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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2012年11月20日 (火)

カチンと来る

 定型の人がアスペの方の発言に「カチンと来る」というようなことを言われることがしばしばあると思いますし、私もパートナーの言うことに「カチンと来た」経験は何度もしています。それで、アスペの方の「特徴」として、言葉の選び方が不適切だとか、空気を読めないだとか、そういうコミュニケーション「能力のなさ」を指摘されたりしていますよね。

 けれども、最近思うようになってきたことは、実際には定型の(というか具体的には私の、ですけれど)人の発言がアスペの方にとって「カチンと来る」ことも結構多いだろうということです。

 実際、このブログでも私の何気なくした発言に「カチン」と来られて何人かの方から厳しく批判をされたことがあったわけですけれど、私にはその意味がやっぱり十分には理解できなかったと思いますし、今でもそうです。そういう私はきっと「空気が読めない」人間で、「言葉の選び方が不適切」な人間という事になるんじゃないでしょうか。(もちろん私なりにお答えしようとしたことがうまく伝わらなかったなあと言う残念な気持ちも持っていますし、これからの課題と思っていますけれど)

 先日もパートナーと散歩しながら話をしていて、彼女が私を本当に心配して言ってくれていることがよくわからなくて、だいぶ責められた(と感じてしまった)んですが (^ ^;)ゞ、これもある意味私が彼女の「空気を読めない」ということですよね。もしその場に複数のアスペの方がいて、パートナーの言うことを理解されたとすれば、その場でそれがわかんないのは私だけなので、「空気が読めない」と言われて悩むのは私の方になるでしょう。

 そう考えると、やっぱりなんか「お互い様」なんだなあという気になります。以前からそういう発想自体は私は持っていたと思うんですが、なんて言うのか、実感として「ああお互い様だ」という感じがしてくるようになってきた気がするんです。

 少しずつ自分の中でそういう変化が進んでいるように思いますけれど、やっぱりそういうのってそれなりに時間がかかりますね。頭で理解するだけではだめですもんね。身体が納得してくれないといけない。(という発想自体、もしかすると定型的とかかも知れないわけですが……)

 そう考えると、「時間をかける」って、大事なことだなと思えます。

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コメント

「カチンとくる」という言葉は私自身はあまり使わないですが、アスペの夫が人の話をする時によく言っていた気がします。
私は彼の心無い言葉には、「はっ?」の一言しか今まで出てこなかったですが・・・
ただ、ウチはまだ夫婦で「アスペ」とか「定型」といった言葉を共有すらしておらず、お互いの意思も考えも交わることなく平行線で、お互いに意味不明の空間を共有している状態です。
夫がアスペかどうかも私が10年以上経ってから疑いだしたことであって診断をうけたわけではありません。

ですが、10年経っても縮まらない関係・・・人付き合いが苦手な性質や、すぐに自分の世界に入るところなど・・・私の仕事や体調や人の事には興味を示さないなどなど、アスペと考えるとなるほど、と納得できる事ばかりでした。
本人は自分がアスペと思いたくないけれど、心理学や発達障害の本は読んでいるようです。
アスペ定型を共有できればそこからスタートなんでしょうね。

パンダさんの「時間をかける」ことの大事さを感じるレベルにはウチはほど遠く、今のところ対策もたてられずに途方にくれていますが、もう少し色んな人の話を聞いてみようと思っています。

あっこさん

 「本人は自分がアスペと思いたくないけれど、心理学や発達障害の本は読んでいるようです。」

 そうですか。なんか動き始めた感じですね。ご本人もこれまで感じてきた人間関係の違和感の理由を知りたいと思われているのかも知れませんよね。無理なく自然に問題を共有できるようになるといいなあと思います。

 どうやったらいいのかはそれぞれのカップルのご事情とかが違うから、一概に言えないのでしょうけれど、たとえばタイミングを見てさりげなくおつれあいさんのそういう本を「これ、面白そうだね。私も読んでいい?」とか聞いて読んでみるとか、ちょっとずつきっかけを探してみるのもありなのかもしれません。

