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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2012年10月

2012年10月31日 (水)

笑顔

 最近特にそう思うことが多くなった気がしますけれど、私はパートナーの笑顔を見るのが好きです。特に私に対して笑顔を向けてくれるのでなくても、テレビを見ながら笑ってるときでもいいし、そのほかになんとなく微笑んでいるときでもいいし、その笑顔を見ていると、私自身もほんわかと幸せな気分になります。

 でも、彼女は仕事も大変で、ひたすら気を張って、気を遣って無理をしてコミュニケーションをしてきて、帰ってくるとぐったりという感じですし、いろいろと悩ましいこともあって暗い表情の時もよくあります。そのときは見ていて私もなんだか辛くなるんですよね。

 逆に私がバテて元気がないときなんかはパートナーはなんだか不機嫌になる感じがしますが、聞いてみると不機嫌ではなく、落ち込む感じの方が近いみたいです。私が元気で仕事をしているのを見ると安心するみたい。

 私がニコニコしていたり、何かで笑ったりするときに、それにつられて彼女が笑う、ということはほとんど気がついたことがありません。ただ、私がおふざけをしたり言ったりするときには、ちょっと笑顔になってくれることがあるかな。

 だからお互いに相手の表情を見ての反応は、やっぱり違いがあります。それは以前は私にとってかなり辛く感じられるものでした。定型的な共感関係が作れない、という感じで。けれども最近ふと気がついてみると、少なくとも以前のようにそのことにこだわっていない自分に気がつくようになったんです。

 それは何でなのか、自分でもよく分かりません。でもパートナーの笑顔を見てなんとなくほんわかと幸せな気分になる、ということが自分にとって以前よりもおおきな意味を持ってきているような気はします。

 なんなんでしょうね?

2012年10月30日 (火)

同じと違う(再び)

 学生時代に障がい児と遊ぶ、みたいなことをやっていたころ、最初はダウン症の子たち(ダウンちゃんとか呼ばれてましたね)の顔が、みんな同じに見えてしまったんです。それはほんとうに「区別が付かない」みたいな感じで。そういうときはとにかく「○○ちゃん」じゃなくて、ただ「ダウンの子」にしか見えなくなっちゃう。

 ところが触れあう機会が増えていくに従って、だんだん違いがわかるようになりました。それぞれ個性的な顔立ちをしているという風に見えてきます。そうなると「ダウンの子」というより、まず「○○ちゃん」になってきます。

 でも「○○ちゃん」なんだけど、「ダウンの子」じゃないかと言えばやっぱりダウンの子でもあるんですよね。で、顔だけでなく、人への関わり方とかも随分似てるところがあるなあとは思えるし、それは自閉の子とは正反対の印象だったりします。

 そういうのって、いろんなところに普通にある出来事だと思います。うちではパートナーが好きで野良あがりの猫を今は二匹飼っていますけれど、以前猫との接触がほとんど無かったころは、まあ模様が違うなあ、くらいの区別で、顔を見分けることなんか全然出来ませんでした。でもこうやって日々一緒に暮らしていると、顔の違いも性格の違いもよく分かるようになってくる。でもやっぱり猫なんですよね。

 猫の方でも最初は人間の方を区別しないで一色単に見られていた感じがありました。でもしばらく飼われていると、やっぱり家族を区別するようになってくるんです。で、相手に要求することを使い分けたりするようになる。ただ、猫の方がそういう区別をするからと言って、「それでもあいつらは人間だ」という共通点を感じているのかどうかまではまだ分からないんですが (^ ^;)ゞ

 という感じで、私は「アスペと定型」ということについても同じ事だろうと思っています。上の文章の「ダウンの子」を定型に置き換えて「私」を「アスペの私」と入れ替えても、逆に「ダウンの子」をアスペに置き換えて、「私」を「定型の私」に置き換えても、ほとんどそのまま通用する感じがする。

 ただ違うところは何かというと、ダウンの子の場合はその特徴が顔という目に直接見える所に大きく現れているから、言ってみれば「見た瞬間」からまず「あ、私とは違う人たち」ということがわかる。でもアスペと定型の間ではそれはないので、まずは「同じ普通の人間同士」というところから始まって、そこからなんだか自分の持ってる常識が通用しない経験が繰り返され、逆に相手の考えていることもよく分からないという状態になり、そういうことの積み重ねの上に「アスペと定型」という違いがあるんだと説明されて、「ああそうか」と言う風に区別されて納得するような展開がある、という点でしょう。

