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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2012年11月

2012年11月27日 (火)

たとえ話は通じやすい?

 

玄さんのたとえ話こちらも)がとてもわかりやすかったので、もしかすると定型とアスペのコミュニケーションに、この「たとえ話」という方法を工夫して使うと、なにかお互いの理解がしやすくなるということがあるかもしれない、とそのとき思いました。

 ただ、これも玄さんの解説によると、やはり問題はそんなに簡単ではないようで、玄さんのたとえ話が私たち定型にわかりやすいのは、玄さんが「言葉が好き」で、同じ言葉にいろんな意味を見つけて楽しんだり、物語を組み替えたり展開させたりして遊んでこられたという「特技」をお持ちであることが背景にあるようです。実際、他のアスペの方たちが使うたとえ話については、玄さんはぴんと来ないことが多いと書かれています。

 そのコメントを拝見して改めて自分の経験を振り返ってみると、私自身がパートナーに大事なことを伝えようとして考えて使ったたとえ話が、「何を言いたいのか分からない」とよく言われてしまったことを思い出しました。ただし彼女がたまに使うたとえ話にはやはりとても分かりやすいものがあるなあということも思い出しました。

 このたったふたつの例からいくつかの可能性を考えてみたに過ぎないのですが、もしかすると、アスペの方はたとえ話はするのは得意なこともあるけど、聞くのはあまり得意でない、という傾向があるかも知れない。そう思ってパートナーに玄さんのたとえ話を読んでもらってやはりわかりやすいと思うかどうかを聞いてみたんですが、「それなりに分かるんじゃない?」という感想でした。「それなり」というのがどの程度のことなのかはよく分かりませんが (^ ^;)ゞ、何にしても単純に「するのは得意、聞くのは苦手」ということでもないようです。この点は玄さんが定型の使うたとえ話を理解しやすいと感じるかどうか、も教えていただくとさらに考える手がかりが増えそうです。

 また、玄さんが書かれているように「言葉が好き」というところが一番大事なポイントになるのかなとも思います。特にひとつの言葉にいくつかの違う意味を見つけて楽しむような、ある意味だじゃれを楽しめるようなそういう才能(技能?)が、わかりやすいたとえ話を生み出せる上でとても力になっているのかもしれません。もしそうだとすれば、わかりやすいたとえ話が出来る方は多分理解する方も結構お得意になる可能性が高い気がします。その場合は私のたとえ話がパートナーに伝わりにくいことがしばしばあったのは、また別の原因が大きく効いていたのかも知れません(当時は関係がとてもシビアだったので、その緊張感が影響していた可能性も十分にありそうです)。

 この二番目の場合には、玄さんのような方はアスペ的な世界と定型の世界を結ぶ通訳者みたいな役割を果たせる特別の才能をお持ちだという可能性がありますよね。そのとき通訳に使うことばは「たとえ話」だとか。たとえばの話ですが (^o^)

 まだよく分かんないけど、ちょっと引き続き注目していきたいポイントになりました。

 

2012年11月24日 (土)

頼るものがない

「ここに来る人たちは、何も頼るものがない心境を知っているから。」

 

はるこさんのこのコメントがなんだかすごく心に染みてしまいました。

 定型とアスペのカップルでは、定型の側から見ると、相手の人と「もたれかかり合う」ことをどこかで望みながらそれができない辛さが続くように思うし、アスペの方の側から見ると、多分すでにこの世には甘えられるものはなくて、自分ひとりで解決していくしかないという覚悟で生きていらっしゃるようにも思えます。こう書くと、アスペの方の方が自立して一歩先を進まれているようにも見えますが、でも現実には定型がメインのこの世の中では理解されず、そして定型のやり方も理解しにくく、ほんとに辛い思いをして苦労をされている方が多い。

 このブログには今は一日に200人位の方が訪れて下さっていて(そのほか携帯からアクセスされる方はそこにはカウントされていないらしいです)、そのうちアスペの方がどのくらいで定型の方がどのくらいかは全然分かりませんけれど、でもやっぱりどこかにそんな孤独な思いや辛さを抱えながら、生きていらっしゃる方がほとんどなんだろうなと思います。