 ただ、そういうのもやっぱり「時間をかけて」無理のない自然なタイミングが来るのを待つ、というのがいいような気がします。きっとそれぞれのカップルにあったタイミングというのがあるように思うんです。そのタイミングが訪れる時がいつなのかは勿論私には分かりませんけれど、なんとなくそちらの方向に向かいつつあるようにも感じました。

 いや、ほんとに具体的な状況とか知らないで、勝手にちょっとそう感じたというだけなので、全然的外れかも知れませんが (^ ^;)ゞ

僕も、「お互い様」と受け止めています。
空気に関しては、「違う空気」で生きているのかもしれませんね。
もちろん、「一緒の空気を吸っている」時もちゃんとあると思います。

前にASの考えの飛躍の「着地点」が似ている、という話をしましたが、かといってAS同士が「常に分かり合えるとは限らない」と思っています。(僕は、他のASDの発言にカチンとくることがありますから)ASも定型と同じ様式で思考しているときがあるからだと思っています。

あっこさん、おはようございます。
既にされているかと思いますが、旦那さんに「こうした方がいい?」と{ASDを疑って」ではなく、「旦那さんに合わせる」スタンスで寄り添って頂ければと思います。
伝えたいことをメモにして渡すとか、パターン化した活動を認めるとか、そういった小さなことで旦那さんはあっこさんとの生活がより好ましいと感じると思います。
あっこさんが悩んだ分、すでに距離は縮まっていると思います。(旦那さん本人の悩みは「心の距離」とは別の部分かもしれませんが、そこを分かってください)
旦那さんとの付き合いは、10年ではなく、もっとロングスパンで考えるのはどうでしょうか?
僕のところも10年くらいなもんですが、トータル30年くらいかけて理解しあうというのでもよいと、そんな感じです。

とても参考になるご意見ありがとうございます。

実は読書好きな夫が、以前から心理学の本も読んでいて、私が発達障害の本を読みはじめたのは彼にすすめられた本を読んだのがきっかけでした。
私は他人に興味を示さない夫が、心かよわせ方とかその手に関する本を読むのが不思議でした。
夫いわく、自分が空気を読めず、まわりに気がつかないのは母親に原因があるとも言っていました。
たしかに義母は、夫よりもアスペの傾向が強く(私から見て)話をしても気持ちは伝わりませんが、事実は完璧に伝わり、しかもとてもよく記憶しています。

夫の悩みは私の感じる「心の距離」とは別の部分・・・なんでしょうね。それが何なのか本人も説明ができず、こちらも理解できずにいます。

トータル30年・・・今は気が遠くなる気分ですが、そのうち慣れるのかな・・・

故人となった私の友人ASも「活字の人」でした。
ASの人の中には、相談相手は人より本、というタイプの人が居るような気がします。

友人ASの場合、人が発する言葉と本に書かれている活字との差異があまりなかったのかも知れません。彼の読んだあとの本や雑誌を見ると、赤ペンで誤字や句読点の位置の訂正のほかに、赤線を引いて「ごもっとも!」とか「これはあきらかに偏見だと思うけどなぁ」など、まるで会話をしているように、自分の意見や思いを、行間や空白部分に書き込んでいるからです。

彼は、人との会話で「カチン」ときて、譲りやたゆみのない反論を言いつのることもありましたが、本に書かれている表現にも「カチン」ときて「馬鹿じゃないか、失敬にもほどがある」「おまえのような奴がいるから世の中は〜」などと、掲載の文章に赤ペンで抗議していました。

彼の本棚には、発達障害やアスペルガーに関する本が10冊ほどありました。

しかし読んで頭の中の知識とすることと、知識を実際に活用するということに「応用」という架け橋が無くて、知識の集積は出来ても「解ってるなら気をつけろよ」という周囲の言葉の意味は、彼には理解出来ないように見えました。

