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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2012年12月

2012年12月14日 (金)

うじうじ

 前回は「こころの怒りを絶って、顔色に怒りを出さないようにして、人が自分と違うからといって怒らないようにしたほうがいい。」とかいう文章を紹介しましたけれど、でもこれも善し悪しですよね。ひたすら我慢に我慢を重ねるだけだと、いつか必ず爆発してしまう。それが外に向けば人や物を傷つけたりこわしたりになるし、内に向けば自分を痛めつけてこわしてしまう。

 じゃあ、いったいどうしたらいいのよ!ということなんですが、どうしたらいいんでしょう……

 仏様のようになれる方はそれでいいんでしょうけど、私ら(?)のような凡人の場合、そんなことかないっこないですしね。スポーツマンとかは汗を流してすっきりするのかしら?怒るときはすぱっと怒って、それで後にひかないでスッキリしてしまう人もいるような気がするけど、アスペと定型の間でもそういうのありなんでしょうか。

 というか、そういうふうにすぱっと怒れないでうじうじ考えるタイプの人間の場合、どうしたらいいんでしょうか?

 ああ、世の中むつかしい。

2012年12月 9日 (日)

ダブルの苦しみ

 ちょっと昔の人が書いたものを読んでたんですが、こんな意味のことが書いてありました。「こころの怒りを絶って、顔色に怒りを出さないようにして、人が自分と違うからといって怒らないようにしたほうがいい。人は皆それぞれに心があって、お互いに譲れないところもある。だから相手が良いと思うことを、自分はよくないと思ったり、自分が良いことだと思っても、彼の方はよくないと思ったりする。自分が素晴らしい人で、相手が馬鹿な人ということでもない。共にただのひとなのだ。いいとか悪いとか、誰が決めることが出来るだろう。お互いに賢こくもあり愚かでもあることは、端のないわっかのようにひとつながりのものだ。だから相手が怒ったら、自分が過ちを犯してないかと反省してみたほうがいい。自分一人が正しいと思っても、他の人たちの意見も参考にしてみるといい。」

 
まあだいたいこんな調子なんですが、なんか言えてることが多いなあと思いました。この人も多分海外とのやりとりが多くて、自分の身の回りだけじゃなくて、いわゆる異文化間のぶつかり合いなんかにも苦労したんだろうと思うんですが、そういう「自分の常識が通用しない場面を繰り返し体験する」という経験を持って、そこをなんとか乗り越えようとすると、こういう考え方になったりするのかも知れないですね。特に定型の場合にその傾向が強いかも知れませんが。

 何度か書いたと思うのですが、最近「お互い様」という考え方に少し変化が出来て、以前は「こっちだってしんどい思いをしてるんだから、(相手がしんどい思いをしても)しょうがないじゃん」というようなある種の開き直りがあったんですけど、このところ、「そうは言っても相手が苦しい思いをしている、ということも否定できないなあ」というところが気になって、パートナーに対してもほんとに苦労を掛けたんだなあという気持ちが大きくなってきています。それで申し訳なかったなあとか、そういう気分になるんですね。もちろん「私だって苦しんだ」ということが無くなっているわけではないんですが、でもそのことで「相手も苦しんだ」ということが帳消しになるわけではない、というのかな。

 そう考えると、相手と自分の分をダブルで苦しむことにもなるので、しんどいのはしんどいんですが、でもなんとかここのところを乗り越えて次を見いだしたい気持ちがあります。具体的にはどんなふうに乗り越えられるのか、今のところまるで手探りですけれど。



2012年12月 4日 (火)

緑の体験

 

トマトさんがが・・・「とても気がかりな相手」として、距離を持つと、見えなかった部分が自然に見えて来て、ストレスだった部分がそうでもなくなってくると思うのです。」 ということを書いて下さっていて、これは定型の側がアスペのパートナーに向き合うときにすごく問題になってくることのひとつだと感じます。