 そうすると今度は「違う人間」ということが浮き立ってしまって、その人の個性がわからなくなる。もう随分前のことですが、あるお母さんが自分の子どもが障がいを持っていることが分かって、もう半ばパニックになられたんでしょうね、その子がすることが全部障がいのせいなんじゃないかと思えてしまう。その子が障がい児のための施設に通うようになって、その子自身にも楽しい場になって、笑顔がよく出るようになったとき、そのお母さんがこんなことを心配そうに仰ったそうです。「あの、この子最近よく笑うようになったんですけど、大丈夫でしょうか?」

 外から見ればそれこそ笑い話のようでもあるけど、でもお母さん本人にとってはそれだけ深刻な問題なんだなと思えます。

 私とパートナーの関係を考えても、最初は「アスペと定型」という目がなかったので、お互いにずれることの意味がほんとにわかんなくて、自分の常識で判断してしまうから、とにかく相手が悪いとか、自分が被害者だとか、どうしてもそんな感じの受け取り方になってしまうし、そのズレれが全部相手の個性のせいになってしまうから、言ってみれば人格の善し悪しの問題になっちゃうんですよね。

 それに対して「アスペと定型」のズレという目で問題をもう一度見られるようになってからは、そこが変わっていったと思います。「相手が悪い」と思っていたことを「ズレ」の問題として捉え直すことが出来るようにだんだんなっていく。

 で、それからこの場などを通していろんなアスペの方とコミュニケートする機会を持つと、今度はアスペの方の様々な個性が感じられるようになってくる。以下は上と同様です。

 結論は、「アスペでもある○○さん」「定型でもある××さん」ということなんだ、という、これまでも何回も書いてきた、ある意味平凡なことなんですけど、ひとつだけ付け加えて強調するとすれば、この「アスペと定型」という分け方は、それが使われる状況次第でお互いの間にものすごく固いバリアーを作ってしまって、どんどん関係を悪くすることもあるし、逆に得体の知れなかった葛藤に別の理解の道を作ってこじれた関係を柔らかくする働きをすることもある、ということです。

 一体どういうときに固いバリアーになってしまうのか、どういうときに柔らかい関係作りに役立つのか、考えていきたいことの一つです。

 

2012年10月28日 (日)

ひとつの区切り

 大体みなさんのコメントも一段落の感じがあり、議論のポイントは私の目から見て基本的には同じ問題を違う言葉で語られているようになってきたと思えます。そして私が理解できる範囲では今の私にお答え出来ることについてはおよそお応えしたように思っています。もちろんその答えに全ての方から同意していただけるとか、納得していただけるとは考えていません。

 また、個人的にメールを下さった方にはアスペの方も定型の方も私と似たような見方をされていらっしゃったり、改めてアスペと定型との違いとして理解できるもの、慎重になるべきもの、そう理解すべきでないもの、いろんな視点を持つことが大切だと感じました。

 いずれにせよ、今回の問題については私自身の考えについてはとりあえずは出来る範囲で書かせていただきましたし、「現時点では」これ以上無理に絞り出してもあまり生産的なものは出来ないだろうと思います。それは現時点での私の限界(あるいは死ぬまで治らないかも知れませんが (^ ^;)ゞ)ですので、別にこれからずっとそこに居直るつもりはありませんけれども、現時点ではそのようにご了解いただきたく思います。


 ということで、今回の問題についてはまだパンダの問題点を書き足りなく思っていらっしゃる方もあるかもしれませんし、それについてお書き下さる方もあるかもしれませんが、基本的には私の方からそれに対して改めてお返事をすることはないと思います。「やっぱりパンダはその程度の人間(いや熊か?)なのか」と、私の限界をご理解いただければ幸いです。

 このブログを書いている私の基本的なスタンスについてはすでにコメントである程度まとめて書かせていただきましたが、もう一度記事の方(この記事の下の方)にコピペをさせていただきますので、必要に応じてご覧いただければ幸いです。この基本的スタンスについてはそれほど変化することもなくこれからも維持されていくと思います。

