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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2012年11月 7日 (水)

お互い様

 パートナーが「アスペ」(私が「定型」)という理解がお互いになかったころ、お互いに訳の分からないぶつかりあいが続いていました。最後はもうあきらめとか拒絶とか、そういうところまで行っていましたが、ある意味ではお互いに「自分が当たり前なのに、相手の言うことややることが理解できない、相手がヘンだ」と思っている、と言う意味では対等な関係だったと言えるかも知れません。

 そのあと「アスペと定型」という理解が共有されたときから、パートナーは「自分が悪い」としばしば言うようになりました。私が「いや、これはどっちが悪いとかじゃなくて、ズレの問題なんだから」「別にあなたがアスペという立場を、私が定型という立場を自分で選んだ訳じゃないんだから、そのことには責任はないんだし」というようなことを繰り返して言いましたが、でも納得はされませんでした。

 一つにはアスペというのは少数派で、「障がい」なのだから、「健常」な定型に「劣る」し、この社会は定型に合わせて作られた社会なのだから、「障がい者」はそれに合わせなければならないのだ、という観念や感覚が、私たちの中には相当根深くあって、自分が「障がい者」となればもうそれだけで「悪いのは自分」という考え方になりやすいこともあるでしょう。

 そういう考え方には私はなんとか反論できるように思えるんです。「少数派」であることは事実だし、この世の中が定型に合わせて作られている部分が多いことも事実だし、その中で現実問題としては多数派に合わせて生きざるを得ない場面が多いことも事実です。でもだからといってそれによってその人の「価値」が決まるわけではない。少数派には少数派の人だから果たせる役割があって、それは社会の中で必ず意味を持っている、とか、理屈の上ではそう考えることは出来ます。

 でも実際、たとえば子どもとの関係で見れば、子供達は定型なので、アスペの母親とはコミュニケーションのギャップがどうしても生まれてしまいやすく、そのことで子どもが苦しんだことは私の目から見てもそう思える部分が多くありましたから、「子どもをあれだけ苦しめたんだから私が悪い」と言われると、私もどう反論していいか分からなくなったりもしていました。夫婦はある意味で対等な大人同士の立場ですから、お互いに責任があると言えるけど、親子だとやはり子どもの方が弱者になりますから、大人の方により大きな配慮の責任があるというのは私も思うからです。

 これも理屈の上から言えば、そこに自分がアスペで子供達が定型というズレがある、ということを知らなかったのだから、配慮の仕方も分からなかったのは仕方ない、と言えないことはありませんし、実際私には理解できないやり方ではありましたが、パートナーはパートナーなりに必死で子育てをし、子供達が苦しむ姿を見て、悩み続けていたのですから、努力しなかったから悪いとも言えないわけです。

 けれども何を言っても子どもが苦しんでいたという事実は消しようもありませんし、私もその事態にうまく対応できなかったことで自分をすごく責めていますけれども、パートナーの場合はそこにさらに「自分がアスペだったから」という思いが入るので、感情的にも「仕方なかった」ではなかなかすまされないわけです。

 その問題は今のところ私たちの間ではどう考えていいのかわからないところで、ただ少なくとも「自分がアスペだから」という理由でパートナーが自分だけ自分を責めなければならないような状態はどこかがおかしいという思いが私の中にある、ということに留まっています。

 そんな風に親子間の問題についてはまだ難しいのですが、夫婦間の問題については最近随分変わってきたなあと感じることがあります。というのは、私がパートナーの言動で納得がいかずに議論になったりするときに、彼女の方から「そんなのお互い様じゃない」という反論が来ることが増えてきたように思えるんです。もちろんそういわれて私の方は感情的にはちょっとむっとくることもあるんですが、でも少なくとも頭では「ああよかった」と思えることが多いんですね。

 というのは以前なら「やっぱり私がアスペだから悪いんだ」という風にパートナーが自分を責める形になってしまいがちだったんですけれど、そうじゃなくてそれはお互いの感じ方、見方の違いが原因なので、「お互い様」なんだ、というふうにまずは対等に問題を考えてくれるようになったと思えるからです。そうなればほんとに対等な立場で問題の解決を考えていくことが出来るようになる。どちらかが一方的に我慢するとか、そういう形ではなくて。