 もちろん私自身、心にたまっていく辛さやもやもやした思いをいろんな言葉にすることで、少しでも気持ちを整理して楽になっていきたいと記事を書いています。もともとそのために始めたことですし。そこに同じように「何も頼るものがない心境を知っている」方が訪れて下さっている。もしかするとこれは定型の「もたれ合い」の感覚なのかも知れないし、それを超えてアスペの方にも共有されるのかどうか、私にはわかりませんけれど、そんな思いを共有できる場になっているとすれば、私にとってもほんとに有り難いことだと思えます。

 阪神淡路大震災で身内の方を失うという辛い思いをされた方達が、お互いに思いを語り合うような集まりについてお話しを聞いたことがあるんですが、そこではお一人お一人が、決して他人には理解してもらえないと感じる辛さを抱えて、集まってこられているということでした。それにもかかわらず、そこにみなさんが集うことの意味は、「自分の痛みは決して人には理解してもらえない」という、その思いを共有できることにある、という話でした。

 何か似ているところがあるのかなとも思います。はるこさんの「何も頼れるものがない心境」と「自分の痛みは決して人には理解してもらえないという思い」はつながるところがあるように感じますし、その思いを共有できる場が大事、というところもつながる気がします。違うところは、その震災後の集まりに来られている方は、「なくなった方」との関係で辛い思いをされているのに対して、この場に来られる方の多くは、今現在に生きている方との関係でさまざまな悩みを抱えていらっしゃる、という点かも知れません。

 この共有の感じは私の経験からすると、定型同士の間では多分生じやすいと思うのですが、アスペの方とはどうなのでしょうか。そこがひとつの共通の足場になるのか、それともまた違うのか、考えていきたいなと思います。

 

2012年11月20日 (火)

カチンと来る

 定型の人がアスペの方の発言に「カチンと来る」というようなことを言われることがしばしばあると思いますし、私もパートナーの言うことに「カチンと来た」経験は何度もしています。それで、アスペの方の「特徴」として、言葉の選び方が不適切だとか、空気を読めないだとか、そういうコミュニケーション「能力のなさ」を指摘されたりしていますよね。

 けれども、最近思うようになってきたことは、実際には定型の(というか具体的には私の、ですけれど)人の発言がアスペの方にとって「カチンと来る」ことも結構多いだろうということです。

 実際、このブログでも私の何気なくした発言に「カチン」と来られて何人かの方から厳しく批判をされたことがあったわけですけれど、私にはその意味がやっぱり十分には理解できなかったと思いますし、今でもそうです。そういう私はきっと「空気が読めない」人間で、「言葉の選び方が不適切」な人間という事になるんじゃないでしょうか。(もちろん私なりにお答えしようとしたことがうまく伝わらなかったなあと言う残念な気持ちも持っていますし、これからの課題と思っていますけれど)

 先日もパートナーと散歩しながら話をしていて、彼女が私を本当に心配して言ってくれていることがよくわからなくて、だいぶ責められた(と感じてしまった)んですが (^ ^;)ゞ、これもある意味私が彼女の「空気を読めない」ということですよね。もしその場に複数のアスペの方がいて、パートナーの言うことを理解されたとすれば、その場でそれがわかんないのは私だけなので、「空気が読めない」と言われて悩むのは私の方になるでしょう。

 そう考えると、やっぱりなんか「お互い様」なんだなあという気になります。以前からそういう発想自体は私は持っていたと思うんですが、なんて言うのか、実感として「ああお互い様だ」という感じがしてくるようになってきた気がするんです。

 少しずつ自分の中でそういう変化が進んでいるように思いますけれど、やっぱりそういうのってそれなりに時間がかかりますね。頭で理解するだけではだめですもんね。身体が納得してくれないといけない。(という発想自体、もしかすると定型的とかかも知れないわけですが……)