 ということで、私とパートナーの「アスペと定型のズレ」を含んだコミュニケーションというか生活はこれからもずっと続いていきますし、改めてその時々に思いついたことや興味を持ったことを記事につづっていく、というこれまでのようなブログ作成をやっていきたいと思います。関心を持っていただける方はどうぞ今後ともよろしくお願いいたします m(_ _)m

 ひとつだけ、これまでのコメントでご指摘いただいたことについてちょっと私の見方を加えるとすれば、私は自分のスタンスを「楽観的理想主義」とは感じていなくて、「悲観的楽観主義」だと思っています。状況はとても悲観的に思えるから、むしろ楽観主義になる、という感じでしょうか。もちろんこれは私個人の自己イメージですので、それに同意して下さる方も、そんなことはないと感じられることもあると思います。そんな風に多面的に見られること自体は色んな意味で大切なことかなと思っています。


 私のスタンスは=============

「もしそうだとすると(そして多分そうなのだろうと思いますが)、お互いに悪意があるわけでもないのに、コミュニケーションを取ろうとして結果として相手にとっては悪意があるかのように相手に受け取られてしまう、という「コミュニケーションのズレ」がそこにはあります。」

 と記事に書かせていただいたところにほぼ尽きると思いますし、お寄せ頂いた疑問点に対する答えも、だいたいこのスタンスを見ていただければ分かっていただけるのではないかと思うのですが、如何でしょうか?

 つまり、私は定型やアスペのどちらかだけが相手を傷つけているとは全く思っていません。それと同時に、定型もアスペも、自分の言動が相手を傷つけていることに多くの場合気がついていない、と思っています。そこがとてもむつかしいことですし、コミュニケーションを難しくする大きな原因だろうと理解しています。

 これは定型の人々に共有されやすい「当たり前」と、アスペの人々に共有されやすい「当たり前」あるいは個々の人がそれぞれ持っている「当たり前」がずれている場合がしばしばある、と言う風に言い換えてもいいと思います。そうすると、相手の「当たり前」は自分にとってはとても歪んで見える、ということがお互いに起こるのだと思います。

 以上が私の基本的な立場で、その立場に立って、できるだけある見方で「決めつける」ことをしないで、Aさんには「こう感じられる」がBさんは違うようだ、ということがあれば、そのズレを大事にしてそこを理解しようと思っています。そしてできることならお互いに「ああ、こういうふうにずれていたんだね」という理解が共有できればいいなと考えています。

 ただし、私は神様のように公平な立場を取ることができません。「そうしたいと思っていること」と、実際に定型の一人として生きている自分が「できること」にはどうしてもズレがありますので、私が望むと望まないとに関わらず、やっぱりその見方は無意識のうちに定型的に偏ってしまうというのは、これはもうどうしようもない現実だと思います。

 この点については「出来るだけ自分の見方を柔らかくして、別の見方に敏感になる」ことを心がける、といった対処しか私には出来ませんし、またときおりパートナーの意見を聞いてみて自分の見方を相対化する、ということ、みなさんの意見を見て相対化する、ということで対処することしかできません。

 それはひとつの「プロセス」なので、個々の発言については当然「柔らかく」「相対的に」見ることができていないことはどうしても出てきてしまいます。ですから、もしそこに問題があれば、みなさんからご意見を頂いてその都度考えてより柔軟になるというプロセスを大事にしたいと考えています。

 

2012年10月27日 (土)

ズレふたたび

 定型とアスペの間のコミュニケーションのズレについて「架空の対話サンプル集(両サイドからの解説付き」(かものはしさん)という案がコメントに書かれていたので、私もそういった種類のものを作れるようになったらいいなとかねてから思っていたものですから、この場でやりとりして、できればそのうちに本にでもなればいいなと思って書いた二つのコメントに、私としてはびっくりするような厳しい反発のコメントをいただいて、正直傷つきましたし、しばらくブログをお休みしようかなとも思いましたが、そこは「困ったときのパートナー頼み」で、また彼女に読んでもらって意見を教えてもらいました。

