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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2012年9月 2日 (日)

「障がい」を生きる

 今日パートナーと話をしていて、ふと思って、「アスペの人にとっては定型中心のこの世の中で生きると言うことは、自分にはなんだかわけのわからない理屈で動いている人たちを見ながら、文句も言われながら、なんとかそれにあわせようと必死にならざるを得ないわけなんだよね」と言いました。喩えてみれば、言葉もわからない外国に独りで放り出されてなんとか生活しなきゃならない、みたいな状況でしょうか。

 そう思うとほんとに大変だなあと感じ、そのまま「大変だよね」と言ったのですが、パートナーが言うには「最初からそういう生き方しかないから、大変かどうか、自分ではよくわからない」と言われました。定型に何とか合わせようとするのも、それでも文句を沢山言われたりいじめられたりするのも、彼女たちにとっては「それが普通のこと」なわけですね。うーん、そうかあ、と改めて思いました。

 
 もうひとつ、今日話をしたことで、今朝のことでしたが、朝の掃除などを終えたパートナーの上着が汗で凄く濡れてたんですね。それで「わあ、すごい汗だね」と言ったんですけど、「だからなんだって言うの?見苦しいって言うわけ?」と、ちょっとつっかかるような言い方で返事が返ってきたんです。

 私の方はちょっとむっとして「いや、大変だね、っていう意味なんだけど」と言った後、「なんでそうやって否定的に取らなきゃいけないわけ?こっちは心配してと言うか、○○さんのことを思っていってるだけなのに」と文句を言ったんです。

 それに対する答えは、定型に何かを言われるときは、自分が相手に不快感を与えているのではないか、それを遠回しに警告として言われているのではないか、と常に警戒している、というんです。だからある意味、相手にそれ以上不快感を与えないように対処するために、そんな反応になると言うんですね。

 これもうーん、と思いました。たしかにアスペの人に対してそういう「やわらかな警告」みたいな形で文句を言うことが定型にはあって、でもだいたいそういうのはアスペの人に通じないから、それが通じないともっと激しい制裁になったりする。そのことを繰り返し経験しているから、常に警戒の気持ちになるというのはある意味で当然だと言えますよね。

 でね、立場を入れ替えて考えてみると、定型の方も本当はアスペの人にとって深いな発言とか少なからずやってるはずだと思うわけです。ただ定型の方は多数派だから自分たちの言い方は当たり前の、普通の、正しい言い方だと信じ込んでるので、それには気がつかない。だからアスペの人のように、いつも警戒して生きていかなければ、と言う風にはならない。


 「障がい」を持った人というのは、つまりは多数派の中でそういう状況を生きることを運命づけられた人ということなのかなあと、そんな風にも思いました。

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コメント

自閉圏内のFOXです。

私自身は、いつも警戒心を持って過ごしているということはありません。

自閉圏内であれ自閉圏外であれ、自己を否定されたり非難されたり、ということが多ければ、神経過敏になり、他者に警戒心を覚えるということではないかと思います。自閉圏内だから自閉圏外だから、というわけではなく、その人の自己評価やその人の置かれた状況に起因する部分の方が大きいように感じます。

実際的な例としてのパンダさんご夫婦の会話としては、
「すごい汗だね」という言葉に、「相手を心配している」「相手を思っている」という言外の意味を汲み取れ、というのが、(その時の状況にもよるでしょうが)ちょっとハードルが高かった可能性があるのかもしれません。

「すごい汗だね。掃除お疲れ様」「すごい汗だね、掃除ありがとう」
というように、パンダさんが一言添えていれば、もっとスムーズなコミュニケーションにつながるのでは?と思いました。

こんばんは。僕は、この世界はパンダさんの言われるほど「わけのわからない」という風には思っていません。定型の解釈の読み方もあるだろうし、ASの解釈もあるだろうというだけです。それを「定型が普通で、そうじゃないのはカワイソウ」と思われるのは、若干ムッと来ます。僕自身は比較の欲求が少ないようなので、比較の目で見られると「心外」と感じるのです。他人の目を気にしていたら、キリが無いですけど。(^^)

