2017年8月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31    

掲示板最近の話題

フォト

アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

« 2012年8月 | トップページ | 2012年10月 »

2012年9月

2012年9月27日 (木)

助けてもらう

 今日もお互い理解が難しいなあと思ったことがありました。私が最近ちょっと困ったことがあって、色んな人に助けてもらってるんですけど、実際に色んな人が助けてくれるまで、パートナーは心配か不安か難しい所なんですが、助けてもらえることを信じてくれなかったんです。ただ、そういう時って「大丈夫だから」と言っても現実にはまだ助けてもらってないときには説得力がないから、それ以上は言わずに、実際に助けてもらってから、「やっぱり助けてくれたでしょう?」と納得してもらうつもりだったんですね。

 で、実際ありがたいことに助けて下さる方が何人もいて、一段落ほっとしたんで、パートナーに「実際にそうなったでしょう?」と言ってみたんですけど「だからどうだというの?」という感じで「それで何を言いたいわけ?」という風なわけです。で、「いや、実際そうだと言うことを現実を見て納得してもらえたかなと言うことなんだけど」と言うと「納得?」と言ってぴんとこない様子です。「私も助けてもらって有り難いとは思ってるけど」というんですね。

 でも、助けてくれる人に「ありがたい」と思う話と、「私の見通しが間違ってはいなかったでしょう」という話とは違うわけです。で、私は「私の見通しをもう少し信頼してくれてもいいんじゃない?」と言いたいんですが、そういうと「信頼?」とこれもうまく伝わらない。それで「いや、もう少し安心してくれてもいいんじゃない?」というと「それは無理だ」と言われてしまいました。

 これまで子どもの頃からずっと先の見通しが立たず、安心できない生き方をしてきたのだから、今更変わらないと言うんです。実際いじめもずっと受けてきてますしね。

 私の場合はその時々でやっぱり助けて下さる人があって、その方達のお陰で成長もしてきたし、実際に困ったことを克服もしてきたというのが基本的な感覚にあるんですね。だから今回もそう思える。

 こういうのは性格の差もあるだろうし、経験の差も大きいと思うんだけれど、なんとなくそれだけではやっぱりお互いのズレ、理解のできなさを説明しきれない感じが残るんです。それがなんなのか、「人とのつながりの作り方」の違いが絡んでいそうな気もするんですが、まだよくわかりません。難しいところです。

 

2012年9月25日 (火)

掲示板の力

 ○○さんのお陰で「アスペと定型:掲示板」ができてしばらく経ちましたけれど、今まで発言したくても発言しづらかった方たちも何人も初めての発言をされていますね。それだけでも、ああ、やっぱり掲示板という形は働きが違うんだなあと思いますし、良かったなあと思います。
 
 あと、ほんとにアスペの方と定型の方の対話、と言う形になっているのが凄いなあと思います。しかもこの問題に相当経験を積んでこられた方達も何人もいらっしゃって、読んでいて勉強になりますし、また、まだうまく言葉にならないんですが、定型の私から見てなんとなく「ああ、こういう議論の仕方ってアスペ的なのかなあ」と思えることもあったり、新鮮な感覚です。

 そんな風に、沢山の経験に裏打ちされた議論とか、「こういう議論にはどうやってからんでいったらいいんだろう?」と考えさせられたりとか、そういうことが多くて、そういうことを考えていると、なんだかブログの方がおろそかになってしまいました。ちょっと掲示板のみなさんのすごい力に圧倒されているのかな?

 素朴に言って私が限られた経験でなんだかんだ考えて書いているより、掲示板の方で勉強させていただいていた方がよほど自分のためになると言うか、みなさんのためにもなるというか、そんな感じがしています。(別にいじけているとかではなくて、ほんとに素朴にそう感じています)

 うちは昨日今日と晩ご飯のおかずを巡ってやや不穏な空気が漂い続けましたが(今も漂っていますが (^ ^;)ゞ)、時々そんなことについて愚痴をこぼしてみたりするのが私にとってのこのブログの役割になっていくかもしれません。まだよく分かりませんけど……

 あんまりかっこよくはないかな? (^o^)

2012年9月17日 (月)

新しいバランス

 何か最近、パートナーとの間でアスペか定型かということがそれほど気にならなくなっているような気がします。もちろん「おはよう」と声をかけて返事が聞こえない(しかし本人は返事をしたつもりでいる)ときとか、スキンシップの仕方に気遣うときとか、パートナーのアスペ的な部分を意識しながらコミュニケートするときはよくあります。でもなんていうのか、それも「個性の内」みたいな感じでそんなに気にならなくなってる部分が多いように思います。
 
