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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2012年8月

2012年8月22日 (水)

二人でいたら二人

 トマトさんがコメントでこんな事を書かれています。

 「プラス思考と、寂しさのせめぎあいのような日々。そんな日々にも、徐々に慣れ、馴染み、諦め、、割り切りが、落ち着きを与えてくれる。ASと定型のカップルには「二人でいても独り」への慣れと、相手のユニークさへの愛着が絆となっているように思えます。」

 自分はどうなんだろう?と考えてみると、何故か「二人でいても独り」という感覚がないんですね。とにかくそこにパートナーはちゃんといる。お互いの理解が通じ合わないことはあるけれど、でも「通じ合わない人」がそこに確かにいる。それで腹が立つこともあるけど、そうやって腹立たしい思いにさせる人がそこにいる。

 もちろんマイナスの意味だけじゃありません。なんかそこにいてくれるとうれしい。別に楽しく会話したりどうのこうのと言うことはなくて、ただそこにいるだけなんだけど、だけどなんだかうれしい。昨日ファーストフードで偶然出くわしたんだけど、そうして出会って一緒に座っていてうれしい。むこうはどう感じてるんだか分かんないんだけどうれしい。

 そんな風に考えてみると、プラスの時でもマイナスの時でも、二人でいたらパートナーはとにかくそこにいて、だから「二人でいても独り」って感じないんです。

 まあ、もちろん「二人でいても独り」って、ふたりでいるのに気持ちが通じ合わないとか、相手が自分の世界にこもっていて自分がとりのこされていると感じてさびしいとか、そういうことを言うんでしょうけれど、でもどっちの場合もパートナーの存在感は消えないですね。

 これ、最初からそうだったのか、最近そう変わったのか、どっちなんだろうと思うんですが、うーん、どっちかというと最近そうなったのかも知れないです。

 そう言えば昨日の晩もパートナーのちょっとした発言で私が落ち込み気味になっていたんです。そうすると最近パートナーがかなりそういう私の状態に敏感になったみたいで、何が問題なのか、と話しかけてくれるんですね。で、話し合ってもなかなかお互い理解できないし、結局何の解決もなくおわったりするんだけど、それでも話をしてくれるわけです。もしかするとそういうのも影響してるのかも知れません。

 どうせ人間同士、だれであれすれ違いを生きていて、ときどき交わったりしてるんだ、と考えれば、相手が定型だろうがアスペだろうが同じといえなくもないですよね。

 うーん、そういう感覚なんだろうか?
 まだよくわかりませんです。

2012年8月20日 (月)

違いを認める

 「虐待?」にかものはしさんからコメントを頂きましたが、ポイントになることはやっぱり「違いをどう認めるか」ということに尽きるのかなあと思います。

 日本人って、「世界でただ一つの花」とか好きな人が多いし、その意味では「色んな人がいる」「自分は自分らしく生きればいい」という考え方が好きなんですよね。そのこと自体はいいことだと思うんだけど、でも現実の場面になると、たとえばいじめの時には「変わった人」がターゲットになったりするし、「出る杭は打たれる」し、最後は「村八分」になる。

 外国人の人が感じるのは、日本人は優しくて親切なんだけど、友達になれない、と言う事みたいです。特に「ガイジンさん」はどうしても最後の所で「お客様」以上にはなれなくて、ほんとの友達として受け入れてもらえない。

 そういうところから思うのは日本人の多くの人が得意なのは「違いがあるときは、その違いを認めてお互いに干渉しない」ということじゃないかなと思うんです。で、お互いにその違いの部分は相手に押しつけたりしないようにする。

 でも実際に人が生きているとき、それもお互いに遣り取りしながら、お互いに一緒に生活をしているときなんかには、そんな風に「干渉しないで生きる」ことなんて無理ですよね。特に夫婦とか家族だったらそれこそ干渉しなければ意味がない、と言うくらいのもので、本当に全く干渉し合わないんだったら別居状態になってしまいます。

 このことは別にアスペと定型の関係に限ったことではなくて、他の「障がい」の場合だって普通に問題になることだろうし、別に「障がい」とか関係なく経って、「個性」の違いでも同じ事が問題になるでしょう。「文化」の違いも同じ事だと思うし。