 まず第一に「これは絶対に地雷」と言われたのは「アスペルガー風に」と書いたことで、これは間違いなく上から目線と感じられるし、私もそう思う、とかなり怒られました。

 私としてはその前のいきさつがあって、私の文章がまどろっこしくてわかりにくい、という評判でした。それで、一番目の私のコメントにFOXさんがパンダの意図が分からない、と書かれていたので、まどろっこしくならないように、箇条書きに主張を明確にして書く、という意味で「アスペルガー風に(自信ないけど)」と書いたつもりだったのですが、パートナーは納得できない感じでした。

 次に、ここに来て書いている方は安心して自分の内面を語れる場だと思っているのに、それを医者にコメントされたり、本で他人に晒されたりしたいとは思わないはずだ、と言われました。

 私としては今の場の働きをこわしたくはないと思っているので、二番目のコメントの「4」で

私はそう考えていますが、もちろん参加の仕方をそのやり方に限定する意図は全くありません。今までのように色んな形で参加していただき、それに上記の可能性も加えて考えていただければそれで十分と思っています。」

 と書いたつもりだったのですが、この文章自体わかりにくくてそういう風には伝わらない。ただ本にしていこうという呼びかけにしか見えない、と言われました。

 それから、私は感覚として「私の意図を違う形で決めつけられて、非常に厳しく攻撃された」と感じてしまったのですが、パートナーは自分には全然そんなふうに感じられない、書いている方はとても傷ついて発言しているようにしか見えない。と言われました。


 私としてはそれを聞いて、うーん、やっぱりそうなのか。と思わせられました。これまでもパートナーとの関係で彼女からものすごく激しく攻撃されたように感じることがしばしばあったのですが、そのことを彼女に伝えると、そんなつもりは全くない、といつも言われていました。今回もそれと同じパターンなのですね。

 四つめに、パートナーから「あなたは人の話をその文脈を無視して、自分の関心のあるところに勝手に引きつけてどんどん進もうとしてしまう癖がある」と言われました。今回もみなさんの気持ちを無視したのだと言うことになります。

 私としては自分なりの文脈理解で、ひとつの可能性を書いてみただけだったのですが、その文脈理解がずれていたようです。また、本のことも私としてはいずれそういうことがあってもいいという程度の気持ちでしたし、もちろんそのときに皆さんの発言を勝手に使うようなことはありません。仮にそのうちにみなさんの中からもやってみたいという気持ちの方が現れたときに、相談しながら合意を作りつつ、進めていけばいいことだと思っています。

 ほかにもいくつか話をしましたが、彼女には「やっぱり伝わらないね」と言われてしまいました (^ ^;)ゞ

 今回のズレについては、私も傷ついたのですが、私の意図していないところでみなさんに傷を与えてしまったと言うことについては申し訳ないと思います。ただ、上にも書いたとおり、私自身どうしてそれがみなさんに傷を与えるのか、必ずしも今も十分に理解し切れているわけではありません。ですから、これからも似たような失敗を繰り返す可能性は残されていると思います。これについてはその都度指摘していただいて、少しずつ考えていくより方法がありません。

 それから、転んでもただでは起きない精神で考えてみると、今回ものすごく実感したことがあります。それはアスペの方達の間では本当に「わかり合える」ものがあって、それは定型の、少なくとも私には分かりにくいものなのだなと言うことです。別の言い方をすると、定型に暗黙のコミュニケーションルールがあるように、アスペの方達にもそういうルールが作られていて、それはたとえば私のパートナーが見てもすぐに了解が可能なようなものだと言うことです。

 そのことが実感できたことは私にとっては大きなことでした。そのルールが分かっていけば、定型とアスペの間のある種の「翻訳」が可能かも知れないからです。もちろん簡単なことでないことはそうだろうと思いますが、少なくともその可能性を感じられました。

 

2012年10月25日 (木)

多数派と少数派

 この間のアスペと定型のズレの問題は多数派と少数派、ということがなんだか複雑にからんで、理解が難しくなったところがあるなあと感じています。

 私自身は定型の中ではずっと「自分は少数派(変わり者?)」という意識を持ってきました。で、その多数派の中で少数派をやっていたわけです。けれども、アスペと定型という比較の中では世の中的には多数派なんですよね。

