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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2012年6月10日 (日)

悩みを語る意味

 このところ少し仕事が煮詰まっていて、こちらをゆっくり考えて書く気持ちの余裕が取れませんでした。その中で玄さん、さかなやさん、トマトさん、FOXさんの、アスペや定型からの突っ込んだ鋭いコメントを読ませていただいて、いずれもじっくり議論したい中身のように感じて、ますます書けませんでした。

 今もまだ十分余裕があるわけではないのですが、記事「また寂しい話」に玄さんが下さったコメント

 「僕の考えでは、定型の方は脳内の感情の回路にアンプ(増幅器)が常設されているようですね。自分や他人の感情をぐるぐる回転させて、わずかな感情を瞬時に拡大しているように見えます。ASはこのアンプのスイッチが切れているので、自分や他人の感情を検知しても、それが行動の理由になるほどの音量にならない。スルーされてしまうのだと思っています。」

 から少し書き始めてみたいと思います。

 この喩え、とてもわかりやすくて、思わず「そうそう!」という感じになりました。多分定型の場合はアンプで拡大して表情や声や体の動きという「スピーカー」で大きな「音」で鳴らすことで他の人に知らせるんです。で、他の人もその「音」を体で感じて、共鳴したり、あるいは逆に「嫌な音だなあ」と反発して怒りの感情を持ったりするんです。いずれにしてもなかなか冷静に受け流すことができない。

 ただし、多分玄さんもそういうことを言いたいわけではないと思いますけれど、アスペの方が感情そのものが少ない、というわけではないですよね。ただそれを「外(他人)」に向けて拡大して表現する、というアンプの機能が小さかったり、そのアンプが反応する刺激の範囲が定型とずれているだけで。自分の中では複雑な感情が長く長く渦巻くこともある。例えばFOXさんはコメント

 「死別に関しては、自分と親のことで考えると、誰もがもつように親に対しては複雑な感情を持っておりましたので、親が死んだら自分はどういう気持ちになるのだろう?と想像していました。やはり当時は、その時がこないとわからない、と思っていました。実際に親が死んだとき、私は深い喪失感で悲嘆にくれ、途方に暮れ、長期間、まともに日常生活を営むことさえ困難になりました。その喪失感が薄れるのに数年を要しました。」

 と書いていらっしゃいます。深い感情がないなんていうことはない。

 で、今パートナーと少し話をしていてああなるほどなあと改めて思ったことがあるんですが、定型は自分が落ち込んだときとか、やっぱり人に慰めて欲しい、というような感じを持つことが多いんですよね。もちろん一時的には一人にしておいて欲しいと思うこともあるけど、それも何時までもということでもないし。つまり、自分のしんどい感情をおさめるのに、他人の存在が大切になっているわけです。

 それに対してアスペの方は、パートナーの場合もそうですけど、基本的に自分の中で解決されるのを待たれるようですね。しんどいときには定型の反対に一人になりたいという話が良く聞かれますけど、それもそういうことなのでしょう。当然、自分のしんどさを人にアピールするような「アンプ」の装置は必要がないことになります。

 記事「笑いのツボ」にトマトさんが寄せて下さったコメントに、

 「(冗談やだじゃれが大好きなアスペの友人が)ただ・・・真剣な場面でも、真剣であるべき場面でも、つい茶化すようなジョークを飛ばし、相手を怒らすようなことが多々あったので「とにかく今日は、ダジャレやジョーク禁止ね」と言い聞かせて、施設探しをしていたから、彼は「僕もとても苦労した」と切々と訴えたのです。」

 という話を紹介されていますが、これも上の話にどこかつながる気がします。というのは、このアスペの友人の方の場合、とにかくだじゃれやジョークが好きで「とまらない」感じなんだけど、それは必ずしも「回りと一緒に楽しもう」という感じではない気がするわけです。一番は自分の中で楽しむことに目的がある感じで、だから定型的には状況から言って真面目でなければならないところでそれを禁じられることが苦しくてしょうがない。

 基本的には自分の問題は自分で解決すべきと感じるアスペの方と、他人に訴えて話を聞いてもらったりアドバイスをもらったり慰められたり勇気づけられたりしながら問題を解決したい定型と、そのズレは大きいなあ、と思います。

