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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2012年6月11日 (月)

手がかりがもらえない

 昨日の記事の続きのような中身ですが、定型の感覚から言って、アスペの方とのコミュニケーション(こういう言葉でのやりとりは別です)で困惑するのは、やっぱり「手がかりがもらえない」ということじゃないかなと思います。つまり、昨日も書いたみたいに、定型の人間は相手に表現して共有しようとしたり、逆に言えば相手の表現を見て、自分のやり方が適当なのかを判断し、調整しようとするんですよね。

 たとえば先日パートナーを外食に誘ったわけです。で、こちらから積極的に「結構おいしかったね」とか話題を振らないと、あまりその食事についての感想が帰ってこないことが多い気がするし、そういう夕食会が果たして楽しかったのかつまんなかったのか、そういうことについての感想もないわけです。

 そうすると、定型の側(あるいは私の側)から言うと、二つくらい問題が生じてしまいます。ひとつは折角彼女と楽しい時間を過ごそうと思っているのに、結果として楽しかったのかどうかわからなくて、自分のやったことがよかったのかわるかったのか分からず、とても中途半端な気持ちになってしまうと言うことです。そしてもう一つは、その食事についていろいろ感想を言い合ったりすれば、「じゃあ、今度はこう言うところに行ってみようか」とか「またこようね」とか、その次の計画を考えることができるんだけど、それができない。

 これは今までのパートナーとのいろんな会話からの想像でしかないんだけど、もしかするとアスペの方は「一緒に行って文句も言わずに食べて居るんだから、それがマイナスの評価であるはずがない」と思っているのかなとも思います。だからわざわざ相手に言うまでもないとか。

 なんかそのパターン、こういう外食がどうのこうのみたいなことに限らず、たとえば「あなたにとって私は意味があるの?」というような、かなりシビアな問題についても、「こうやって一緒に暮らして居るんだから、意味があるに決まってる」ということは言わずもがなの前提になっていて、いちいち表現してくれない、というところにもつながるような気がするんです。表現してくれない所か、頻繁に不機嫌な(私から見えると)表情をされていたりすると、ますますこちらは落ち込んでしまいます。

 「一緒に暮らしているから意味があるに決まっている」とそう言われれば、ああそうなのか、と思わないでもないんですけど、なんか物足りないんですよね。下手をすれば不安が完全には消えないとか、なにか欲求不満が残るという感じにもなる。かといってそれを表現すると言うことは、たとえば私のパートナーの場合だと、なんだか儀式張ってるとか、形式的なことのように感じて、抵抗感があるみたいですから、あんまり要求もできないし……。

 なんかこの辺は今のところ、どうしていいのかわかんない平行線の所です。

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コメント

感情には波があります。
定型同士でも、いったん共感や認識や愛情がこじれたら、どこに橋をかけて良いやら、相手のささいな一言さえ受け入れられず、つい求める気持と批判ばかり膨らんでしまうときもあります。

以前に、精神科医に「自閉圏に居る人には、求めたり期待したりすると苦しくなりますから(定型は)、周囲の共通理解を広げることが最重要です。asの人に添う人にこそ心のケアが必要なんですよ」と言われました。

率直に言ってしまうと、やはりasと定型、ガチンコで向き合うと両者がキツイと思うのです。
ましてやご夫婦や親子という関係性は、延々日々の持続ですから、つい感情的な距離がとれなくなりますよね。

そういう時に、定型には定型の、理解者とか話を親身に聞いてくれる人は必要だと思います。
それは、逃避ではなく、自分のパワーや優しさや冷静さの充電として、自分を肯定し誉めてくれてねぎらってくれる人間関係や場所は必要だということです。
そういうことは、定型同士でも日常、普通にあることですから、ましてやasと定型ならなおさら必要ではないでしょうか。

逆にasの人は人疲れして、独りの空間や時間、またリラックス出来る特定の場所やこだわりに没頭したりする過ごし方があると思います。

私は、定型の世界で嫌な思いをしたとき、asの人は邪気がなくていいなぁと、つくづくasの友人に感謝するときがあります。

定型の良さ、asの人の良さ、2つの概念が理解出来るって、ある意味、とても恵まれていると思います。
自分に余裕を持てるように、見つめすぎない、求めすぎない、追求しすぎない、とブレーキを意識する場面もありつつ、こんな自分を認めてくれる場所や人間関係も耕しておかなきゃね・・・です。


自閉圏にもいろいろな人がいると思いますので、人それぞれだとは思いますが、私の場合は、人と食事をしたり一緒に出かけた際に、「おいしかったね」とか「楽しかったね」と、社会生活の「お作法」として言っています。もちろん、思っていないことは言えませんので、そういう気持ちがあることは確かですが、どちらかというと、長年の学習による機械的反射に近い場合が多いです。これは、必ずしも「仕事モード」の相手ということではなく、(「対人モード」とでも言いますか)相手が身内や近しい相手でも同様です。心身疲労が強い場合には、作動しなかったりもしますが。

自分の中の自閉症的特徴と性格、感情、行動様式は、密接にからみついていて、もはや不可分になっているところがあります。私自身は、無理にそれらを分解・再統合して、自分の「感情」と「行動」を一対一で対応するようにしようとは思っていません。その方が、生活しやすいからです。はからずも、テンプル・グランディン氏のように、自分の生活をシンプルに営んでいるというのが実情でしょうか。シンプルな生活を営むことによって、自分自身の生活や精神状態はかなり安定しました。

