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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2012年10月25日 (木)

多数派と少数派

 この間のアスペと定型のズレの問題は多数派と少数派、ということがなんだか複雑にからんで、理解が難しくなったところがあるなあと感じています。

 私自身は定型の中ではずっと「自分は少数派(変わり者?)」という意識を持ってきました。で、その多数派の中で少数派をやっていたわけです。けれども、アスペと定型という比較の中では世の中的には多数派なんですよね。

 パートナーとのかつての衝突の中で、私もよく「普通」とか「常識」とか、それまでの自分はあんまり好きじゃなかった言葉を使いました。使いたくて使うと言うよりも、もう追い詰められてそう言わずにはおれない、という感じで使うんです。「だって普通そうでしょう」とか。議論が通じ合わなくて、いくら説明しても分かってもらえないし、彼女の言うことが分かんないし、しんどくてしんどくて、ギリギリまで追い詰められたとき、その「普通でしょう」がある種「救いの言葉」になるんです。

 でもその「普通」とか「常識」とかいう言葉は、パートナーがアスペルガーだという理解をお互いに持つようになってからは、なかなか使えなくなりました。「普通」という言葉は結局多数派の言葉で、「みんなそうだからあたりまえでしょう」という形で大勢の人たち(結局定型の人たち)を気持ちの中で無意識のうちに味方にして、数の力で自分を支えようとしているわけですから。で、そういう言われ方でパートナーがずっと傷ついてきたということがちょっとずつ分かってくると、やっぱり使えなくなってきます。

 考えてみると、定型の多数派に対して自分のことを少数派(変わり者)と思っても今までやってこれたのは、少数派という意味を「個性的」とか、「希少価値」とか、そういういい意味でイメージしていたからだろうと思います。でも少数派としての「アスペルガー」ということになると、社会的には決して「素晴らしい人たち」という風には扱われていないのが現実です。だから私が体験してきた「少数派」であることと、アスペの方達、身近に言えばパートナーが体験してきた「少数派」であることとは、言葉は一緒でもその中身が相当違うんじゃないでしょうか。

 そういう「少数派」であることで沢山の傷を負ってきたアスペの皆さんと、そのアスペのみなさんとのコミュニケーションで沢山の傷を負ってきたと感じている、この場にやってこられる「多数派」の定型の皆さんと、なんだか傷と傷とがぶつかり合ってしまった部分が最近の遣り取りの中でいくつもあったように感じます。

 ばんさんが「私も例の掲示板のやり取りでは、読んでいてしんどくなりました。家でのパートナーと私との同様のいさかいが、ネットでも行われてるようで。」と書かれていますが、なんかそういう傷と傷のぶつかり合い、みたいな部分が関係している気がします。しかもその傷のぶつかり合い方がお互いに違っていてズレを含んでいる。

 特に定型の方はコミュニケーションの前提として「この自分の傷をアスペのみなさんに分かって欲しい」という思いが強かったのではないでしょうか。それって定型同士の信頼関係には大事なことですしね。ところがそれはやっぱり定型的なコミュニケーションスタイルで、アスペの皆さんがこの場で取ろうとしていたスタイルではなかったのでしょう。

 この辺りのことは小梅さんが書かれていることにもつながっていくのでしょう。

 うーんと、いつものように、やっぱり何かハッキリした結論のある話ではありません。「じゃあどうしたらいいのか」とか、対処法がすぐに見えてくるような話でもありません。何となく感じたことを感じたままに書いています。でも、大事な問題がこういうところにもあるんだろうなあと思います。

 多数派と少数派の関係の中でそれぞれに違う形で傷ついてきたみなさんが、多数派と少数派が入れ替わった場の中で傷をぶつけ合うことになった。いや、うまくぶつけ合うことにもならなかったのかも知れませんね。そもそもぶつけるという意識もないかも知れないわけですし、これも私個人の感じ方に過ぎないかも知れません。

 えっと、別に悲観しているわけではありません。またいつも通り、あっちにふらふら、こっちにふらふら、いろんなことを考えながら、ぼちぼち足元を見つめ、ちょっとずつ前に進んでいきたいなと思っています。よろしければみなさんもおつきあいの程を。

