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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2012年8月12日 (日)

曖昧な世界

 昨日、玄さんからいただいたコメントをいくつか読み返していて、なんだか少しアスペの方の世界がもう少しわかってきたような感じがしました。

 玄さんって、もちろんとっても頭のいい方なのでしょうけれど、書かれていることがすごくクリアですよね。きちっと整理されていてわかりやすい。定型の人間にもちゃんとわかる形で書いて下さっています。

 そうするともしかすれば玄さんの頭の中ってものすごく整理され尽くされていて、曖昧でごちゃごちゃした部分なんてないんだろうか、と考えてみると、どうもそうでもないと言うことを玄さん自身が書かれているように思うんです。それを感じたのは夫婦と恋人の違いについて書かれている部分です。

 夫婦というのはすでにその関係をずっと続けることを約束した関係で、安定した関係だから、そのことを前提として問題を考えることができる。でも恋人とかの関係はそれほど安定した関係でもなく、その後結婚に至るかも知れないし、破局に至るかも知れないし、すごく揺れ動く関係で、問題を考えるときにはっきりしない要素が沢山ありすぎてコメントがしづらい。……パンダ語に翻訳してしまっていますが、そんなことを書かれていたように思います。

 多分、定型の方が見れば、そうは言っても夫婦だっていろいろあるし、離婚だってするわけだから、そんなに違いは無いんじゃない?と思われる方もあると思います。でもこれは私の想像ですけど、アスペの方にとってはその違いは本当に巨大なんじゃないかと思うようになりました。

 定型から見るとアスペの男性は結婚前と結婚後でがらっと態度が変わり、「釣った魚には餌はやらない」という感じになる、という話をここでもなんどか取り上げてきましたけれど、それはやっぱり定型的な見方ではそう見えると言うことで、アスペの方からすれば、「餌をやらない」んじゃなくて、「結婚という安定した関係に入ったんだから、恋人時代のように揺れ動く関係の時とは違って、安心して素直な自分で暮らすようになった」ということにすぎないんじゃないか、と思えたのです。

 素直な自分で暮らすというのは、子供時代にそうであったように、「家庭」というのは言ってみれば天から与えられた絶対の枠組みで、それぞれの人がそれぞれの家族の役割さえちゃんと果たしていれば、それが外れることはない。夫であればちゃんと仕事をして給料を家に入れ、子供ともそれなりにあそんでやって、家の修理とか、そういう力仕事は自分がやる……ちょっと古いですけどたとえばそんな感じです。そういう自分の役割さえちゃんと真面目にやっておけば、あとはアスペ的に自分の世界に入り込んで安定するのが素直な暮らし、ということになる。

 でも定型にとっては家庭というのはちょっと違って、もちろん家族としての役割を果たす、ということは前提になるんだけど、そこは場合によっては多少いい加減なところがあってもよくて、それよりお互いの「心の支え合い」みたいな要素をとても重視する。でもアスペの方は「心の支え合い」なんて曖昧でわかりにくくて、何を要求されているのかわからない。それで定型の方は欲求不満がたまってきて悲惨な状態にもなる。

 
 最近私がパートナーとの関係でなんか欲求不満がたまってきているんですが、そういうことなのかもしれません。つまり、パートナーにとって「一人の時間・空間」がとても大事で、私はそれをできるだけ確保してあげようとする。と偉そうに言っても、要するにある意味一人にして放っておく、というだけのことですから、まあ簡単と言えば簡単です。でもそうやってパートナーの素直な欲求を満たそうとすると、今度は「ふれあいをもとめたい」自分の欲求が満たされなくなっていくんですね。しかしこの「ふれあいを求める」というのはパートナーにとっては至難の業で、なにをどうすれば「ふれあい」になるのかがわからない。もっとも私だって「ふれあいってなによ?」と正面から質問されたらどう答えたらいいか分かんないんですけど (^ ^;)ゞ

 玄さんの話に戻りますけど、玄さんの話がとてもクリアなのは、明確に言葉にできる、安定した部分にしっかりと足場を置いて語られるからなのかも知れないなあと思います。「ふれあい」とか、そういう曖昧な言葉には頼らない。いや、頼らないとも言えるし、触れないとも言えるのかも知れません。そういう限定の中でも、あれだけ双方にわかりやすい議論をされることのすごさも改めて感じさせられますけれど。