パンダさんが望んでいるのは、「感情」と「行動」を一対一対応にして、さらに「わかりやすく」「自発的に表現」してもらうことなのでしょうか。「機械的反射」よりもさらにハードルが高いように感じます。

実務的には、パンダさんの方から、「おいしかった?」「楽しかった?」「一緒にいて良かった?」などと問いかけて、それに対して返事をもらう、という形をとった方がコミュニケーションがとれると思うのですが、それでは、パンダさんの物足りなさは埋められないのですかね。

難しい問題です・・・

トマトさん

 コメントありがとうございます。

「やはりasと定型、ガチンコで向き合うと両者がキツイと思うのです。ましてやご夫婦や親子という関係性は、延々日々の持続ですから、つい感情的な距離がとれなくなりますよね。」 

 私たちの場合昔のようなガチンコ、そして絶望、という関係はもうなくなりましたが、別の意味でガチンコにこだわっているように思います。それは、

「自分に余裕を持てるように、見つめすぎない、求めすぎない、追求しすぎない、とブレーキを意識する」

 と書いて下さったような「適度な距離をとりながら」の関係を真面目に追求する、みたいな感じでしょうか。しかもそのことで欲求不満が生まれず、それなりに満たされる関係という、なんか欲張ったことを考えているようです。知り合いは「諦める」ことの積極的な意味を理解することで乗り越えた、ということを言っていましたが、私も言うならば「適切に求める」ことを理解したいのかも知れません。無いものは求められませんしね。でもあるものは求めたい。その無いものとあるものの関係は定型同士とは当然異なるのでしょうから、その意味で私たち夫婦に個性的な形で、「適切に求める」関係ができたらいいなと思っています。そういううまいバランスが見つかるかどうかは今のところ分かりませんが (^ ^;)ゞ


 FOXさん

 いろいろ教えていただいてありがとうございます。

「 実務的には、パンダさんの方から、「おいしかった?」「楽しかった?」「一緒にいて良かった?」などと問いかけて、それに対して返事をもらう、という形をとった方がコミュニケーションがとれると思うのですが、それでは、パンダさんの物足りなさは埋められないのですかね。」

 ここ、難しいところです。問いかけて返事をもらって、それでおしまい、という感じになるとやっぱりなんか物足りなくなると思います。そこで会話が終了してしまうからです。でもその次にパートナーの方から何かを聞いてくれたり、別の話をしてくれればうれしいですね。一緒に会話を楽しむ、という感じになってきますし。もちろんパートナーとの間でそういうことが全然無いということはありません。ただどちらかというと淡々と話が進む、という感じかな。話ながら思わず一緒に笑ったり、驚いたり、喜んだり、という感情の交流が伴うことはほとんど無い感じがします。そこがアスペと定型のズレの大きな部分かも知れませんし、アスペの人にそういう関係を無理に求めるべきでもないのかも知れません。

 そのあたり、まだまだよく分かっていないです。

パンダさん、

実際の生活では、パンダさんとパートナーさんは、お互いに模索しながら歩み寄ろうとしているのだろうと推測しますが、こちらでのパンダさんの発言を読んでいると、パンダさんはパートナーさんに「コミュニケーション」というだけでなく、「普通の(=自閉圏外同士の)コミュニケーション」を望んでいるように感じられます。

自閉圏内の人は、対人関係における言動を、ライブラリー参照による模倣から始めるのではないかと思います。機械的反射やパターン認識によるものも多いと思います。

それでも、なんらかの「情動」がある日実感としてわかることもあります。しかし、それには数年とか数十年とかかかり、さらに人間の情動は星の数ほどあるでしょうから、最終的にそこに行きつくには、途方もない時間がかかることになります。さらに、ある「情動」が実感としてわかるようになったとしても、それを適切に表出できるかどうかは、また別問題で、そこにも途方もない時間がかかるように思います。

そして、仮にそこまで行き着いたとしても、自閉症的特性は、薄まったように見えてもきっと消えないように思います。

パンダさんにそういうつもりはないのだろうと理解はしていますが、下手するとパンダさんが相手の「自閉症的特性」を消そうとしているように感じられてしまいます(私の認知が弱いせいからだとは思いますが)。

深追いはかえって相手を追い詰めるような気がします。「自閉圏内と自閉圏外のほどよいコミュニケーション」というあたりに落としどころを求められるといいのではないかと思います。

FOXさんの「自閉圏内/自閉圏外」という表現にインスパイアされました。
「自閉圏」という単語は、ひとくくり感というか、病人カテゴリに押し込められたという印象ですね。医療従事者らがその対象を語るときに便利な単語なのだと思いますが。
それを言いたいのではなくて、「自閉圏内/自閉圏外」は、結局相対的なものという捉え方を忘れてはいけないと思うんです。いい例えか分かりませんが、今朝思いついたのは「西と東」。どっちがいいというものではないですし、明らかに逆なのですが「究極の東」みたいなものはないですよね。捉え方として「あなたは私と比較して西にいる」というだけのことです。
「深追いは相手を追い詰める」はその通りと思います。同意のもとでほどほどに。(^^)

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