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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2012年6月

2012年6月28日 (木)

短い感想文?

 今週いっぱい出張中です。
 波打ちながら少しずつ増えてきているアクセス数も先日は1日に1000を超えましたし、このところまた一歩ご覧頂く方が増えているようで驚いています。まあ、この問題に悩んでいらっしゃる方たちが潜在的にそれだけ多いと言うことなのでしょうね。地道に交流の場としてこれからもみなさんと育てていければと思います。どうぞよろしくお願いします。

 今週はかなり久しぶりにパートナーと離れての生活をしているのですが、ここ二日、朝に彼女からメールを送ってもらえて、なんだか嬉しいです。普段だとほんとに必要なときにしかメールを呉れなかったりするので……

 出版社の方からいよいよ「アスペルガーと定型を生きる」の製本が最終段階に入ったという連絡をもらって、楽しみになってきました。嬉しいことに出版社の編集者の方自身がこの本をとても気に入って下さって、ほんとに全力投球という感じで作って下さいました。

 どこまで他の皆さんにとっても意味のある、多少なりともお役に立つものとして受け止めていただけるかは、まだこれから本屋さんに出てみないと分かりませんが、表紙の写真もアスペルガー当事者の繭さんのステキな写真を使わせていただいていて、これは多分手前味噌ではなく、いいものになったと思います。そのうちamazonでも表紙の写真が出るでしょうから、よかったらご覧下さいね(もちろん中身も読んで下さったら嬉しいです!)。

 話題はバタバタ飛びますが、プルーンさんのご質問のコメントと、それに対する定型からはトマトさん、アスペからは玄さんの応答を拝見していて、なんだかすごいなあとひたすら感じ入っていました。お二人の書かれていることもとても考えさせられることですし、そしてまたそういう応答がこの場でできている、ということにも場所の提供者として感激します。

 定型同士の支え合いでもなく、アスペ同士の支え合いでも無く、両者の違いを超えて、あるいは両者の違いをふまえてなお支え合う関係がこれからも少しずつでも育っていけば、どれほど素晴らしいことだろうと思います。

 出張中の短い「感想文」みたいな内容で失礼しました m(_ _)m

2012年6月23日 (土)

愚痴

 昨日パートナーと色々話ながら思ったことなんですけれど、定型って人に慰めてもらいたくて愚痴のように言う言葉が、結構有るんじゃないでしょうか。それも「慰めてほしくて」というふうにはっきり意識して言うだけじゃなくて、ほとんど無意識のうちにそれを求めているような言葉。

 たとえば、「なんかむなしくなっちゃった」とか言えば、「どうしたの?なにがあったの?」とか聞いてそれに応じて慰めてほしいという気持ちがくっついてるし、「俺ってばかで、どうしょうもないね」とか言えば、「いや、そんなことないんじゃない?」と言ってほしかったり、「私の努力が足りなかったんです」といえば「いや、君なりに随分頑張っていたよ」と評価してもらいたかったり……

 もちろん人によってどの程度そういう言葉を使うかは個人差は有るんでしょうけれど、少なくとも自分について考えてみると、意外に無意識にそういう言葉を沢山使って居るなあと思ったんです。で、なんでそう思ったかというと、パートナーと話していてそういう「慰め」的な言葉がまず帰ってこないので、なにか中途半端で満足できない気持ちがそのたびに起こっていたことに気がついたからなんです。

 パートナーが言うには、言ってみれば「口先」で「慰め」の言葉を言ったとしても、それで何か問題が解決するわけではないし、意味がないでしょう、ということです。むしろ「口だけ」の「白々しい言葉」になってしまうんじゃないか、ということなのかと思います。そうじゃなくて、具体的になにか解決策を提案したり、問題点を明確にしたりとかいうことなら、それは話す意味があるけど、という事になるんですね。

 定型の場合はただ愚痴を聞いてほしくて、「ああそう、それはひどいね」とか言ってもらえればそれだけで気持ちが少し楽になったりするところがあったりしますけれど、少なくともパートナーの場合は私に対して愚痴をこぼすと言うことはまずない。ただ聞いてみると職場では意識的に愚痴をこぼすことはあるんだそうです。なぜかというと福祉関係の仕事で担当している人についての愚痴は、それは「あの人はこういうところがあるから、注意して対応しないといけない」とか、「対策を考えなければならない」とか、なんか意味ある情報の交換になるからと言うんです。アスペの方が苦手と言われる「ほうれんそう(報告・連絡・相談)」を意識的にやっているとも言っていました。

 考えてみれば定型が愚痴るときには慰めてほしいという気持ちと、それだけじゃなくて、お互いの今の状態を相手に伝え合う、という意味があって、結局情報の交換をやっているわけです。それでそのときにすぐ何かの対応策が見つからなくても、普段からそうやって情報交換しておくことでいつかふっと解決策が誰かから出てくることもある。別にそのことを意識しながら愚痴っている訳じゃないんだけど、結果としてそういう効果もあるんですよね。だから愚痴は心理的にも実用的にも定型にとってはかなり大事になるんでしょうね。

