我が家の試み
定型とアスペとの間で、コミュニケーションについての考え方や受け止め方にすごく大きな違いがあるわけですけれど、そのことを前提にして、なおかつできるだけ無理のない形で大事なコミュニケーションがとれるような模索が必要ですよね。
カレンさんご夫妻も筆舌に尽くしがたいご苦労の後に、お互いの持っているズレについてちゃんとコミュニケートできる関係が作られたのだろうと感じるのですが、もちろんそれはカレンさんと伸夫さんという二人の個性が前提になって、そのお二人にあった形で作られているのだと思います。そこから学ぶことはたくさんあるし、また勇気を与えていただけると思うと同時に、自分は改めて自分とパートナーという個性にあった道を手探りしなければならないとも思います。
未だに思春期が続いているのか(……(^ ^;)ゞ)、最近ちょっと悩み事が多くて、定型の常として、そういうとき、やっぱりパートナーに話を聞いて欲しくなるし、そうやって話をすることで、たとえ旨く伝わらなくても、自分の中で整理できることもあるし、聞いてくれたというだけで支えになったりもします。
でも、彼女のコミュニケーションスタイルはそうではなくて、やっぱり問題を抱えたときには「自分で解決する」ということが基本だし、もちろん具体的に必要なことについては私にも相談してくれますが、私が理解できないと見ると、それで諦められてしまって、そのことについてはもう相談せずに自分で解決する、という展開になるみたいです。「愚痴を聞いてもらうことでスッキリする」とか「支えられた気持ちになる」ということはないみたいなんです。
それでもなんとか私の話を聞く努力をしてくれたりするんですが、やっぱり私の話は分かりにくいらしくて、「だからなんだっていうの?」とか「私にどうして欲しいわけ?」とか聞かれてしまいます。こちらは見ていて彼女がほんとに苦労して頑張って聞いてくれている感じはわかるので、なんだかすごく申し訳なくなってきます。話し終わると、こっちはだいぶスッキリするところもあるんだけど、彼女の方はぐったりだったりしますし、「話し合えて良かったね」という感じにはなりにくい。大体彼女は仕事ですごく疲れて帰ってくるので、その後にまた無理をして緊張を重ねさせている、という思いがあって、私の方もできるだけ控えようという気持ちになります。
けれども「物言わぬは腹のふくるるわざなり」とも言いますけど、その我慢がたまってくると、やっぱりしんどくなってきてしまうのはどうしようもなくて、そのことを相談してみました。
最初に彼女が言ったことは、「(聞いてもらうのが)他の人じゃだめなわけ?」ということでした。それはもちろんそれぞれ他の人に聞いてもらうことはあるし、それによってすごく支えられるし、このブログもある意味私にとってはそういう場でもあるんですが、でもやっぱり彼女だからこそ聞いて欲しい話、共有したいことがある。そこは自分にとっては取り替えがきかない感じなんですよね。彼女もほとほと困り果てた感じでした。
そのとき彼女が提案してくれたのが、話したいことを文章に書いてみたらどうか、ということでした。そうすれば、彼女は彼女のペースで読めますし、もともと本を読むのは好きな人でもありますし、比較的冷静に読めるだろと言うんですね。
ああ、それはいい方法かも知れないと思って、ちょっと始めてみました。まだ始めて間もないのですが、私の方は早速効果が出始めて、いろいろ気持ちが整理される部分が出てきたし、問題について前向きに考えることもできはじめています。今のところ特に彼女の方から何かの応答があるわけではなくて、その意味では一方的なコミュニケーションですし、彼女もやはり努力して読んでくれる感じはあるので、申し訳ないなとも思うんですが、少なくとも直接話を聞いてもらうよりはしんどくなさそうです。
これからどう展開していくかは分かりませんが、今のところは何かひとつの手がかりになるのかなと思っています。
あ、こちらに玄さんが同じ問題について議論されているのに今気がつきました。やっぱり私は「伝えたい」という彼女の気持ちに鈍感で、理解できないことが続いた結果、諦められている部分が多いのかなあと思いました。
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コメント
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私の父は、喉頭がんで4年前声を失いました。
何より人と話しをするのが好きで、人を笑わせるのも励ますのも上手でした。
「話しやすい、相談しやすい、頼りがいがある」
そういわれることに生き甲斐を感じていた父が、そのコミュニケーション手段である声を失ったのですから、新しい人生を受け入れることが困難で鬱になったりしました。
次第に父は、メールや食道発声法を身につけていき、日常はマジックボードを携帯して、言いたいことを書いて見せては消すということをしています。
でも、周囲のサラサラと流れて行く会話の速度に着いて行けず、得意であったジョークもタイミングがあわず、もう父の周囲でドッと笑いが起きるということもなく、父の意見も拝聴という形から「あ〜はいはい」と見流されるという形になりました。
「もう、自分の意見にじっくり耳を傾けてくれる人は居ず、何を発しても軽く流されるだけ」