定型・ASに限らない話だ、ということはFOXさんが既に書かれていますので、別のコメントをします。(全然的外れかもしれませんが)掃除を終えたパートナーさんの気持ちが「キレイに掃除した」に行っていたところに、パンダさんが「汗」を指摘したということで、「なんでひと言目が汗なの?キレイになったでしょ?」という内心で、つい反発的な回答(つっかかって)をしてしまい、パンダさんに反撃されたので、とっさに苦しいイイワケをしてしまった、のでは?だって「常に警戒」は不自然ですよ。何か言われたら「つっかかる」という構えでは、身が持たないですって。
強いて言えば、「苦しいイイワケ」が出るところが、ASっぽいかも?その脇の甘さが、パンダさんを警戒していない証拠って感じです。

おはようございます。
私は、わけのわからない世界ですね。
ルールがわからない、ネタばれしてくれ~って感じでしょうか。
当たり前すぎて、自分で気がついていませんでしたが、かなりストレスを溜めています。

自分なりに、長い年月かけて読み説いてはいますが、こだわりがあって、内側を通って理解するか、根本を理解したいと思っているので、不全感があります。

常に自分が勝手に読んでしまっているかもしれない警戒感があります。それは、定型の人に対してだけではなく、同じ障害の人に対してもです。
でも、それをしていると、なにも発言できないので、最近は少しやめています。

一方、勝手に読まれてしまう事へは警戒はありませんが、虚脱感があります。

私は、根本的な所にパンダさんがおっしゃることはあると思っています。
システム的にそうなっている感じです。
システム的にそうなっている事がわかっていなかったから無駄に努力してしまいました。

もちろん100%そうだと言っているわけではなく、ふんわりと「そういう事がある」を頭においておくと、無駄に苦しまなくてよかったと思っています。

ただ、同じ障害でも人それぞれなので、それを気がついた方がよいかどうかは、わかりませんし、感じ方、考え方も人それぞれで、場合によってはその人の生き方、思考の仕方など、深い所につなっがっている場合もあるかと思います。

なんだか、まとまらなく勝手な発言、お許しください。

FOXさん 玄さん かものはしさん

 どうもありがとうございます。
 同じアスペの方と言っても三人三様、感じ方もいろいろだなと改めて思いました。

 「自閉圏内であれ自閉圏外であれ、自己を否定されたり非難されたり、ということが多ければ」というFOXさんの話は私なりによくわかります。私の体験でも同じ「自閉症児」でも、親との関係など環境によってとか、言葉がどの程度出来るかによって感じが全然違いました。条件の悪い子は何か気に入らないことがあるとすぐに頭を床にがんがん打ち付けたり、自傷行為で自分のいらだちを表現していて可哀想でした。逆にわりとおだやかにマイペースで遊んでいる子どももいました。

 いずれにせよ、多数派である定型の基準に合わせづらさを持っている場合には、否定されたり非難されたりする回数が増えるわけですから、神経過敏になる可能性が大きくなっちゃうんでしょうね。

 玄さんの「「定型が普通で、そうじゃないのはカワイソウ」と思われるのは、若干ムッと来ます。」というのは私も全くその通りだと思います。いわゆる障がい児たちとつきあい始めた頃は私は「可哀想」と思ってしまっていました。でもつきあっている内に、むしろ「こんな大変な条件を抱えて頑張って生きてるなんてすごい」と思い、逆に自分の方がつまらない人間に思えてきました。そしてそのうちにお互いが自分の条件の中でそれぞれに悩みを抱えて生きているんだなあと思えるようになって、そうしたら「条件に違いはあっても同じ人間同士」みたいな感覚になりました。

 アスペについてはようやく「大変な条件を抱えて頑張って生きているんだなあ」とある程度実感を持って感じられるようになってきたところでしょうか。障がい児の付き合いで「同じ人間同士」みたいなところにたどり着けたのに、この問題ではまだそこまで十分たどり着けたような気がしないのは、多分自分が「当事者」だからかもしれません。障がい児との付き合いは言い方は良くないですが、「結局他人の子ども」のことなので、より客観的になりやすいんだと思います。でもこの問題では自分の利害が直接に絡むことが多いから、そんなに客観的にゆとりを持って考えにくいのでしょう。やっぱり「当事者」は第三者とは違うなあと思います。

