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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2012年7月

2012年7月29日 (日)

会話の意味

 パートナーに何かふと気になったことを話しかけると、「それでどうだって言うの?」というような反応が返ってくることがよくあります。たとえば最近猛暑続きですが、自分が住んでいる地方で熱中症の死者が出たというニュースを見て、「ここでも熱中症で死者が出たんだって!」と話しかける。そうするとしばらくして「だから何だって言うの?」「それで何が言いたいわけ?」とか聞かれるわけです。
 で、改まってそう聞かれると、なんとなくびっくりして言っただけなので、答えに困るんですね。まあ、仮に立場が逆で自分がそう言われたとしたら、たとえば「へえ、こっちもそんなにすごい暑さだったんだ」とか「このくらいの暑さだとなくなる方があるんだね」とか、まあそんな返事をするんでしょうけど、それも「だから何だって言うの?」とか改めて聞かれたらちょっと答えに詰まる。
 考えてみれば、定型の会話って、「だからどうだって言うの?」と聞かれると困るような話がかなり多いように思います。別に深くその先を考えて言っている訳じゃなくて、ちょっと気になったから相手に伝えてみる。それで相手も何か感想を持ったり意見を言ってくれたりすれば、その後話が続くかも知れないし、「ふーん、すごいね」くらいでおわりかもしれないし、それはそれで別に構わない。
 要するに最初から明確な目的とかがはっきりあるわけじゃない。もちろんある場合もあるけど、無い場合も多いわけです。じゃ、目的がハッキリしてないから意味がないのかというとそうじゃなくて、やっぱり話したくなる。そういう一見無駄にも思えるやりとりが、定型にとっては結構重要な意味を持っているわけです。
 
 似たようなことになりますが、自分が何か問題を抱えていて、それについて考えたいんだけど、何からどう考えたらいいか分かんなくて、なんとなく気持ちがモヤモヤしていることがあります。そう言うときにも相手に話したくなるんです。なにからどう話し始めたらいいのかも迷う状態なんだけど、なんか関係ありそうなことから言ってみる。でもそこで言ったことが核心を突いたポイントだというわけではないんです。ただとりあえず言ってみるだけ。
 でもその言ったことに対して相手の人が何か反応してくれたり、あるいは自分で口に出してみたことで何か気がつくことがあったり、というようなことが少しずつ重なっていくと、だんだんと何が問題なのかが見えてきたりすることが少なくない。思いがけない解決法がそこから見つかることもあります。

 で、パートナーに聞いてみると、やっぱりそういう話し方はしないというんです。自分の中で問題が整理されて質問がハッキリしてから相手に聞くと言います。

 私の場合はもやもやしてハッキリしない状態から初めて、問題を整理するために色々話をしてみる。パートナーの場合は自分の中で問題をハッキリさせてから話をする。なんか凄く違いますよね。

 この違い、コミュニケーションの仕方の色んな場面で似たようなことが見られるんじゃないかなという気がします。ということで、定型の話しかけたことはアスペの方には「だからなんだって言うの?」という疑問を生みやすい。そうすると定型の方はなんだかコミュニケーションを拒否されたような気がしてショックを受ける。なんかうまい調整の仕方とか無いんでしょうかね?

2012年7月25日 (水)

ちょっとのんびり

 最近パートナーとゆっくり話をする時間がしばらく無くなっているような気がします。自分自身ちょっと根を詰めた仕事があって、そのせいでゆとりがなかったのか、あるいはなんかの意味でこれまで話してきたことがちょっと小休止になったのか、よく分かりません。

 いずれにしても、お互いがアスペルガーと定型だという理解が共有された頃、なんとかまずコミュニケーションをなりたたせようと必死に模索していた時期のことを考えると、今はほんとに落ち着いてきたのかなあと思います。ものすごく気を遣っている、ということもないし、とはいえ、全然忘れてるとか、気にならないとか、そういうことでもないんですが、その中間というか。

 たまにですが、アスペだとか定型だとか言うことがお互いの話の中でちょっとしたジョークのような感じで話されることも出てきた気がします。

 定型同士だったらきっと相手にもっと求めるだろうようなことについて、自分の中にそういう気持ちが無くなったというわけでもなさそうです。無くなっては居ないんだけど、あんまり強く表に顔を出すこともなくなったかな。自分でもちょっと不思議な感じがしますけれど。

 よく、「空気みたいな存在」という言い方をすることがありますけど、少しそれにもつながる感じがあるかな。完全にそうだというわけではないんですけどね。やっぱり違和感とかある時は有るわけだし。

