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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2012年6月 2日 (土)

また寂しい話

 記事「さびしいと甘え」にアスペの方々が寄せてくださったいくつものコメントを拝見しながら、う~ん、と考え込んでしまう感じがします。

 一緒にいるか居ないか、ということと、さびしいかさびしくないか、ということはアスペの方たちにとっては直接は結びつかないものと言うことなのですよね?私なんかは子供が小さいころ、仕事で1年間海外に出たときに、行きの飛行機の中で見送りに来た家族のことを思いながら、やっぱり涙が出ましたもん。なんかそういう「別れの悲しみ」とかもないのでしょうか。私のパートナーも別にそのとき泣かなかったみたいだし。子どもは泣いたと言ってたけど。

 逆に長く離れていた後に再会したときに嬉しくて泣いてしまうとか、それもないのかな。私の場合、1年して帰ったとき、なんかちょっとした用事があったらしいけど、空港にも迎えにも来てくれなくて、玄関にもなかなか出てこないし笑顔で「おかえり!」とうれしそうにもされなかったし、涙ももちろん無かったし、とにかく拍子抜けというのか、がっかりというのか、ある程度予想はしていたけれどでも実際そうなってみるとかなりショッキングだったことを思い出します。なんか、自分ってパートナーにとってはどうでもいい存在なんかなあ、といういつもの印象を当時はすごく強めました。

 今はそのことと自分が彼女にとってどうでもいい存在ということとは別のことだ、と頭では分かってきてますけど、でもたとえば自分が死んだ後、彼女はそんなにさびしくはないのかなあとか、そういうことは考えたりしますね。聞いてみたら「それはわからない」という答えでしたけど。

 私の方はもし彼女が先に死んじゃったら、きっと寂しい思いをするんだと思うんです。「それはわからない」じゃなくて、間違いなくそうなると思う。もちろん時間が経てばその思いは段々薄れては行くでしょうけれど、でもまあ1年とか位はほんとに寂しさをかみしめ続けるんじゃないかな。あんまり考えたくもないですけど。で、彼女の方はそうなるかどうかわからない、ということを聞くと、やっぱりそのことがまた寂しく感じてしまうんですね。

 ああ、そういえば子どものころ、夏休みになると母親の実家に結構長期滞在してたんだけど、夏休みも終わりに近づいて帰るときには、やっぱり駅を出る列車の中でずっと泣いてましたね。おばあちゃんやおばさんたちや従兄弟と別れるのがつらくてさびしくて。

 うーん、だからやっぱり定型の多くは「親しい人と一緒にいること」は嬉しいことで、親しい人と離れなければいけない状況は悲しいしさびしいし、つらいことなんですよ。なんでって言われると困るんだけど (^ ^;)ゞ とにかくそう。だからアスペの方たちが一緒にいるかどうかとさびしさとは別の問題、と言われるのがほんとにわかんない。むつかしい。

 なんか、このあたりもいろんな問題につながっていく、すごく大事な問題が隠れてるんだろうという気がしますね。

 

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コメント

「寂しい」という感情は人生のイベントと同時にやってくるその折々に違いを突きつけられるのですが、実際なぜ自分は「葬儀の時に涙が出ない」のか、などに違和感は感じます。しかしもう一方で自分の個性としては、離別や再会でエモーショナルになることが、不自然な振る舞いに感じられるのです。僕とパートナーさんは違うかもしれませんが、とても興味深いテーマなので詳しく思いを書かせていただきます。
パートナーさんにとって、パンダさんが「どうでもいい」存在なのでは決してないと思いますよ。ただ違うのは、「別れの場面で泣く」とか「再会でうれしそうな顔を見せる」とかの顔面作業程度のことで、その人との人間関係が変わってしまうとか、確認が必要とか、そんな薄っぺらい間柄であって欲しくないと信じているのではないでしょうか。
実生活としては、定型にはそういう儀式=プロトコルを重視する、という独特の特性があることを理解して、思いやる必要はあると思います。
(僕は、定型の「そういう」部分を相対的に軽視している・・・のでしょうね。さらには、「そういう」ことが定型の人間関係強化の中心的役割であるのに、それに馴染めていない。)

パンダさんとの死別に関して「わからない」というのは、自分への誠実さと、パンダさんへの配慮のギリギリの折衷案の回答かもしれません。なぜなら、パートナーさんに「別に」とか言われたらもっとショックだったのでは?
僕には漠然と「離別の苦しみをいつまでも引きずらない」のが理想だという思いがあるのです。そして、離別の苦しみを引きずる=「寂しい」の状態に陥るかどうかは、実際になってみないと分からない。寂しい状態に陥りたくない自分の理想と、寂しい状態に浸って欲しいパンダさんの思いとの狭間で、「わからない」は正直なところだったと思います。