パンダさんの今回のテーマは、実生活でASと定型の両者の一番の困りどころではないかと感じます。
「なんで、この言い方で、相手は傷ついただの酷いだのと怒ったりするのたろう?」
そこには、地雷と呼ばれる「その言葉のずっと手前の概念のズレ」が原因だと思うのです。


玄さん

 「前にASの考えの飛躍の「着地点」が似ている、という話をしましたが、かといってAS同士が「常に分かり合えるとは限らない」と思っています。(僕は、他のASDの発言にカチンとくることがありますから)ASも定型と同じ様式で思考しているときがあるからだと思っています。」

 そうですね。定型同士でも「カチン」ときますから (^o^)
 ここも中々明確に線引きして区別するのは難しいところだと思います。とりあえずは「そういう傾向がある」という位に緩く考えて、具体的に見てみるといろいろそうでない場合もたくさんあるよ、ということをいつも心にとめておかないといけないと思います。


 あっこさん

 そうですか。実際は私の想像したのと反対の順番だったんですね。そうすると、既に共有のための手がかりはあるんだけど、でも今のところそれが手がかりとしては使うのが難しそうな感じなんですね。

 これもほんとに思いつきで申し訳ないですけど(というか、それしかできないんですが (^ ^;)ゞ)、直接おつれあいさんの問題として語り合うのは置いておいて、義母さんのことを語り合うときの共通の手がかりとして、勧められた本の内容を使って話をしてみる、というような道もあるかもしれないと、ふと思いました。そのうちに義母さんのことを「鏡」として、おつれあいさんが自分のことを何か発見されることがあるかもしれないとか、そんな気がしたので……


 トマトさん

 お友達の本の書き込みの例が、なんかとてもわかりやすい感じがしました。なんでそういう具体的な例ってわかりやすいんでしょうね。そのお友達の世界を少し体験させていただくような感じがしたのかな。(もちろん、その想像の仕方はぜんぜんずれてるかも知れませんけれど……)

 「その言葉のずっと手前の概念のズレ」って、とても大きな問題ですよね。言葉にならないズレをどうやってお互いに理解し合えるのか……

 

「ずっと手前の概念のズレ」について。
僕は、自分の活動で「出来ることと出来ないことの違い」が何故こんなに感じられるのか、が疑問で、脳血管疾患でこうなるのかとか、調べていてASDの概念に行き着き、医師の意見を聞きに精神科を受診しました。
「カチンとくる」というのは、知識としてはあるけど出来ないという入り口の部分での状態というか、言い訳的な発想への不満なのかもしれませんね。やりもしないで、というか。
努力はどうした、みたいな。

イメージ的な例えです。100m走のスタートラインで、ほとんどの人が走る格好をしているのに、一人だけ「足ひれ」を履いて体操。人によっては、「おい、お前はそのレースに出るな」というでしょうし、「最後まで頑張って走ってみろ」という人もいるかもしれません。どっちが「優しさ」・「その人のため」か、答えはありません。足ひれの人は、「それしか持っていないし、運動の格好で集合しろといわれた」と反論するかもしれません。で、多くの人は「足ひれを脱げ」というツッコミをしつつ、で、「足ひれを履いて登場」した感覚に「カチンと来ている」かもししれない。
もっと言えば、その足ひれは、自分で履いたのでなく、物心ついたときからずっとこれだったから、取りたくても取れない。自分でも面倒と思うし疲れるし。たまに役立つと思うときもあるけど、一日のほとんどの時間は諦めている。他人がどんな靴かを考えることは、詮無いだけだという境地。「退場」を言われる事に慣れるのが怖い。自分から退場することに慣れたくない。
今の状態で素早く走る努力、得意な種目に切り替える努力、足ひれを脱ぐ努力、ひれを短くする努力、他人がどんな靴を履いているのかを目配りする努力、他人のタイムを知って自分と比べる努力、退場しろと言われても反抗する努力。どれをやるべきで、やる意味があるのか。やった結果が納得できそうなのか。どれをすることが「ズレ」で、どれをすることが「ズレを小さくしようとする」ことになるのか。
「分かっていても出来ない葛藤」は、こんな感じです。