 そう考えると、「時間をかける」って、大事なことだなと思えます。

2012年11月18日 (日)

また自立の話

 トマトさんのお友達(アスペの方)がなくなったということで、その方との関わりやトマトさんの思いなどについて、多くのことを書いて下さいました玄さんも「ご友人は、幸せですね。見事なサポートと思います。」と書かれていますが、同感ですし、色んな事を考えさせていただける気がします。その方のご冥福を祈りつつ……

 自立ということについて、アスペの方についてもふたつの面から見ることが出来るんですね。ひとつは玄さんが書かれていたように「もたれ合わない」形で生きて行かれる、という生きる姿勢というか、精神的な面でのというか、そういう自立した面です。ただし、これも玄さんが書かれていたように、それは「完全に甘えたい」という気持ちがもともとあって、それが無理と分かったときにそこからジャンプしてそうなる、ということだとすれば、その生き方の裏面には「他の人に依存する」という面を持っていると言えるかも知れません。

 もうひとつ言えることは、そういう自立した生きる姿勢を持っているアスペの方は、定型が多数派であるこの社会では、しばしば「サポートされる人」という位置に置かれ、その意味で社会的には「自立していない」とか「依存する」と言われるような面を持っている。もちろんそこでも特にサポートを受けるということなく、基本的には自分の力でこの社会を生きている方も多いわけですが、そういう方も含め、この社会の中では多くのハンディを抱えて努力されているということは間違いないでしょうし、そこに「サポート」が加わることで、もっと生きやすく、あるいは活躍しやすくなるのだと思います。

 パートナーにも聞いてみたんですが、言われたことはとてもわかりやすかったです。もともと子どものころは依存して甘えるのは当然なんだけど、そこから周りと関係を調整しなければならなくなっていく。けれどもその調整がうまく行かずにいろいろもめてしまうので、それなら一人で自分で生きていく方がすっきりするから、そうなる。というわけです。完全に甘えられるのならいいだろうけれど、それは不可能だから、とも言っていました。

 そこでまた玄さんなんですが、「考え方の飛躍を「ジャンプ」と表現したわけですが、そのジャンプの後の「着地点」が、別人格のはずのASが結構「収束」していると思えるのです。」と言われています。とても興味深いなあと思いました。当然と言えば当然なのかも知れませんが、そういう共通した部分を持つところが「アスペルガー」という名前でまとめられる理由なのでしょう。

 少し前に私には予想できなかったところで何人かのアスペの方が憤慨されて、残念ながら噛み合わない議論になってしまいましたが、そこでの噛み合わなさにも、なにかそれぞれに共通する部分があるような気がしました(もちろん、あそこでの議論が完全にアスペと定型の違いとは言えないと思っていますけれど)。そのとき、一部なのかも知れないけれども、こんな形でアスペの方達がその共通した部分を足場に「団結」しているように感じられる場合もあるんだなあとしみじみ感じました。

 そういう「共通した部分」でアスペの方達が自分達に合った独自の関係を持ち、定型とはひと味違った独特のルールを持った「社会」を作れるのかも知れないと考えたりもします。そのときにはアスペルガー的な「自立」がとても大事になるのかなとも思います。けれども、現実にはやはり定型とアスペと、お互いに別々に生きていくことは無理でしょう(だからこそこのブログもあるわけですけれど)。

 ちょっと話がこんがらがってきましたけど、つまり考えたいことは、「自立」ということの意味が定型とアスペで違いがあるような気がして、それは単に「自立」の面を考えるだけではわからなくて、それと「依存」とか「甘え」との関係を見てみるともう少しわかりやすくなるのではないかということ。そしてもしそうだとすれば、そういう「自立」と「依存」の違いを持った者同士がどうやってお互いの関係を調整できるのか、という問題が出てくるんだ、ということです。もしかすると相手に「甘えたい」気持ちをより強く持っているように思える定型の方がそこは大きな問題になるのかも知れませんが。

 トマトさんとお友達の関係も、そういう問題を考える上でもとても大きな意味を持っていたようにも思います。

 

2012年11月14日 (水)

自立してる?