そもそも、「寂しい」とは何か。「人間関係が欠落したという事実から来る空虚感が精神を支配して日常生活に支障があること」だとするならば、空虚感はあっても生活に困るほどではないだろうから、「さみしくない」だろうし、ここで「さみしい」といったら、相手にもっと心配をかけるかもしれない・・・ということが「わからない」に繋がったとも考えられます。

僕の考えでは、定型の方は脳内の感情の回路にアンプ(増幅器)が常設されているようですね。自分や他人の感情をぐるぐる回転させて、わずかな感情を瞬時に拡大しているように見えます。ASはこのアンプのスイッチが切れているので、自分や他人の感情を検知しても、それが行動の理由になるほどの音量にならない。スルーされてしまうのだと思っています。

死別については、そのときになってみないとわからない(考えても仕方ない)ってことじゃないかと思います。自分の親に置き換えてもそう思います。
それは悲しまないという予想ではなく、どう悲しむかわからない、ということです。
そのあたりはアスペの現実主義的で、嘘をつけない部分じゃないかとも思います。

玄さんの、
「離別や再会でエモーショナルになることが、不自然な振る舞いに感じられるのです」という言葉、とてもよくわかります。
葬儀で大げさにふるまう人を見ても芝居がかって見えるし、
感動して泣いちゃう女の子とか見ても、感情ってそんな便利な道具なのかなあ、と、すごく醒めてしまうのです。

私の場合は、物理的距離と心理的距離は特に相関していません。特に今は、メールや電話もありますし。以前のパートナーと、仕事の関係で長期間離れていたことがありますが、その時も特に寂しさというのは感じませんでした。

没交渉であった親しい友人と数年ぶりに会った場合も、昨日まで普通に付き合っていたかのように違和感を感じません。時間的距離も心理的距離に関係ないのかもしれません。

死別に関しては、自分と親のことで考えると、誰もがもつように親に対しては複雑な感情を持っておりましたので、親が死んだら自分はどういう気持ちになるのだろう?と想像していました。やはり当時は、その時がこないとわからない、と思っていました。実際に親が死んだとき、私は深い喪失感で悲嘆にくれ、途方に暮れ、長期間、まともに日常生活を営むことさえ困難になりました。その喪失感が薄れるのに数年を要しました。

一般の方は、「寂しい」という言葉をもっと気軽に(というと語弊がありますが)使っているように思います。「寂しい」という言葉の定義自体が違うのかもしれません。心理的距離の近い人と物理的距離が離れたときの感情としては、私の場合は「残念」という言葉が一番近いかもしれません(心理的距離の近くない人と物理的距離が離れても「残念」とは思いません)。

親しい人と一緒にいることは「嬉しい」、一緒にいられない場合は「残念」といった感じでしょうか。

asの人と定型の「寂しい」のどこが違うかというと、自分が抱く感情としての「個の寂しさ」は両者、誰にもあると思うんです。
でも「共有する寂しさ」が、asの人には理解しずらいと感じます。
定型は相手から「(あなたに会えない時間が)寂しかったよ」と言われると、その感情を、声や表情や風情などで総合的に五感で受け取るから、相手の寂しさを感じることができるけれど、asの人はいち意見や情報として聞く、という印象があります。

定型は、相手の感情表現を五感でキャッチして、その言葉に感情が揺らされ相手に添うから、寂しさの大小に関わらず「私も(僕も)」という共感の言葉がすんなり出やすいと思います。

でも、asの人は耳や分析力で受け止められるから「そうですか」となるのではないでしょうか。
ではasの人が寂しく無かったか・・と言うとそうでもなく「過去の時間の寂しさを、今、表現する」という時間差表現が苦手というところは大きいと思います。

よく「その時、あなたはどう思ったの?」という質問にasの人が答えられないという例はあります。また「寂しい」と感じていたのに「今この瞬間は感じていないので、今、寂しいと表現するのに抵抗や違和感がある」とか・・・表現のタイミングが定型とasでは合わないことも多々あると感じます。

asの人に感情的報酬を期待すると、議論になり、やっぱり「寂しい」思いをしちゃう、ということはありますよね。
定型の必要不可欠な「共感」のフックがasの人になかなか見つからなくて、気がつけばディベート大会になっちゃうこと、あるあるシリーズですね。

寂しかったとしてそれを今なぜ言うの?ってことらしいですよね。
ネガティブな発言として捉えてるみたいです。
ASが嫌う否定的言動として。
せっかく今一緒にいるのに、暗い話されて嫌になっちゃうという、ね。

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