 つまり、愚痴を言い合える関係というのを定型は結構求める。それは一種の甘えでもあるし、助け合いでもあるし、お互いの絆作りにもなるから、特に自分にとって大事な人との間ではそこは自然に求めるのでしょう。ところが多分アスペの方にとってはそこに意味を感じられないのかなと思う。そうするとここでズレが生じちゃうわけですね。定型にとっては大事な「おもいやり」が成り立たない。アスペにとってはどう答えていいのか分からない、意味の分かんないことを言われて戸惑ったりいらだってしまう。

 なんかそんなことが有るような気がしました。

2012年6月17日 (日)

アスペの方の適職?

 7月に出る「アスペルガーと定型を共に生きる」の本の中でも触れられて居るんですが、実に「意外」な職業がアスペの方たちの少なくとも一部の人には適職なのではないかと思います。それがなんと他人の相談にのったり、他人の世話をしてあげたり、他人が悩んでいる人間関係に適切なアドバイスをする、という仕事です。

 「まさかそんなことあるわけないじゃない」と思われる方もあると思います。定型の目から見れば他人の気持ちを全然理解できなくて、人を傷つけることを平気で言ったり、みんなの話の流れが全然読めなくてまるで浮いてしまったり、というような「人間関係がうまく作れない」というマイナスイメージにどっぷりつかってしまっているのがアスペの方という感じがありますから、それも当然かも知れません。

 でも、何の誇張もなく、上に書いたことは本当にそうだと感じさせられることがあるのです。というのは私のパートナーは福祉関係の仕事をしていて、あるいみものすごくどろどろした人間関係、家族関係に入り込みながら、対象となる人をどうケアしていくかについて適切な判断を下していかなければならない役割を持っています。

 で、今日も散歩しながらいくつかのややこしい人間関係のパターンについて話をしていたんですけれど、それについてこういうタイプの人はこう動く傾向があるからこう対処しなければいけない、ああいうタイプの人はこんな風に考えるからそう対応しなければいけない、と話してくれるんですが、それが実にある意味快刀乱麻、気持ちいいほどによく分かるんですね。で、なるほどそうか!と思わせられる。

 まあ、定型でもそういうの、得意不得意はあるんでしょうけれど、少なくとも私の場合なんかは不得意な方ではないとは思うけれども、でもやっぱりそのどろどろした複雑な関係に気を奪われ、下手をすると巻き込まれて、見えなくなってしまっている部分や見えにくくなってしまっている部分がある。そこを彼女の場合からめとられることなく、あっさりと見抜いて的確に結論を出せるようなのです。

 だから、アスペであると言うことは、共感的関係が作りにくいとか、定型的に見れば人間関係で「困った」ところがあるのだとしても、別の面では定型的な目で見ても、定型の人間も感心してしまうような人間関係の力を発揮するわけですね。アスペと提携の問題を考えるときに、ここもすごく大事なポイントのように思います。

2012年6月15日 (金)

自分をケアする

 少し前、トマトさんがコメントでこんな話を紹介して下さいました。

 「以前に、精神科医に「自閉圏に居る人には、求めたり期待したりすると苦しくなりますから(定型は)、周囲の共通理解を広げることが最重要です。asの人に添う人にこそ心のケアが必要なんですよ」と言われました。」

 アスペと定型と、どちらもお互いの違いを認めながら、ずれて辛い部分は折り合いを付けていく方法を見つけていくこと、それはこのブログの中で繰り返し考えようとしてきたことです。もちろん問題はそんなに簡単ではありません。たとえばここ何回かの私の記事をご覧になって、アスペルガーのFOXさんはこんなことを書いて下さいました

 「パンダさんにそういうつもりはないのだろうと理解はしていますが、下手するとパンダさんが相手の「自閉症的特性」を消そうとしているように感じられてしまいます(私の認知が弱いせいからだとは思いますが)。深追いはかえって相手を追い詰めるような気がします。「自閉圏内と自閉圏外のほどよいコミュニケーション」というあたりに落としどころを求められるといいのではないかと思います。」

 FOXさんが書かれるように、折り合いを付けると言うことは、アスペの方はアスペ的な部分を弱めること、定型の方は定型的な部分を弱めることがひとつの方法なのかも知れません。でもそうすると、FOXさんから見てそうであったように、そのバランスが悪ければ、アスペの方か定型の方か、そのどちらかが一方的に相手にあわせさせられる、ということになる可能性もあります。

