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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2012年10月 2日 (火)

信頼関係という宝物

 前回の「助けてもらう」にあれよあれよという間に膨大なコメントを頂いて圧倒されていました(^ ^;)ゞ

 いろいろ問いかけてくださったことにうまく私の考えをお返しできないと思いますけれど、とりあえず一番最後の(今日の所)玄さんの
 「パンダさんの「ほら、僕の言った通りになったでしょ」という、先見力を誇るメンタリティは、定型の典型的なものと思います。」

 と書いてくださったことについて、素朴に感じたこと辺りから考えてみたいと思います。

 確かにこの言葉には「先見力」の有無が問題になっています。ただ、私自身の素朴な実感から言うと、それをパートナーに対して「誇りたい」というよりは、「認めて欲しい」という感覚なんです。

 この「誇りたい」と「認めて欲しい」がどう違うのかがまた難しいかも知れませんね (^ ^;)ゞ

 「誇りたい」の場合はそれを否定されたときは「腹が立つ」ことが多いように思います。それに対して「認めて欲しい」というときは、それを否定されたときは「悲しい(あるいはさびしい)」と感じるように思います。少なくとも今回の事例の場合は私は「認めてもらえない」最初の状態の時は「悲しさ(さびしさ)」を感じていました。何が悲しい(さびしい)のかというと、これだけ長いこと暮らしてきているのに、自分のことを理解してもらえていない、という感覚が絡んでいるように思います。

 もちろん、客観的に見れば、そういう風な形で私のことを理解するのは難しいパートナーのことを、私が未だによく理解できていないし、なぜそれを彼女に理解してもらえないのかを、私が理解していないということで、まあどっちもどっち、おあいこと言えなくはないのですけれど……

 それでなぜ私が彼女のことを未だに理解できていないか、ということについて、皆さんのコメントにいくつかのヒントがあるのだろうと思います。その中でもわりあいすっと分かるコメントもありますし、今の私にはまだ理解の難しいコメントもあって、ここでもいろいろ混乱がありますけれども…… (^ ^;)ゞ

 いずれにせよ、「先見力」の問題に戻れば、今回の場合は「私とその周囲の友人達との信頼関係」についての「先見力」が問題になっていたわけですが、私にとっては私を助けてくださる友人達がいてくれることはほんとに有り難いし嬉しいことなんですね。だからそういう「信頼関係」をもてているということは、私にとっては宝物のようなものだし、大事にしたいものであるわけです。

 で、その「宝物」(というか、正確に言うと「宝物がそこにある」という理解)をパートナーと共有したいという感覚がやっぱりあって、それが未だに共有できにくいことに哀しさを感じたんだと思います。もしかするとアスペの方から見れば「それはパンダの宝物なんだから、共有するとかいう話にはならない」という風に考えられるのかも知れませんけれど。

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コメント

玄です。「先見力」と「助けてくれる人の大切さ」と「認めて欲しい」は、それぞれ個別の「ズレ」を含んでいますね。

「誇りたい」と「認めて欲しい」は、「プラス評価されることを期待する」という点で僕にとっては同質です。ですが、言葉の選び方としては毒を出してしまいました。ごめんなさい。
パンダさんの人脈を宝物として大切にする感覚は、大事なことと思います。
パートナーさんは「パンダさんとは違う発想を持っている」という真摯な態度を貫いているだけなので、「だからなんなの?」という質問は、「私にはその発想は湧かないわ」という意味にすぎないと思いますよ。
僕と家内は、発想が違うと感じる事が、しばしばあります。

「助けてくれる人の大切さ」については、パートナーさんも、大切だということが分かっている。感謝もある。
ですが、自分に置き換えて、書いていて辛いのですが、『他人の厚意を期待していいのか、判断できない』という部分は、やっぱり病気なのかも、という気がします。
素直に甘えたり、ずる賢く享受したり、つよく断ったり、つれなくしたり、、、これらのうち、どの態度に出ればいいのか分からないのです。
未来予測をする際に、人脈を計算に入れられない(不確定要素が多すぎて、考えると頭がオーバーフロー)という習い性を、「人に頼らない性格」と自己分析してしまう、という状況を想像します。

少し関係が離れると加速度的に疎遠になる、連絡をしない、そういった行動をとってしまい人脈を失うことは、残念なことです。
そんな中、近年のインターネットを中心としたテクノロジーは、ASが生きやすい環境になってきていると感じています。ネットで検索すれば、他人を煩わせずに知識欲を満たせる。道が覚えられなくてもスマートフォンやカーナビが助けてくれる。そして、facebookなどの人脈保持機能を持つツールさえも登場しています。