 例によって玄さんのコメントに考えさせられています。今は

  「(アスペの方の)もたれ合わない強さが基調」

 という言葉なのですが、もし私の誤解でなければ「自立している生き方」と言い換えてもいいのかもしれません。アスペの方は人に頼ろうとせず、もたれかかろうとせず、自分で考え、自分で判断して生きようとしている、ということになるでしょうか。逆に言えば定型の人間は「もたれあう弱さ」に生きているということになります。

 ちょっと大げさですけれど、思えば「自立した人間になる」というのは、私の昔の理想でした。いろんなことについてちゃんと自分の頭で考え、自分の責任で行動する。他の人に甘えずに生きる。そんなことですね。そして理想の恋愛関係もそういう「自立した人間」同士のつながりとして考える。

 私がパートナーに一目惚れしたときのイメージにも、そういう「人にもたれかからずに自分の足で歩いている」という直感的な印象がありました。そして今改めて本当にそうやって生きてきたし、生きていこうとしている人なんだな」と感じます。それは今考えてみれば、とても「アスペ的な生き方」でもあるのですね。

 ところが私の中にはそういう「自立という理想」とは正反対に、それではやりきれない自分、「人ともたれ合いたい自分」がいるということを、だんだんと気がつくようになっていきました。「人とのつながりを強く求める自分」という言い方でもいいと思います。そして人間というのは一人で生きていくことは無理なんだ、人と人との間で支え合って生きていくしかないんだ、という思いが強まっていったと思います。

 もちろんアスペの方も人との関係の重要さは考えていると思いますし、だからこそ、私のパートナーも福祉関係の仕事をしたり、それにやりがいも感じているのだと思います。ただやっぱりそのときの「人との関係」とか「人とのつながり方」には定型の私の感覚とはずいぶんと違うものがあって、私から見るととても「割り切った関係」と感じられたりするんですね(福祉の現場ではそれが出来ることはとても重要だと思います)。

 うーん、まだやっぱりうまく整理して考えられないですけれど、私が持っている定型的な「もたれあう感覚」」とパートナーのアスペ的な「もたれ合わない感覚」と、その二つが出会ったときに、定型である私は改めて自分の「自立」ということをどう考えたらいいのか、ということが問題になっているのかも知れないと、そんな気もします。

 

 

2012年11月 8日 (木)

バスタオルの距離

 うちの風呂場のバスタオル掛けは、細いパイプが三本並行に並んで三枚を一度に掛けられるようになっています。ただパートナーは洗濯に関してもとてもこまめな人なので、そのタオル掛けに濡れたバスタオルが広げて乾されることはなく、一度身体を拭いたタオルはそのまま洗濯機行きになります。ですから、バスタオル掛けには、まだ身体を拭いていない乾いた畳んだタオルが小さく掛けられるだけです。

 それで、いつのころかふと気がついたんですが、パートナーのタオルと私のタオルがタオル掛けの反対の端に、対角線になるように、つまり一番距離が遠くなるように掛けられていることに気がついたんです。そのころはまだお互いにアスペだの定型だのという理解のないころのことで、関係もシビアな時期でしたから、私はそれを見て、「自分がこんな風に遠ざけられ、嫌われている」と感じたんですね。思春期の娘が父親のものと一緒に下着を洗濯するのを嫌がるという話を聞きますけど、そういう「生理的な嫌悪感」を持たれているのだと感じたのです。

 他にもそんな感じのことがいくつかありましたから、当時の私は「ああ、もうここまで生理的に嫌われるようになったのなら、関係の修復のしようがないな」と本気で思いました。

 今はそんな風に思い、また子どものことなどもあり、鬱状態になっていたころとはほんとにお互いの関係も変わってしまいました(あ、鬱はまだ完治までは行っていませんが)。パートナーには私のことを「家族として好きだ」と言ってもらっています(なんか「恋愛対象としての好き」とはしっかり区別するんですね)し、彼女が私に対して「生理的な嫌悪感」があるとは私にも思えなくなっています。

