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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2012年12月 4日 (火)

緑の体験

 

トマトさんがが・・・「とても気がかりな相手」として、距離を持つと、見えなかった部分が自然に見えて来て、ストレスだった部分がそうでもなくなってくると思うのです。」 ということを書いて下さっていて、これは定型の側がアスペのパートナーに向き合うときにすごく問題になってくることのひとつだと感じます。

 多分いわゆる定型の中には、「諦める」とか「見極めをつける」という形で比較的簡単に(といってももちろん大変だとは思いますが)、そこを乗り越えて距離をもてる人もいるし、そこが諦めきれず、こだわりを捨てきれず、限界状態まで突き進んでしまう、そんなタイプの人も少なくないんだという気がします。かく言う私自身が、こういうブログを続けていると言うこと自体、その一人である証拠かも知れません (^ ^;)ゞ

 私の勝手な理解ですが、カレンさんも多分そのお一人のような気がして、しかもその適度な距離の保ち方ということについて、乗り越えられた方ではないかと思えるんです。

 どうやって乗り越えられたのか、について、「アスペルガーと定型を共に生きる」の中でも語って下さっているんですが、その大きなターニングポイントはカレンさんが「緑の体験」と呼ばれているものだと思います。鎌倉で新緑の緑から自分に光が差し込んで、その命に自分の命が共鳴したような体験をされた。そこで「ああ、私がどこで何をやっていても、私の中には常に自分の命とか居場所とかいうものがあるんだ」という確信を得られた。

 そのお話を聞く度に思い出すエピソードがあるんですが、オーストラリアのフランクルという精神科のお医者さんが、ユダヤ人ということでナチスによって強制収容所に送られます。そこはもちろんユダヤ人をこの世から抹殺するための施設で、遅かれ早かれガス室送りになってみんな命を失っていく。

 そういう極限状態の中で、もうすぐガス室に送られる運命の若い女性が、あるときフランクルに自分が窓の外の樹と対話しているという話をします。フランクルは最初とても戸惑うんですが、その女性はその樹から「わたしはここにいるよ。わたしは、ここに、いるよ、わたしは命、永遠の命だって……」と言われたと言うんですね。「夜と霧」という本の中に書かれているんですが。

 なんかとても似ているところがあるように思えるんです。極限状態に追い込まれたとき、植物の命に自分の命が共鳴する、というような体験をされていること、そしてそのことで自分という弱く見えた命が受け入れられて居場所をもつように感じられていることですね。違うのはその後、カレンさんはそこから改めてみずみずしい自分の命が芽吹いて育っていくような体験をされているのに対して、強制収容所の女性はそのあと人としての生命を絶たれてしまうということでしょうか。もちろんその言葉によって、ずっと多くの人の心には生き続けると思いますけれど。

 トマトさんの言葉に戻ると、「家族・・という距離感を図ることが難しい関係性だからこそ、視野のど真ん中に入れない工夫も必要ではないでしょうか。」とも書かれています。カレンさんのこの緑の体験は、そういう「視野のど真ん中に入れない」ことで、逆に素直に伸夫さんとつながるという形を与えてくれるものだったんじゃないかと思えるんですね。間(?)に「緑」という命がカレンさんを支えてくれている。

カレンさんが書かれているように、そのことでアスペと定型のズレが無くなるわけではないし、時に厳しいぶつかりあいが起こることもあると思うんですが、でもそのことがお二人の関係を揺るがすようなことではなくなっているように感じられます。これもカレンさんご自身が書かれていますけれど。

 多分カレンさんにとっての「緑」の部分は、人によっていろんなものに置き換わるのかなという気はするんですが、自分にとって「自分を受け入れてくれる居場所」を相手の人という個人じゃなくって、もっと違う形で見つけることで、逆に相手の人との関係が安定する、ということは色んなところで色んな人に起こりうることなのかなという気もします。

 もちろん違う形での乗り越えもあるのかもしれませんし、仮にカレンさんのような乗り越えをする場合でも、何時どんな形でそれが訪れるのかは、ほんとにその人その人によるもので、なんかマニュアルみたいなものを手軽に作れるようなものではない気がしますけれど。あと、このことは「定型」の人には比較的通用しやすいのかなと思いますが、アスペの方にとってそれが意味あることなのかどうかは全く分かりません。少なくとも伸夫さんはそういう形ではないように私には感じられます。

 