 少なくとも、なんか緊張感みたいなものは相当無くなってきている気がします。

 このまんまずっといくのか、また緊張感が訪れるのか、先のことは全然分かりません。ただ、たった今についてはのんびり感が漂ってます。


 本、amazonでも発売になりましたけど、みなさんのご期待に少しでも応えられるものであってほしいです。なんか自己満足のものになっていたら悲しいですしね。買って下さった方に申し訳ないし。またよかったら是非感想などお聞かせ下さい。

2012年7月21日 (土)

相手の身になれない

 すみません。また永のご無沙汰をしてしまいました。
 ちょっと集中してやらなければならないことがあったものですから……

 やっぱりつっこんで考えなければならないことについては並行していくつもというのはむつかしいですね。

 トマトさんが一日だけ自分とアスペの友達の立場を入れ替えてほしい、と書かれていて、なんか切実な感じが自分でもしました。一体自分がアスペの方から見てどう見えるんだろうか、自分の言葉がどう理解されて居るんだろうか、そのことがほんとに知りたい気がするんです。

 その点で、玄さんはある意味ものすごいなあと思うんだけど、お互いの視点をすごく整理されますよね。そして筋道立てて説明をして行かれる。ほんとに凄いと思います。

 ただし、もしかしてそこが定型とアスペのズレに関係するのかも知れないんだけど、その玄さんのほんとにすっきりした解説でスッキリすると同時に、なんとなくもやもやとわけのわからないものが残ってしまう感覚もあるんです。

 これは玄さんの整理が悪いとかそう言うことでは全然無くて、何か視点の微妙な違い見たいのが残る感じがある。それなんなの?と説明を求められると困っちゃうんだけど (^ ^;)ゞ

 で、その気分がトマトさんの言う、入れ替わって相手の目で世界や自分を見てみたいというところにつながってきます。なんていうのかな、言葉になかなかならない「感覚」的なことをもっとしりたいということなのかな。

 最近もアスペとおぼしき人のいろんな出来事や私とのコミュニケーションについての理解の仕方について、なんかほんとにどう理解されているのか分かんないことがあって、困っちゃったりしたんですね。「え?なんでそういう話になるの?」という……

 
 よく「相手の人の身になって考えてみなさい」とか言われるけど、アスペと定型の関係ってそこがなかなか難しいわけですよね。特に「共感的に身になって考える」のが難しくて、ようやく「頭で想像して考えてみる」ということがなんとかできたりできなかったりという場合が多い。

 そういうことを改めて身に染みて感じてます。


 あ、それともうひとつご紹介したい話が。ある知り合いの方と話をしていたら、もしかして夫さんがアスペルガーかも、という感じになったんですけど、でも結構うまく言ってるみたいなんですね。お子さんも含めて。奥さんの方も定型の中では割合さっぱりしたところがあるというか、あんまりべたべたした感じの方ではないのがまたいいのかもしれません。もちろん何の問題もない夫婦なんて無いでしょうから、その方たちもその方たちなりに問題を抱えていたりするのかも知れませんけど、少なくとも離婚だ、自殺だ、とか、そういうシビアな方向に行くような感じではなくて、それなりにおだやかにご夫婦であるようなんです。

 そういうアスペ定型夫婦というのも少なからずいらっしゃるんじゃないでしょうか。それはそれで別に何の問題もないですよね。

2012年7月 6日 (金)

本の予約開始

 何度か宣伝をさせていただいていた「アスペルガーと定型を生きる:危機から生還した夫婦の対話」(北大路書房刊)ですが、amazonで予約販売が始まりました

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 表紙の写真は繭さん、対談する夫婦はカレンご夫妻、それに娘さんもインタビューを受けて下さり、司会や聞き手は私パンダが務めました。アスペと定型がその違いを前提にしながら、どう困難を乗り越えて共に生きていくのか、その一つの形を語って下さっています。

 もちろんアスペ・定型カップルといっても千差万別、それぞれに生い立ちも個性も環境も違いますから、どこにも「唯一の答え」はないのですけれど、でもたしかにここには「一つの答え」はあるのです。それが果たして皆さんにとっても親しみを持てる答えになれるか、距離のある答えになるのか、それは分かりません。でもそれがどちらだとしても、きっとみなさんにとって、今の皆さんの位置を知る上で、そしてこれからのみなさんの行方を考える上で、ひとつの大事な手がかりになるのではないかと思います。