 という今現在なんですが、でもやっぱりバスタオル掛けのタオルは今でも対角線上に一番離れたところに掛かっています (^ ^;)。

2012年11月 7日 (水)

お互い様

 パートナーが「アスペ」(私が「定型」)という理解がお互いになかったころ、お互いに訳の分からないぶつかりあいが続いていました。最後はもうあきらめとか拒絶とか、そういうところまで行っていましたが、ある意味ではお互いに「自分が当たり前なのに、相手の言うことややることが理解できない、相手がヘンだ」と思っている、と言う意味では対等な関係だったと言えるかも知れません。

 そのあと「アスペと定型」という理解が共有されたときから、パートナーは「自分が悪い」としばしば言うようになりました。私が「いや、これはどっちが悪いとかじゃなくて、ズレの問題なんだから」「別にあなたがアスペという立場を、私が定型という立場を自分で選んだ訳じゃないんだから、そのことには責任はないんだし」というようなことを繰り返して言いましたが、でも納得はされませんでした。

 一つにはアスペというのは少数派で、「障がい」なのだから、「健常」な定型に「劣る」し、この社会は定型に合わせて作られた社会なのだから、「障がい者」はそれに合わせなければならないのだ、という観念や感覚が、私たちの中には相当根深くあって、自分が「障がい者」となればもうそれだけで「悪いのは自分」という考え方になりやすいこともあるでしょう。

 そういう考え方には私はなんとか反論できるように思えるんです。「少数派」であることは事実だし、この世の中が定型に合わせて作られている部分が多いことも事実だし、その中で現実問題としては多数派に合わせて生きざるを得ない場面が多いことも事実です。でもだからといってそれによってその人の「価値」が決まるわけではない。少数派には少数派の人だから果たせる役割があって、それは社会の中で必ず意味を持っている、とか、理屈の上ではそう考えることは出来ます。

 でも実際、たとえば子どもとの関係で見れば、子供達は定型なので、アスペの母親とはコミュニケーションのギャップがどうしても生まれてしまいやすく、そのことで子どもが苦しんだことは私の目から見てもそう思える部分が多くありましたから、「子どもをあれだけ苦しめたんだから私が悪い」と言われると、私もどう反論していいか分からなくなったりもしていました。夫婦はある意味で対等な大人同士の立場ですから、お互いに責任があると言えるけど、親子だとやはり子どもの方が弱者になりますから、大人の方により大きな配慮の責任があるというのは私も思うからです。

 これも理屈の上から言えば、そこに自分がアスペで子供達が定型というズレがある、ということを知らなかったのだから、配慮の仕方も分からなかったのは仕方ない、と言えないことはありませんし、実際私には理解できないやり方ではありましたが、パートナーはパートナーなりに必死で子育てをし、子供達が苦しむ姿を見て、悩み続けていたのですから、努力しなかったから悪いとも言えないわけです。

 けれども何を言っても子どもが苦しんでいたという事実は消しようもありませんし、私もその事態にうまく対応できなかったことで自分をすごく責めていますけれども、パートナーの場合はそこにさらに「自分がアスペだったから」という思いが入るので、感情的にも「仕方なかった」ではなかなかすまされないわけです。

 その問題は今のところ私たちの間ではどう考えていいのかわからないところで、ただ少なくとも「自分がアスペだから」という理由でパートナーが自分だけ自分を責めなければならないような状態はどこかがおかしいという思いが私の中にある、ということに留まっています。

 そんな風に親子間の問題についてはまだ難しいのですが、夫婦間の問題については最近随分変わってきたなあと感じることがあります。というのは、私がパートナーの言動で納得がいかずに議論になったりするときに、彼女の方から「そんなのお互い様じゃない」という反論が来ることが増えてきたように思えるんです。もちろんそういわれて私の方は感情的にはちょっとむっとくることもあるんですが、でも少なくとも頭では「ああよかった」と思えることが多いんですね。