 そういえば最近「それはもう諦めてちょうだい」というようなことを言うことも増えてきた気がします。自分はアスペであり、アスペの自分にとってそうすること(あるいはそうしないこと)は自然なことなんだから、そこで自分に無理をいわないでちょうだい、という意味だと思うんですが、これも定型には定型の生き方があるし、アスペにはアスペのやり方がある、ということを、どちらが優れているとかどちらに合わせるべきだとかいう話ではなくて、まずは対等に認め合うという姿勢から出てくる言葉のように思えます。

 うーんと、こんな風に考えてみると、少しずつだけど、お互いの関係は確実に変わってきてるんだなあと改めて思いますね。今の私にはその変化はとてもいい方向への変化だと感じられます。

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コメント

こんばんは。玄です。
ASは実際に劣るのだから劣等感を持って当たり前、障害を持っている社会不適応者だから抑圧されていることを前提にして接するべき、、、という考え方にパンダさんは反論を試みておられますが、どうも弱いですね。
たぶん、あんまり書かれていないだけと思うのですが、パートナーさんの良い点、得意な事、お子さんへの良い影響、などなどをもっと評価したらよいと思います。
むしろ、それなくしては、パートナーさんのパートナーは勤まらないでしょうし、局面のギャップが面白いとか、そういう理解もあるのではないでしょうか。

お子さんとパートナーさんとの間にあった「苦しみ」は、あまり語られていませんので、突っ込んだことは言えませんが、「それでも子は育つ」と思います。パートナーさんが自分を責めることで、パートナーさんは得るものがあるのでしょうかね?ASらしく、過去を割り切ったら良いでしょうに。その時のベストを尽くすのが、ASらしい生き方と僕は思いますし、そうやって後悔を最小限にして前進するしかないと思います。

ASはおそらく、「他人を応援」することが得意ではありません。その点では、物足りなく思ったり、不公平に感じたり、愛情を疑ったりするかもしれません。でも、見方を変えれば、もたれ合わない強さが基調なはずですから、お互いの良いところを少しずつ見習うしかないですね。

今日も、家内から「愛情があるなら、多少の失敗は許して」という内容のことを言われましたが、僕には話に論理的整合性が見出せず、混乱しました。愛情は愛情、失敗は失敗、許すかどうかはまた更に別モノです。それを同じテーブルで扱う強引さが、また新鮮でした。僕にとって不味い料理は不味いのが事実。改善案を伝えて次を期待することが許しであり、不味くても食べるのが愛情。そう説明しても、家内はむくれます。。。。

玄さん

 いつもポイントをついたコメント、ありがとうございます。
 パートナーのいいところをもっと評価する、というのも本当に大事だと思います。
 と同時に、やっぱりどうしてもまだまだ自分の視点で見てしまいますから、
 否定的に感じてしまう部分も多いということも事実だと思います。
 この辺はこれからの「修行」でしょうね (^ ^;)ゞ

 あと感じることは、パートナーの場合、多分その生い立ちも影響して、
 まず自分を否定的に見る、という姿勢がすごく強いように思います。
 それがようやく最近、少し柔らかくなってくれたかなあという感じもしています。
 その点、玄さんの書かれていることを見ていると、
 ご自分を肯定的に見る力をとてもお持ちのように感じて
 いいなあと思ってしまいます。

 お互いに自分を肯定し、相手も肯定しながら、
 そして(これは定型的な感覚が強いのかも知れないけれど)
 相手を肯定することが、相手が自分を肯定する力になるような
 そんな関係を育てていけたらなあと思うんですね。


 「愛情があるなら多少の失敗は許して」の話面白いですね。
 まずくても食べるのが愛情、と書かれていますが、
 改善案を伝えて次を期待するのも愛情の一つかなと思います。
 そのあたりどうなんでしょうね。 

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