 出版社の皆さんも本当に心を込めてつくって下さいました。機会がありましたら是非一度手にとってご覧下さい。またこのブログにもみなさんの感想やご意見など、お寄せ下さることを本当に楽しみにしています。発売は24日の予定とのことです。


2012年7月 5日 (木)

お互いに教え合う

 なんと二年も経たないうちに(1年8ヶ月)、アクセス数が20万を超えてしまいました。人数で言うと多分一人で一回平均4,5頁アクセスされているようなので、のべ5万人くらいの方が訪れて下さっていることになります。でもこの数でもこの問題に苦しんでいらっしゃる方の数から言ったら、きっとほんのほんの一部に過ぎないんですよね。そして私がかつてそうだったように、未だにアスペと定型のズレ、という問題として気がつかずに、訳が分からず苦しんでいらっしゃる方はさらに多いのでしょう。

 そう思うと、この世の中、どれだけ膨大なみなさんが「苦しみ」の中を日々すごしていらっしゃることかと考えて、ちょっと呆然とする思いもします。

 話は変わりますが、あるアスペルガー(自閉圏?)の方からメールを頂きました。ブログが荒れるといけないからと心配されて個人的にご意見をお送り下さったのですが、私が拝見する限りでは、ちゃんとした冷静なご意見で、荒れの原因になるようなものには感じませんでした。

 書かれていることは、私が理解できる範囲でまとめてみると、ひとつ目はあるカップルの中で起こった問題が、相手が「自閉圏」の人の場合には、何でも「自閉圏内の人がすること」と一色単に捉えられてしまう傾向があるんじゃないか、という疑問です。

 このブログでもたびたび問題になり、記事にも取り上げてきましたが、定型と一口に言ってもほんとにみんな個性的で一人として同じ人はいないように、アスペの方たちだってそれぞれが個性的で、いわゆる「自閉的」な部分だって、その現れ方は人によって千差万別だったりするのですよね。もちろん定型もアスペも両方に共通しているような「多様性」だってある。たとえば割に話が好きな人とそれほど好きでない大人しい人の違いは定型にもアスペにもどちらにも有るでしょうし。巨人が好きなアスペの人も定型の人も、阪神が好きなアスペの人も定型の人も有るでしょう。

 だから、アスペと定型のカップルがうまく行くかどうか、という問題だって、「それはその人によるでしょう」ということになると思います。アスペと定型のズレを抱えながらも、どこか大切なところでお互いに必要としあって続くカップルもいるし、ズレの大きさだけが目立って、相手を必要と感じられない状態になってしまうカップルだってあるはずです。そういうことも一人ひとりの状況を見ないと、一般的に「アスペと定型だから」ということで片付けて澄むことではないと思います。

 そんな風に考えるので、メールを下さった方の意見にはとても大事だと思います。自分の経験からすぐに「アスペだから」「定型だから」と決めつけてしまう前に、「私の経験したアスペの人の場合」とか「私が経験した定型の人の場合」というふうに、あくまで個々人の問題としてまず考えて、その上でそれがどのくらい他の人たちと共通性があるかを考えていく。といっても人間、どうしても「単純化」して考えやすいですから、そこはお互いに注意し合って「いや、アスペといってもこういう場合もあるよ」とか「定型といってもこんな人もいるよ」という風に教え合うことが大事かなと思います。

 それからその方が二つ目に書かれていることは、たまった思いを「はき出す」ことは大事なんだけど、やっぱりそれを「定型グループ対自閉圏グループ」の対立として集団間の争いみたいにはき出すことは避けたいということです。そしてその吐き出しが、どこまで相手と歩み寄る姿勢で行われるのか、それがあれば自分は定型の側からはき出された文章を読むのも大丈夫の気がすると書かれています。

 三つめに書かれていることで興味深かったのは、実は私が記事を書くときにいつも気になっていたことなんですが、私の文章の書き方が、特にアスペの一部または多くの方にとって、言葉遣いなどの面で分かりにくかったり誤解を招いたりすることはないだろうか、という問題についてです。

 たとえば今回「諦める」という言葉を使いましたが、私は「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」という言葉もあるみたいに、自分のこだわりを捨てることによってかえって状況が良くなるという感じで使いました。けれどもメールを下さったその方がこの言葉を聞くと「諦められてしまうんだ。」と感じて悲しい気持ちになるというんですね。これは私が予想していなかったことでした。でも、そう言ってくださると、パートナーのいつもの感じなどから分かる気がします。やっぱり彼女も私がプラスの気持ちで言ったことをそういうマイナス方向で理解して落ち込んでしまうことが時々あるからです。