 パートナーとのかつての衝突の中で、私もよく「普通」とか「常識」とか、それまでの自分はあんまり好きじゃなかった言葉を使いました。使いたくて使うと言うよりも、もう追い詰められてそう言わずにはおれない、という感じで使うんです。「だって普通そうでしょう」とか。議論が通じ合わなくて、いくら説明しても分かってもらえないし、彼女の言うことが分かんないし、しんどくてしんどくて、ギリギリまで追い詰められたとき、その「普通でしょう」がある種「救いの言葉」になるんです。

 でもその「普通」とか「常識」とかいう言葉は、パートナーがアスペルガーだという理解をお互いに持つようになってからは、なかなか使えなくなりました。「普通」という言葉は結局多数派の言葉で、「みんなそうだからあたりまえでしょう」という形で大勢の人たち(結局定型の人たち)を気持ちの中で無意識のうちに味方にして、数の力で自分を支えようとしているわけですから。で、そういう言われ方でパートナーがずっと傷ついてきたということがちょっとずつ分かってくると、やっぱり使えなくなってきます。

 考えてみると、定型の多数派に対して自分のことを少数派(変わり者)と思っても今までやってこれたのは、少数派という意味を「個性的」とか、「希少価値」とか、そういういい意味でイメージしていたからだろうと思います。でも少数派としての「アスペルガー」ということになると、社会的には決して「素晴らしい人たち」という風には扱われていないのが現実です。だから私が体験してきた「少数派」であることと、アスペの方達、身近に言えばパートナーが体験してきた「少数派」であることとは、言葉は一緒でもその中身が相当違うんじゃないでしょうか。

 そういう「少数派」であることで沢山の傷を負ってきたアスペの皆さんと、そのアスペのみなさんとのコミュニケーションで沢山の傷を負ってきたと感じている、この場にやってこられる「多数派」の定型の皆さんと、なんだか傷と傷とがぶつかり合ってしまった部分が最近の遣り取りの中でいくつもあったように感じます。

 ばんさんが「私も例の掲示板のやり取りでは、読んでいてしんどくなりました。家でのパートナーと私との同様のいさかいが、ネットでも行われてるようで。」と書かれていますが、なんかそういう傷と傷のぶつかり合い、みたいな部分が関係している気がします。しかもその傷のぶつかり合い方がお互いに違っていてズレを含んでいる。

 特に定型の方はコミュニケーションの前提として「この自分の傷をアスペのみなさんに分かって欲しい」という思いが強かったのではないでしょうか。それって定型同士の信頼関係には大事なことですしね。ところがそれはやっぱり定型的なコミュニケーションスタイルで、アスペの皆さんがこの場で取ろうとしていたスタイルではなかったのでしょう。

 この辺りのことは小梅さんが書かれていることにもつながっていくのでしょう。

 うーんと、いつものように、やっぱり何かハッキリした結論のある話ではありません。「じゃあどうしたらいいのか」とか、対処法がすぐに見えてくるような話でもありません。何となく感じたことを感じたままに書いています。でも、大事な問題がこういうところにもあるんだろうなあと思います。

 多数派と少数派の関係の中でそれぞれに違う形で傷ついてきたみなさんが、多数派と少数派が入れ替わった場の中で傷をぶつけ合うことになった。いや、うまくぶつけ合うことにもならなかったのかも知れませんね。そもそもぶつけるという意識もないかも知れないわけですし、これも私個人の感じ方に過ぎないかも知れません。

 えっと、別に悲観しているわけではありません。またいつも通り、あっちにふらふら、こっちにふらふら、いろんなことを考えながら、ぼちぼち足元を見つめ、ちょっとずつ前に進んでいきたいなと思っています。よろしければみなさんもおつきあいの程を。

 

2012年10月23日 (火)

今起こっているズレ

 こちらのブログの記事を私がサボっている間に (^ ^;)ゞ、掲示板の方ではびっくりするくらい活発な投稿や議論が行われています。最近の特徴はほぼアスペの方による議論の場になって、定型の方はほとんど発言されなくなったということで、そのことにはいろいろ改めて考えさせられるものがあります。