自分の存在がとても希薄になり寂しく思うようです。
ここに「対等のコミュニケーションがとれない」という悩みがあります。
コミュニケーションに上下は無い、は正論です。
でも、角度を変えて見ると、子供に合わせた言い方をしてあげる、お年寄りにわかりやすくゆっくり言ってあげる・・・などの、してあげなければならない姿勢が現実にあります。
なぜか定型同士だと、通じるコツが瞬時に掴めることが多いです。
でも、定型と自閉圏だと、その通じるコツが浅い部分では掴めるのですが、油断して次の会話に移るとみもう通じないという困難が生じます。昨日は通じたから今日も同じパターンの会話をしたら通じなかった、という混乱も生じます。
何とかしよう、何とかならないか・・と突き詰めると悩みになります。
が・・・「とても気がかりな相手」として、距離を持つと、見えなかった部分が自然に見えて来て、ストレスだった部分がそうでもなくなってくると思うのです。
私が専門医によく言われた言葉が「距離感」でした。
「くいいるように見つめ、何とかならないかと悩み込む。この距離感こそ、何とかしないと、良い関係が生まれませんよ。特にASの人の場合は個人差も大きいし、タイプも様々です。軽度の人は能力の凸凹のギャップが魅力的に映る場合があるので、魅き込まれてしまうのです」
精神科や心療内科で、服薬などの対処療法は自閉圏の人の二次的障害に必要で、カウンセリングはASの人に寄り添う定型に必要とされる説もあります。
妻だけれど、いつまでもミステリアスな悩ましい女性であり、甘えたい時に許してくれないが、ふとしたときの弱さや優しさや人間性に魅かれる魔性の人。(←ロマンチックな褒め言葉です)
家族・・という距離感を図ることが難しい関係性だからこそ、視野のど真ん中に入れない工夫も必要ではないでしょうか。
投稿: トマト | 2012年12月 2日 (日) 09時00分
パンダさんこんにちは。haruです。
うちも現在進行形で、夫婦オリジナルの関係を模索しているところなので、興味深いテーマです。
私は愚痴や悩みを誰かに話したい時には、ただ「ふ~ん」「そうか~」とか、「それは大変だね」「がんばってるね」などの言葉があると、本当に癒されるし励まされます。
大好きなパートナーからそういう言葉をかけてもらえたら、どれだけ嬉しいでしょうね。。。
でも、そういう「共感」や「同時処理」が苦手なのも私のパートナーであって、一方私はそれを頭でわかっていながら、いつもいつもパートナーからの共感を期待してしまいます。
正直、寂しいです。・・・最近はそんな自分を受け入れて、無理に強くならなくてもいいかなという思いもしています。だからといって自分の心と折り合いを付けるための妙案があるわけでもないのですが。
ただ、うちの場合ですが、パートナーから毎日一通、メールを送信してもらうことにしました。
内容は、パートナーが日々感じていること、例えば最近のケンカについて感じたこと、最近のちょっとした会話についてパートナーの感じたことなどです。
(うちでの会話は、主に私が話すだけで、パートナーはその場でほとんど返事をしません。無表情かつ体も顔もこちらに向けていないことが多いので、どう感じているかも全くわかりません。)
まだ始めて間もないのではっきりと言えませんが、会話では理解しにくい(むしろ誤解の生じやすい)パートナーの気持ちが、クリアに伝わることが多いように感じます。
また、パートナーの感じていることが少しずつでもわかるようになる、というのは、私にとって寂しさが埋まることにもなっているようです。気持ちが安定するというか。
うまく言葉にできなくてすみません。
結婚してずっと平行線・・・どころかどんどん線と線が離れていくような夫婦関係だったのが、メールを送信してもらうことで、すこーーーーしずつ、線が近づいてきているような気がして、今は嬉しいです。
投稿: haru | 2012年12月 2日 (日) 16時08分
玄です。事例の中に本質があると、パンダさんのエピソードを読ませて頂いて、いつも思います。
僕の個人的な精神状態かもしれませんが、気になる問題点を一つ一つ整理しないと次に進めない傾向があります。相談事項を口に出すまでに、僕は課題を紙に書き出して、質問したいことをハッキリさせるようにしています。そうでもしないと、延々と頭の中で考え続けてしまいます。質問を実際にしている時には、そういった追い詰められたイッパイイッパイの精神状態なので、「相談だけでスッキリ」とはいかない気がします。
「スッキリ感」は、相談ではなくて「頭に詰め込んだ知識を全部残らず出した時」にこそ得られる予感がします。(このことについてが、掲示板での「一人語り」スレッドを立てた元になっています)
今の印象ですが、定型はモヤモヤを共有して、一体感を得たい。AS(定型もASの部分を持っているという前提で)は、「スッキリを共有したい」のではないでしょうか。
だから、ASの話題は、「客観的な(と本人が信じている)トリビア」、「他人の意見の入り込む余地のない個人的な感想」、「一緒に話し合ってスッキリした結論を得たい話」が中心になってくるのではないかと思います。
パンダさんのパートナーさんが「だからなんだっていうの?」とか「私にどうして欲しいわけ?」とかの発言をされる場合、パンダさんの持ちかけた話題が、上記のASが納得するテーマに沿っていないのでは?