 定型はいっぱい外に出しているそういう「曖昧な世界」を、アスペの方は内に持っていても外に出さないのか、それともそもそもそういう世界がほとんどないのか、そのへんも改めて考えてみたいところです。

 

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コメント

ASの事というより、僕の事??パンダさんは「すごい」とか書いて下さってこそばゆいですが、すごいかどうか関係なくて、僕は僕。
口で話すより、ネットでの方が饒舌な、どっちみち「くどいヤツ」ですよ。(^^;)

「家庭」に求めるものに関しては、掲示板の「褒めること」の方に書かせていただきました。「ふれあい」についても、大切な部分と思っていますよ。言葉の分野によって、得意不得意ありますが避けることなく、コメントしたいです。
定型の方が「ふれあい」に求める意味合いが、僕の想像を超えている可能性が十分あるので、教えてもらうことの方が多いかもしれません。是非よろしくお願いします。
言葉も行動の意味も、曖昧は「あり」です。未知のいくつかの意味を含む、という了解ができれば、飛躍的な前進なことがあるからです。
「ふれあい」は行動であり、目に見えますから、イメージしやすいですね。「心のふれあい」はキツイですが。ASは「どういう行動を要求されているのか」が分かっていないことがありますので、男性AS女性ASとも、相手にリードしてもらえると、助かるかな?
もう一つの言葉の意味として想像するのは、「信頼関係がある」という成分が含まれている気がします。信頼関係を確認し保つことの重要性を認識し、行動として表す。例えば、手紙を書くとか、電話をするとか、そういったことでも「そのひとだけのために時間や資源を使った」ことを証明する物体や記憶を造ることが、直接的な「ふれあい」に代わる信頼関係の確認になるものと思っています。「ふれあいの要求に応えることが苦手なAS」としては、そういったことを考えていかなくてはならないと思います。
<勘違いの可能性高し!ご意見おねがいします>

玄さん

 ふれあいについて、リードしてもらうと助かると言うことでしたが、パートナーに聞いてみたら「触れあってない方が安心できる」んだそうです (T T)
 
 まあ仮に多くのアスペの方がそうだとして、そこはほんとに定型と違いますね。定型は触れあうことで気持ちが安らいだり、安心したりするわけですから。触れあっている者同士の間には信頼関係も感じられます。お互いに相手に身を委ねている、という感じになりますので。

 「そのひとだけのために時間や資源を使った」ことを証明する物体や記憶を造ることが信頼関係の確認になる、というお話しですが、それは信頼関係と言うよりは相手に対する好意の表明という感じがします。信頼関係の方はやっぱり「相手に身を委ねる」とか「運命を預ける」といった行為につながると思います。これをするともしかすると相手に裏切られて損をしたり、下手をしたら命を失うかも知れない、そういう状況でなお相手に身を委ねる、みたいな状況ですね。

パンダさんへ

パンダさんのイメージする「触れ合い」「支え合い」がパートナーさんの「触れ合い」「支え合い」の概念とズレている・・・という可能性はないでしょうか?

例えばパートナーさんは触れ合いを「いつもどこかを触られているような部分密着を強いられているようなイメージ」とか・・・
支え合いを「精神的でも力仕事なのでしんどい事のようなイメージ」というふうに、会話の手前の概念が違っていることに気がつかず「あぁ、話が合わなかった、気持が通じなかった」と落胆する場面・・・・特に曖昧な言葉をテーマにする場合は、
話の手前の概念のズレてる可能性は、ASと定型の会話の8〜9割を占めているような気がするんですわ。

トマトさん

 話の手前の概念がずれている、というの、すごい重要なことですね。
 ふれあいについては多分そんなとこもあると思います。
 というか、私が好むふれあいもスキンシップのことだったりしますけど (^ ^;)ゞ

 支え合いについて「力仕事なのでしんどいようなイメージ」というのは
 すごい面白いですね。なんかすごく具体的に描くような感じで
 イメージが成立する雰囲気ですね。
 もしそういうことがかなり一般的なのだとすると、
 ほんとにお互いの言葉のズレとか、おおきいのかなあと思います。

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