玄さんの「例え」は、とても解りやすくて、定型のどの年齢層にもイメージしやすいストーリー性があると思いますし、私的には童話的に伝わって来て、感動すらありました。

もし、小中学校で先生がASについて、定型とのズレ感覚の一例を教える場面などがあれば・・・是非、この玄さんのコメントを参考にして欲しいと思います。

トマトさん、お疲れ様でした。

お友達がモデルガンを抱えて寝ていたところを想像したら、よほどモデルガンが好きだったんだとわかって悲しかったです。
うるさいほどにぎやかで快活だった人がいなくなったのですから、簡単に忘れたりできず、当分寂しさが癒えないと思います。
でもトマトさんの、複雑な人間を避けないで関わろうとする度量の大きさ、優しさはみんなのものとして大切にして欲しいです。
AS定型問わず、他人の孤独に付き合える人間はそれほどいません。
当たり前ですが皆自分のことで一杯いっぱいです。

わたしは最近AS友人のことであまり悩まなくなりました。
腹が立つことにも図太くなり、こちらのサイトを拾い読みしたり熟読したり、それで冷静になれました。
怒りがでても抑えず、言いぶんは一拍置いて穏やかに、でもハッキリ言います。
案外我慢しない方が良好な循環がうまれています。

また、彼がプリプリしている時は、単に機嫌がわるいだけなのか他に理由があるのか尋ね、わたしと関係ないことだったらほっておきます。

テンションがもどって寄ってきてくれたら歓迎、それでいいと思うようになりました。
シンプルに細く長く保つには、がむしゃらに修復しないほうが良いんだなと。

どなたかも言われてたかもしれませんが、パンダさんの記事は即効性があると言うより、目を通すうちにじわじわ効いてくる煎じ薬のようです。さらに皆さんのどういうコメントでも役立つし、勇気づけられます。
ここに来る人たちは、何も頼るものがない心境を知っているから。
アスペ恋人、友人のことで悩む人は、どこからでもよいからたくさん読むことをおすすめしたいです。

トマトさんがおっしゃるように、玄さんの例えはほんとうにわかりやすくで驚きます。どうしてそんなにわかりやすい例えを思いつけるのでしょう?

もしそれが玄さんの特別の才能(だけ)によるのではないのなら、アスペと定型の会話の中で「たとえ話」がお互いを理解し合う上で、すごく大きな手段になるかも知れませんよね。

玄さんがたとえ話をされるときには「こう言えば定型にもわかりやすいだろう」みたいな、そういうコツを意識されているのでしょうか?それともとりあえず自分にわかりやすいたとえ話をされているのでしょうか?

おはようございます。玄です。
トマトさん、パンダさん、例えが気に入って頂けたようで、うれしいです。
ただ、ASDの方からのコメントがないので、僕の精神世界の描写なだけであって「全てのASDの心情が表現された」わけではないのでしょうね。

でも、調子に乗って「100m走」のつづき。
「足ひれ」な人は、世界中にいて、それぞれのレースに挑んでる。
その中には、「逆立ち歩き」や「後ろ向きダッシュ」を身につけて、ゴールに到達する人も出てくる。そこには、もちろん「普通に走る人」にはありえない、乗り越えてきたものがある。
そしてついに、ごくごく僅かな人が、足ひれの爪先の跳躍で、常人にないストライドを実現するに至る。そんな人は注目を集め、「天才」と称賛されるのでしょう。足ひれ=天才ではなく、ありえない境地に至る可能性だと思うのです。
そして、どの「足ひれランナー」にも言えることは「逆立ち」にしろ「後ろ向き」にしろ「爪先立ち」にしろ、走る間に見えた風景も感想も「他の人と全然違う」だろうということ。