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コメント

定型同士の場合・・・愛情や友情の温度差はあっても、次第に慣れ合って来て、お互いの感覚や考え方が加齢とともに淡白になっていくことが「共に年をとる」ということだと思います。

定型と自閉圏のカップルの場合、この「共に」が困難なので、疲弊感や悩みと同時に、飽きることが無い謎があって、一段落も無いという状態になると思うんです。

ASの友人とよくもめていた頃、私は捨て犬を拾ったのですがその犬がナント自閉圏だったんです。
以前に飼っていた代々の犬とは、コミュニケーションの具合が歴然と違って、いつも心のどこかで「家で幼子が待っている」ような気がかりになってるんですよね。散歩のときは、リード(綱)を引っ張っても、置物のようにピクリとも動かないし、でもリードをはずすと行きたい方向にどんどん行っちゃって、すれ違う人や自転車にそのまま付いて行っちゃって呼んでも反応が無いし。
嬉しい時には、さかんにしっぽを振り体を動かし口も嬉しそうに開くという定型犬(?)に対して、いつもぬいぐるみのように無表情で無表現で、
ほんのわずかに右足を地面から浮かす・・・のが最大限の喜びのサインなのだと数ヶ月してから気がつきました。

そういう発見が嬉しくて、自分しか理解してあげられそうもないことが愛おしい感情になるというか。
ついつい、もっともっと見つめちゃうんですよね。
犬とは言い争いにならないから問題にはなりませんし、そもそも犬と人間を比較しちゃいけませんが、でも・・・この犬からは感じる事も学ぶ事も多いのです。

ちなみに、私はASの友人や職場の同僚などとのコミュニケーションがストレスの極みになったとき心療内科に行ったり、専門医に質問していたのが
この一匹と出逢ってから、ものすごく気がラクになって医者いらずになりました。


トマトさん

 「ちなみに、私はASの友人や職場の同僚などとのコミュニケーションがストレスの極みになったとき心療内科に行ったり、専門医に質問していたのがこの一匹と出逢ってから、ものすごく気がラクになって医者いらずになりました。」

 ここがなんかすごく不思議な感じがしました。どうしてなんでしょうか。もうすこし教えていただけると嬉しいです。

ドッグセラピー効果もあるのかも知れませんが・・。

とりあえず私は、人も犬も、今までのいわゆるフツーとかアタリマエと感じていた範疇のコミュニケーションがとれないと「えっ?」と戸惑い「なぜ?」と疑問に思いじぃぃ〜と相手を見つめてしまうのです。(イヤあからさまに目で追うという行為ではないですヨ)
まぁさり気なく、観察ですね。

うちの犬の場合、リード(綱)をつけると動かないのですが、一応私の後をトコトコついて来るので、放し飼い状態で散歩をする訳です。
早朝は、沢山の人が犬を連れて散歩しています。
犬は何か気になるとクンクン嗅いで寄り道したい、でも飼い主さんがリードを引くと諦めて歩調を共にします。駆け出したい犬に「そんなに急がないで」と声をかけながら小走りになって犬に合わせてあげようとする飼い主さんなど・・・
「あぁ、私も今までの犬とはリードを引っ張ったり緩めたりしながら一緒に散歩してた」と想い出したんです。
リードって飼い主と犬のコミュニケーションツールだったんだなぁ。

今の自閉犬とは、一緒に歩いているようで、実はそれぞれが独り独りの感覚で歩いている訳です。
前方から、飼い主さんとリードで結ばれた犬がやってきます。
うちの犬は、相手の犬の様子を伺うことも無く、一目散にまっすぐスーっとよって行き、相手が身構える間もなく顔を正面からペタっと、相手の犬の顔や脇腹に押し付けるのです。
相手の犬は一瞬「?」とキョトンとなり、それからオドオドしたり唸り出したり喜んだりと、犬によって反応はそれぞれですが、私はいつも「ごめんなさいねぇ、この子、距離感が解らなくて」と謝りながら引き離します。

それで仲良くなった犬も居れば、飼い主さんによっては「どうしてリードをつけないの? うちの犬がおびえてるじゃないの、マナー違反よ」と叱られることもあります。

でも「この子、リードをつけると動かないんですよ」と説明しても「そんなの飼い主の怠慢。ちゃんとシツケをすればリードをつけて散歩できるはず」と言われてしまいます。
犬のしつけ教室にも行ってプロの人に預けても駄目だったんです。

引っ張るとついて来る犬しか知らない人に、ひっぱると動かなくなる犬の存在をどう説明すれば良いのでしょう?