 というのは以前なら「やっぱり私がアスペだから悪いんだ」という風にパートナーが自分を責める形になってしまいがちだったんですけれど、そうじゃなくてそれはお互いの感じ方、見方の違いが原因なので、「お互い様」なんだ、というふうにまずは対等に問題を考えてくれるようになったと思えるからです。そうなればほんとに対等な立場で問題の解決を考えていくことが出来るようになる。どちらかが一方的に我慢するとか、そういう形ではなくて。

 そういえば最近「それはもう諦めてちょうだい」というようなことを言うことも増えてきた気がします。自分はアスペであり、アスペの自分にとってそうすること(あるいはそうしないこと)は自然なことなんだから、そこで自分に無理をいわないでちょうだい、という意味だと思うんですが、これも定型には定型の生き方があるし、アスペにはアスペのやり方がある、ということを、どちらが優れているとかどちらに合わせるべきだとかいう話ではなくて、まずは対等に認め合うという姿勢から出てくる言葉のように思えます。

 うーんと、こんな風に考えてみると、少しずつだけど、お互いの関係は確実に変わってきてるんだなあと改めて思いますね。今の私にはその変化はとてもいい方向への変化だと感じられます。

2012年11月 2日 (金)

ご飯のおかず

 うちでは昔は晩ご飯も交替で作っていたんですが、子どもが出来てパートナーが一旦仕事を辞めてから、パートナーの担当になって、その後彼女が再び働き出してもそのまんまになっています。時々私が作ろうかと言うんですが、何故か自分が作るというので、私もまあその方が楽は楽ですから、おまかせになっています (^ ^;)ゞ

 で、最近パートナーがいつもよりお疲れ気味かなあという感じもしてるんですが、なんだか以前よりおかずのボリュームがぐっと減ったように感じることがときどきあるんです。もしかすると子どもがいなくなって、自分の感覚に合わせて作るとそうなるのかなと思うのですが、私の方はものたりなくて、ちょっとそう言ったことが二度ほどありました。

 昨日がそのうちの一回なんですが、サラダがあって魚があってお汁物があって、あと漬け物と明太の切ったものかな(なんか家の食事の公開って恥ずかしいですね (^ ^;)ゞ)。多分おじいちゃんおばあちゃんだったらこんな感じで十分かなと思うんですけど、どうも私の身体はまだそういう域には達していないものですから、あと一品お肉類とかが欲しく思えてしまいます。

 で、「タンパク質がもう一つ欲しい」と言ったんですが、「それは明太があるじゃない。そう思って出したんだけど」と言われました。「明太はすごくいいタンパクなんだから」とか。

 確かに明太がタンパク質であることは間違いないし、卵ですから良質でもあるんでしょうね。でもなんか私のイメージとは違うんです。これをどう説明するか結構悩んだんですけど、明太って一切れか二きれ、お漬け物に近い感覚でご飯に載せて食べるというイメージがあって、ばくばく食べるおかずという感じがしません。

 なんか馬鹿みたいな話書いてるように自分でも半分思わないでもないんですが(笑)、神は細部に宿る、ともいいますし、小さなことの中に大きな真実が含まれて居るんだと勝手に思いこんで先を続けます。食べ物の怨みは怖いとも言いますし(笑)

 それで、「この上にステーキでも欲しいわけ?」とか言われると、そういうわけでもなくって、それは明らかにボリュームオーバーで、まあ肉入り野菜炒めとか、揚げ物とか、そういうのが欲しくなってしまうわけです。もしサンマなら一匹半あれば他には要らないんだけど、とか。なんとか自分のイメージを伝えたくって言うんですが、なんかうまく伝わらないもどかしさ……(^ ^;)ゞ

 結局あと卵料理でも一品あればいいんじゃないかということになって、とりあえずの議論は終結を迎えたのでした。

 だからなんなのさ?と問われると、すみません、私にもよく分かりません m(_ _)m

 

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