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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2012年11月14日 (水)

自立してる?

 例によって玄さんのコメントに考えさせられています。今は

  「(アスペの方の)もたれ合わない強さが基調」

 という言葉なのですが、もし私の誤解でなければ「自立している生き方」と言い換えてもいいのかもしれません。アスペの方は人に頼ろうとせず、もたれかかろうとせず、自分で考え、自分で判断して生きようとしている、ということになるでしょうか。逆に言えば定型の人間は「もたれあう弱さ」に生きているということになります。

 ちょっと大げさですけれど、思えば「自立した人間になる」というのは、私の昔の理想でした。いろんなことについてちゃんと自分の頭で考え、自分の責任で行動する。他の人に甘えずに生きる。そんなことですね。そして理想の恋愛関係もそういう「自立した人間」同士のつながりとして考える。

 私がパートナーに一目惚れしたときのイメージにも、そういう「人にもたれかからずに自分の足で歩いている」という直感的な印象がありました。そして今改めて本当にそうやって生きてきたし、生きていこうとしている人なんだな」と感じます。それは今考えてみれば、とても「アスペ的な生き方」でもあるのですね。

 ところが私の中にはそういう「自立という理想」とは正反対に、それではやりきれない自分、「人ともたれ合いたい自分」がいるということを、だんだんと気がつくようになっていきました。「人とのつながりを強く求める自分」という言い方でもいいと思います。そして人間というのは一人で生きていくことは無理なんだ、人と人との間で支え合って生きていくしかないんだ、という思いが強まっていったと思います。

 もちろんアスペの方も人との関係の重要さは考えていると思いますし、だからこそ、私のパートナーも福祉関係の仕事をしたり、それにやりがいも感じているのだと思います。ただやっぱりそのときの「人との関係」とか「人とのつながり方」には定型の私の感覚とはずいぶんと違うものがあって、私から見るととても「割り切った関係」と感じられたりするんですね(福祉の現場ではそれが出来ることはとても重要だと思います)。

 うーん、まだやっぱりうまく整理して考えられないですけれど、私が持っている定型的な「もたれあう感覚」」とパートナーのアスペ的な「もたれ合わない感覚」と、その二つが出会ったときに、定型である私は改めて自分の「自立」ということをどう考えたらいいのか、ということが問題になっているのかも知れないと、そんな気もします。

 

 

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コメント

こんばんは。玄です。
うーん、「もたれ合わない強さ」については、ちょっと言い過ぎたかな?
ASの本質としては、「完全に甘えたい」という根っこがあって、それが現実では叶わないと見定めた瞬間、「もたれ合わない」までジャンプしてしまう気がします。
僕が面白いと思うのは、そういった階段の踊り場みたいな、同じ考え方に行き着く、というところでもあります。

 玄さん、こんばんは

 「完全に甘えたいという根っこがある」というお話し、ああそうなんだ!と思いました。
 それから「ジャンプしてしまう」という変化についても、他のこととも合わせて
 なるほどなあと、なんか納得する感じがしました。

 それでその変化について新たに疑問が生まれたのですが、
 一度そうやってジャンプして変化した後、また何かの機会にもう一度
 ジャンプして元に戻ったり、あるいはさらに別の変化をしたり
 ということはあるのでしょうか?

 それからもうひとつ、「そういった階段の踊り場みたいない、同じ考え方に行き着く」
 というところがちょっと分からなかったので、
 もう一度ご説明いただけるとありがたいです m(_ _)m

個人的なことを書かせていただきます。
このブログに書いてきた、私のASの友人男性が、11月9日に亡くなりました。
友達5人で看取ることが出来て、通夜・葬儀も、AS友人のこだわり世界の「映画」で彩ろうと、彼の(遺言通り)コレクションのうち2300作品の映画DVDを展示し、参列者や葬儀場スタッフにも持ち帰っていただきました。会場に流れるのは、彼の好きだった映画のテーマ曲ばかり。

父親も施設で寝たきりだし、親戚も居ず、高校の同級生を中心に、喪主不在の、完全な友人葬儀でした。

AS友人は、癌と告知されたときも、肺や肋骨に転移していると告知されたときも、半日ほど落ち込み憂鬱そうでしたが、そのストレスをそれ以上は引きずらず、いつものように朗らかに見えました。
主治医は「死への不安とか、ありませんか?」と聞くと「死んだことが無いので、不安かどうかと言われても」と答えていました。
友人は、医師や周囲が深刻な顔をすると必ず、ジョークを飛ばし「大丈夫、大丈夫」と医師を励まし、周囲を和ましていました。