 私も頭では「お互いに違いを認めて生きる」とか「違いを楽しんで生きる」ということがいいなあと思うし、実際にそう生きようとしてはいるんですけど、でも同時にそれって実際には難しいことがたくさんあるなあと実感させられることがたくさんあります。

 極端な(?)例で考えれば、例えば相手の人が重い認知症だった場合、「お互いに違いを楽しむ」ということはまず不可能ですよね。仮に楽しみ方を見つけられたとしても、それは認知症の方の方ではなくて、介護する側の方でしょう。そういう一方的な関係はそれだけだとなかなかしんどいこともあるはず。楽しむ、という話以前に「違いを認める」ということ自体、認知症の側の方は難しいだろうし。

 そう考えてみると、「違いを見つけて違いを楽しむ」という一種の理想的な関係は、それが可能なときと困難なときがあって、その見極めもまた大事なのかなという気がします。ほとんど不可能という場合にそれをひたすら追求し続けるとただ消耗するばかりで参ってしまうことにもなります。

 そんな場合には「違いを認める」ことは前提に必要だとしても、それにどう対処するのか、ということについては、色んな場合を考えて、それぞれの場合に合った形を見つけていくしかないのでしょうね。なんかそんな気がします。

 

2012年8月19日 (日)

虐待?

 今朝、私は朝から暑い感じがしたので「暑いね」とパートナーに話しかけました。するとパートナーは「そう?暑くないよ」と答えました。
 この間は私が「きょうちょっと涼しいね」と話しかけたら「ええ?そんなことないよ、暑いよ」と言われました。

 思い返してみると、大体意見が反対なんです。賛成してもらえることがない。でも、自分の感覚にお互い正直に答えているだけなら、賛成と反対は半分半分か、或いは多少どちらかに偏る程度の筈ですよね。それがほぼ反対になっているということは、意識しているといないとに関わらず、「相手の言うことの反対を言う」という、言ってみれば天の邪鬼のようなやり方をしていることになります。

 なんだか悲しくなってそういうことを話したんですけど、パートナーはちょっと考え込んでいました。

 しばらくして、パートナーは「やっぱり感覚からしてほんとに違うからね」と言いました。もちろん上の話は単に感覚の話ではなくて、「相手の言うことに反対のことを答える」という話なのですけれど、でもたしかに感覚からしてすごく違うのは確かで、音の聞こえ方、聞こえる範囲も違いますし、暑い寒いの感覚も違うし、のどの渇きの感覚もかなり違います。

 のどの渇きについては子供が小さい頃問題になりました。パートナーはあまり渇きを感じないし、それほど水分補給を必要としないんです。で、それが普通だと思いこんでいたので、子供に対しても同じように対応したんですね。でも子供はとくに頻繁に水分補給を必要としたりする。それで水をほしがったりするんですけど、あげないことが多かったんです。私はそれを見て、それじゃ虐待じゃない、と思いました。

 今ではそういう「からくり」がわかったので、パートナーはあれは虐待だったと言っています。子供の方は水分補給の少ない状態になれてしまって、今でもあまり水分をとらない身体になっているみたい。まあ、砂漠に育つ子供だってそういう身体になるんでしょうからね。実際には大きな問題にはならないのでしょう。ただ、見てる方は可哀想でけんかにもなりましたけど。

 感覚の違いがある、ということはこれはもう生まれつきだからどうしようもないことだし、それを無理に合わせることもないでしょう。でも違いがあることを知っていて、お互いの感覚を尊重することは大事だなと改めて思います。知らないで相手に押しつけるのはとても不幸なことですよね。

2012年8月12日 (日)

曖昧な世界

 昨日、玄さんからいただいたコメントをいくつか読み返していて、なんだか少しアスペの方の世界がもう少しわかってきたような感じがしました。

 玄さんって、もちろんとっても頭のいい方なのでしょうけれど、書かれていることがすごくクリアですよね。きちっと整理されていてわかりやすい。定型の人間にもちゃんとわかる形で書いて下さっています。

 そうするともしかすれば玄さんの頭の中ってものすごく整理され尽くされていて、曖昧でごちゃごちゃした部分なんてないんだろうか、と考えてみると、どうもそうでもないと言うことを玄さん自身が書かれているように思うんです。それを感じたのは夫婦と恋人の違いについて書かれている部分です。