 かものはしさんの「自分なりに、長い年月かけて読み説いてはいますが、こだわりがあって、内側を通って理解するか、根本を理解したいと思っているので、不全感があります。」という表現や姿勢は、すごく共感してしまいました。そうなんです。私もそうなので、一見小さな違い、ズレもとても気になってしまうんです。そこにとても大事な秘密が隠れているように思えて。で、その秘密が解けると、お互いの理解がぐっと深まるような気がするんです。システム的にそうなっている、ということについても同感です。そのシステム的な違いを内側から理解できたらいいなあ、というのが私の感じ方ですね。

 

実は、書き込みをさせてもらう前に、記事をずっと読んでいて、
パンダさんのしていることって、違いはいろいろあるけれど、
私が定型の人にしていることだと、思ったんですよね。

私の場合は、自分が障害とは知らなかったので、人間にならなきゃって思って、
かなり切羽つまた状態で、目の前の現象で一個一個やってきたので、
かなり無茶があったのですが。

今も、複雑なものより、些細な事の中に原型が見え隠れするので、
どうしてもそこから抽出しようと思ってしまうのですが、
ASだから、どうでも良い事を大げさに言うとか、こだわるとか思われる場合も
あるし、今、そのこだわりを捨てるか否かで悩んでいます。
本当に意味があるのかなって思うところもあるし。

でも、こだわりって、そこに自分がある場合もあって、それは繫がりかもしれないし、
希望なのかもしれないし、考えてしまいます。

パンダさんは、どうお考えですか?

お悩み相談になってすみません。

パンダさんに病気はない 。

先日、「クラッシュ」という映画をレンタルで観ました。(サンドラ・ブロックとかが出演ています。2006年アカデミー作品賞)多くの人種・文化が錯綜するロサンゼルスの群像を描いた作品でした。パンダさんの「自分にはなんだかわけのわからない理屈で動いている人たちを見ながら、文句も言われながら、なんとかそれにあわせようと必死に」というのはASの話ではなく、映画の中では「普通の人の日常」でした(それこそ「大変な」日常ですが)。自分が正しいと思うことを主張しあって、ぶつかり合いながら折り合っていく。そのときの悩みや疲弊感は、異文化と接して生活することの必然かもしれないですよ。(映画では、それを求めているとまで言わしめています)
ASと定型の共同生活での悩みは、「外国人との結婚生活」で読み解くと共通点があるかもしれませんね。

私も、パンダさんが想像するほど「わけのわからない世界」だとは思いません。大原則はおさえておく必要がありますが(盗まない、殺さないなどの触法行為とか)、自分なりの解釈で日常生活をある程度営めます。自閉圏外の人は、また別の解釈をしているのかもしれませんが、そこをすべて網羅して理解することは不可能でしょうし、またその必要性も感じません。もちろん、知識としてデータやライブラリーが増えていくのが望ましいですし、それを活用できたときには達成感(?)のようなものがありますが。

例えば、自動車のメカニズムを全てわからなくても、ハンドル操作やアクセル、ブレーキの操作、基本的な交通ルールを知っていれば、自動車を運転して目的地に達することができます。

もちろん、私が運転できるのは、たった一つのポンコツ車だけかもしれませんし、他の人はいろんな車種の車を運転できたり大型車を運転できるのかもしれません。けれど、自分に必要なのは、「自動車を自分で運転して目的地に達する」ことなので、その目的を達成できれば、その手段にはあまり拘泥しません。もっと知識があれば、タイヤ交換や故障の修理も自分でできたりとか、その方が望ましいのかもしれませんが、できないならJAFを呼べればそれでいいかな、と思ったりします。

「ASと定型の共同生活での悩みは、「外国人との結婚生活」で読み解くと共通点があるかもしれませんね。」という玄さんの意見には同感です。

かものはしさん、こんにちは。

私も、昔は、”ルールを全部理解したい”という気持ちに近いものを持っていましたし、今思えば、結構無理な努力もしていました(全くの無駄にはなってないと思いますが)。でも、やっぱり無理だなとわかって、上記のような心境にいきついた次第です(苦笑)。ご参考まで。