 

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コメント

小梅さんのコメントで、ちょっと気づきました。

私の書くコメントは、表現も内容も「ASについて広く深く熟知している定型の人向け」ではないかなぁと。
だからASの人を怒らせてしまうのではないかと。

過去に、初めてASの人ばかりのブログにおずおずと入って行ったとき、ひとりの当事者の人から質問を受け、それに答えたら質問者は「解りました」と言ってくれましたが、その私の答え方に数十人のASの人から「これはどういうことか」「自分は信じられない」というリアクションがあり、それに答えていたら、その言い回しに質問が集中し、ネガティブに受け取られたりして「そういう意味ではなくて」と説明したら、またそのコメント中のいち言葉にとらわれて・・・という体験があり、そういう体験は初めてだったので、すっかり驚き萎縮して「コテンパンの目にあった」という感覚のトラウマとして残ったのです。

そのとき、初めて「少数派」という感覚を痛感しました。
自分だけ言葉や感覚が通じず、意図せず周囲を怒らせてしまう・・・こういうことか。

私のASの友人が「だって、そうでしょ」という定型の言葉に「圧を感じて嫌だ」と言っていましたが、時折ですがASの方の質問の口調に、私は「圧」を感じるのです。

多分それは、コメント中の力点の置き場所が違い過ぎるときに、そう感じるのだと思います。
言いたいことは伝わらず、無意識に無防備に書いた言葉に、相手がポイントを置いて質問してくると「な・・なんで、そんなところにこだわるの?」とたじろいでしまうときがあります。

実生活での質疑応答は、実際とても短い言葉でけりがつく事が多いので、ASの人とのやりとりに必要な「理論性」も背伸びして無理をしている状態で、言葉の精査に不慣れゆえ、時々、ASの人の質問の「密度」と「圧」に立ちすくむ感じがします。

もちろん、こちらのASの方に、しつこく聞いてやろう、とか、言い負かしてやろうという気持が無いことは了解したので、頭では「これは単なる質問」と解っているのですが、感覚的なものは、なかなか身からはずせません。

よく職場で、定型の上司がASの部下に「ちゃんと説明してみろ」と言い、ASの部下は自分なりの「ちゃんと」で答えているのですが、それは到底、上司の納得のいくものでなく、おまけに敬語がうまく使えてないがゆえの、ASの部下が予想もしなかった「言い回し」の注意まで受けているASの部下の人の姿を、ネット上の自分に重ねるときがあります。

実生活で、定型が身近なASの人の感覚を受け入れたり、いちASの人をかばう場面は、良いものだろうと思います。
同じように、ASの人が「きっと定型はこうではないだろうか」と考えてくれること。
そのことが、ここでは少数派の定型の心を温かく、癒してくれます。。


少数派であること、そして多数派であることについて、ふっと思い出したことがあります。

私とASの友人の間で「対話」がなかなかできず、彼の「自分語り」と「愚痴」を延々と聞き続けなければならないことにヘトヘトになった時、何人かの友人に相談したんです。「どうすればいいのだろう?」と。

で、男性陣のほとんどは「IQは高くても、EQ(エモーショナル・インテリジェンス)が極端に低い相手との関係で精神的に消耗するのは無駄だ」と言うひとが多かったんです。

「残念だけど、対話は諦めて、さっさと見切りつけた方がいい」と言われました。
尊敬できて、人望があって友人もたくさんいるひとたちを選んで、相談してみたんですが、答えはほとんど同じでした。「早く離れた方が無難」と。しかもかなりの即答なんです、みんな。ことASに関しては結構みんな冷たいんだな、と思いました、その時は。

で、女性陣に相談してみると、「今は友人になれないかもしれないけど、いつかまたわかりあえる日もくるかも。だから関係を継続できる可能性を残したら?」とか「相手が対話が苦手だったら『もう十分自分のこと話したでしょう。今度は私の番だから聞いて』って言ってみたら?」とか、どうしたら友人関係をうまく維持できるか、の方に話題が集中しやすかった。「関係を切るのはいつでもできるからちょっと待てば?」とか。