 夫婦というのはすでにその関係をずっと続けることを約束した関係で、安定した関係だから、そのことを前提として問題を考えることができる。でも恋人とかの関係はそれほど安定した関係でもなく、その後結婚に至るかも知れないし、破局に至るかも知れないし、すごく揺れ動く関係で、問題を考えるときにはっきりしない要素が沢山ありすぎてコメントがしづらい。……パンダ語に翻訳してしまっていますが、そんなことを書かれていたように思います。

 多分、定型の方が見れば、そうは言っても夫婦だっていろいろあるし、離婚だってするわけだから、そんなに違いは無いんじゃない?と思われる方もあると思います。でもこれは私の想像ですけど、アスペの方にとってはその違いは本当に巨大なんじゃないかと思うようになりました。

 定型から見るとアスペの男性は結婚前と結婚後でがらっと態度が変わり、「釣った魚には餌はやらない」という感じになる、という話をここでもなんどか取り上げてきましたけれど、それはやっぱり定型的な見方ではそう見えると言うことで、アスペの方からすれば、「餌をやらない」んじゃなくて、「結婚という安定した関係に入ったんだから、恋人時代のように揺れ動く関係の時とは違って、安心して素直な自分で暮らすようになった」ということにすぎないんじゃないか、と思えたのです。

 素直な自分で暮らすというのは、子供時代にそうであったように、「家庭」というのは言ってみれば天から与えられた絶対の枠組みで、それぞれの人がそれぞれの家族の役割さえちゃんと果たしていれば、それが外れることはない。夫であればちゃんと仕事をして給料を家に入れ、子供ともそれなりにあそんでやって、家の修理とか、そういう力仕事は自分がやる……ちょっと古いですけどたとえばそんな感じです。そういう自分の役割さえちゃんと真面目にやっておけば、あとはアスペ的に自分の世界に入り込んで安定するのが素直な暮らし、ということになる。

 でも定型にとっては家庭というのはちょっと違って、もちろん家族としての役割を果たす、ということは前提になるんだけど、そこは場合によっては多少いい加減なところがあってもよくて、それよりお互いの「心の支え合い」みたいな要素をとても重視する。でもアスペの方は「心の支え合い」なんて曖昧でわかりにくくて、何を要求されているのかわからない。それで定型の方は欲求不満がたまってきて悲惨な状態にもなる。

 
 最近私がパートナーとの関係でなんか欲求不満がたまってきているんですが、そういうことなのかもしれません。つまり、パートナーにとって「一人の時間・空間」がとても大事で、私はそれをできるだけ確保してあげようとする。と偉そうに言っても、要するにある意味一人にして放っておく、というだけのことですから、まあ簡単と言えば簡単です。でもそうやってパートナーの素直な欲求を満たそうとすると、今度は「ふれあいをもとめたい」自分の欲求が満たされなくなっていくんですね。しかしこの「ふれあいを求める」というのはパートナーにとっては至難の業で、なにをどうすれば「ふれあい」になるのかがわからない。もっとも私だって「ふれあいってなによ?」と正面から質問されたらどう答えたらいいか分かんないんですけど (^ ^;)ゞ

 玄さんの話に戻りますけど、玄さんの話がとてもクリアなのは、明確に言葉にできる、安定した部分にしっかりと足場を置いて語られるからなのかも知れないなあと思います。「ふれあい」とか、そういう曖昧な言葉には頼らない。いや、頼らないとも言えるし、触れないとも言えるのかも知れません。そういう限定の中でも、あれだけ双方にわかりやすい議論をされることのすごさも改めて感じさせられますけれど。

 定型はいっぱい外に出しているそういう「曖昧な世界」を、アスペの方は内に持っていても外に出さないのか、それともそもそもそういう世界がほとんどないのか、そのへんも改めて考えてみたいところです。

 

2012年8月 9日 (木)

アスペと定型:掲示板

 前回の記事で

 「たとえばテーマをいろいろ作っていって、そのテーマ毎に関心のある方たちが掲示板的に書き込みを連ねて議論していく」

 というのができたらいいなあ、と書いたら、早速ある方から私が作ってもいいですよ、というありがたいお申し出がありました。happy01その方もコメントを読みながら、さらに深まった議論が続いていけばいいとよく感じていらっしゃったそうです。