FOXさんの車の例え、面白いですね!
「肉体は乗り物」という考えに想像が広がりました。乗用車の規格に収まらない人は、10tトラックかもしれない。パワーショベルかもしれない。レーシングカーかもしれない。「普通」のコインパーキングには駐車められないし、見切りが悪いし死角も多い。操縦(生き方)が難しいと嘆いたら、周りの人から「悩みは同じだよ」と言われる。。。
カタチが同じでも、ハンドルやワイパーやウィンカーの具合が悪かったら?
対応として、ブレーキを踏むグループと、パッシング&クラクションで押し通すグループに分かれるでしょうね。(^^)
蛇足。ラジオがうるさく鳴りっぱなしだったら?

玄さん、

車の例えを面白いと言ってくださってありがとうございます。そこから、さらに発想が広がって凄いですね。「悩みは同じだよ」。。。さもありなんです。

ハンドルやワイパーやウィンカーの具合が悪かったら?そのまま押し通してしまうと思います。クラクションを鳴らせるといいのですが。。。

「目的地に着くこと」のみならず、「事故や交通渋滞を起こさないこと」も注意しなければいけませんね。

ラジオがうるさく鳴りっぱなしだったら?音量を下げると思います(笑)。

私、聴覚過敏というか聴覚の変動が元々あるので、朝、運転時に適度な音量だと思ってかけていたラジオが、夕方帰宅時に、エンジンを入れると轟音で鳴っていて、ラジオの音量を慌てて下げる、というのが日常茶飯事だったりしました(笑)。

FOXさん、こんにちは。
コメント、ありがとうございます。
心境はFOXさんと同じ様な心境なのですよ。
それでも、そういう感じになるんですよ。

かものはしさん、

FOXです。お返事ありがとうございます。

かものはしさんのブログは読ませていただきました。

”無理だなぁ”とわかっていつつも、”全てを知りつくしたい”という強い衝動があって、今後どういう戦略で人生を渡っていこうか、思案しているということですかね?

私自身は、自閉圏内特性の方が効率のいいものはそれを用い、自閉圏内特性の能力が低い部分は、前者で補ったり、足りないものは外注といった感じで、人生渡っています。

長年自閉症特性を使って生活してきたので、いきなり、それを全く使えなくなったら、日常生活を営めなくなり、ちょっとパニックになってしまうかもしれません。

いずれにしても、かものはしさんが、楽に暮らせるような折り合い方が見つけられるといいですね。

FOXさん、コメント有難うございます。
「調子の悪い車」の例えは、言葉が少な過ぎました。(本当の車なら車検があって、ちゃんと修理するとか、当然なのですが、状況をイメージするための例えです)
「ラジオの音量が下がらない車」を運転する→必要な外の音が聞きづらくなるし、第一疲れますよね?ASの日常疲労を例えられたかな?
ウィンカーが点灯しない、ワイパーが動かないのは、運転席で操作をしてもダメなのかもしれないし、操作レバーが見当たらないのかもしれない。→表情を出すことや読み取ることを「怠っていないのにできない」状況の例えになるかな?
そんな状態でも「交通ルールは守るべき」だし、事故を起こさない方策として、「低速レーンを選ぶ」とか「無理ならハザード点灯」等をできるようにしておく。定型の方は「ふらついている車」にイラつくかもしれないけど、幅寄せやムリな追越しはしないで欲しい。
(人間同士の交流が見えないですね。。。何台かの車でツーリングしているように、目的地とルートを事前に決めて、後は互いに速度を調節しながら各自で流れる景色を楽しむ感じか。)

FOXさん ブログ、読んでいただきありがとうございます。

「無理だ」はぼんやり感じていて、でも、それでやれていた時期もあるので、自分ではよくわからないけれど(他の方法を知らないので)、体調が悪くなることの原因にそれがあるんじゃないかっていう推測といろいろな人がそれ無理だよ~っていうのと、上手に適応している当事者の人とぶっつぶれた人の違いを考えてみたり、他にもいろいろあって、それらの合わせ技一本で、やめた方がいいかなと悩み中です。

全部をしりたいわけじゃないのですが、根本を知りたいという願望が強いかもしれません。

自閉的特徴を生かせなかったり、外注という考えも最近知ったばかりなのです。
親が、「自分のことは全部、自分でできないと死ぬ」というのを、誤学習してたんでよ。
親をうらんだり責めたりはまったくしていないのですが、そんな手があったとは・・・愕然て感じです(笑)。

安直な意味ではなく、自分にとって楽な方法を選ぶのは大切ですよね。費用対効果というか。

こう書いてみると、少しずつ自分のことが整理されますね。ありがとうございました。

FOXさんは、上手にバランスとられていらしゃるのかな?