そこで感じたんですが、私がアドバイスを求めた男性たちは、競争の激しい企業社会である程度成功していて、好むと好まざるとにかかわらず、効率重視の価値観を身につけ、自分にとっていい結果が出ないことを繰り返してもしょうがない、と判断している可能性があるのかもと。

それに対し、多くの女性は、そこにまだコミュニケーションの可能性を見いだしたがっている、という感じがしたんです。男女平等と言いつつも、まだ男性が役職などの中心である企業社会では、多数の男性は効率的に結果を出すことが常に求められていて、その上での物理的、精神的ハードルはできるだけなくしていくことがどうしても必須になりがちで、自分にとって投資しがいがある対象でないと思うと、自分のエネルギーや時間を注げないような環境だったりする。

勝ち組、負け組という言葉は嫌いですが、私がアドバイスを求めた男性は会社でも家庭でもうまくやっていて、ある意味勝ち組にいて自分に自信のある男性が多い。また、企業社会などの環境で、少数派になることもある女性は、もうちょっとマイノリティーに寄り添おうという気持ちがあるのかも?とも思えました。

このサイトではパンダさんは男性だし、さらに多くの男性が参加されているので、そういう一般化はあてはまらないことはもちろん承知の上なんですが、日頃、男性であれ、女性であれ、何らかの形で少数派に属する人間、または属した経験のある人間、多数派の一員でもそれにどこかなじめなかったり、ある意味勝ち組ではない(?)人間は、自分以外の少数派の存在にも気づきやすいのかな?とも思います。トニー・アトウッドの著書には「ASのひとは外国人と結婚する例が多い」と書かれていますが、外国人=社会での少数派、とすると、そうか、と思えました。少数派同士、理解し合える部分が多いと思ってのことかもしれないと。

私が相談したひとりの女性は、ASの方も含めた障害者支援の仕事についているひとなんですが、
彼女の場合、天職という感じでいきいき働いているので、どうやってASの方たちとうまくやっていけるか聞いたんです。

そうしたら「私の場合は支援の専門知識とスキルで報酬をもらっているプロ。家に帰れば、気心通じる夫も子供もいるし、寛いで気分転換して、次の日仕事に向かえる。これがASの人と私生活でも一緒で、一緒に家庭を築いていたら無理。彼らに客観的にかかわるからこそ100%仕事として頑張れる」と。

上の発言でASの方が気を悪くされないように祈りますが、支援のプロがそう言っていると考えると、ASの方との友人関係だったり、恋人だったり、夫婦だったりの私生活での関係は、一般的な定型にとっては、ひょっとしたらめちゃめちゃ難易度が高いチャレンジの領域であり、そこで悩むのも、のたうち回るのも当然だな、と思えたんです。

で、つい、その悩みをここで出会ったASの方に「わかってほしい」と主張したくなっちゃう時もあるけど、その点こそが、相互理解が一番難しい点なんだと、ASのひとと接したことのある定型は頭では最低理解できているはずなんです。「心で」納得することが一番難しいんですね。

頭でわかっていても、心がついていかない、その一例をあげます。
私がどうしても実行できなかったアドバイスは「あなたはもう十分話したよね。今度は10分間私の話を聞く番だよ」的にASの友人に「対話」のルールを教えるという点です。相手は立派な大人だし、そんな4歳児に言うようなこと、大人として言いたくなかった。さらに、それぐらい相手に察してほしい。こちらも仕事で疲れているわけだし、プライベートぐらい、ビール飲みながら、信頼できる友人と気を遣わずにかつ、成熟したおとなの「対話」がしたいわけですよ。本音は。

