だなあ」という気持ちが生まれているのは間違いありません。もう少し正確に言うと、「可哀想」というより「大変だなあ」という感じです。

 それで、この「可哀想」という気持ちは、場合によっては「自分が立場が上で、下の立場の人を哀れんでいる」という意味も持ちますよね。そこに上下関係とか優劣関係が忍び込んでいる場合。多分玄さんはその可能性を感じて、「僕から見れば……お互い様」と書かれているのかなと思います。

 そこで改めて自分は何でそういう書き方をしているのかなと考えてみているんですが、上下関係とか優劣関係とか、そういう感覚はあんまりなさそうに思いました。確かに今の社会の中でアスペの方が「不利」な立場に置かれている、と言う意味では社会的には優劣を作られてしまっているのでしょうけれど、それはまたちょっと違う話になりますよね。

 じゃあなんでそういう書き方をするのか、というと、「こういう風に考えると、アスペの人が今の社会の中で苦労する気持ちが自分にも感覚的に分かる気がする」ということを表したいからなんだと思います。

 定型とアスペの違いについて、じっくり考えていけば、だんだんとその違い方が見えてくることが増えてきます。「ああ、アスペの人はこういう風に行動するのか」とか「こんな風に感じるのか」とかいうことです。でもそのとき、やっぱり「頭で理解する」という感じにどうしても留まってしまって、「でもどうしてそんな風に行動したり、感じたりするのかはぴんとこないなあ」というのが残るように思うんです。

 それに対して、今回の例のような場合に私が感じるのは、「ああ、もし自分が同じような境遇に置かれたら、自分だって同じように感じるだろう」とか、「もし自分が同じような境遇で育ったら、彼女と同じような性格になったかも知れないなあ」いう風に、感覚的に理解できるように思えるのです。「同じ人間としてパートナーの言うことはもっともだと心から納得できる」という感じですね。だからそれは「可哀想」というような「同情」の気持ちと言うより、「そうだよなあ」という「共感」の気持ちなんだと思えます。

 残念ながら「違い」は分かるけど「感覚的には分からない」と言うことの方がたくさんあるわけですけれど、少しずつでも「ああ、こういう風に考えれば、自分でも同じ感情になるなあ」という理解が拡がっていくと、「同じ人間同士」として、またお互いの関係がだいぶ変わっていくところがあるように思えます。

2013年2月 1日 (金)

人のため?

 パートナーと話していて、ようやく結構実感を持って「それはほんとに大変な状況を生きてきているんだなあ」と思ったことがありました。

 それは「人のために何かをする」ということについて話をしていたときのことなんですが、私のパートナーも福祉関係だから、人のためにする仕事ではあるんですが、相手の人との距離の取り方が彼女はうまいんですね。アスペ的な距離の取り方がうまくツボにはまるというのか。基本的に相手の世界に入り込まないで、客観的に冷静に必要なことを判断して対処する。無理な要求や甘えの要求が出てきても、あっさりと説明して断れる。場合によっては「冷たい人」という印象を与えるかも知れませんが、仕事として福祉を持続的にやるときにはかなり重要な部分になるように思えます。

 私の方はどっちかというと(というか可成りというか)、相手にのめり込んでしまう傾向が強くて、自分で言うのもおこがましいですが、ほんとに相手をサポートしなければと考えると、結構自分を犠牲にしながらぎりぎりまでやってしまうところがあります。パートナーとはその意味でちょうど正反対なんですね。その性格のせいで、これまでずいぶんと失敗も痛い目にも遭ってきました。もちろんうまく行くときにはすごくいい人間関係が出来るし、うれしいんですけど。

 それで、以前は私はパートナーを「冷たいなあ」と思うことが多かったんですが、自分自身のやり方で自分が傷ついたり、あるいは結果として周りの人にも迷惑がかかってしまうようなこともだんだん重なってくると、さすがに「小さな親切大きなお世話、大きな親切大変迷惑」というようなことにもなって来かねません。そうなると自分もほとほとしんどくなってくるわけですし、そんなときに彼女から「人のために、なんて考えるのがいけない」と言われるんです。

 以前は反発していたその彼女の言葉なんですが、昨日、こんな話を聞きました。自分は子どもの頃から「人のために」と思ってやったことがみんな周りから迷惑がられたり無視されたり、気づかれなかったり、そういう事ばかりだった。(これはアスペが「そのひとのため」と思うことと定型が「してほしいこと」にズレがあるからですね)それでずっと否定され続けてきたからもうそういう風に「人のために」と考えることをしなくなった、と言うわけです。

 なんだかすごく説得力のある話に思えました。それはしんどかったろうなと思いますし、そうなるのも当然だろうと思う。逆に言えば、そういう中でも紆余曲折をたどりながら、結局は福祉の仕事に自分の適性を見つけていく、というところもすごいなあと思います。お仕着せがましく(?)「人のために」なんて考えることなく、でも確実にその人を支える仕事をしているわけですから。

 改めて自分の「人のために」ということを考えてみても、結局自分の狭い考えの押しつけに過ぎなかったり、なんだか自己本位の物がたくさんあるんじゃないか、という気もしてきます。もっと肩の力を抜いたところで「お互いのために」ということを自然にこなせるようになればいいのかなあと、そんなことを思ったりしました。 

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