長文、失礼しました。

玄さん、

玄さんのコメントが「例え話かな?」とは気づいたのですが、あまりに高度過ぎて、「調子の悪い車」以下は、あまり理解できず、とんでもない方向に行ってしまったみたいですみません。大筋だけはおさえたものの、「(会話)事故」を起こす、という実例を、図らずも証明してしまったみたいです(笑)。

「ラジオ」以下。。。すみません。何せ、日ごろ自分が現実世界で体験していることなので、例え話なのを気づきもせず、言葉通りとって返事をしてしまいました。「自閉圏内の日常疲労」を例えておられたのですね。そうであれば、私なら、その日は車を運転せずに、タクシーとか電車で目的地に行くと思います(=疲労が重なるような社会環境からは、あえて距離を置く)。

「カタチが同じでも、ハンドルやワイパーやウィンカーの具合が悪かったら?
対応として、ブレーキを踏むグループと、パッシング&クラクションで押し通すグループに分かれるでしょうね。(^^)」

これも誤解してました。見た目が似てても、自閉圏内と自閉圏外に分かれるという意味かと勘違いしました。よく理解できなかったので、これも文字通りの意味で答えてしまいました。

「ハンドル、ワイパー、ウィンカー」。。。非言語的コミュニケーション能力の不備や低下ということですね。やっぱり、そのまま運転して危ない目に合う(=無理やり会話を続けて、「会話事故」をおこしている)かもしれません。。。

低速レーン(=無理をしないでマイペース)は実行できていると思うのですが、ハザード点灯までできる知識と余裕は、まだないかもしれません。

やっぱり私のこれからの課題は、事故を起こさないテクニックを学ぶ(=不備を補う知恵や経験を増やす)ということかもしれません。


かものはしさん、

私は、親が、深い意味もなく一貫した考えもなく、きっと「軽い」気持ちで言っていたことを、そのまま文字どおりにとり、真剣に受け止め、長いこと自分を責めたり、親を恨んだりしていました(個人的には、あれはもう「呪い」だよぁ、と今は思います)。その頃は、すごく生きにくかったし、人生が辛かったし、ある意味、絶望していました。

それが、自分の自閉症性特性(=字義通りに取ってしまう)のためで、親が言ったことにさして意味はなく、理屈も通っていないのだから、自分を責めたりする必要はない、親が悪かったわけでもない、誰のせいでもなかったのだと、やっと実感として思えるようになったのは、たかだかこの10年くらいです。

玄さんもおっしゃってましたが、自閉圏内は「納得」を希求するような気がします(蛇足ですが、自閉圏外の人は、「満足」の方を重要視するように感じています)。

その後も、100%の納得を求めて、渾身の努力(?)で暮らしてきたのですが、当然のことながら、すべてのことに100%の納得を得ることはできず、無力感にさいなまれたり、心身不調をきたしたり、と紆余曲折ありました。

自分の自閉症性特性を少しずつ理解して、整理でき、「100%の納得は、あり得ない」という当たり前の事実をやっと実感できるようになったのが、たかだか数年前くらいでしょうか。

今は60-70%の納得を目標にし、わからないことはわからないで流す(但し大筋はおさえる)、できないことはできないと認める(自閉症性特性でカバーできるときは活用する。必要であれば外注する。それでも足りない部分は「しない」と割り切る)、自分の特性がかえって有利に働くときは、十二分に「利用する」といった感じでやるようにして、社会生活も日常生活もずいぶん楽になりました。今までを振り返ると、今が一番、シンプルでバランスが取れているかもしれません。