 だから定型の人はアスペのパートナーの方を「冷たい」と感じたりすることが多くなるのでしょう。「一緒に悩んで助けて欲しい」と感じるところで、「それはあなたの問題なのだから、あなた自身が解決するしかないんだ」という姿勢で対応されるとすれば、自分を切り捨てられたような気持ちになってしまうからです。でも、多分アスペの方からすれば、それは冷たいとか何とかとは全然関係なく、ほんとうに自分の問題を解決できるのは自分しかいないと心から感じられているのではないかと思うんですね。だから正直にそういう姿勢で相手にも臨む。

 「悩みの解決」「感情のやりとり」について、それだけ大きなズレを持っている二人が、それでも一緒に暮らしていくことの意味はどこにあるのか。はたしてそれだけずれている二人が、そういう二人だからこそできる「助け合い」というものはあるのか。考えていくべき大きな問題がその辺にありそうな気がします。

 

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コメント

こんばんは。アンプ説(笑)取り上げてくださって有難うございます。
思いつきなので、実際には違っているかもしれませんし、色々な方に拡大解釈してもらえることで、新たなアイデアが出るかもしれませんから、うれしかったです。
僕の考えを少し捕捉すると、ASは自分の中の「感情」も、外から入ってくる情報としての「感情」も、自覚できるほど音量を大きくする機能が弱い、と思うのです。ASも定型も、「自分の心の中の感情の発端は『どちらも小さい』」、「どちらも最初に受信する刺激は小さい」と考えているのです。定型は、脳内で感情のボリュームを拡大できるので、保存(記憶)もしやすいように見えます。感情が「少ない」というと、感動の頻度が少ないような印象ですが、頻度が少ないのではなく、強さの拡大機構・・・かえって分かりにくいか。失礼しました。

玄さん、こんばんは。

玄さんの「アンプ説」、わかるような気がします(もしかしたら、解釈が違うかもしれませんが、その際にはご容赦ください)。

私は、自分の中にある感情がなんなのかわからない場合があります。稀に、アンプが一過性につながるせいか(?)、なるほどこういう感情が「うれしい」とか「哀しい」とかいうことかと直観的にわかることもありますが、大抵は、状況を類推して、おそらくこういう感情なのであろう、と解釈したりします。どういう感情かわからないまま、それでもその感情により負荷がかかるためかいきなり心身の不調に陥る場合もあります。

他人の感情に関するアンプ機能は、さらに破綻しているかもしれません(苦笑)。

自閉圏外の方は、アンプ機能により、その辺はオートマティックに感情の把握、振り分けができるのでしょうね。

自分自身のアンプ機能が破綻しているためか、社会生活においては、外付けアンプ(?)を利用しているような感じです。例えば、ものをもらったときなどは、今までの経験則による類推と外付けアンプ(?)を利用して、自分としては大げさとも思えるくらい「うれしい」と表現するようにしていたりします。はずしている場合もあるかもしれませんが(苦笑)。

FOXさん、ありがとうございます。
全くといっていいほど、同じ考えです。最初から並べると混乱するので控えておりましたが、例外がありますね。ごくたまに、発想が行動に「直結」する、あるいは天啓か使命のような感じに強いインプットがあり、行動としても突き動かされるようになることがあります。
それと、「外付け」これも好みの表現です。自分の感情システムは、「無くて不便なので、よそから持ってきた代替品」という気がしてなりません。入力・出力ともクセがありすぎて、ハッキリいって使いにくいのですが、それしか持ってないので手直ししながら使ってる感じです。。。

玄さん、お返事ありがとうございます。

「天啓」を受けたようにインプットが入ったり、よくわからない感情が言語化されたりして、「行動」に直結すること・・・ごく稀にあります。まさに「天啓を受けた」という感じで、自分でも説明のしようがないメカニズムです。一体何なんでしょうね。

私自身は、日ごろ、自分の中にある感情は、あえて言語化せずにそのままにしていることも多いです。外に向けて表出する必要があるときだけ、外付けアンプを使って言語化・行動化しているような気がします。

私の場合、外付けアンプは、自分が今まで体験したり書物などで見聞きした人の言動パターンのライブラリーを参照して作られたもののような気がします。なので、時々ヴァージョンアップはされているようですが、もとになる情報量の少ないような複雑な言動・感情に対しては対応していないかもしれません。