突然、変なくっつき方されたよその犬は怒って吠えかかるタイプも当然います。
それに対して、うちの犬は私が引き離して抱っこしてしばらく歩いた段階で「ウゥわんわん」と時間差で突然吠え出すのです。「遅いよ、今頃、反応したって」と脱力です。

それにうちの犬は、私以外の家族や人が犬の名を至近距離や真ん前から呼んでも、その人の方を見ることもなく、隣の部屋にいる私に向ってくるのです。
フツー、声の方向を見るじゃないですか。でも、私以外の人がその犬の名前を呼んで可愛がろうとしても、私だけを見て私が呼んだかのような反応しかしないのです。
まるで、自分を呼ぶ声は全てトマトの声だと刷り込まれているかのように。

そのうち周囲から「この犬、変ってるね」と言われるようになりました。

その独特さは、個性では説明出来ないものがあり、無表情で我が強く、一緒に布団に入って寝るときは、私の顔におしりをおしつけて寝るので「顔とお尻の方向が逆だよ」と抱っこしても、逆位置の方が良いようです。
フェィスtoフェイスが無いです。

この犬と暮らすようになり、理論や理屈でなく、自閉圏とはこういう感覚なのかなと、感じるようになりました。
「ねぇ、おまえは私と居て少しは楽しい?」「私に拾われて良かった?」時々、犬の顔を両手ではさんで聞きます。
はさまれたままじっとして無表情なままの犬。
そこへ家族が帰宅して、犬の名前を呼ぶ。でも、耳が聞こえないかのように反応無し。
「可愛くないな。トマトにしか反応しないんだから」

でも、私のこと好きなんだろうか?
散歩につき合えば誰でもよくて、その証拠にすれちがう人につられてついて行って、家の外では私が呼んでも振り向きもしない。まっすぐ進むだけ。
家族に馴染むことも、犬同士でじゃれることも無し。やりとりという事が無い。

でも・・・一緒に暮らしているだけで「こういう子なんだ」という自然な受け入れが出来るようになり、とてもささやかな喜怒哀楽めいたサインを見逃すまいと見つめていると、とても愛おしくなるのです。
「こういう子なんです、変ってるでしょ」「こういう子なんです、面白いでしょ」そう言いながら、そういって守りながら過ごして来ました。

その犬に対してのスタンスが自然に自閉圏の人とのコミュニケーションに重なる部分があります。頭で考えて悩んでいた部分が、日常感覚として悩まなくなったという感じです。


トマトさん、

私も犬を2匹飼っています。目の中に入れても痛くないくらいかわいいと思ってます。そんな私から見てもトマトさんの『ノーリード』はマナー違反に思えます。自閉症だったら許されるというものではないと思います。


プロの人に預けたとおっしゃいますが、何人試してみましたか? 私が見るに、ドッグトレーナーの技量にはめちゃめちゃ幅があります。ダメな人はダメだし、犬との相性もあります。

トレーナーがダメでも飼い主の根気と粘りでなんとかなる場合もあります。根気は数ヶ月のことではないですよ。数年に渡ることもあります。しかも同居家族の協力が不可欠です。
もしそれを『無理』や『やってもダメだった』で結論付けるのであれば、『療育』ということにも無理解なのだろうと感じてしまいます。


世の中犬好きの人ばかりではないです。私の犬は小型犬ですが、散歩をしているとあからさまに避けて行く人が男女問わず大人でも子供でもいます。子供は特に怖がります。ノーリードの犬が歩いていたら、どんなに怖いでしょう。子供に犬の事情が分かりますか?


また、ノーリードの犬は他者や他の犬を怪我させる危険、怪我をさせられる危険が高いです。ノーリードで散歩させている飼い主さんは『うちの子は大丈夫』と言い切ることが多いですが、絶対はないです。飼い主の過信です。現に『絶対大丈夫な子』が何に興奮したのかいきなり他の犬の耳を一部噛み切ったのを見たことがあります。突然のことでびっくりしました。


せめてリードを持ち歩き、他の人とすれ違う時はリードを付けてオスワリをさせてやり過ごすなどの配慮をしていただけたらと思います。愛犬を気遣うくらい他者にも気遣いをお願いします。

犬が心を癒してくれるということについては本当にその通りだと思います。

ちなみに私の犬のうち一匹は私の顔にお尻を付けて寝ます。
その子は幼犬の頃アイコンタクトができなくて躾にすごく苦労しました。
でも自閉症圏内とは感じたことがないので、寝方は個性だと思います。
寝ている時に時々オナラをするので、それが困りものです。

のらさん、全くおっしゃる通りです。
私は、なんだかダラダラと長く書いたコメントを読み返していて、要領よく簡潔に整えようとして、誤り送信ボタンおしちゃったのです。コメントが長過ぎたので「ちなみに」と結論を書く事を止めてしまってましたが、そこはそこ。
ちゃんとのらさんのような方がいらっしゃる訳です。(のらさんも犬好きということでメチャ嬉しい!)