不思議なことに、60-70%の納得を目標にした今の方が、100%の納得を求めていたときより、平均した「満足度」は高いんですよね(瞬間的な満足度は以前の方が高かったと思いますが、絶望度も深かったので)。

あと、「肉体的にも無理をしない」というのを心掛けています。コントロール不能の過集中とその後の虚脱があったり、心身の不調を感じにくかったりすることがあるので。私は、慢性的に睡眠障害があるのですが、それこそ、睡眠薬を服用してでも無理やり睡眠をとるようにしています。

いずれにしても、かものはしさんの整理がついて、一番いいバランスで楽に暮らせるといいですね。


FOXさんの書かれている

「60-70%の納得を目標にし、わからないことはわからないで流す(但し大筋はおさえる)」

ということ、ある意味では定型の人間が普段やっていることなのかもしれません。100%は求めない、というより、最初から求めようと思ってないし、求めなければ行けないとも思わず、それを「普通のこと」と感じているような気がします。

だから、会話なんかでも結構いい加減なやりとりで平気だったりするところがあるし、そこがアスペの方が苦労するところなのかも知れません。

ここ、意外と大きな大事な問題かもしれませんね。

パンダさん、

そうですね。「60-70%で」というのは、自閉圏外の方がされていることなのかもしれませんね(そういう理解は、パンダさんに言われるまで思いつきませんでしたが)。

「結構いい加減なやりとりで平気」に関して。

私見かもしれませんので、失礼な言い方になったらすみません。

自閉圏外の方は、「記憶が漠然としたイメージで不正確」であるためか、ご自身のかつての発言や行動と全く異なる発言や行動をされるのに、「以前から、自分はこう発言/行動していた」と表現される方も少なくなく、その方のかつての発言/行動を記憶している身としては、非常に戸惑いますし、混乱します。

「何故、こんなに意見がころころ変わるのか?」
「しかも、本人はそれに気づいていないのか?」
「結局、この人の意見ってどっち?一体何?」
極端に言えば「嘘つき!」という気分になることもありました(苦笑)。

最近は、「自閉圏外の人の中には、意見がころころ変わるけど、その時々で思ったことを素直に言っているので、どれも嘘ではない人がいる」「自閉圏外の人の中には、その時々で意見や言動が変わる人もいる」「自閉圏外の人の中には、記憶が(不思議なことに)変容する人もいる」

と理解したので、受け流せるようになりました。でもまだ、ちょっと当惑するんですがね(苦笑)。


おはようございます。
FOXさん、例え話、「高度」というよりは飛躍がありすぎて、ごめんなさいです。
僕が説明として書き込んだ様には、誰も行き着かないと思います。失礼しました。
どう取ってもらってもいい(自分が発想を広げたように)ので、「誤解」とは思っていませんよ。

「呪い」は、、、逆の属性で「寿ぎ」(ことほぎ・言祝ぎ)というのもありますね。
ASは、いってみれば、言霊の影響を受けやすいんですよ。字義通りを受け止めるので。
言葉には「いくつかの意味がある」と常に思うようにしています。物事にも「裏表の表現の仕方がある」。言葉を聞いたら、頭の辞書をばばっと開いて、意味の漏れを防ぐ(できれば、聞いたシチュエーションを書き込む)。言葉を言うときには、同じ事をいうのでも、言祝ぎの色彩のある表現を選ぶ。相手の言った事を復唱するとき、言祝ぎ面を強めた同義語を探して返せば、オウム返しよりも反応が良くなる気がするので、実践しています。

「ころころ変わる」まったくそうですね。
「いい加減なやりとり」でOKな場面と、そうでない場面とを見分けられないから、行き違いが発生するのだと思います。

「100%理解しようとする」に非常に違和感があって、
でも、どういえば良いかわからなかったのですが
FOXさんが具体的な例を出してくださったので。

私もFOXさんがおっしゃっている状態を経験し同じ様な解釈にいたり、それに関して、
なんとなくもやもやするものの、適当に流せるようになりました。

私の言葉にすると、それが「根本的なことを知る」、「ネタばれしてくれ」に当たります。

その根本的なことがわからないと、非常に困惑しますし、どう対処してよいか
わからないのです。

根本がわからない事の中でも、全部が知りたいわけではなく、日常生活で、
頻繁にあらわれる事象、ストレスをためやすい事象などです。

自分では、適当にしたい気分満々なので、「100%にこだわる」といわれると、
違和感を覚えます(笑)