 多分いわゆる定型の中には、「諦める」とか「見極めをつける」という形で比較的簡単に(といってももちろん大変だとは思いますが)、そこを乗り越えて距離をもてる人もいるし、そこが諦めきれず、こだわりを捨てきれず、限界状態まで突き進んでしまう、そんなタイプの人も少なくないんだという気がします。かく言う私自身が、こういうブログを続けていると言うこと自体、その一人である証拠かも知れません (^ ^;)ゞ

 私の勝手な理解ですが、カレンさんも多分そのお一人のような気がして、しかもその適度な距離の保ち方ということについて、乗り越えられた方ではないかと思えるんです。

 どうやって乗り越えられたのか、について、「アスペルガーと定型を共に生きる」の中でも語って下さっているんですが、その大きなターニングポイントはカレンさんが「緑の体験」と呼ばれているものだと思います。鎌倉で新緑の緑から自分に光が差し込んで、その命に自分の命が共鳴したような体験をされた。そこで「ああ、私がどこで何をやっていても、私の中には常に自分の命とか居場所とかいうものがあるんだ」という確信を得られた。

 そのお話を聞く度に思い出すエピソードがあるんですが、オーストラリアのフランクルという精神科のお医者さんが、ユダヤ人ということでナチスによって強制収容所に送られます。そこはもちろんユダヤ人をこの世から抹殺するための施設で、遅かれ早かれガス室送りになってみんな命を失っていく。

 そういう極限状態の中で、もうすぐガス室に送られる運命の若い女性が、あるときフランクルに自分が窓の外の樹と対話しているという話をします。フランクルは最初とても戸惑うんですが、その女性はその樹から「わたしはここにいるよ。わたしは、ここに、いるよ、わたしは命、永遠の命だって……」と言われたと言うんですね。「夜と霧」という本の中に書かれているんですが。

 なんかとても似ているところがあるように思えるんです。極限状態に追い込まれたとき、植物の命に自分の命が共鳴する、というような体験をされていること、そしてそのことで自分という弱く見えた命が受け入れられて居場所をもつように感じられていることですね。違うのはその後、カレンさんはそこから改めてみずみずしい自分の命が芽吹いて育っていくような体験をされているのに対して、強制収容所の女性はそのあと人としての生命を絶たれてしまうということでしょうか。もちろんその言葉によって、ずっと多くの人の心には生き続けると思いますけれど。

 トマトさんの言葉に戻ると、「家族・・という距離感を図ることが難しい関係性だからこそ、視野のど真ん中に入れない工夫も必要ではないでしょうか。」とも書かれています。カレンさんのこの緑の体験は、そういう「視野のど真ん中に入れない」ことで、逆に素直に伸夫さんとつながるという形を与えてくれるものだったんじゃないかと思えるんですね。間(?)に「緑」という命がカレンさんを支えてくれている。

カレンさんが書かれているように、そのことでアスペと定型のズレが無くなるわけではないし、時に厳しいぶつかりあいが起こることもあると思うんですが、でもそのことがお二人の関係を揺るがすようなことではなくなっているように感じられます。これもカレンさんご自身が書かれていますけれど。

 多分カレンさんにとっての「緑」の部分は、人によっていろんなものに置き換わるのかなという気はするんですが、自分にとって「自分を受け入れてくれる居場所」を相手の人という個人じゃなくって、もっと違う形で見つけることで、逆に相手の人との関係が安定する、ということは色んなところで色んな人に起こりうることなのかなという気もします。

 もちろん違う形での乗り越えもあるのかもしれませんし、仮にカレンさんのような乗り越えをする場合でも、何時どんな形でそれが訪れるのかは、ほんとにその人その人によるもので、なんかマニュアルみたいなものを手軽に作れるようなものではない気がしますけれど。あと、このことは「定型」の人には比較的通用しやすいのかなと思いますが、アスペの方にとってそれが意味あることなのかどうかは全く分かりません。少なくとも伸夫さんはそういう形ではないように私には感じられます。

 

2012年12月 1日 (土)