パンダさん、

パンダさんが、「長年一緒に暮らしている夫婦なのだから、お互いにもっと理解し合いたいし、理解しあえるはず」との高い理想を持っていらっしゃるように感じられます。パンダさんとしては、「定型同士なら、このくらい理解しあえるのは普通で、特別高い理想ではない」と思われているかもしれないとも思いますが、定型同士でも、夫婦の間でのお互いを理解できる程度などはさまざまだろうと思いますし、夫婦関係もさまざまだろうと思います。

もちろん、「理解」に行きつくまでに必要なコミュニケーションに関しては、いわゆる定型と自閉圏内では困難になる場合も少なくなかろうと思いますが。。。

自閉圏内/自閉圏外に限らない「夫婦観」の問題と、「自閉圏内と自閉圏外のコミュニケーションの問題」をもう少し分けて考えられてもいいのではないか、と思います(もちろん、厳密に分けることは難しいとは思いますが)。

ジョンキルさんがおっしゃっていたことにも通じると思いますが、「お互いに理解できなくて当たり前で、ある程度理解しあえたらラッキー」くらいのスタンスが、自閉圏外/自閉圏内問わず、夫婦関係を考える上では無難だろう、と個人的には思います。

失礼な発言になったようでしたら、ご容赦ください。

パンダさん、夫婦だから・・・寂しいですよね。
頭で理解できても、心が納得してくれなくて。

たまたま今回の件が
パンダさんは「認めて欲しかった」のに、パートナーさんが「だからなに?とそっけなく」返事をされてパンダさんは「淋しくなった」だけで、別の部分ではパートナーさんが「認めてくれる場面」はありませんでしょうか?

もちろん、パンダさんには今回のような場面で「認めて欲しい」というお気持ちが強いかと存じますが、別の場面でその「認めて欲しい欲求」を補うことはできませんか?

動物的感の部分においての先見力を誇るメンタリティは私にもありますが、総じて認められない場面のほうが日常生活では多いので、「この人・この場面の二つそろえば認めてくれる」って場所に行ってその欲求を満たしたりしています。

悲しいかな、私には「あ・うんの関係」がわかりません。長年一緒にいたからといって、それは多分徐々にはわかってくる!とは感じていますが、でもまだまだ定型発達の方の足元には及びません。
過去の実績すべてと一緒の場面なんて二度とないのですから、どんなに経験をつんでも
不安要素は付きまといます。
ただ不安定な場面で、私だけが不安であればまったく問題はないのですが、目の前の人も不安だとかなり感情的に引っ張られるので、今回の件はなんとなくですがパンダさんのどっしりと構えたように感じる「大丈夫だよ」の言葉は【お守り】だったとは思ってます。

またはずれた例をあげるかもしれませんが、数学のことを思い出しました。
私の両親は完全な理系で、私は極端な文系でした。
特に母が「数学なんて誰でもできる。できないのがわからない。問題が解けたら気持ちいいわよ」
といつも言うのですが、こちらは苦手意識が学生時代を通してあり、問題が解けようが微分積分ができようがすっきりするなんてことは一切ありませんでした。
「どうして私が産んだ子なのに数学ができないの」と言われたこともあります。
私は向き不向きなんだから仕方ない、と考え、理解する気もだんだん失せてきました。

人間関係で難しい経験を重ねて、もしかしたら苦手意識ももっているかもしれないパートナーさんに、「宝物はそこにある」というのは、大変なことかもしれないと思いました。夫婦なんだから共有したい、というのはもっと難しい。たかが学校の数学でさえ、親子で喜びを共有できなかったのですから。

今回パンダさんのお感じになった「さびしさ」は、
パートナーさんのおっしゃった言葉の背景をどんなに想像し、解釈し、分析したとしても、
ぬぐえない、根源的な感情なんじゃないかと思います。

「さびしい」と感じてしまう心はそこにあるわけで、
感じてしまうというのは、パンダさんの身体と心がそう自然に反応するってことですし、
そこを理論でご自身に納得させるのは無理があるような気がします。

長く連れ添えば、そのさびしさがうまい形で満たされるわけではないかもしれない点、
すでに長年の月日を共有されているだけに、ある意味とっても残酷ですよね。
この先何十年も同じように感じるであろう「さびしさ」を他のひとで埋めるか、さびしさはしょうがないと諦めるか、それともいつかお相手との関係によってこの先いい形で満たされるかもしれないという希望を持ち続けるか。。。難しいですね。
パートナーシップに求めるものが、何なのか、という問題を、
つきつけられている感じですよね。

お相手の特性や行動を理解する努力ももちろん大切だと思うんですが、
パンダさんがお感じになった
言葉にならない「さびしさ」を感じてしまうことも大切にしていいんじゃないかと思います。
パンダさんご自身が、本当に欲しいものを得るために行動しちゃってもいいのでは?