そういう意味では、彼は精神的なもたれ方は誰にもしていないので、自立していると言えましょう。
しかし彼は「自分の死後」という、未来のことにあまりにも無関心で無頓着であったため、身元保証人となった私は「残された者のことを少しは考えてよ」と何度も頼み、その言葉の意味には「部屋を片付けて、大事なもの、不必要なものの分別、死後に知らせるべき人の連絡先、預貯金を司法書士に知らせるなど」たくさんの事柄があることを明記しました。

しかし彼は、未来系の思考に弱く、他者のための準備という概念が理解できなかったようで、なかなか着手してくれません。

だから私は、エンディングノートというものに、項目ごと記入してもらいました。

彼の死後、それはとても役立ち、混乱や困惑がなく、つつがなく友人達に連絡がとれて、様々な事柄がスムーズに遂行できました。

彼は「自分の死後、友人達に迷惑がかからないようにしたい」という気持はあっても、それを実現するための具体案はサッパリ解らず、結果的に、社会的丸投げ状態になったので
それを丸受けするためには「本人の希望も叶えながら、こちらも困らないように」という具体的手段、段取りを、私が完全リードしなければなりませんでした。

そこに、AS友人の、社会的自立がありませんでした。

誰かの力を借りなければならないとき、「今がそのとき」が解らず「何をどの人にどのように相談し、頼めばよいのか」解らない。

そういう「これからへの段取り」ということを、めんどくさがってしないのではなく、人に押し付ける傲慢な性格という訳では無く「アスペルガーという特性ゆえ」という周囲の理解を私も、医師も、ソーシャルワーカーも、民生委員さんも、周囲に喚起していたので、彼の最後は温かく包まれました。

本来はホスピスに行くべきところ、彼の「好きな病室への強い固執」を、主治医が認めてくれて、緊急医療の最前線の病棟に、場違いなのんびりとした看取り患者の彼を置いてくれました。
夜中に苦しくなりナースコールを押した彼のもとに看護師さんがかけつけると、彼はコレクションのモデルガンを握ってぐったりしていたので、看護師さんが悲鳴を上げたとか・・・禁止されていたお菓子やお好み焼きを病室のタンスの引き出しに隠していたとか、彼ならではの珍事件を巻き起こしながら「例外のユニークで愛すべき患者」として、本当に良くしていただきました。

私は、彼の友人知人に病状を知らせながら通夜の日を迎えたのですが、簡素な葬儀のつもりが、県外の友人知人からも沢山の花が届き、彼に向けたユニークで温かい文面の弔電が届き、予想外の多くの会葬者に参列してもらえて、葬儀場スタッフや参列者に
「まるで映画のようなお葬式」と言ってもらえたのは、きっとAS友も本望だったのではないかと、嬉しく思っています。

今は亡きAS友人を軸として、県内外の沢山の友人知人が四十九日に集まる予定となりました。
不思議なことに、おおよその人が「AS友人と1対1の関係性」で、横のつながりがほとんどありません。
同級生らも「AS友人とは親しかったが、ほかの同級生とは関わりが薄かった」という
いわばAS友人から、放射線状に伸びた人間関係なのです。

それでも、皆が集まり、それぞれの、AS友人の思い出話を語り合えば、ひととき温かい時間が過ごせたり、新しい友人関係が生まれるかも知れません。

結果的にですが、AS友人が出逢わせてくれた人々の輪は、予想外に大きくなりました。

天をあおぎ、言いたい事、感謝したい事、残されたお父さんのこと・・・これから、私は心の中のAS友人との会話が始まるのだと思います。

今になって気がついたのですが、私は両親に甘えて育ったワガママ1人娘で、ぐうたら主婦です。
その私が、他人の身元引き受け人になって葬儀や供養の責任者の立場になっている今の、ちょっぴり自立した姿は、まぎれもなくAS友人のおかげです。

AS友人を助けているつもりで、自立させてもらったのは私の方でした。
たくさんの出会いをもたらされたのは、私の方でした。

そして、AS友人とこのような関わりを持てたのは、パンダさんやこのブログでやりとりした皆さんのアドバイスやコメントの内容のおかげも大きかったです。
とりあえずご報告まで。
ありがとうございます。


