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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2012年8月20日 (月)

違いを認める

 「虐待?」にかものはしさんからコメントを頂きましたが、ポイントになることはやっぱり「違いをどう認めるか」ということに尽きるのかなあと思います。

 日本人って、「世界でただ一つの花」とか好きな人が多いし、その意味では「色んな人がいる」「自分は自分らしく生きればいい」という考え方が好きなんですよね。そのこと自体はいいことだと思うんだけど、でも現実の場面になると、たとえばいじめの時には「変わった人」がターゲットになったりするし、「出る杭は打たれる」し、最後は「村八分」になる。

 外国人の人が感じるのは、日本人は優しくて親切なんだけど、友達になれない、と言う事みたいです。特に「ガイジンさん」はどうしても最後の所で「お客様」以上にはなれなくて、ほんとの友達として受け入れてもらえない。

 そういうところから思うのは日本人の多くの人が得意なのは「違いがあるときは、その違いを認めてお互いに干渉しない」ということじゃないかなと思うんです。で、お互いにその違いの部分は相手に押しつけたりしないようにする。

 でも実際に人が生きているとき、それもお互いに遣り取りしながら、お互いに一緒に生活をしているときなんかには、そんな風に「干渉しないで生きる」ことなんて無理ですよね。特に夫婦とか家族だったらそれこそ干渉しなければ意味がない、と言うくらいのもので、本当に全く干渉し合わないんだったら別居状態になってしまいます。

 このことは別にアスペと定型の関係に限ったことではなくて、他の「障がい」の場合だって普通に問題になることだろうし、別に「障がい」とか関係なく経って、「個性」の違いでも同じ事が問題になるでしょう。「文化」の違いも同じ事だと思うし。

 私も頭では「お互いに違いを認めて生きる」とか「違いを楽しんで生きる」ということがいいなあと思うし、実際にそう生きようとしてはいるんですけど、でも同時にそれって実際には難しいことがたくさんあるなあと実感させられることがたくさんあります。

 極端な(?)例で考えれば、例えば相手の人が重い認知症だった場合、「お互いに違いを楽しむ」ということはまず不可能ですよね。仮に楽しみ方を見つけられたとしても、それは認知症の方の方ではなくて、介護する側の方でしょう。そういう一方的な関係はそれだけだとなかなかしんどいこともあるはず。楽しむ、という話以前に「違いを認める」ということ自体、認知症の側の方は難しいだろうし。

 そう考えてみると、「違いを見つけて違いを楽しむ」という一種の理想的な関係は、それが可能なときと困難なときがあって、その見極めもまた大事なのかなという気がします。ほとんど不可能という場合にそれをひたすら追求し続けるとただ消耗するばかりで参ってしまうことにもなります。

 そんな場合には「違いを認める」ことは前提に必要だとしても、それにどう対処するのか、ということについては、色んな場合を考えて、それぞれの場合に合った形を見つけていくしかないのでしょうね。なんかそんな気がします。

 

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コメント

「楽しむ」について、もう少し、詳しく教えて欲しいです。
申し訳ないのですが、「楽しい」ことを求めすぎ?に感じました。
違うかもしれませんが、パンダさんの「楽しい」は「ドキドキ」や「驚き」の成分が多い気がします。生活は、そんなにスリリングなことばかりということはなくて、ちいさな発見や息抜きでも、「喜び」として静かに過ごしていく、そういうスタンスに移行していってもよいかと。
枯れちゃってますかね??(^^)

ちなみに、ウチは子供達が育ち盛りなので、まだまだ毎日戦争です。子供の成長はなによりの楽しみ。家内と一緒に子供の成長を記憶し、将来一緒に思い出せたらいいな。

パンダさんへ

一般的に「違いを認める」は、お互いがよく理解して自立した上で、という土俵があってこその実現ではなでしょうか?
その「違い」の正体は何なのか?
「違い」の質や原因はどこにあるのか?
違いが間違いになりやすいのがASと定型のコミュニケーションだと思います。

定型からASの人に発する「違うんだなぁ」には、寂寥感が含まれていると感じます。

玄さんへ

【生活は、そんなにスリリングなことばかりということはなくて、ちいさな発見や息抜きでも、「喜び」として静かに過ごしていく、そういうスタンス】
は、まさしく多くの定型も同感だと思います。

定型にとって「今日は暑いね」「そうね」
そんな当たり前の空気のように流れて行くはずの会話ひとつ滞り、反論で返され、対話してもどこか噛み合ない・・・それを理解して許容しようとすると、玄さんのような説明上手な当事者のコメントが救いとなる。

小さな発見も喜びもあるけれど、次から次へ、小さなコミュニケーションの滞りが積もり、スムーズ感やリラックス感が維持できない日常。

プラス思考と、寂しさのせめぎあいのような日々。
そんな日々にも、徐々に慣れ、馴染み、諦め、、割り切りが、落ち着きを与えてくれる。
ASと定型のカップルには「二人でいても独り」への慣れと、相手のユニークさへの愛着が絆となっているように思えます。

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