さらに、「これからはこっちの話を聞いてくれ、10分でいいから」なんてそんなダイレクトな言い方することは相手にも失礼だと思えた。でも、それをしなければ、相手は自分の世界にどっぷり入り込んでいて、自分語りを何時間でも続ける。相手が話題に興味を示しているかどうかは眼中にない。悪気がないから無邪気に興奮して、まるで子供のようにスキップでもしかねないノリで話し続ける。その結果、多くの人間がうんざりして彼から離れていく。
この残念なサイクル、なんとかならんか、と思ったわけです。

でも、私も結局、精神的に耐えられず、彼と疎遠になったわけですが、恥ずかしかろうが、どうだろうが、定型がマジョリティの社会の中では、上のアドバイスを実行し、対話のルールを彼にツールとして教えることができるひとが、彼に友人として寄り添える定型なんだろうと思いました。

彼が一方的に話すことを延々聞くことは苦痛だし、限度があり、ほぼ無理。
だからと言って、彼を定型のように変えるということではなく、彼が定型社会でのコミュニケーションの基本ルールをある程度マスターして、外国語のようにツールとして使うべきときに使いこなせてしまえば、彼の面白さ、楽しさ、斬新な発想をもっと分かち合える友人が増える。それは彼にとっても周囲にとっても好ましいはずだろうと。

ただ、定型の基本ルールなんかにいちいちこだわらないためか、好きなことに徹底してエネルギーを集中して、彼は専門分野では業績をあげていることも事実です。歴史に確実に名を残すのは、多数の定型ではなく、彼のような一握りのひとだと本気で思います。その意味では羨望の対象でもあります。孤独とひきかえの成功なのかと思いますが、彼からすれば、平々凡々としたブレイクスルーのない人生なんか、むしろ望んでいないのかも。

彼を見ていた経験から言うと、彼は自分の話を聞いてくれるひとがいると狂喜乱舞して食らいつき、相手を消耗させて、いやがられてしまうのですが、次の人が現れると、また同じことをしてしまう。彼もきっと心の中では「このひとも自分から去る」とわかっているのかもしれない。それでも自分の興味のあることを語りたい欲求が強すぎて全く抑えられない。その過剰な欲求の強さ。それこそが彼のエネルギーでもあり、私にとっては不思議で未知なものでもあります。

長文失礼しました。私も人のこと言えず、「自分語り」がノンストップになってました(笑)。

ここにいらっしゃるASの方に質問ですが、トマトとrunさんの「長めのコメント」を読んで、文章の内容の全体から「心情を感じる」とか「受け入れ感」を持たれた方はいらっしゃるでしょうか?

それとも「ここの部分のこの表現」というところに関心や抵抗感が集中して、とにかくそこの部分を質問したいという気持が頭を占めてしまうでしょうか?

所々に違和感や抵抗感のある言葉や表現が目につくが、そんなことより、伝えたい事はよく理解出来るという方はいらっしゃるでしょうか?

言いたい事と、例題的な場面とが区別しにくい、という方はいらっしゃるでしょうか?

runさん、こんにちは。自閉圏内のFOXです。

runさんのお話の感想を述べさせてください。もしご気分害されるようなことがあれば、ご容赦ください。

「ASのひとは外国人と結婚する例が多い」

お互いに「言語や文化・風習が違う外国人」であるという前提なので、うまくいきやすいのかもしれませんね。相手の「言語」や「文化・風習」にお互い歩み寄ることが、その二人の間では最初から「普通」になっているでしょうから。お互い、相手が外国人であれば「なるべく単純で、ある意味、即物的な」会話でコミュニケーションを取ろうとする、というのもいい方向に働いている可能性があると思います。

「「あなたはもう十分話したよね。今度は10分間私の話を聞く番だよ」というアドバイス」

「上のアドバイスを実行し、対話のルールを彼にツールとして教えることができるひとが、彼に友人として寄り添える定型なんだろうと思いました。」

そうですね。それを「成熟したおとなの「対話」ではない」と、どうしても「心が納得」しない方の方が多いんでしょうね。「一般の成熟したおとなの「対話」ではないけれども、この人に対しては、(心理的抵抗はあるけれども)いっそ「即物的に」話そう」と、心を切り替えてくださる方が、友人として残っていくという形になるのかもしれません。