 たとえばアスペの方同士がお互いに情報交換したり、議論をしたりする場が少ないのかなあと言うことです。だからもしそうなら掲示板がそういう役割を果たしてくれるのは、決して悪いことではないし、むしろ絶対に必要なことだろうと思います。

 私自身にとっても、今まで「アスペと定型」の間のコミュニケーションについては自分なりに主にパートナーとの経験もありますし、それなりにイメージがあるわけですけれど、アスペの方同士の議論の進め方やテーマの選び方などはほんとに未知の世界、という感じでしたから、とても新鮮でもあるし、「ああ、なるほど、やっぱりこんな感じになるんだ!」と思うこともあるし、「え?そうなの?」と思うこともあるし、「うーん、理解がむつかしい」と思うこともある。そういう意味で刺激的ですし、勉強にもなります。

 他方で「アスペと定型のコミュニケーション」という当初の目的から言うと、今は残念ながらそうはなっていないとも言えますよね。

 なぜそういうコミュニケーションの場になりにくいのか、と言うこと自体、実は定型とアスペの間のコミュニケーションを考えていく上ですごく大事な問題だという気がします。定型的な私の感覚から言うと、「このアスペの方の書き方だと定型の方はかなりショックを受けるだろうな」と感じられる場合もときどきあって、ただそれは私の定型的な感覚でそう感じると言うことなので、パートナーに意見を聞いてみたりしましたが、彼女はそういった文章についても別に悪意があるわけではない、という感想でした。

 もしそうだとすると(そして多分そうなのだろうと思いますが)、お互いに悪意があるわけでもないのに、コミュニケーションを取ろうとして結果として相手にとっては悪意があるかのように相手に受け取られてしまう、という「コミュニケーションのズレ」がそこにはあります。

 なぜそういうズレが起こってしまうのか。そのことを今は多分お互いまだよく理解できていない段階だろうと思います。そこが簡単に分かる位なら世の中の定型アスペの間の葛藤はすぐに問題解決!ということでしょうし、なかなか難しい問題がそこにあるということは間違いありません。一朝一夕に分かることなど無いでしょうが、でもじっくりと腰を据えて、焦ることなく少しずつ糸口を探し、ほぐれるところはほぐしていければなあと思います。

 そんな風に考えれば、今の状態はこのブログや掲示板に私が考えていた「本来の目的」に、実はぴったりなのかもしれません。

 それにしても、昨日パートナーから「要するに今の状態は少数派のアスペルガーがずっと経験して苦労してきたことを、定型が少数派になって経験していることだね」と言われましたが、たしかにそうも言えるなあと思います。そういう意味でも大事な展開なのでしょうね。

2012年10月 6日 (土)

よろしくお願いします

 このブログは、その時々に私が思いついたこと、感じたことをわりに素朴にそのまま書かせていただいているだけなのですが、そのブログに本当に多くのかたが来てくださって、色んな頁を覗いてくださっていますし、またコメントを下さる方はその内の一部ですけれども、それも相当な数になっています。

 さらに○○さんのお陰で新たに掲示板を設けさせていただいた結果、これまでROMで来られた方達からも新たに書き込みがどんどんなされるようになって、熱心な情報の遣り取り、意見の交換がされています。

 そしてそういう遣り取りなどを通して、あるいはそれらを読まれるだけでも、私の想像を随分超えたレベルで読者の方のお役に立っている、という声や感謝の声を、いくつかのルートで教えていただいていて、有り難いような、うれしいような気持ちになると同時に、一方で何か申し訳ないようなそんな気持ちになります。というのは、そんなに感謝していただけるほど、必死で努力してるというわけでもなくて、淡々とやっているだけだったりしますので……(^ ^;)ゞ

 というよりも、私がどれだけ努力しているかが問題なのではなくて、こういう「場がある」ということ、そのこと自体がとても大事なのですよね?そしてその場を皆さんが大切なものとして作ってこられていることが。

 そんなことを思う内に、ふと気がついたことがあったんです。最近特にアスペの方からの発言が凄く増えて、定型をはるかに上回る位になってきていますけれど、こういう形でのコミュニケーションというものが、アスペの方達にとってもとても大事なんだ、という、本当は当たり前のことに今更のように気がつかされたのです。