 もちろん逆の場合もあって、パートナーがプラスの気持ちとか何気なく言ったことで私がマイナスに受け取って激しく落ち込んでしまうこともある。これはお互いに「そういう言い方は落ち込む」とか、言葉で教え合う以外に対策を思いつきません。そうやって少しずつどうやったらこの人との誤解を減らせるのかを身につけていくしかないでしょう。ただ、ブログのように「相手がどういう人か分からない」のに一般的に欠かざるを得ないときにはそんな工夫にも限界がありますが、でも少なくとも今回メールを下さって、「諦める」という言葉についての感じ方の違いを私は知ることができました。

 あと、「諦める」ではなくて「無理をしない」という言葉に置き換えれば自分は理解しやすいとも書かれていらして、「ああなるほど!」とちょっと感心してしまいました。そうですね。たしかにそういう言い方の方が誤解も少なくていいのかも知れません。


 お互いにこんなやりとりを地道に続けながら、少しずついい方向を探っていくこと、それが「アスペルガーと定型のコミュニケーションを考える」ということそのものだろうと思います。

2012年7月 4日 (水)

再び「諦める」について

 このところ次々に沢山の方からコメントを頂いて、ひとつひとつとても大事なことが書かれているのでお返事したいのですが、多くなりすぎてどれがどれへのお返事かも分からなくなりそうなので、ほんとにごめんなさいですが、今回は個々のお返事についてはお許し下さい m(_ _)m

 と、いいつつ、今日は玄さんからのコメントを手がかりにちょっと考えてみたいことがあります。玄さんはこんなことを書かれています。

「ASとのコミュニケーションで嫌な思いをされた経験を吐き出したような文章は、読まずに済むなら読みたくないですし、嫌な思いをさせたAS個人を擁護するようなことも言いたくありません。」

 ここ、むつかしいなあと思います。これは定型の特性なのかも知れませんけれど(いや、でもパートナーもちょっとそういうところがあるかな?)、嫌な思いがたまってくると、絶えられなくなってどこかではき出したくなるんですよね。そうしないと憤りが胸一杯にたまってしまって、もう息もできないような状態になってしまう。そうなると、本当は全然問題ない筈の相手の言動まで、嫌で嫌でたまらなくなってしまったりして、もう悪循環にはまりこんでしまいます。

 だから、どこかで一度思いっきりはき出して、息をつく必要がどうしてもあるんだと思うんです。ただむつかしいのは、そう言うときは理性的なコントロールは外れて、相手がどう思うかまで気が回らなかったり、むしろ相手を傷つけることを願ったりしてしまうことがあるので、定型のはき出したものをたとえばアスペの方がご覧になったら、決して気持ちのいいものではなく、ひどく傷つけられたりとかもあると思うんですね。

 かといって定型の方で我慢に我慢を重ねても結局は爆発してもっとひどい状態になるし、出したら出したで相手の方を不当に傷つけることも十分あり得るし……。そこの難しさです。

 実は私の場合も同じようなことがありました。それはパートナーがアスペという理解が共有されてそれほど立っていない頃のことなんですが、それまで何でこんなにお互い通じ合わないのか、自分が拒絶されている(ように感じられてしまう)のか、苦しくて苦しくてしょうがなかったことを、何人かの親しい友人にどーっとはき出したことがありました。友人たちはとても共感的に話を聞いてくれて、そのとき、ほんとに自分が救われた思いがしたんです。

 ただ、そういうのは、相手の人も定型の人だから成り立つことなんですよね。もしそれを聞かされているのがアスペの人だったら、やっぱりすごく傷ついたり、訳が分からずに困惑したりしたと思います。

 そういう意味では、こういうブログなんかにも役割分担があった方がいいのかも知れません。定型同士でアスペの人への思いをぶつけ合ったり、逆にアスペの人同士で定型への疑問をぶつけ合ったり、そうやって自分の気持ちを整理していく場と、それからこのブログが目指しているように、違いを前提にしてなんとか折り合う道を模索していくような場と。

 そのときにもうひとつ難しいことのように思えるのは、たとえばこのブログであっても、お互いにどんなときに苦しい思いをするのか、どんなときに耐え難く感じるのか、ということについてはやっぱりある程度理解し合わないといけないのではないかと思えることです。それがわからないと、何を解決していけばいいのかも見えてこないと思うんですね。その意味では「はき出す」要素もここでも必要なのかも。