パンダさん、ご質問有難うございます。
「踊り場」については、わかりにくい例えですみません。
考え方の飛躍を「ジャンプ」と表現したわけですが、そのジャンプの後の「着地点」が、
別人格のはずのASが結構「収束」していると思えるのです。
僕が、ASDの概念を知る前に自分のことについて書き残した「生き方や世界観について」の文と、見知らぬ人(AS)のそれが全く同じ言葉で表現されていたりするのです。
「定型にとっての普通」は、「ASの世界観」のように、「共有が約束されているものが、自ずと内から湧く」のかもしれませんね。

ご質問の「ジャンプした後の変化」は、すると考えています。
もともと、「こころの可塑性」があっての、心理発達のバリエーションですから、更なる変化や退行は十分ありえます。定型もASも、青春時代の思い込みや、その後の大人になる過程での深まりがあるはずです。老齢までを視野に入れた「発達」は、脳機能の可塑性を基盤にしていると考えています。

「発達障害」の「発達」「障害」の元の意味に着目すれば、「こころの発達過程」という時間軸においての「現状」が「障害(disorder)」=「上手くいくはずのところが、思い通りに上手くいかない」、、、という寄り道、別ルートを行く人生と言えるのかもしれません。

トマトさん、お疲れ様でした。ご報告有難うございます。
ご友人は、幸せですね。見事なサポートと思います。

不謹慎と思われるかもしれませんが、興味深いキーワードが沢山ありました。
「放射線状の人間関係」は社会性・組織性がないということですね。

未来が認識できない、ということは、お書きの通りと思います。
おそらく、死への恐怖は(未来に関心が向かないという意味で)なく、
(安心できる環境を作ってくださったお陰で)不安も無く、
(現状が精神的に満たされていればいいというAS感覚の意味で)過去への未練もない状態と推測します。

社会的自立に言及されていますが、全体の方向性としては個々の自立を求めつつ、完全に360度他人の手を借りない人はいないでしょうから、固まって生活する、というのが「社会」なのだと思います。(カバーし合う最小単位のユニットが「夫婦」なのでしょう)
「友人は社会的に自立していない」と感じたトマトさんご自身が、サポートという社会的機能を体現し、色々な手応えを持たれたようです。そうなると、一個人の自立度合いがどうという段階ではない気がします。すでにエンディングを迎えたわけですから、ケースのふり返りとして、どのようなニーズにどのようなサポートがあったか、という分析でよいと思います。重ねて申し上げますが、かなり適切なサポートだったようですね。羨ましがられる事例でしょう。

玄さん

 解説ありがとうございました。よく分かりました(多分…… (^ ^;)ゞ)。

 「「定型にとっての普通」は、「ASの世界観」のように、「共有が約束されているものが、自ずと内から湧く」のかもしれませんね。」

 と書かれた点ですが、そういう風に「自ずと着地点が一緒になる」場合もあるし、
 たとえば定型でも文化によって着地点が違う場合が結構あることを考えると、
 自ずとと言うより、「人工的に(?)着地点を一致させる」ことも多いと思えます。
 この「一致させる」仕組みみたいなものが、定型とアスペで違う部分がある、
 という風に考えてみています。具体的にはまだよく分かりませんけれど。

 ジャンプが一度きりではなくて、また戻ったり、新しいところへ進んだり、
 ということがあるという玄さんのお話を伺って、安心しました。
 というのは、自分が予期せぬところで予期せぬ方向に相手の人を
 ジャンプさせてしまった場合、もうそれ以降は修正の可能性がない
 となると、絶対失敗できないということになってすごく大変だし、
 悲しいことだなと思っていたからです。
 パートナーとの関係でもそこは気になるところでした。

 可塑性のあり方がアスペと定型とでちょっと違ったりするところがあるのかも
 しれませんけれど、でもそれを両者共に持っているということは心強いです。

パンダさん、こんばんは。
僕は、定型とASにそんなに違いはないというスタンスなので、可塑性には違いがないという想定をしています。
「人工的に(?)」というところも、定型とASは同じと考えていいのかもしれません。ただし、定型は「一致させる」の部分を特に「重視」する特性があるように思います。

ASにとっては「他との一致」の優先順位が低いわけですが、人為的に順位を繰り上げられれば、問題は抑え込めると思われます。「優先順位が違う」という初期設定が、パンダさんの疑問の「仕組みの違い」だと思うのですが、原因はわかりません。