runさんが指摘されている「パンダさんのさびしさ」は、それを無視しろとは言えないと思います。(自分としては、無視している状態に近いので、相手が寂しいと訴えてきても、「それは気の迷いだ」に近いことを言うこともありますが)

結婚観の話に近いと思うのですが、定型の方の「満足を得たい」の気持ちは、青天井(上限がない)、つまり、「もっともっと」と、いくらでも欲しくなってしまう種類の欲求なのではないでしょうか?
そして現実を振り返って、パートナーさんは、同意や気持ちの共有が完全にゼロでしょうか?(存在を感じる瞬間はあると思います)二人の人間なのですから、すれ違いや考えの差は必ずあると思いますので、そこにsensitiveになりすぎないで、着目点をそっとずらす方が、穏やかで居られると思います。
「できない」を指弾するよりも「できる」を評価する姿勢は、パンダさんはお持ちと思いますので。

ズレを直視することがパンダさんのライフワークのようなものなのでしょうから、お陰でこのような皆様のご意見に触れることができます。「ASと定型」の付き合いは、色々な角度から光を当てることで見え方が違うことを学び、そうしながら凌いでいく部分があるのではないかと思っています。

玄さんのおっしゃること、すごく理性的だし、頭ではとてもよく理解できます。
ただ、さびしい感情って、どうズレを直視しようと、穏やかでいようと自分に言い聞かせても、
飢餓感や渇望と同じで、感じちゃうものだと思うんです。
Sensitiveになるなと言われても、もっといいところを見ろと言われても、感情は深いところから自然に湧いてきちゃうし、理性でコントロールできない。そして理性でコントロールできないからといって、感情は決して下等なモノではないと思うんです。むしろ身体と心とマインドの大切なシグナルだと思うんです。
あなたには、いま、何かが足りないよ、と教えてくれている信号やレーダーというか。
砂漠で喉が渇いた時に、欲しいのは水です。
「ガソリンがあるからそれ飲めば?」「シャンプーがあるからそれ飲んどけば?」と言われても、
水(共感)が欲しいんです。そして、バケツ100杯の水が欲しいんじゃない。コップ1杯か2杯の水をごくごくと飲めば、ああ、おいしかった、と乾きがおさまるわけです。

夫婦間のズレを常に見極め、着地点を探し、「穏やか」な夫婦でいることももちろん大切だけど、
穏やかな夫婦でいることがパートナーシップの最終目的になってしまうと、
個人の幸福やニーズの追求ってどうなるのかな、と。
自分の飢餓感がずっと満たされないまま、さびしい感情を押し殺してしまうのが習慣になれば、
病気や鬱になることもあると思うんです。
「欲しいもの」が何なのか、何に渇望しているのかを見極めて、
それをどこかで満たしてやる、つまり、ごくごく水を飲める瞬間というか、共感を心の底から感じられる体験とそこで得られる快感を思う存分味わうこと、そういう瞬間を自分に許してやることもありなんじゃないかと思うんです。

パンダさん、友人知人という第三者を軸にした会話は、もつれやすく、
きっとパンダさんと奥様だけの間の信頼関係は、予想外に純粋で強い形で、とてもわかりやすい「行為」で確認できるときがあるのではないでしょうか。

もうすでに「あの時のあれがそうだったのかなぁ」という過去の実例があるかもしれませんが。

runさんの、さびしい感情を「飢餓感や渇望」に例えるお話、共感の喜びを「水」に例えるお話、とても力強いですね。僕は感情を下等とは思いませんよ。もし見下すように受け取られたとしても、それは、そういう部分を持てないゆえの負け惜しみや強がりなんです。おそらく、「さびしさ」を感じるということは、哺乳類が群れを作るためのプリミティブなモチベーションなのでしょう。(余談ですが僕は、自分の心の構造が、爬虫類や昆虫に近いのではないかと思っていた時期がありました。)
相手がASであっても、「さびしさの飢餓感」を無視したり押し殺したり、あきらめたりする必要はないと、僕は思います。ASはそれに応える方法を学ぶスピードが非常にゆっくりなので、それを許して頂ければ、です。目を見て肩に触れ手を握り返し「そうだね」と言って欲しい、そういった「ニーズ」はAS側には育ちにくいのですが、求められるポジションにいることくらい分かります。余裕さえあれば、パートナーのニーズを無下にしたりしませんよ。