 それで、折角ですから、他の皆さんからも何かご希望があればそれをできる範囲で取り込ませていただきながら、使いやすい、役に立つものにしていきたいと考えました。

 今のところどんな物を考えているのかというと、皆さんの中で議論したい、あるいは質問したいテーマがあればそのテーマのスレッド(項目みたいなもの?)を立てて、興味をもった方たちで議論をつづけていただくというものです。スレッドはいくつでも作るとができますから、いろんな議論を並行して進めていくことができますし、単語での検索も簡単にできるみたいですから、昔の議論からも知識を拾い出すことができます。

 それで、さっそくたとえばこう言うのができるよ、というのをその方が試しに作って下さいました。

  「アスペと定型:掲示板」

 是非みなさん一度ご覧になって、よければためしに使ってみられて、感想やご意見、ご提案などお寄せ下さい。
 ご協力をお申し出下さった方が名前は出さないで、ということだったので、お名前を出しての御礼は控えさせていただきますが、ほんとにどうもありがとうございます。これからまた色々お世話になりますが、どうぞよろしくお願いいたします。

 

2012年8月 7日 (火)

アダルトチルドレン

 このところアスペの方のコメントの割合がぐっと高くなっていて、それと関係するのかどうかはわかりませんが、アクセス数が以前は日に500位だったのが1000を越す日も結構あるようになっています。特に定型の側から自分の知り合いのアスペの方について悩んだり、疑問に思ったりしていることについて、アスペの方からいろんなコメントが寄せられたりするのは大きな意味を持っているなあと、場所の提供者としてはしみじみ思います。

 もう少し私に技術があれば、たとえばテーマをいろいろ作っていって、そのテーマ毎に関心のある方たちが掲示板的に書き込みを連ねて議論していく、というような工夫もしたりできるんでしょうが、何しろ無能なものですから、済みません (^ ^;)ゞ

 先日ゆったりのんびりさんのコメントにこんな表現がありました。

 「コメントを拝見していたら、どうもASとACのコミュニケーションになっているようなので」

 ACってアダルトチルドレンっていうやつですよね。もっともアダルトチルドレンって解説読んでみても、すごく色んな見方があって、大雑把に共通しているのは「子供の頃に家庭環境で苦労して育ってきた人」くらいでしょうか。アダルトサバイバーっていう言い方もあるみたいですね。シビアな状況を生き抜いてきた人、位の感じかな?

 大人になっても親子がどちらも親離れ・子離れできなくて、要するに子供はいつまでも大人になれないし、親はいつまでも子供を子供として扱いつづける、という感じでお互いに依存しながら生きている「共依存」と言われる状態になってる人をアダルトチルドレンと言う人たちもいるみたいですし、これだと「大人になれない子供大人」みたいなイメージでしょうか。それが子供の頃の家庭環境でそうなっちゃうと言う話。

 でもやっぱりなんだか難しい言葉ですね。人間っていくつになっても子供の部分を残しているじゃないですか(って思ってるのは私だけ? (^ ^;)ゞ)。そういう部分てとても大事で、恋愛関係だってある意味お互いに子供になるところがありますよね。なんでかっていうと、恋愛関係って言うのは、普通の大人同士の関係では「大人として」遠慮して踏み込まないところまでお互いに踏み込んでいく。甘えも含めてですけど。そういうのがなくて、比喩で言えばいつも心によそ行きの服を着ていたんじゃ恋人同士の親しみのある関係にはなれないわけです。ラフな普段着や、文字どおり裸になってお互いの飾らない姿を見せ合うことがどうしても必要になるはず。そこから改めて二人の関係が作られていくし、その中でやがて夫婦というひとつの社会的な役割を持った大人にもなっていく。

 そんな風に人と人の関係が変化していく時って、多かれ少なかれ子供っぽくなる時期があるのは当たり前だと思えるんです。特に大きな悩みを抱えちゃって、今までのやり方ではどうにもこうにも解決が付かない、そんな状態に追い込まれたときは、一度心の柔らかい子供時代に戻っていろいろ考え直してみる、ということがあって当然なんじゃないかな。