SF的な空想ですが、ASがプロトタイプだとして、その変異体として「一致にこだわる」グループが発生して、それが団結して勢力を伸ばしている(混ざり合いながらゆっくり)という流れの中で、今はASが劣勢な局面、という捉え方はどうですか?ASは 孤独な単調な生活、厳しい環境に耐え得る傾向があると思えるので、人類の歴史上はAS特性が役立って幅を利かせていた多数派だったかもしれませんよ?(全く根拠ありませんが(^^))
定型の人でも、調子が悪いときには対人反応が悪くなったり注意力が偏ったりしますよね。それを定型の中のAS(プロトタイプ?)面の表れと捉えられるかもしれないですよ。それに環境によっては「AS的に」なろうと(例えばストイックを好ましいと感じたり、疲労や痛みや温度感覚を無視しようとしたり)しているように見えることもあります。ASD特性をハンディだとばかりに捉えるのは、単眼視ですよ。

玄さん

 SF的な空想がとても面白かったです。
 動物の進化の道筋を見てみると、
 人間への流れについては「群れ」からスタートしてるとは思うのですけれど、
 でも仰るようにAS的な特長がとても生かされるような時代を
 人間は過去に何度も経験してきているような気がします。
 だからこそ今、かなり多くのアスペの方がいらっしゃるのだと思います。

 「ASD特性をハンディと捉える」、という点は、説明が舌足らずだったと思いますが、
 ハンディキャップの言葉は、定型が主流の社会ではそれが基準にされてしまうので、
 「社会的にハンディを負わされる」という意味で使いました。
 ですから、当然アスペの方が中心という状況の中に定型が置かれれば、
 今度は定型がハンディキャップを負うという意味も含めて書きました。
 そういう理解については如何でしょうか?

パンダさん、おはようございます。
ハンディキャップという単語の考え方で、僕にはまだ考えるべき部分が残っていると分かりました。
パンダさんがAS特性をハンディキャップと表現されました。この点に僕は不服を感じてしまったのですが、考え直せば、「ハンディキャップ」という言葉は、状況を正確に理解しようとする「向き合う姿勢」から来るものでしょうから、批判される謂れは無いですよね。済みませんでした。もっとネガティブな、例えば「迷惑」という捉え方をされた状況を解きほぐすことの方が、難しいし、やるべきかなと考えています。

パンダさんは「ハンディキャップ」という言葉が、状況によって変化するものと考えておられるのですね?僕は、ハンディキャップは一度認定したら簡単には変えないイメージでしたので、「状況によって」「体調によって」「心構えによって」変化するASD特性を「ハンディキャップ」と表現するのは馴染まないと考えていました。(僕が診断を確定させることに批判的な事にも繋がります)

「ASD特性はハンディキャップ」と表現した時、ASD特性の不安定さが誤解なく伝わるかどうかを心配しています。ご質問からずれたかもしれませんが、いかがでしょうか?

玄さん

 「パンダさんは「ハンディキャップ」という言葉が、状況によって変化するものと考えておられるのですね?」

 はいそうです。例えば海外に行って、そこの言葉が分からなかったりすると、それだけでもうほんとに困ってしまうことが沢山起きます。現地の人なら子どもでも出来る簡単なことができなくなって、つくづく「ああ、自分は<ここでは>障がい者だなあ」と感じたりします。

 「「ASD特性はハンディキャップ」と表現した時、ASD特性の不安定さが誤解なく伝わるかどうかを心配しています。ご質問からずれたかもしれませんが、いかがでしょうか?」

 そうですね。とりあえず私が指摘したかったのはその人の特性自体の安定性のことではなくて、環境の方の問題だったのですが、玄さんが大事に考えられている「特性自体が変わっていく可能性」についても、その言い方でうまく伝わるかどうか、難しいかも知れません。

 もっと丁寧に説明すべきだったようです。

 

パンダさん、おはようございます。
「ハンディキャップ」という言葉については、受け止め方というか、定義が変化してきているのだと思います。「障害者」という言葉の概念も、肢体欠損のような明らかなものが元の意味と思いますが、最近は発達障害も障害者に認定する判断がありますので、「不安定で上手く行かない」状態も障害となる時代になってきました。ズレがあるのは、古い定義を引きずる受け取り手個々の問題です。
パンダさんは、ご自分の言葉の意味合いを示されました。有難うございました。
僕は、古い定義を引きずって受け止める方がいることを心配しました。
「困っていることを説明する」それだけでも、言葉の意味合いが揺らいでいると難しいと感じます。

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