私はこの犬を通して「それは個性。うちの子もそういうところはある。要はあなたのしつけや教育」という突破できない正論の壁と
獣医さんの「自閉症タイプですね」トレーナーさんの「個性というよりトラウマなのか病気なのか、一方的な表出はするが外界からの受け入れが少ないですねぇ」という見解と
自分が犬から受ける印象と、リードを引っ張り語りかける努力の疲弊の末に

散歩は、朝は5時。夜は10時以降にしています。
この時間帯は、私の近所のコースは人も犬も居ません。

私は、よその飼い主さんと挨拶や世間話を交わしながら、いろんな犬とも仲良くなり散歩を楽しみたい・・・はずでした。過去はそうでした。
でも、うちの犬は、そういう一般的なコミュニケーションの場ではどうしても逸脱してしまうし、よその犬並みのことを教えようとしても「耳も目も機能してないのか」と思う程、全く反応せず動きませんし。

私は定型という「ふつー」を振りかざしてしまうことの多い多数派です。

でも、この犬の飼い主としては「ふつー」に押しやられる少数派です。

「・・こういうことか」少数派の気持や立場を、この犬は何を語らずしてたくさん教えてくれます。

沢山の犬の散歩の人が行き交う、散歩社会から離れた、私と犬だけの静かな時間。
そういう空間も、早朝起床の生活リズムも・・馴染めば心地良いものになりました。

ASの友達や同僚に、私は一生懸命言って書いて、多数派の「フツー」や「マナー」を伝えて来た。
でも、その多数派から「フツー」や「マナー」を言われたとき「どうしようもないし、解ってもらえない」絶望感や孤立感や諦め感も、体験することが出来ました。
なので、ASの人へも「どうしてわかってもらえないかな」と切実に思い過ぎて悩み過ぎることが無くなったのです。

神様は粋なことをするものです。
人からで解らなければ、ほかの動物や自然から解らせてくれる・・・。

ちゅうことで、私は犬から「気持がラク」になりました。

トマトさん、

釈然としません。
『なんだかダラダラと長く書いたコメント』とおっしゃる通り、私にはトマトさんの文章は不必要に感じる情報が多く理解し辛いです。読んでいるうちに要点が分からなくなっていきます。

でも昨日は同じ犬を飼う者として、『ノーリード』を正当化している印象を受け気になってコメントをしましたが、翌日になってみると昨日読んだ文章から理解した散歩風景とは180度異なっている散歩の様子が書かれています。ダラダラ書くついでに『こういうことがあったので今はこうしている』ということも書けば良かったのにと思う反面、後出し情報が正反対過ぎる故に信用ならない心象を持ちます。

今日の書き込みにもう少しワンちゃんの性格描写を加味した方が分かり易かったですね。

また名前を書き忘れました。
先程の書き込みはのらです。

そして訂正です。

今日の書き込みにもう少しワンちゃんの性格描写を加味した方が分かり易かったですね。

はなから今日の書き込みにもう少しワンちゃんの性格描写を加味した方が分かり易かったですね。

トマトさんは虚言癖、もしくは妄想癖がある方なのかしら
自閉症の犬なんて語ってるご本人だけが楽しそう

こと、犬などの会話になると、つい世間話のように、とりとめのないことになって、私の脱線トークのようなコメントが「つじつまが合わない」とか「嘘くさい」という印象になったと思います。

書くときは、ちゃんと時系列とか整理して書かないといけませんでした。
ごめんなさい。

ところで、エフさんの「自閉症の犬なんて」という一文には、抗議させていただきます。
それは、うちの犬への侮辱です。
自閉症の犬に関して検索なさって下さい。専門医に聞いてください。
自閉症の犬は存在します。

親が我が子を自閉症と言って楽しむはずがないのと同等に、愛犬をそのように言って楽しむ人はいないと思いますし願います。

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