ここから先は、ちょっと質問になるのですが、もし何かいいアイディアがあったら教えてください。

runさんのご友人だった方のように、「延々と自分語り」をするASもいれば、「おとなの「対話」として、どうやれば相手の気分を害せずに、相手の話を遮れるのかわからずに、「延々と自分語り」をする「定型」の方の話を聞く羽目になる」というタイプのASもいます。即物的に「もうあなたも十分話したでしょう。今度は、私の話も聞いてほしい」という言い方が「おとなの対話」としては不適切なのはわかっているため、そうは言わないとします。その場合、もうちょっと「婉曲に」、「ちょっと今、忙しいから」などと言って、話を打ち切るのがいいのでしょうか?何かそれ以外にもいい方法はありますか?

そういう「婉曲に断る」というのが、言葉は悪いですが「嘘を言っている」と感じられて、「心で納得」しにくかったりするASの方もいるのです。仕方なく、「延々、何時間でも話を聞く」とか「最終的に、即物的に言ってしまう」という形になってしまったりもします。

「心の納得」をどういう形で、自分なりに軟着陸させられるか、ということが、「定型」側も「AS」側も必要なのかもしれませんね。

ASと定型が上手く行かない時は、「ねじれの位置」にあると思うんです。期待する反応がない・肩透かしにあう・相手のパワーを受け止めきれない。
お付き合いしている人の個性が強くて、やりきれなくなって何らかのラベリングをすることで納得したくなる。それは分かるのですが、ASかパーソナリティ障害か躁か、決めるのはとても難しいはずなんです。。。ソフトに「かも?」を自分の心に入れて、接することで始めてもらいたいと思います。「あなたASよ。病院行って診断受けようよ」は、ダメージも反発も起きます。

定型の方で、ネット上でASに「否定された経験」をお持ちの方がいらっしゃいます。(ASを「深く知っている」と自認されるトマトさんでも、そうなのが驚きなのですが)AS側から「厳密な受け止め方をすれば、こうだと思いますよ~」ということを申し上げると、定型の方は人格否定されたかのような受け止めをされるのが不思議です。それは、定型の方に解説していただきたく思います。

なぜにASが尊大なのかを、ASとして思いついたことを書きます。会話で、すぐに謝ったり、ボリュームを落としたりの技を持っているASもいますが、「ASの尊大な一面」は、定型が多数である社会で生きていくために見出した「こうやれば、やっていけそう」という一つの型なのかもしれません。生きていくためにたどり着いた「折り合いの付け方」が「相手の言うことを注意深く厳密に検証し、場合わけして理解する」というスタイルなのだという解釈はいかがでしょうか。
ASの言葉が、「敵対・否定」と受け止められたとしても、日本語として形を成さしめるにはこれが精一杯、という感じ。だから、「どう受け取られても、しかたない。もうできることはやった」という感覚になるのだと思います。

「一方的なしゃべりに疲れ果てる」というのも、しばしば聞きます。見たこともあります。「友人関係を消費する」サイクルに嵌っていると思いました。一方的なしゃべりは、ある程度リラックスする相手が、「しゃべってもいい」という切っ掛けをくれたときになると思います。ですが、僕が思うのは「相手が誰か、理解しているか、迷惑に思っているか」は考えていないと思います。定型の方が「恋人との話しこみ」だと思って接するとしたら、おそらく互いに「ねじれの位置」です。

玄さん、おはようございます。FOXです。

「ねじれの位置」、確かにその通りですね。どうやれば「ねじれ」が戻るのかは、ケースバイケースだとは思いますが、「スッと戻る」こともあれば「こじれてしまう」こともあるのかもしれません。

「折り合いの付け方」をお互いが理解しあえるといいのかもしれません。

「関係を消費する」サイクルに嵌っているときは、いずれにしても、難しいのかもしれませんね。まずは、そのサイクルが「断ち切れ」ればいいのかな、とは思うのですが。

(補足)「ねじれの位置」は個々の会話についての話であって、人間関係を指摘したのではありませんから念のため。
会話によって、かみ合うこともあれば、そうでないこともあるのは、お気付きのことと思います。かみ合わない時は、スタンスから違っている可能性があるのではないか?という考え方のご紹介でした。