 三つ組みの障がいという考え方もそうですけれど、知らず知らずのうちにアスペの方はコミュニケーションが苦手というだけじゃなくて、そのものの必要性が乏しいとか、あるいは拒否的である、というようなイメージが自分の中にもこびりついてしまっているのだろうと思いました。「アスペルガーと定型のコミュニケーションを考える」というサブタイトルを自分で付けているにもかかわらず (^ ^;)ゞ

 大事なのはやっぱりコミュニケーションを必要としているかどうかではなくて、「どうやってコミュニケーションをするのか」なんですよね。実際たとえばこういうブログや掲示板という「場」があれば、活発なコミュニケーションは現実に成立するんですものね。そのことをこの場が(大げさに言えば)証明しているのだと思います。

 そんな風に考えてみると、私がこのブログを始めた目的の一つはもうずっと前から達成されているんだなと思えます。

 パートナーとの間にも今では基本的にコミュニケーションは成り立っている感じがしています。もちろんすれ違いとかそういうのはたくさんあるし、自分としては納得がいかなかったり満足が出来なかったりする面もあるにせよ、でも基本的には成り立っている。あとはその質をさらにいいものにしていくという課題があるという感じかな。

 ということで、ブログや掲示板に感謝してくださる皆さん、私の方は気楽にやっているだけで、なんか却って申し訳ない感じですが、どうぞ思う存分に利用してくださって、さらにいい場にしていって下さい。よろしくお願いします。

2012年10月 2日 (火)

信頼関係という宝物

 前回の「助けてもらう」にあれよあれよという間に膨大なコメントを頂いて圧倒されていました(^ ^;)ゞ

 いろいろ問いかけてくださったことにうまく私の考えをお返しできないと思いますけれど、とりあえず一番最後の(今日の所)玄さんの
 「パンダさんの「ほら、僕の言った通りになったでしょ」という、先見力を誇るメンタリティは、定型の典型的なものと思います。」

 と書いてくださったことについて、素朴に感じたこと辺りから考えてみたいと思います。

 確かにこの言葉には「先見力」の有無が問題になっています。ただ、私自身の素朴な実感から言うと、それをパートナーに対して「誇りたい」というよりは、「認めて欲しい」という感覚なんです。

 この「誇りたい」と「認めて欲しい」がどう違うのかがまた難しいかも知れませんね (^ ^;)ゞ

 「誇りたい」の場合はそれを否定されたときは「腹が立つ」ことが多いように思います。それに対して「認めて欲しい」というときは、それを否定されたときは「悲しい(あるいはさびしい)」と感じるように思います。少なくとも今回の事例の場合は私は「認めてもらえない」最初の状態の時は「悲しさ(さびしさ)」を感じていました。何が悲しい(さびしい)のかというと、これだけ長いこと暮らしてきているのに、自分のことを理解してもらえていない、という感覚が絡んでいるように思います。

 もちろん、客観的に見れば、そういう風な形で私のことを理解するのは難しいパートナーのことを、私が未だによく理解できていないし、なぜそれを彼女に理解してもらえないのかを、私が理解していないということで、まあどっちもどっち、おあいこと言えなくはないのですけれど……

 それでなぜ私が彼女のことを未だに理解できていないか、ということについて、皆さんのコメントにいくつかのヒントがあるのだろうと思います。その中でもわりあいすっと分かるコメントもありますし、今の私にはまだ理解の難しいコメントもあって、ここでもいろいろ混乱がありますけれども…… (^ ^;)ゞ

 いずれにせよ、「先見力」の問題に戻れば、今回の場合は「私とその周囲の友人達との信頼関係」についての「先見力」が問題になっていたわけですが、私にとっては私を助けてくださる友人達がいてくれることはほんとに有り難いし嬉しいことなんですね。だからそういう「信頼関係」をもてているということは、私にとっては宝物のようなものだし、大事にしたいものであるわけです。

 で、その「宝物」(というか、正確に言うと「宝物がそこにある」という理解)をパートナーと共有したいという感覚がやっぱりあって、それが未だに共有できにくいことに哀しさを感じたんだと思います。もしかするとアスペの方から見れば「それはパンダの宝物なんだから、共有するとかいう話にはならない」という風に考えられるのかも知れませんけれど。

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