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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2013年1月

2013年1月29日 (火)

守って欲しい

 私のパートナーは、たとえばもし彼女がパーキンソン病になって歩けなくなったら、施設に入れてちょうだいと言います。自宅でのケアは並大抵の苦労じゃないから、というんです。

 実際それは大変なことなんだろうと思うんですが、私は「うん、わかった」とすっと答えるのにはやっぱり抵抗感があって、自宅で頑張れるだけ頑張る、と考えたくなるんです。その前提には、そんな風に「面倒になったらさっさと施設に預けて楽をする」という形になるのが、なんだか彼女に寂しい思いをさせるんじゃないか、という気持ちがあるんですね。とても冷たい感じがしてしまう。もちろん頑張った上で他に方法がなく、と言う場合がありうるだろうとは思いますが、最初からいきなりというのは少なくとも抵抗がある。

 それで彼女に「そんな風にひとり家族から離れて施設に入るのって寂しくないの?」と聞いてみたんですが、あっさりと「全然」ということでした。そういう答えを聞くと、私なんかは「それじゃあ彼女にとって家族って意味のない存在なのかなあ」と感じてしまいます。でもそれはそうではないということで……

 こんな風にも聞いてみました。「もしも結婚しないで今までずっと一人暮らしだったら、それでもさびしいとかいうことはないのかな。むしろ気楽なのかな。」そうすると、それは違うといいます。あの頃(若い頃)は結婚して家族を作りたいという思いが強かったというんですね。精神的にもいろいろ悩みがあって、自分を守ってくれる人が欲しかった、とも言っていました。

 それを聞いて、「ええっ?」っと思ったんですが、自分がイメージしていた当時の彼女の像と全然ずれていたんです。私自身は結婚について、お互いに経済的にも自立した男女が性愛を含めた愛情で結ばれて子どもを育てていく、というイメージがあって、彼女のサラッとした印象が、そんな自立した女性像に見えていたんです。映画とか小説とかも日本のものにしばしば見られるようなどろどろした絡み合いの世界、みたいなのは嫌いで、西洋のものが好きというのも、そんな自立した人間関係に親しんでいるようにも思えました。

 逆にパートナーの方も私がそういう自立した夫婦のイメージを持っていたことに驚いていたようでした。私のことは「自分を守ってくれる人」というイメージで見ようとしていたわけですよね。もちろん私も必要なときにそれをするのは当然だと思っていますけれど、でもそれはお互い様のことで、前提が「自分を守ってくれる人」だというのは考えていませんでした。

 それで彼女が言うには、結局自分は子どもの頃からずっと自立を求められていたんだ、ということでした。姉妹が重度の障害を抱えたので、お母さんはずっとその姉妹にかかり切りに近く、彼女に対してはどうしてもなんでも自分で解決することを求めるようなことになったようです。お父さんは…今考えるとかなりのアスペルガーだったと思いますが…技術系の仕事に忙しくて、育メンなどほど遠い。学校ではさんざんに虐められ、子どもの頃から人間の持つ「恐ろしさ」を嫌と言うほど味わい、でも家族がその自分を守ってくれることもなかった。

 ああ、思い出しましたが、だから私たちの子どもの一人がいじめに遭っていたときに、子どもに如何にいじめから身を守るかを一生懸命教えようとしていたんですね。私はいじめと闘っていじめをなくす、という方向で考えようとするんですが、彼女は「どうやって避けるか」の方で具体的対処法を考えるという違いも、そんな過去の親子関係から来ているような気がします。

 そういうわけですから、彼女が私に対して「守ってくれる人」をイメージしていたとすると、当然ズレが起こったわけです。彼女の中では私が彼女のことを「守ってくれなかった」と思えることが幾度もあったらしい。ただ私から言わせると、そこもまた感覚がずれていて、彼女の方から「守ってちょうだい」というサインが出ていると感じられなかったわけです。

 このあたり、なんだかとても複雑な気がします。彼女が言う「守る」ということには、たとえば最初に書いた「施設に入る」みたいなことで言えば、出来る限りは一緒に暮らして話もし、(定型的な感覚で)心理的にも支える、みたいなことはほとんど入ってこないらしい。スキンシップで気持ちが安らぐというタイプでもない。(抱きかかえてあげるというのは「守る」という姿のひとつの象徴のように私には思えるんですけれど……)

 そうすると彼女が言う「守る」って何をすることなんだろう、と改めて迷うところがあります。でもそこにはきっと何かがあるんですよね。大事なことが。もしかすると「施設に入れる」ということも何らかの意味で「守る」ということなんだろうか?????