「個人の幸福やニーズの追求」が結婚の中にあるのか・必要なのかどうか、いまひとつ分からないです。「個人の幸福や心理的ニーズ」よりも、「一族の繁栄」が優先されるような状況での結婚であれば、「飢餓感が強い人」はマイノリティでしょうね。どちらも否定されるものではなく、感覚の違いなだけと言えるかも知れません。

希望を叶えたいと思うパワーが前進を生む(希望が「叶うこと」ではなく)のでしょうから、願いを持つことはOKと思います。

 皆さんのご意見を読ませていただいて、ああ、この問題はほんとに根深い問題なんだなあと改めて感じました。
 親しい(夫婦のような)人間関係の中で、「心地よい距離の取り方」というのがお互いにすごく違っている場合、一体それをどう調整可能なのか……

 定型同士の話でも「やまあらし」の話はときどき例に使われますよね。一人では寒い。でも寒いからと言って近づくとお互いの針が刺さって傷つく。だから離れるけどやっぱり寒い。そうやってくっついたりはなれたりを繰り返しながら、ちょうどよい間隔を探していくという話。

 この話がアスペと定型の夫婦に応用できるかというと、ちょっと難しい気がします。だってやまあらしの場合はお互いに同じような長さの針を持っているわけで、そこが共通しているんだけど、アスペと定型の場合は何で喩えたらいいか難しいですけど、とにかく相手への「求め方」自体がだいぶ食い違っている。たとえば一匹の方は暑いなあと思っていて涼を求めていて、他方は寒いなあと思ってぬくもりを求めているような、かな?

 温度調節の場合は服を余計に着たり、あるいは減らしたりである程度それぞれに快適な状態を作れるけど、こういう問題ってそういう解決の仕方はできそうにないですもんね。

 今のところ私の場合はそういうズレに直面しちゃった場合には、その場面を大げさに表現して茶化して遊びにして誤魔化したり、そういうことをやることもあります。それでやり過ごしたり多少は楽しんだり出来ることもあるし、でもそれにも限度もありますね。

 とにかく今の私としてはうじうじと悩み続けるポイントのひとつのようです。

 

ヤマアラシのジレンマ。。。個人的には、解決策は、お互い立ち上がって抱き合うことかな、と思っています。ヤマアラシの腹側には針(とげ?)はないので。

今回のような心情論のテーマは、定型とASのそれぞれの感覚が解りやすく出る、と改めて感じました。
文字のやりとりだと、コメントを読み返し、考える時間があるのですが、面と向っての対話の場面では待った無しです。

私の個人的な印象ですが、人間関係の愚痴や悩みを吐露すると、
定型の人は「それはつらかったね」という感情的慰撫「わかる、わかる」という共感「それでどうしたの?」という吐き出しの促進で苦痛を聞き入れてくれるなどの・・・いわば感情的寄り添いをしてくれる場合が多い。
ASの友人知人は「それについては」「僕が思うに」と、自分の見解を述べて、悩みの解決や突破口を提示しようとしてくれる場合が多い。
という印象です。

どちらも親切です。

定型の悩み吐露の場面においては「聞いて欲しい」という場合と「聞かせて欲しい」という場合とがあるので、相手がほとほと傷つき疲弊している様子ならば「聞いて、感情を慰撫する言葉にとどめる」になるし「どうすれば良いと思う?」と困っている様子ならば、自分の意見や知識を伝えたり教えたりする。

要するに使い分けです。

私は、反省を込めて言うのですが、今までASの友人の親切に、文句や注文をつけていました。
「こういう時はごちゃごちゃ言わずに、黙って聞いてくれれば良いのよ」とか「自分の意見じゃなくて。一言ソレハタイヘンダッタネとか、そういう言葉は出ないの?」
友人も困ったでしょう。
ある日は、私の仕事の苦労話に、AS友人は完全無反応の姿勢で居ましたし、ある日は、迷った様子で「ソレハタイヘンデシタネ」と、抑揚の無いぎこちない言い方で答えてくれました。

そういう時は、こちらの流儀を押し付けたような申し訳なさを感じ「ごめん」と謝り、よけいAS友人を困惑させていました。

上のFOXさんのコメントにも、つい「立ち上がって欲しいとき立ち上がってくれないから、結局抱き合うことが出来ない」と思う自分が居るのです。

どなたかが掲示板で
【定型同士と、定型とASとのコミュニケーションは、こと男女の関係となると、全然別モノだと私は考えています】
とコメントされていましたが、根源はコレだと痛感しました。

気持以前に言葉(の意味や真意)が伝わらない困惑感は、独特であると感じます。

が、それでも尚、魅かれてしまうということに「愛」とか「道徳」を感じてしまいます。


【定型同士と、定型とASとのコミュニケーションは、こと男女の関係となると、全然別モノだと私は考えています。】

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