入力に関しては、さらにバグが大きくなるような気がします。これは非言語的表現の処理が過負荷になるためだろうと思うので、主に言語的表現に焦点をしぼって外付けアンプを使って処理しているというのが現状といったところです。

FOXさん「言動パターンのライブラリーを参照し」よく分かります。大好きな映画「ターミネーター」(古い^^;)の始めの方のシーンで、アーノルド・シュワルツェネッガーが演じる未来ロボットが人と対話する時に、ロボットの内面の描写で、「受け応えのセリフをいくつかの選択肢の中から選び出して発言する」というのがあります。「こうやればいいんだ」と思いましたね。ボキャブラリーや敬語を含めた正しい活用変化をライブラリにため込んで、自分の目的と状況に合ったフレーズを生成すればいいのだと。

言語情報の処理は、この「外付け」のシステムを使って、ある程度やっていける手応えがあるのですが、FOXさんも言われる通り、非言語情報にこのシステムを適応しても、外界とのコミュニケーションが満足いくレベルにならない。歩留まりが非常に悪い感じなのです。次第次第に非言語情報を入出力すること自体を敬遠してしまう。そのため洗練されない状態が続き、年相応の進歩が無い。これが、僕の考えるコミュニケーション領域の発達障害が形成される過程の仮説です。「脳機能の脆弱性(?)・代用システムを使うことによる質的な違い・経験と訓練の少なさ(誤解)」の3つの障壁があるという気がします。
もしコミュニケーションの壁に突き当たっているなら、どんな壁なのかを考えることで、冷静になれるかもしれません。

玄さん、

私もターミネーター大好きです。1-3までは全部見ました。4のみ、まだDVDが埃をかぶったままだったりしますが。

非言語情報に対する歩留まりの悪い感じ・・・わかります。3つの障壁というのも非常に理にかなった仮説だと思います。

ちなみに私は、幼少時から漫画を読んだり映画を見たりするのが好きで、それも自閉症的特徴のためか、何十回となく繰り返す癖があります。それにより喜怒哀楽などの基本的な情動の非言語表現は、ある程度ライブラリーに入っていて、「外付け」システムの活用もある程度できるように思うのですが、複雑なものはやっぱり駄目ですね。

社会生活では、相手が「妙な」顔をしていることが時々ありますが、その裏にあるものはよくわかりません。その相手に直接「言語的に」解説してもらえればライブラリーが増えるのかもしれませんが、本音を言ってくれるとも限りませんし、本音を言いたくないからこその「妙な」顔なのでしょうし・・・そこで行きどまりな感じです。

「妙な」顔、「妙な」雰囲気などの非言語情報の入力に関しては、最近はほぼgive upしています。比較的変わりものに寛容な職場なので、あらかじめ「自分は空気読めないんです」と冗談めかして言ってしまうことにして対応していますが、新しい環境や人間関係だと難しいかもしれませんね。

やはり複雑な非言語情報の処理に関する「正しい解説に基づいた経験の少なさ」という問題が、最後の障壁として残るような気がします。

「妙な顔」、しばしば出会いますね。面食らった、当惑、困惑、といった印象です。
おそらく、人間関係として「意気投合」の真逆の位置にあるものだろうと思います。
しかしその場での僕の受信した信号としては、むしろ相手が「怒りや戸惑いの感情を隠した」というように受け取れて、「困ったけど、無視して続けてくれ」というサインに思えるので、ほとんどの場合、こちらの話を続行してしまいます。
お互いに気まずいのですが・・・それが商談であったなら、うまく行かないわけです。

「妙な顔」が「意気投合」の真逆な位置にあるものという意見は、玄さんのおっしゃる通りだと思います。

何らかの感情を隠したものだとして、私の場合、「困ったけど、無視して続けてくれ」なのか「困ったから、察してやめてくれ」なのかがよくわかりません。その時々で可能性の高そうな方で「続けたり」「やめたり」しているつもりですが、確かにお互いに気まずさも残りますし、さらに問題なのは、どちらが正解だったか、結局わからない場合が多いことです。そのため、ライブラリーも増えず・・・

確かに商談の場合は、うまくいかないかもしれません。そういう気まずさで、商談がまとまらない場合、最近は、「ご縁がなかったのだ」と諦めてしまっている自分がいます・・・

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