 とはいえ、こういうのは波があるような気がして、アスペと定型の差というのがすごく気になって、場合によってイライラしたり、腹立たしかったり、そういうことが続く時もあるんです。そういうときは、このままで二人でやっていけるんかしらと、それに近いことを思ってみたりすることもあります。なんか「かちん」と来ちゃうときがそういうときはまた多いんですね。

 そういえば、少し前まではパートナーは、本当に私がその人となら自分が求める関係が作れて幸せになれる、と言う人と出会ったら、その人と一緒になってもらった方が自分は嬉しい、と時々言っていました。彼女が私といるのが嫌だというわけではなくて、私が幸せになるのならその方がいいからということで。

 けれども最近はしばらくその言葉は聞いていなくて、逆に自分(彼女)がときめく人に出会ったらどうのこうのという話をするときが出てきています。いや、別にそんなに深刻な感じの話ではなくて、にこにこしながらこちらも話し相手になるようなことなんですけど。

 さらにそういえば、以前は彼女は自分がアスペであることでみんなを苦しめたんだ、自分が悪いんだ、ということを何かにつけて深刻に語っていて、そのたびに、私の方は別にあなたがアスペになることを選択したんじゃなくて、それは最初から与えられた条件だったんだから、たしかにたとえば定型の子どもとの間でうまく行きにくくて苦しみを生んだりと言うことはあったとしても、それがあなたの責任だという話じゃないでしょう。ということをよく言っていたんですが、最近はパートナーの方からアスペであること自体は別に私の責任じゃないんだから、ということを時々言うようになりました。

 そう考えてみると、なんかお互いの間に「対等」という感覚が少し拡がってきたのかも知れません。これもそういえば、私はパートナーの考え方とか社会性について、なんか小学生みたい、と感じることが時々あるんですけど、私も最近彼女から「ほんとにあんた、小学生みたいなんだから」と言われることもよくあります。特に感情面でちょっと甘えた感じになったり、あるいは冗談ぽく振る舞ったりしたときなんかにです。

 アスペと定型という差を抱えながら、その中で何かしら新しいバランスが生まれつつあるのでしょうか。ちょっと興味深いことです。

2012年9月 2日 (日)

「障がい」を生きる

 今日パートナーと話をしていて、ふと思って、「アスペの人にとっては定型中心のこの世の中で生きると言うことは、自分にはなんだかわけのわからない理屈で動いている人たちを見ながら、文句も言われながら、なんとかそれにあわせようと必死にならざるを得ないわけなんだよね」と言いました。喩えてみれば、言葉もわからない外国に独りで放り出されてなんとか生活しなきゃならない、みたいな状況でしょうか。

 そう思うとほんとに大変だなあと感じ、そのまま「大変だよね」と言ったのですが、パートナーが言うには「最初からそういう生き方しかないから、大変かどうか、自分ではよくわからない」と言われました。定型に何とか合わせようとするのも、それでも文句を沢山言われたりいじめられたりするのも、彼女たちにとっては「それが普通のこと」なわけですね。うーん、そうかあ、と改めて思いました。

 
 もうひとつ、今日話をしたことで、今朝のことでしたが、朝の掃除などを終えたパートナーの上着が汗で凄く濡れてたんですね。それで「わあ、すごい汗だね」と言ったんですけど、「だからなんだって言うの?見苦しいって言うわけ?」と、ちょっとつっかかるような言い方で返事が返ってきたんです。

 私の方はちょっとむっとして「いや、大変だね、っていう意味なんだけど」と言った後、「なんでそうやって否定的に取らなきゃいけないわけ?こっちは心配してと言うか、○○さんのことを思っていってるだけなのに」と文句を言ったんです。

 それに対する答えは、定型に何かを言われるときは、自分が相手に不快感を与えているのではないか、それを遠回しに警告として言われているのではないか、と常に警戒している、というんです。だからある意味、相手にそれ以上不快感を与えないように対処するために、そんな反応になると言うんですね。

 これもうーん、と思いました。たしかにアスペの人に対してそういう「やわらかな警告」みたいな形で文句を言うことが定型にはあって、でもだいたいそういうのはアスペの人に通じないから、それが通じないともっと激しい制裁になったりする。そのことを繰り返し経験しているから、常に警戒の気持ちになるというのはある意味で当然だと言えますよね。

 でね、立場を入れ替えて考えてみると、定型の方も本当はアスペの人にとって深いな発言とか少なからずやってるはずだと思うわけです。ただ定型の方は多数派だから自分たちの言い方は当たり前の、普通の、正しい言い方だと信じ込んでるので、それには気がつかない。だからアスペの人のように、いつも警戒して生きていかなければ、と言う風にはならない。


 「障がい」を持った人というのは、つまりは多数派の中でそういう状況を生きることを運命づけられた人ということなのかなあと、そんな風にも思いました。

« 2012年8月 | トップページ | 2012年10月 »

最近のトラックバック

無料ブログはココログ