我が家の試み

 定型とアスペとの間で、コミュニケーションについての考え方や受け止め方にすごく大きな違いがあるわけですけれど、そのことを前提にして、なおかつできるだけ無理のない形で大事なコミュニケーションがとれるような模索が必要ですよね。

 

カレンさんご夫妻も筆舌に尽くしがたいご苦労の後に、お互いの持っているズレについてちゃんとコミュニケートできる関係が作られたのだろうと感じるのですが、もちろんそれはカレンさんと伸夫さんという二人の個性が前提になって、そのお二人にあった形で作られているのだと思います。そこから学ぶことはたくさんあるし、また勇気を与えていただけると思うと同時に、自分は改めて自分とパートナーという個性にあった道を手探りしなければならないとも思います。

 未だに思春期が続いているのか(……(^ ^;)ゞ)、最近ちょっと悩み事が多くて、定型の常として、そういうとき、やっぱりパートナーに話を聞いて欲しくなるし、そうやって話をすることで、たとえ旨く伝わらなくても、自分の中で整理できることもあるし、聞いてくれたというだけで支えになったりもします。

 でも、彼女のコミュニケーションスタイルはそうではなくて、やっぱり問題を抱えたときには「自分で解決する」ということが基本だし、もちろん具体的に必要なことについては私にも相談してくれますが、私が理解できないと見ると、それで諦められてしまって、そのことについてはもう相談せずに自分で解決する、という展開になるみたいです。「愚痴を聞いてもらうことでスッキリする」とか「支えられた気持ちになる」ということはないみたいなんです。

 それでもなんとか私の話を聞く努力をしてくれたりするんですが、やっぱり私の話は分かりにくいらしくて、「だからなんだっていうの?」とか「私にどうして欲しいわけ?」とか聞かれてしまいます。こちらは見ていて彼女がほんとに苦労して頑張って聞いてくれている感じはわかるので、なんだかすごく申し訳なくなってきます。話し終わると、こっちはだいぶスッキリするところもあるんだけど、彼女の方はぐったりだったりしますし、「話し合えて良かったね」という感じにはなりにくい。大体彼女は仕事ですごく疲れて帰ってくるので、その後にまた無理をして緊張を重ねさせている、という思いがあって、私の方もできるだけ控えようという気持ちになります。

 けれども「物言わぬは腹のふくるるわざなり」とも言いますけど、その我慢がたまってくると、やっぱりしんどくなってきてしまうのはどうしようもなくて、そのことを相談してみました。

 最初に彼女が言ったことは、「(聞いてもらうのが)他の人じゃだめなわけ?」ということでした。それはもちろんそれぞれ他の人に聞いてもらうことはあるし、それによってすごく支えられるし、このブログもある意味私にとってはそういう場でもあるんですが、でもやっぱり彼女だからこそ聞いて欲しい話、共有したいことがある。そこは自分にとっては取り替えがきかない感じなんですよね。彼女もほとほと困り果てた感じでした。

 そのとき彼女が提案してくれたのが、話したいことを文章に書いてみたらどうか、ということでした。そうすれば、彼女は彼女のペースで読めますし、もともと本を読むのは好きな人でもありますし、比較的冷静に読めるだろと言うんですね。

 ああ、それはいい方法かも知れないと思って、ちょっと始めてみました。まだ始めて間もないのですが、私の方は早速効果が出始めて、いろいろ気持ちが整理される部分が出てきたし、問題について前向きに考えることもできはじめています。今のところ特に彼女の方から何かの応答があるわけではなくて、その意味では一方的なコミュニケーションですし、彼女もやはり努力して読んでくれる感じはあるので、申し訳ないなとも思うんですが、少なくとも直接話を聞いてもらうよりはしんどくなさそうです。

 これからどう展開していくかは分かりませんが、今のところは何かひとつの手がかりになるのかなと思っています。

 あ、こちらに玄さんが同じ問題について議論されているのに今気がつきました。やっぱり私は「伝えたい」という彼女の気持ちに鈍感で、理解できないことが続いた結果、諦められている部分が多いのかなあと思いました。

 

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