 そう考えると、ここでコメントを遣り取りしている方たちも、ほんとにシビアな現実の中で、今までのやり方に行き詰まって新たな道を探しているわけだから、その過程で一種子供っぽくなったりするのは必然的なことのように思います。だとすればゆったりのんびりさんの言う「ASとACのコミュニケーションになっている」のはとても自然なことだし、言ってみれば絶対に必要なことなんじゃないかな。

 
 さあ、でもこの辺りの話、もしかすると定型の目から見たらそういう話になる、ということであって、アスペの方たちから見ればそういう「子供に戻る」ということは肯定的には見られない可能性もありますね。いや、どっちなんだか私には全然わからないんだけど、パートナーとの関係で言うと、やっぱり私の方が子供に戻りたい方で、パートナーは「大人!」という感じがすることが結構あります。(ゆったりのんびりさんの指摘のパターンですね (^ ^;)ゞ)

 そのへんどうなんでしょうね。ちょっと興味が出てきました。

 

2012年8月 3日 (金)

小梅さんの投稿

小梅さんから色々参考になるメールを頂きました。「発達障害ONLYの職場で能力全開で働く人たち」の話なども、凄く刺激的です。以下、ご紹介します。
==========================

小梅です。

改めて訂正もかねて自己紹介です。
私はASD(自閉症スペクトラム障害)の診断済みですが、ASではありませんのでASの方々とはちょっと認知パターンが違うかもしれません。
そんなに違わないとは思いますが…

私個人としては杉山登志郎先生の“発達凹凸”という名前が好きです。
「定型の人でもある日常の失敗の頻度が、格段に違って困難さが生じやすい」のが私たちASDだと思います。
だから相談すると「そんなの私にもあるわよ。大丈夫気にしすぎ!」とか「もうちょっと努力したり慎重に進めれば大丈夫」なんていわれるけど。皆様が1ヶ月に1度くらいする失敗が私は1日に最低1回だったりして・・・・
凹凸なのでできることがなくはないので、まぁ「甘え」と見られても人情的には仕方がないかとは頭では理解できますが。でもたまに
「あなたの言ってることは、目の見えない人に『努力が足りないからいつまでたっても目が見えるようにならないのよ!』っていってるのと同じだから」って叫びだしたくもなります。
「見えない障害・見えにくい障害・忘れやすい障害」なんで仕方がないですけど。

前置きが長くなりましたが本題です。
「発達障害ONLYの職場で能力全開で働く人たち」というtogetterのまとめです。
ブログのコメント欄にURLを載せるのはいかがなものか?と思いメールをさせていただきました。
パンダさまもリンクをあけるのがウィルス対策で不安であれば、ぜひ検索などをされてこのまとめを見ていただけたらうれしいです。
http://togetter.com/li/337635
かなり能力の高い発達障害の方々ですので、これがすべてではないですし、発達障害みながこの環境下ならこんな風に働けるわけではありません。能力があるから働けているのですから・・・

ただ、ちょっと皆様のコメントを読んで、ここの視点から見てもらえるとありがたいな。。とおもった文章があります。

それは
「一人、また一人と発達障害持ちが入社すると、過集中で特定のジャンルでバケモノのような知識の豊富さを誇る彼らの中で、「普通の人」は適応できなくなりました。健常者が劣等感をもち辞職していくという逆転現象が起こったそうです。」
という 7月12日の22:17:09のコメントです。

定型社会だから私たちが「がんばって適応しようと努力します」だってそのほうが生きやすいのは知っているので。
「回復」はできないと思ってますが、「適応」はできると思っているし、思っていたので。
でもその努力は定型から見ると無駄な努力で、効率が悪く成果もあまり感じられないようですが。

結果、努力が報われにくい体験を多くする。⇒疲労感や失敗体験だけが残ります。
この職場のこの部署のように、発達が多数で定型が少数、なんてのはめったにないことですが、でも私たちが生きているこの時代では、この部署の「普通の人」のように大なり小なり日々自閉圏内の私たちはこのように適応しようと努め、でも適応できなくなり、ドロップアウトする羽目になるのです。