 ただし、やっぱり「はきだすだけ」だとダメなんですよね。それははき出すことで「じゃあどうすればいいんだ」という次のステップにつながるようなものになることが理想です。そんな気がします。

 それと玄さんの書かれている

 「ですが、「ASの言動を定型の方が諦める・無視する」という論調は非常に残念ですし、理解や支援に繋がらないと思うのです」

 については、私自身は「無視する」という言葉は使いませんけれど、「お互いに諦める」という部分はどうしても必要になることはあると思えます。というのは、お互いの重要な特性で変わりがたい部分が問題になっている場合です。その場合でも多少お互いに意識的に譲り合うことは、ある程度は可能かも知れませんが、そのこと自体かなり負担が大きくなる可能性もあります。そういうときにはむしろそこのところはお互いにかわらない特性として認め、それ以上は追求しない、という意味で「諦める」こともありうると思うんです。そのあたり、どこは諦め、どこは諦める必要なく理解や支援を行えばいいのか、その見極めも難しいとは思いますが、経験の積み重ねでなんとなっく分かっていくのではないでしょうか。そのことを前提としてであれば、
 
 「なので、「諦める・無視する」という定型の方の「態度」を、私は放置せずに、理解に繋がるアイデアを出したいのです!」

 と玄さんが書かれることには賛成です。

2012年7月 2日 (月)

「寝物語」を諦める

 久しぶりの一週間の出張を終えて一昨日深夜に帰宅しました。

 アスペと定型のズレの問題があることをパートナーと共有していない頃は、家に帰ってもあいさつもしてくれなかったり(本人は「言った」というのですが、全然聞こえないのです)、とても機嫌悪そうにして、必ずと言っていいほどまずは何か文句から始まり、それからしばらくしておみやげを渡しても喜びを表現されたことがありません。出張の間、ああいうことがあった、こういうことがあったと話をしたくても、面白そうに関心を持って聞いてくれる雰囲気はまるでなく、むしろ「迷惑そう」に見えて、話しかける気持ちもすぐに萎えてしまいます。そうして私は「ああ、自分は帰ってくることを望まれていないんだ」という思いを繰り返し積み重ねていました。

 アスペと定型のズレの問題が共有されてからは、そういう事はパートナーが「私が居ない生活」から「突然再出現した生活」への変化に戸惑っていることなんだと理解するようになりました。一種のパニックの中で自分をコントロールしようと頑張ってすごく不機嫌になったりしているんだろうと思います。

 で、ほんとに久しぶりに出張して帰ってきて、今回は随分違いました。駅まで積極的に車で迎えに来てくれましたし、おみやげについても「わあうれしい!」とか、そういうのはないのですけど、ちゃんとそれについて話をしてくれたり、「久しぶりの再会で嬉しい」という感じではなくても、機嫌悪くいろいろ文句を言うのではなくて、いつもの状態でいてくれたり。ほんとに大きな変化です。

 でもパートナーはそれは随分頑張ってくれたのかも知れません。今朝になって少々爆発していました。きっかけは昨夜布団に入ってからちょっと話をしたらそれから割と長い話になったことだったのですが、そのあとまた中々寝付けなくなって寝不足になるから、夜は話しかけないでほしい、と強く言われたのです。

 そのことは最近何度か言われていたことだったので、私も気をつけて、昨夜もほんのちょっと話しかけて終わるつもりだったのが、彼女の方がどんどん話に応じてくれるので、「ああ、今日はまだ大丈夫なのかな」と思って私もそれに応じて話をしていたのですが、やっぱり彼女としてはそれは無理をしていたんだそうです。

 もし「仕事モード」でいるときなら、適当に話に相づちを打つ程度ですませたり、あるいは「もう遅いから」と切り上げたりできるのだけれど、家で私に対してはそんなことはできないというのですね。で、一生懸命頑張って話をしてくれる。私の方は「彼女も求めて話してくる」という印象になって、「彼女が今話したいんだろう」と思ってしまい、喜んで会話に応じる。すると彼女はますますそこから抜けられなくなる、という変な「悪」循環になっていたようなのです。

 今私が思うのは、パートナーは布団に入ったら、もう「寝る準備態勢」で、一人静かに寝入らせてあげなければいけないんだなということです。となりから多少なりとも「雑音」を入れてはいけない。眠る前の「寝物語」は私にとっては結構魅力的なことですけれど、それは諦めないといけないんだなと思います。その分をどこかで上手に補えるかどうかが次の課題でしょうね。

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