FOXさんの
「60-70%の納得を目標にし、わからないことはわからないで流す(但し大筋はおさえる)」
で重要に思うのは、(但し大筋はおさえる)の方に感じます。


>最近は、「自閉圏外の人の中には、意見がころころ変わるけど、その時々で思ったこ>とを素直に言っているので、どれも嘘ではない人がいる」「自閉圏外の人の中には、>その時々で意見や言動が変わる人もいる」「自閉圏外の人の中には、記憶が(不思>議なことに)変容する人もいる」

を知りたいがため、傍からみれば、ぐちぐち、
細かい事をいつまでも言っているという状態になってしまいます。

FOXさん

誤学習は、結構、辛いものがありますね。本当に相手はそんなつもりは
ないのですから。自分も相手も悪くないというスタンスを持てるのは、
やはり診断の力だと思います。

「呪い」って、なんとなくわかる気がします。心情的な面でもそうですが、
言葉にペタっと張り付いてしまう面があるため、
本当に「呪いの言葉」をかけらてしまったようになります。

「納得」と「満足」の対比はおもしろいですね。
自閉圏内は「納得」→「満足」という手順を踏みますが
それ以外は、いきなり「満足」に到達している感じがします。

FOXさんは、上手に自分と付き合う方法にたどりつかれたようで、良かったです。
私は、まだまだかな。焦らず、ひとつひとつ、やって行こうと思います。
ありがとうございます。

玄さん

玄さんは、イメージで対応されてます?
私もそうで、「イメージ戦略」と名付けていて、結構、便利に使っています。
イメージをできるだけ具体化して、このイメージにあたる目の前の現象はこれだな、
じゃあ、こうとらえよう、こう対処しよう、それならこういう事が必要だなって、
やっています。楽しいし。

でも、一般的には、イメージはイメージで、もっと曖昧模糊としているみたいです。

パンダさま、皆様
なかなか言いたいことが、短くまとめられず、長文、申しわけありませんでした。


玄さん、

おはようございます。

「ASは、いってみれば、言霊の影響を受けやすい」

本当にその通りですね。私の場合は「言霊に取り憑かれやすい」といってもいいくらいかもしれません(理屈に合わないと思っている言葉でも、なかなか訂正がききません)。

親以外にも「呪い」をかけられた(?)ことがあり、長いこと、幾重もの「呪い」に取り憑かれていました。

後に知り合った人が、私の内面の同じ事象(特性?)に対して、何年もの間、折に触れ、オートリバースモードのように、何度も繰り返し、いつも「同じ言葉」で「変わらない態度」で感想を言ってくれて(当人は特に褒め言葉とか慰めという意図はない)、いつしか、それが私にとっての「寿ぎ」となり、いつの間にかいろいろな呪いが解けたし、その他の日常生活でも「呪い」にかけられにくくなりました。その人が、私の現パートナーだったりしますが(笑)。

しかし、その「同じ言葉をオートリバースモードのように繰り返す」ところや、その他の要素を考えても、その人も(私とはタイプが違いますが)実は自閉圏内だろう、と思うに至ったのは、ここ数年です(結構長い付き合いですが、長いこと気づきませんでした)(笑)。当人も、(軽い意味で)「自分って、うちにこもる性格だし、ちょっと自閉傾向があるかも?」と思わないでもないようですが、折に触れ「自分は普通だ」と言うので、呪いをかけないように(?)、私は「そうだね~」と相づちをうっています。その人も、特に、私のことを自閉圏内とも思っていないようです(苦笑)。

自閉圏内同士だからといって、お互いの内面がわかるわけではなく、非言語的表現のよみとりが悪いこともあって、お互いの言動を誤解(勘違い?)してしまい、意味もなく長いこと疎遠(?)になったことがありました。最終的には、あるきっかけでその勘違い(よみ違い?)は解消され、お互いに疎遠にしたかったわけではなかったことが発覚しましたが。