2013年1月28日 (月)

抱きしめること

 30すぎくらいの夫婦物の日本映画を見ました。ネットで見られたんですけど。

 ネタバレしない方がいいと思うので、あんまり詳しくはかけませんけど、お互い自分が育った家族で傷ついてきた人で、ナイーブなところを持っている人たちで、その二人の生活の中でなんだかずれていくんです。お互いの気持ちが。

 それで、結論はまあハッピーエンドと言えるんでしょうけれど、改めてお互いを受け入れ合って、とんがらないしずかな生活を取り戻していくんです。

 その転換点にちょっときつい衝突があって、奥さんの方は心療内科にも通うような感じになる。それを、まあ乗りこえる、という話なんですね。

 その転換点で起こった事というのは、奥さんが「自分はいったいあなたにとってなんなの?」というようなことを言いながら、激しく泣いたり、自分を責めたりする。

 それに対して彼氏の方が後ろから抱き留めて、慰めの言葉というか、自分の本音みたいなもの、人生観みたいなものを語って、それでキスをして、それから(映像はないですけど)ふたりでまた結ばれて、というような展開になる。

 それでお互いになにか乗りこえるんですね。

 ああ、そうだよなあ。と思いました。多くの夫婦の場合、それで乗りこえたりするんだよなあと思えました。

 

 うちの場合は、たとえばパートナーが辛い思いで泣いているときに、抱きしめてあげる、ということで心がなごんでいくということはありません。本人がそう言ってます。それよりも、たとえばこの間、「ああ、そういうことなんだなあ」と思ったんですが、彼女が大事に使っている包丁があって、切れが悪くなっていたんで、彼女が居ないときに私が研いでおいたんですね。で、彼女がそれを使って切れるようになっていることに気づいて、とてもうれしそうに私に感謝してくれました。なんかパートナーの場合そういうことの方が大事な感じがするんです。「言葉のなぐさめはしらじらしい」と感じられるみたいです。

 もちろんこの辺は一概にアスペだから、とまとめきれないところがあって、たとえばこの間彼女に勧められて「アスペルガーの館」という村上由美さん(アスペルガー当事者)の本を読んだんですけれど、村上さん夫妻のところでは、村上さんが泣いたときに、やっぱりアスペの彼氏が後ろから抱いてあげて、それでとてもこころが落ち着いたみたいですし。

 
 今日は彼女の誕生日。彼女の好きなケーキ屋さんで小さなケーキを二つ買ってきました。

2013年1月11日 (金)

笑いの幸せ

 どうもご無沙汰して申し訳ありません。
 折角頂いているコメントにもちゃんとお返事できてないですし……

 最近ちょっと根気の要る仕事が詰まっていたせいか、「お疲れ気味」で記事を書いたりする根性が不足気味でした。まだしばらくそんな状態が続きそうで、これまた申し訳ありません。

 最近思ったことなんですけど、私の場合、他の人に笑ってもらえるのがすごく好きみたいなんですね。冗談を言ったり、馬鹿なことをしたりして。そうやって一緒に笑ったりするのも大好きです。

 他の人が楽しそうにしているのを見るのも結構好きで、特に子どもたちとか、パートナーが笑ったりしているのを見ると、なんだか幸せ感に浸れます。

 残念なのがパートナーについてはテレビを見て笑ったりというのは時々あるんですけど、私が冗談を言っても、真面目な顔をして「それはどういう意味?」と聞かれたり「それは冗談を言おうとしているの?」と聞かれたりして、なかなか笑ってもらえないことです。彼女の笑いのツボをうまくつかめるようになるといいなと思うんですが、なんだか私にとってはびっくりするような突拍子もないところで笑い転げたりということもあって、そこがむつかしい。

 自然に笑いが共有できたり、生み出したりできる状態というのが、私の理想なのかも知れません。

2013年1月 5日 (土)

他人じゃない

あけましておめでとうございます。

ブログも三年目に入りましたが、今年もどうぞよろしくお願いします。
みなさん、今年のお正月はどんなお正月だったでしょうか。
家は去年までに比べるとずいぶんと穏やかな感じだったように思えます。
もちろんお互いにつたわらなさでちょっといらついたりもありますけれど、
まだだいぶん余裕があるんですよね。
それで今日なんだか面白いことがあったんですが、
昨日私が書いたちょっと長い書類をパートナーに読んでもらって、
わかりやすさとかポイントを外していないかとか、感想を聞いたんです。
そのときの最初の感想が、私からするとちょっと的外れに思えて、
なんでそういう話になるんだろうと、議論になったんです。
それがちょっといらついたかんじになってしまったんですが、
今朝そのことを謝ったら「もうなれてるし」と言われました。
で、そのあとが面白かったんですが、私が
「それで、言い方なんだけど、最後に「全体としてはまあいいんじゃない」と
言ってくれたわけだけど、それを最初に言ってから、細部の問題を指摘してもらうと
印象が全然違うと思う」ということを彼女に伝えたんですね。
そしたら彼女は「そんなことはわかってる」と言うんです。
で、そのあと、「あんたが他人ならそう言ってるよ」と言われました。
表情はにこりともせずにでした。
で、嬉しいような悲しいような可笑しいような、一瞬とても複雑な心境になりました。
「あなたとはそんなに他人行儀になる仲だとは思っていない」
という意味ではまあ嬉しいわけです。特別の人間として見てもらえている。
ところがその結果としてちょっとした気を遣ってもらえないことになって、
いらっとしてしまうことが起こる……
あちらを立てればこちらが立たずというジレンマですよね。
まあ、なんというか、「ああ、これが彼女の気の使い方か」
ということが少しずつ頭では理解が進んできている感じがありますので、
それがもっと蓄積されていったときに、何か変化が起こるかも知れないと
そういうことを考えたりしています。

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