玄さん、

補足説明ありがとうございました。FOXでした。

runさんの「ASの一人語りを聞いてへとへと」で思ったのですが、それは、「会話という言葉のキャッチボールがあるはず」という想定をお持ちなのでしょうね。
ASが一方的に話している状態は、ある意味、自分でも止められないトランス状態ですし、ストップを掛けられると「寝起きの悪い子供」のように機嫌が良くないことも、想定できると思います。つまりは、ASの一人語りは既に「会話」や「対話」ではない場合があるので、それを「会話」として受け止めるとパンクすると思います。

僕だったら、一人語りは聞き飽きたところで強制終了するでしょうね。「話を止められた」ことよりも「少しでも聞いてくれる人」という記憶になると思うからです。
話を止められたら、見た目は唖然憮然としているでしょうが、内心は我に帰って「またやり過ぎた、嫌われたか、、、」という心情もあるものです。ASなら、話を遮られたことをいつまでも引きずったりしないでケロッとしていると思いますよ。

トランス状態、まさにその通りでした。
あのノンストップ感は「自己中」とか「自己顕示欲」とかじゃ説明できない、別次元でした。

聞き飽きたところで、強制終了・・・本当にそれができていれば。うう。
いっそのこと審判のようにフエ吹いて、
「ピー!はい、タイムアップ!終わり!」と言えてればよかったのかも。

FOXさんの言う通り、嘘の言い訳して「忙しいから」と逃げるのは私も苦手です。
これは定型でもASでも同じですよ、きっと。嘘つくって、いやな感じの負のエネルギー使うし。
こちらが嘘つかなきゃいけないような状況に追い込ませる相手というのは、難儀ですよね。

「その話はもう聞き飽きたよ」と叫びたい。でもさすがに酷かと思い、できなかったです。しまいには、携帯に彼のナンバーが出るだけで、「もう嫌だ」と思うようになってました。「先週は電話できなくてごめん」ってメッセージが入ってたりすると「いや、電話してくれなくていいから!居留守使ってるから!」と思いました(笑)。自分がどんどんやなヤツになってく感じ。

こちらにいらっしゃるASの皆さんは、ちゃんと言葉のキャッチボールをなさっていて、それを楽しむ余裕がある、とすると、彼の場合はかなり極端なケースだったんでしょうかね?
それとも、みなさんにも「自分語りノンストップ衝動」はあるけど、理性で抑えている?!

元友人にとって、聞き手って何なんだろう・・・・。
相手と「対話」する気ゼロなら、「壁」に向かって話すんじゃ、ダメなのかな?
あくまで生身の人間に聞いてもらいたいのか・・・?不思議です。

おはようございます。2012年10月26日 (金) 20時08分は、名前が入らず失礼しました。
runさん、コメント有難うございます。
嘘は、つかない方向がよいと思います。どう言えばいいかは、その人に寄ると思います。
率直に、「話しが長くて疲れたよ。次の用事(あるいは、休憩したい)があるから、終わりにして。ヒマがある時にはこっちからそう言うから、その時が来たら続きを聞かせてね。」という感じではどうでしょうか?
可能なら、話が始まりや話の途中でも、「△△時までね!」と持ち時間を区切ると、効果的と思います。

「極端なケース」かどうかは、難しい質問です。一人語りをやってしまう時と出ない時があるので。心を許せる人に、それをやってしまう、と理解して下さっていいと思います。
まだちょっと誤解がありますが、「対話をする気がない」のではなく、当人は「対話がキャッチボールであると知らず、一人語りも対話?だと思っている」ということだと、僕は解釈しています。ASも徐々に学ぶことは可能と思います。

「壁」について。やっぱり、人間に向かって話すことは、生理的に楽しいのだと思います。日頃上手くできない対話?が、今回はできているのかと、嬉しくなっているのかも。

「会話を楽しむ」は、僕自身はできているか自信ありません。

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