それに懲りたためか、それ以降は、まるで電車の発車確認のように「声かけ確認」「言葉で確認」での会話・対話をするようになりました。傍で聞いていたら、とてもカップルの会話とは思えないだろうと思います。全く情緒や風情、ロマンがありません(苦笑)。

しかし、コミュニケーション自体は格段に良くなったし、まあ、こういうのもありかな、と個人的には思っているところです。

かものはしさん、おはようございます。

玄さんにお返事をダラダラ書いていたら、先を越されてしまいました(笑)。

「根本的なこと」「ネタばれ」=大筋だったんですね。了解しました。ちょっとお互いに言葉に込める意味合いが違ったみたいですね。

以下、ちょっと極論になりますが。。。気を悪くされる方がいたらすみません。

「ほとんどの自閉圏外の方々は、その時の状況・気分で、意見や言動が変わるし、それは悪徳とされていない。当たり前のこととされている」というのが、私の理解するところの「大筋」の一つです。

なので、「この人の意見はこうなのね」と理解するのではなく、「この人の”現在”の意見はこうなのね(過去は違ったんだけど。。。)」と理解するよう心掛けています。まだ時々難しいですけどね(苦笑)。

大筋をおさえたり誤学習を予防するのは、「診断」や「主治医」ではないと思います。(診断や主治医は、どちらかというと、間違った方向にいかないための道しるべ)。

私の大筋のおさえ方は、
1.日常生活による情報収集(普通に生活しているだけ)
2.腑に落ちなかった状況は、後で動画記憶を再生して、頭の中で何度も何度も検証
3.それでも検証不十分な場合は、翻訳者(と私が勝手に思っている人)に確認
4.承認されたデータはきちんと保存
といった感じです。

私が「翻訳(解釈)」をお願いしているのは、私と長い付き合いで、私が突拍子もないことを言っても、「FOXは変わり者だから。。。」と呆れながらも済ませてくれる動じない人たちで、嫌がらずに、無知な私に知識を分け与えてくれます。誰も、私が自閉圏内だとは知らないし思ってもいないようなんですがね(笑)。相手が自閉圏外の人のときも、自閉圏内の人(但し、かなり社会生活に適応している)のときもあります。これも、私の言葉で言うと、「できないことは外注」の一つです。

私もまだまだ発達途上です。誤学習しておきながら気づいていないことも、まだまだあるでしょうし、「感情」「情緒」は最大の難関です。それでも、楽に過ごしつつ、少しずつ楽しみながら(?)学習を続けているところです。難しい時もありますけどね(苦笑)。

以下蛇足。

常々、「発達障害」という診断名よりは、「発達遅延」とか「発達途上」いう言葉の方が実感にあっているのでは?と思っています。「発達凸凹」という言い方を提唱される医師がいるのも知っていますが、自閉圏内は凸凹もあるけど、みな学習して、形は違えど少しずつ進歩していきますよね。障害というと「障害固定」のように、固定されているイメージがあるので、個人的にはしっくりきません。

FOXさん

パンダさんの元記事から随分、離れてしまったので、この当たりで切り上げようかと
思います。

ひとつだけ。

誤学習の予防が診断にあると言ったわけではなくて、
誤学習を解いた後に、
「自分も相手も悪くないというスタンスを持てるのは」という意味でした。
わかりにくくてすみませんでした。

「診断」で自分はそういう特徴があると知っているから、
誤学習が解けた後に、そういう誤学習を生んだ原因に納得がいき、
そういう誤解した自分を責めたり、そう誤解させた相手を責めたりしないで済むと
いう意味でした。

ちなみに「診断」は、言葉通りの意味で、医者に助けてもらうという意味では
ありませんでした。

やはり言葉は、難しい。
そして、結局、長文(笑)

かものはしさん、

はい、了解しました。

私自身は、自分の特性がわかってからも、なかなか「自分も相手も悪くないというスタンス」を持つのに苦労したものですから(今も苦労しているかもしれません)。

長々お付き合いいただいてありがとうございました。

FOXさん 

そうでしたか。
いえ、こちらこそ、ありがとうございました。
同じ様な(誤学習というような)経験でも、人それぞれのステップがあるのがわかり、本当にいろいろなのだなと実感できました。

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