ありえないけど、自閉圏が多数になったら、「努力が足りない」といわれるのは定型の方なのかもしれませんね。

たとえば、聴覚障害者の人たちが手話で会話をしている中に、私一人がいると本当にさびしくて、どんな話をしているのかわからないけど楽しそうに見えて会話に加わりたくなります。「私にもわかる言語でお話して~。まぜて~」ってなったりもします。
定型の中にいても私は、たまにそんな感じになるときもあります。
言葉がわからない。私の言葉は過去の言葉?それとも未来の言葉?という感じで・・・
同じ「日本語」なのはなんとなくわかりますが、でもわからない感じです。

前回のコメントで『雑談は緊張感を伴い疲れる』と書きましたが、居心地の良い「情報や知識の会話」の中から共感し、違った考えを知り私の思いを知ってもらう・見方を知ってもらうのは私もすごく楽しいです。
趣味の集まりなんかがすごく楽しいのはその理由からです。

最後に
パンダさんの疑問の「話をできないほど怖い」に関してですが・・・私の経験からだと、主治医いわく「パニック障害」「適応障害」「PTSD」です。(すべて病状ではなく症状として現れた一過性のもの)
一度こうなってしまうとなかなか、わかってはいるけどもう体がいうことを聞かなくなりますので、同じ言葉を繰り返したり(「そんな?そんな・・・どうしよう。ねぇどうしよう」など)、その場に立っていられなくなって座り込んだり逃げたりします。
筋肉の緊張は激しくなり、もう表情なんてうまく作れずひどいときは「まばたきや息すらできなくなる」状態です。

ただこれは私の経験ですので、可能であればお医者さんか専門家に相談をされたりするのはどうでしょうか?
だめでしたら保険診療からは外れるかもなので、高くはなりますがkaiさんが相談に行かれるのもいいかもしれません。

会話ができなければ、交換日記のような紙ベースやメールやスカイプなどを使って行ってみるとか。
「○や×」ですむ連絡徹底や、共通の社内で決めたサインなどから始めるとか・・・行動予定表なんかはあらかじめ書いておいてもらって、kaiさんはそれを確認するだけにするとか。


「私をいやな気にさせてしまって怖い」とあるので、あまり露骨に心配をしてもたぶんもっと恐縮してしまうような気もします。
kaiさん自身も疲れてしまうので、最初は専門家の方に相談した上で行ったほうが、軸がぶれないのではないかと思います。

2012年8月 2日 (木)

会話の意味の意味

 「会話の意味」にびっくりするくらい皆さんがコメントを遣り取りして下さって、ひとつひとつお返事を書きたいのにもう無理になってしまいました (^ ^;)ゞ

 とは言いつつ、たとえば小梅さんのコメントとか、さかなやさんのコメントとか、雑談と言うことがアスペの方にとってどれほど大変な作業なのかと言うことをなんかしみじみ感じさせられた気がします。
 いや、同じようなコメントは確かこれまでにもいくつかいただいていたと思うし、パートナーも同じようなことを何度も言っていたんですけど、頭ではわかってももうひとつぴんと来ないまんまだったんですね。それが今回は「ああ、それならしんどいだろうなあ」とちょっと感情レベルでもわかる気がしました。そりゃあ苦労だよなあ、という感じで。

 ひとつには玄さんの解説も私に効果があったのかも知れません。

「ASは、発言内容が文章的にあるいは客観的に「正しいかどうか」のマインドシェアが高い傾向があります。私にも根底では「お互いの間違いを正し合うために、会話は行われる」ものだという位置付けがシッカリと横たわっています。相手の言葉の誤りを直してあげることが、話し相手として選ばれた自分に課せられた役目と受け止めているのです。「ねぇ話きいて!」→「今から言う私の発言をチェックして下さい」という字面通りの理解です。」

 というところとか

「「雑談レベルで疲れないか」簡単に言えば、「雑談というレベルはない」ということです。雑音のひどいラジオを真剣に聞いている感じでしょうか。発言内容を抽出するのが精一杯で、雰囲気とかニュアンスとかは無視せざるを得ない。そういう風に、「表情・口調・雰囲気」をあえて排除しないと情報が手に入らないという感じです。疲れない会話はないですね。無言がラクです。「話を聞いて欲しい」と頼まれたならば、真剣に聞くまでです。話は跳ぶかも・・!」