走る方法は、結局いくつかのスタイルに収束されるようなので、そのノウハウは共有されたほうが、より練習しやすく洗練されたものになるだろう、という予想があります。だから、足ひれ同士は交流した方がいい。
定型の方には、「100m走」の隣コースの人が「なぜ走り難くそうにしているのか、なぜ違うスタイルで走るのか、なぜ違う感想を持つのか」という疑問を持たれたときに、着目点を変えれば「足ひれに相当する何か」が見つかるかもしれません。

そして、足ひれの人には、かかと歩きでいいから、前に進んで欲しいと思う。前に進むためには、「足ひれがどうして出来たか」を研究している人に付き合って何タイプ足ひれかを決定することよりも、練習コースの小石を拾うことの方が大事と思う。
前進する人には、世間はそんなに冷たくないとも言いたいですね。

玄さん

 「前に進むためには、「足ひれがどうして出来たか」を研究している人に付き合って何タイプ足ひれかを決定することよりも、練習コースの小石を拾うことの方が大事と思う。」

 この比喩がまたとても面白かったです。私が今まで書いてきた言葉で表現すると、「専門家」にはできないことで当事者だからこそできることがある、というようなことになると思います。「当事者という専門家」という言い方もしたかもしれません。

 それで、その練習コースの小石拾いを、アスペと定型の両方ができるようになるといいなあと思います。そのためには「うまく小石を見つける力」が必要になると思うんですが、そのとき、相手にとってはどれが問題になる小石なのか、ということを分からないといけないんだろうと思います。

 そのとき、自分にとってつまづきの元になったり痛かったりする小石は、相手の人には問題にならなくて、相手の人にとって問題になる小石は自分には全然問題にならない、ということがあることを納得できないと、結局相手にとって意味のない小石を無駄に一生懸命拾うだけになるんですよね。そして疲れ果ててしまう。

玄さんへ

私も【練習コースの小石を拾うことの方が大事と思う。】という点の最重要性とその最難関を感じます。
小石を拾ってあげようとして、自分が大岩になっていることの方が多いかも・・・。

【どの「足ひれランナー」にも言えることは「逆立ち」にしろ「後ろ向き」にしろ「爪先立ち」にしろ、走る間に見えた風景も感想も「他の人と全然違う」だろうということ。】
本当ですね。自分と相手が同じ作業をしていても、同じ場所に到着しても、そこまでの経路が違うと、感覚や理解が「全然違う」になって当然ですね。
「例え話」が上手、あるいは自分にマッチする「例え話」だと、定型の多くは内容や感覚を受け入れやすいと思います。
ASの方は、例え話がよけい混乱する、というタイプの人も多いと聞きます。玄さんは「例え話をする」のは上手ですが、「例え話を聞く、読む」という受け身でもOKですか?

(その例え話が下手だったりズレていたら、もちろん混乱の種ですが)


トマトさん、おはようございます。コメント有難うございます。
パンダさんのご質問にもお答えすることになるかと思いますが、
僕は、自分で「言葉が好き」だと思っていますし、言葉に複数のタグ付けをすることにいそしんでいます。ダブルミーニングマニアというか。
ですので、聞いた話を違うように受け取れるか、違う場面で聞いても同じに解釈できるか、を考えるのは楽しい作業です。ストーリーの続きを空想するのも、楽しいですし。桃太郎のスピンオフ・ストーリーを考えるとか。(内容はもう忘れました。小学生の頃です)
他のASの方の例え話で、その人のカラーが出ていてユニークだな、という意味で面白いことがありますが、ピンとくることは余りありません。結局、僕も、誰かに合わせているのではなくて、勝手な放言をしているに近いのだと思います。。。

玄さん、お答えいただいてありがとうございます。

【言葉に複数のタグ付けをすることにいそしんでいます。】
いそしんでいる・・・という表現にウケまくりました。

【ダブルミーニングマニアというか。】
玄さんは、日常でも会話好きでユーモラスな喋り方をされるタイプですか?
私のAS友人がそういうタイプでした。
だから、初対面の人でもつられて笑顔になっていたのですが。
確かにマニアになると、独り言も多くなりそうですが。

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