僕は、自分で出し切れない答えを求めようとして相手に質問をすることが多いので、相手(定型)が何かの問題を持ちかけて来てくれたら、何とかスッキリさせてあげようと自分なりの回答を話します。すると、「そんなことは言われたくなかった。ただ聞いて欲しかっただけ」という。スッキリを求めない(スッキリさせようとすると叱られる)会話に、戸惑います。
なぜ、ASは「共感的な返事に抵抗があるのか」を考えました。
ある人が「ふー疲れた」と独り言をいったとして、それに対して自分が「ふーん、大変だったね」と答えるモデル会話があるとして、後者がASだとしたら、内心は『無責任な発言をしてしまった。自分は何もしてあげられない。無力で役立たずだ。』と自分を責めていると思います。ナチュラルな僕の発想では、このモデル会話のような返答をして「相手が疲れており、自分が何も出来ない」という解のない状況に直面することが恐ろしくて、「聞こえなかったことにする」とさえ思います。(待ち受けるのは、「なんで答えてくれないの」と突っ込まれ、「答えた」と言ってしまう泥沼ですが。)
パンダさんが「文章」でパートナーさんに伝えるとか、haruさんのメールをもらうとかは、よさそうな試みですね!そういう、クッションがあるほうが、案外いいかもです。
投稿: 玄 | 2012年12月 2日 (日) 20時07分
トマトさん
「が・・・「とても気がかりな相手」として、距離を持つと、見えなかった部分が自然に見えて来て、ストレスだった部分がそうでもなくなってくると思うのです。」
多分ここがひとつの大きな山なんですよね。カレンさんなどはここの部分の距離感をうまく掴まれたのではないかという印象を持っています。なんか、そのためには自分自身についていろいろ整理していかなければならない問題が沢山あるように思えて、そこはそれぞれの人の育ちとか生まれ持ったものとかによってみんな個性的、という感じがするので、やっぱり自分を見つめながら進まないといけないんですよね、きっと。
haruさん
「うちの場合ですが、パートナーから毎日一通、メールを送信してもらうことにしました。」
そうなんですね!なんか大きい問題に対しても、そういう小さな工夫が意外に大きいのかなと思ったりします。そうやってみんなでちょっとずつ工夫を紹介し合いながら、それがまた新しい工夫のヒントになったりしていくといいなあと思います。また後日談などご紹介していただけたら嬉しいです。
玄さん
「事例の中に本質があると、パンダさんのエピソードを読ませて頂いて、いつも思います。」
玄さんにそう言っていただいて、なんかすごく嬉しかったです (^ ^;)ゞ
難しい議論じゃなくて、そういうほんとに具体的な話だからこそ、他の人と共有できるものがあって、それが大事なんじゃないかなと思うんですが、それが玄さんにも共有していただけるということが嬉しいんですね(というあたり、やっぱり定型的なのかも)。
「定型はモヤモヤを共有して、一体感を得たい。AS(定型もASの部分を持っているという前提で)は、「スッキリを共有したい」のではないでしょうか。」
と書かれていることなども、なんかハッとさせられます。またひとつ考える足がかりを頂きました。
投稿: パンダ | 2012年12月 3日 (月) 18時00分