学生時代に障がい児と遊ぶ、みたいなことをやっていたころ、最初はダウン症の子たち(ダウンちゃんとか呼ばれてましたね)の顔が、みんな同じに見えてしまったんです。それはほんとうに「区別が付かない」みたいな感じで。そういうときはとにかく「○○ちゃん」じゃなくて、ただ「ダウンの子」にしか見えなくなっちゃう。
ところが触れあう機会が増えていくに従って、だんだん違いがわかるようになりました。それぞれ個性的な顔立ちをしているという風に見えてきます。そうなると「ダウンの子」というより、まず「○○ちゃん」になってきます。
でも「○○ちゃん」なんだけど、「ダウンの子」じゃないかと言えばやっぱりダウンの子でもあるんですよね。で、顔だけでなく、人への関わり方とかも随分似てるところがあるなあとは思えるし、それは自閉の子とは正反対の印象だったりします。
そういうのって、いろんなところに普通にある出来事だと思います。うちではパートナーが好きで野良あがりの猫を今は二匹飼っていますけれど、以前猫との接触がほとんど無かったころは、まあ模様が違うなあ、くらいの区別で、顔を見分けることなんか全然出来ませんでした。でもこうやって日々一緒に暮らしていると、顔の違いも性格の違いもよく分かるようになってくる。でもやっぱり猫なんですよね。
猫の方でも最初は人間の方を区別しないで一色単に見られていた感じがありました。でもしばらく飼われていると、やっぱり家族を区別するようになってくるんです。で、相手に要求することを使い分けたりするようになる。ただ、猫の方がそういう区別をするからと言って、「それでもあいつらは人間だ」という共通点を感じているのかどうかまではまだ分からないんですが (^ ^;)ゞ
という感じで、私は「アスペと定型」ということについても同じ事だろうと思っています。上の文章の「ダウンの子」を定型に置き換えて「私」を「アスペの私」と入れ替えても、逆に「ダウンの子」をアスペに置き換えて、「私」を「定型の私」に置き換えても、ほとんどそのまま通用する感じがする。
ただ違うところは何かというと、ダウンの子の場合はその特徴が顔という目に直接見える所に大きく現れているから、言ってみれば「見た瞬間」からまず「あ、私とは違う人たち」ということがわかる。でもアスペと定型の間ではそれはないので、まずは「同じ普通の人間同士」というところから始まって、そこからなんだか自分の持ってる常識が通用しない経験が繰り返され、逆に相手の考えていることもよく分からないという状態になり、そういうことの積み重ねの上に「アスペと定型」という違いがあるんだと説明されて、「ああそうか」と言う風に区別されて納得するような展開がある、という点でしょう。
そうすると今度は「違う人間」ということが浮き立ってしまって、その人の個性がわからなくなる。もう随分前のことですが、あるお母さんが自分の子どもが障がいを持っていることが分かって、もう半ばパニックになられたんでしょうね、その子がすることが全部障がいのせいなんじゃないかと思えてしまう。その子が障がい児のための施設に通うようになって、その子自身にも楽しい場になって、笑顔がよく出るようになったとき、そのお母さんがこんなことを心配そうに仰ったそうです。「あの、この子最近よく笑うようになったんですけど、大丈夫でしょうか?」
外から見ればそれこそ笑い話のようでもあるけど、でもお母さん本人にとってはそれだけ深刻な問題なんだなと思えます。
私とパートナーの関係を考えても、最初は「アスペと定型」という目がなかったので、お互いにずれることの意味がほんとにわかんなくて、自分の常識で判断してしまうから、とにかく相手が悪いとか、自分が被害者だとか、どうしてもそんな感じの受け取り方になってしまうし、そのズレれが全部相手の個性のせいになってしまうから、言ってみれば人格の善し悪しの問題になっちゃうんですよね。
それに対して「アスペと定型」のズレという目で問題をもう一度見られるようになってからは、そこが変わっていったと思います。「相手が悪い」と思っていたことを「ズレ」の問題として捉え直すことが出来るようにだんだんなっていく。
で、それからこの場などを通していろんなアスペの方とコミュニケートする機会を持つと、今度はアスペの方の様々な個性が感じられるようになってくる。以下は上と同様です。
結論は、「アスペでもある○○さん」「定型でもある××さん」ということなんだ、という、これまでも何回も書いてきた、ある意味平凡なことなんですけど、ひとつだけ付け加えて強調するとすれば、この「アスペと定型」という分け方は、それが使われる状況次第でお互いの間にものすごく固いバリアーを作ってしまって、どんどん関係を悪くすることもあるし、逆に得体の知れなかった葛藤に別の理解の道を作ってこじれた関係を柔らかくする働きをすることもある、ということです。
一体どういうときに固いバリアーになってしまうのか、どういうときに柔らかい関係作りに役立つのか、考えていきたいことの一つです。
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