また自立の話
トマトさんのお友達(アスペの方)がなくなったということで、その方との関わりやトマトさんの思いなどについて、多くのことを書いて下さいました。玄さんも「ご友人は、幸せですね。見事なサポートと思います。」と書かれていますが、同感ですし、色んな事を考えさせていただける気がします。その方のご冥福を祈りつつ……
自立ということについて、アスペの方についてもふたつの面から見ることが出来るんですね。ひとつは玄さんが書かれていたように「もたれ合わない」形で生きて行かれる、という生きる姿勢というか、精神的な面でのというか、そういう自立した面です。ただし、これも玄さんが書かれていたように、それは「完全に甘えたい」という気持ちがもともとあって、それが無理と分かったときにそこからジャンプしてそうなる、ということだとすれば、その生き方の裏面には「他の人に依存する」という面を持っていると言えるかも知れません。
もうひとつ言えることは、そういう自立した生きる姿勢を持っているアスペの方は、定型が多数派であるこの社会では、しばしば「サポートされる人」という位置に置かれ、その意味で社会的には「自立していない」とか「依存する」と言われるような面を持っている。もちろんそこでも特にサポートを受けるということなく、基本的には自分の力でこの社会を生きている方も多いわけですが、そういう方も含め、この社会の中では多くのハンディを抱えて努力されているということは間違いないでしょうし、そこに「サポート」が加わることで、もっと生きやすく、あるいは活躍しやすくなるのだと思います。
パートナーにも聞いてみたんですが、言われたことはとてもわかりやすかったです。もともと子どものころは依存して甘えるのは当然なんだけど、そこから周りと関係を調整しなければならなくなっていく。けれどもその調整がうまく行かずにいろいろもめてしまうので、それなら一人で自分で生きていく方がすっきりするから、そうなる。というわけです。完全に甘えられるのならいいだろうけれど、それは不可能だから、とも言っていました。
そこでまた玄さんなんですが、「考え方の飛躍を「ジャンプ」と表現したわけですが、そのジャンプの後の「着地点」が、別人格のはずのASが結構「収束」していると思えるのです。」と言われています。とても興味深いなあと思いました。当然と言えば当然なのかも知れませんが、そういう共通した部分を持つところが「アスペルガー」という名前でまとめられる理由なのでしょう。
少し前に私には予想できなかったところで何人かのアスペの方が憤慨されて、残念ながら噛み合わない議論になってしまいましたが、そこでの噛み合わなさにも、なにかそれぞれに共通する部分があるような気がしました(もちろん、あそこでの議論が完全にアスペと定型の違いとは言えないと思っていますけれど)。そのとき、一部なのかも知れないけれども、こんな形でアスペの方達がその共通した部分を足場に「団結」しているように感じられる場合もあるんだなあとしみじみ感じました。
そういう「共通した部分」でアスペの方達が自分達に合った独自の関係を持ち、定型とはひと味違った独特のルールを持った「社会」を作れるのかも知れないと考えたりもします。そのときにはアスペルガー的な「自立」がとても大事になるのかなとも思います。けれども、現実にはやはり定型とアスペと、お互いに別々に生きていくことは無理でしょう(だからこそこのブログもあるわけですけれど)。
ちょっと話がこんがらがってきましたけど、つまり考えたいことは、「自立」ということの意味が定型とアスペで違いがあるような気がして、それは単に「自立」の面を考えるだけではわからなくて、それと「依存」とか「甘え」との関係を見てみるともう少しわかりやすくなるのではないかということ。そしてもしそうだとすれば、そういう「自立」と「依存」の違いを持った者同士がどうやってお互いの関係を調整できるのか、という問題が出てくるんだ、ということです。もしかすると相手に「甘えたい」気持ちをより強く持っているように思える定型の方がそこは大きな問題になるのかも知れませんが。
トマトさんとお友達の関係も、そういう問題を考える上でもとても大きな意味を持っていたようにも思います。
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