 というところとか、ふーん、そういうことなのかあ。と思わせられる。

 玄さんには私のパートナーが返しが厳しいというご意見を頂きましたが、パートナーが言うには、やっぱり仕事の中ですごく緊張して頑張って「雑談」や「会話」に対応して疲れ切ってるんだそうです。だから、家に帰ってまで緊張して「雑音のひどいラジオを真剣に聞く」元気もない。それでストレートに「だからどうだっていうの?」という反応が返ってくると言うことです。皆さんの意見を聞いて改めてそのことを考えると、ああ、それじゃあ無理もないかなあと思えます。やぱり仕事から帰ってきた後はしばらくは話しかけずに休ませてあげる必要がありますね。

 それと玄さんの

「「もやもやしてハッキリしない状態」で話し掛けて、しゃべりながら論点を整理したり解決策を探ったりは、私はありますよ。でもそれは自問自答を声に出しているだけです。パンダさんもその状態では相手の反応を必要としてはいないのでは?」

 という質問についてですが、面白いことに私の場合はやっぱり相手の反応が必要なんです。自問自答しているだけだと、下手をすると同じ所を考えがぐるぐる回ってしまうこともある。でも人と話をしていると、自分が気づかなかった新しい視点とか、そういうものをもらえたりするんですね。それから相手の人の意見を聞くことで自分を客観的に考えられるようになったりもするし。そういう意味でどうしても必要なんです。そういう点での玄さんと私の違いが面白いなあとすごく思いました。

 それに対してyukipomさんの「雑談するアスペ」って面白いですね。「人と話すことで生まれる気づきがとても魅力的なので楽しいと感じられてる」という感じもすごく素敵だなと思いますし、共感します。ところがそういうyukipomさんも「でも意味もなく話をするのはやっぱり苦手かも」と書かれたりする。もちろん私も全然なんにも意味のない話を続けるのは無理ですけど(そうなったらだんだんいらいらしてきてしまいます)、yukipomさんのおっしゃる「意味もなく話をする」というのとはどこか少し違うのかも知れないですね。よくわかりませんが。

 トマトさんは相変わらず定型の側から、鋭くアスペの知人の方の特徴を捉えて紹介して下さって面白く読ませていただいています。相づち争奪合戦惨敗の話はおかしかったです。相手の方のなんともきまじめな答え方がほんとにアスペの方だなあと言うか、真面目で誠実だなあと言うか。いやあ、今回アスペの皆さんが書かれていること、ほんとに真面目に誠実に話をするんだ、という話が多かったですね。僕等みたいに(?)気楽にいい加減に話をしないから、そりゃ疲れるわ~と思います。

 Glassfishさんの

「私の発言が夫に無益で有害だったので、もう許してもらえない気がしています。間違いや許しについて、また機会があれば教えていただけるとありがたいです。」

 についてもつらつら考えるんですが、なんか許してもらえるかどうかと言うよりも、とりあえず今は夫さんがテストもやってみて「私はそうではないんだ」と思われている、そこのところをとりあえずの出発点として共有しながら、改めて時期を待つしかないんじゃないかなあという気がします。夫さんもGlassfishさんに指摘されることで、たぶん心の片隅でいつも自分が沿うではないのかについて、気にしているんだと思うんですよね。表向きは否定されても。で、そういうところに注意を向けていると、少しずつ「あ、もしかして自分はそうなのか?」というような思いがたまってくるかも知れない。そう言うときにいい本に出会ったりすると、「ああ、やっぱり自分はそうか」となるかもしれないと思うわけです。絶対そうだとも私は言い切れませんけど、なんかそういう機会を気長に待つよりない気がするし、それでいいんじゃないかなという気がします。

 で、ヒロさん、お久しぶりです
 本なんですが、その地方の大型書店に行けば置いてある可能性が高いと思いますけど、町の小さな本屋さんでは在庫はないと思うので、どうぞ注文してやって下さい m(_ _)m

 ゆったりのんびりさんはさかなやさんへのコメントですね。横割りで失礼します。「回復への階段」という言葉がちょっと気になりました。というのはアスペの方はアスペの方の特徴があって、それは遅れてるとかどうとか定型と比較してもあまり意味が無くて、定型とアスペのそれぞれの特徴を活かしながら、どうやってお互いのズレやそれによる摩擦を軽くしてちょっとでもうまくやっていくか、というのが大切なんじゃないかなあと思うからです。私の読み間違いでしたらごめんなさい。
  

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