新しいバランス
何か最近、パートナーとの間でアスペか定型かということがそれほど気にならなくなっているような気がします。もちろん「おはよう」と声をかけて返事が聞こえない(しかし本人は返事をしたつもりでいる)ときとか、スキンシップの仕方に気遣うときとか、パートナーのアスペ的な部分を意識しながらコミュニケートするときはよくあります。でもなんていうのか、それも「個性の内」みたいな感じでそんなに気にならなくなってる部分が多いように思います。
とはいえ、こういうのは波があるような気がして、アスペと定型の差というのがすごく気になって、場合によってイライラしたり、腹立たしかったり、そういうことが続く時もあるんです。そういうときは、このままで二人でやっていけるんかしらと、それに近いことを思ってみたりすることもあります。なんか「かちん」と来ちゃうときがそういうときはまた多いんですね。
そういえば、少し前まではパートナーは、本当に私がその人となら自分が求める関係が作れて幸せになれる、と言う人と出会ったら、その人と一緒になってもらった方が自分は嬉しい、と時々言っていました。彼女が私といるのが嫌だというわけではなくて、私が幸せになるのならその方がいいからということで。
けれども最近はしばらくその言葉は聞いていなくて、逆に自分(彼女)がときめく人に出会ったらどうのこうのという話をするときが出てきています。いや、別にそんなに深刻な感じの話ではなくて、にこにこしながらこちらも話し相手になるようなことなんですけど。
さらにそういえば、以前は彼女は自分がアスペであることでみんなを苦しめたんだ、自分が悪いんだ、ということを何かにつけて深刻に語っていて、そのたびに、私の方は別にあなたがアスペになることを選択したんじゃなくて、それは最初から与えられた条件だったんだから、たしかにたとえば定型の子どもとの間でうまく行きにくくて苦しみを生んだりと言うことはあったとしても、それがあなたの責任だという話じゃないでしょう。ということをよく言っていたんですが、最近はパートナーの方からアスペであること自体は別に私の責任じゃないんだから、ということを時々言うようになりました。
そう考えてみると、なんかお互いの間に「対等」という感覚が少し拡がってきたのかも知れません。これもそういえば、私はパートナーの考え方とか社会性について、なんか小学生みたい、と感じることが時々あるんですけど、私も最近彼女から「ほんとにあんた、小学生みたいなんだから」と言われることもよくあります。特に感情面でちょっと甘えた感じになったり、あるいは冗談ぽく振る舞ったりしたときなんかにです。
アスペと定型という差を抱えながら、その中で何かしら新しいバランスが生まれつつあるのでしょうか。ちょっと興味深いことです。
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パンダさんと奥様のやりとりを(この文面の範囲で)読ませて頂いていると、なんとなく時間を経て、お互いの意見がいつの間にかお互いに馴染んで、さらにそれぞれ自分のものになっているという印象を抱きます。
これが影響し合うということなんでしょうね。
定型同士でも、馴染む馴染まないの関係性はありますから、何があっても維持出来る人間関係には、愛情という不思議な縁と絆は存在するのだなぁ・・・と、改めて感じました。
定型とASのカップルは、子供や親や親戚など、共有する人間関係が「はさまる」ときに結構、息が合わずつらいのではないでしょうか?
改めて1対1になったとき、パンダさんのように思えることは、奥様にもきっと幸せなことだと思います。
投稿: トマト | 2012年9月21日 (金) 01時06分
トマトさん
どうもありがとうございます。
「定型とASのカップルは、子供や親や親戚など、共有する人間関係が「はさまる」ときに結構、息が合わずつらいのではないでしょうか?」
というのはほんとにそうじゃないかと思います。本の中で「未だに解決できない問題」についても少し話し合っているのですが、そこで出てくる問題もやっぱり第三者が間に入ってきたときのことでした。
結局、二人の間では時間をかけてなんとか調整が出来るようになってきたとしても、その調整の仕方は第三者には通用しないから、うまく行かなくなるんじゃないかなと思います。
投稿: パンダ | 2012年9月22日 (土) 20時57分