 実際、そもそもお互いがお互いの感覚を理解することが難しいところがたくさんあるわけですから、自分が歩み寄った「距離」と相手が歩み寄ってくれている「距離」が同じくらいかどうか、というのはそう簡単には分からないですよね。それこそ行ったり来たりしながら経験を積み重ねて手探りでバランスを探すより無いのでしょう。

 そしていずれにせよそう言う形で折り合いを付けると言うことであれば、どちらも多かれ少なかれ無理をして我慢する部分が出てくるわけですから、それは下手をすると自分の中に不満としてどんどんたまっていってしまうこともあり得ますよね。あるいは傷として残っていくかも知れない。

 だとすれば、そういう自分をケアしながらお互いに折り合いを付けていく、と言うことが必要になることになるのでしょう。トマトさんの紹介して下さった精神科医の意見は、多分そういうことに関係して居るんだろうと思います。ただしその精神科医が語っていないことは、同じ事は多分アスペのがわの方たちにも言えるだろうということです。

 ではそこでどんな自分のケアが必要なのか?どんなケアが有効なのか?そこにもまたアスペと定型でズレが出てくるのでしょうね。定型の場合はその精神科医の方の言うように、回りの定型の人に共感したりして苦労を認めてもらい、あるいは努力を認めてもらうことだったりする。でも多分アスペの側の方の場合は、一人になって自分の気持ちをケアすることではないでしょうか。ちょうど病気になったときに一人になりたいと思われるように。

 
 もちろん、そういうやり方以外にも、もっといい形での折り合いの付け方もあるかも知れないし、その場合はそんなに自分をケアする必要もないようなやり方があるかもしれません。もしそういうのがあればそれはとてもいいですね。まあ一つのやり方で全て解決なんて言うことは無いでしょうから、いろいろ考えていきましょう。

2012年6月11日 (月)

手がかりがもらえない

 昨日の記事の続きのような中身ですが、定型の感覚から言って、アスペの方とのコミュニケーション(こういう言葉でのやりとりは別です)で困惑するのは、やっぱり「手がかりがもらえない」ということじゃないかなと思います。つまり、昨日も書いたみたいに、定型の人間は相手に表現して共有しようとしたり、逆に言えば相手の表現を見て、自分のやり方が適当なのかを判断し、調整しようとするんですよね。

 たとえば先日パートナーを外食に誘ったわけです。で、こちらから積極的に「結構おいしかったね」とか話題を振らないと、あまりその食事についての感想が帰ってこないことが多い気がするし、そういう夕食会が果たして楽しかったのかつまんなかったのか、そういうことについての感想もないわけです。

 そうすると、定型の側(あるいは私の側)から言うと、二つくらい問題が生じてしまいます。ひとつは折角彼女と楽しい時間を過ごそうと思っているのに、結果として楽しかったのかどうかわからなくて、自分のやったことがよかったのかわるかったのか分からず、とても中途半端な気持ちになってしまうと言うことです。そしてもう一つは、その食事についていろいろ感想を言い合ったりすれば、「じゃあ、今度はこう言うところに行ってみようか」とか「またこようね」とか、その次の計画を考えることができるんだけど、それができない。

 これは今までのパートナーとのいろんな会話からの想像でしかないんだけど、もしかするとアスペの方は「一緒に行って文句も言わずに食べて居るんだから、それがマイナスの評価であるはずがない」と思っているのかなとも思います。だからわざわざ相手に言うまでもないとか。

 なんかそのパターン、こういう外食がどうのこうのみたいなことに限らず、たとえば「あなたにとって私は意味があるの?」というような、かなりシビアな問題についても、「こうやって一緒に暮らして居るんだから、意味があるに決まってる」ということは言わずもがなの前提になっていて、いちいち表現してくれない、というところにもつながるような気がするんです。表現してくれない所か、頻繁に不機嫌な(私から見えると)表情をされていたりすると、ますますこちらは落ち込んでしまいます。

 「一緒に暮らしているから意味があるに決まっている」とそう言われれば、ああそうなのか、と思わないでもないんですけど、なんか物足りないんですよね。下手をすれば不安が完全には消えないとか、なにか欲求不満が残るという感じにもなる。かといってそれを表現すると言うことは、たとえば私のパートナーの場合だと、なんだか儀式張ってるとか、形式的なことのように感じて、抵抗感があるみたいですから、あんまり要求もできないし……。

 なんかこの辺は今のところ、どうしていいのかわかんない平行線の所です。

2012年6月10日 (日)

悩みを語る意味

 このところ少し仕事が煮詰まっていて、こちらをゆっくり考えて書く気持ちの余裕が取れませんでした。その中で玄さん、さかなやさん、トマトさん、FOXさんの、アスペや定型からの突っ込んだ鋭いコメントを読ませていただいて、いずれもじっくり議論したい中身のように感じて、ますます書けませんでした。

 今もまだ十分余裕があるわけではないのですが、記事「また寂しい話」に玄さんが下さったコメント

 「僕の考えでは、定型の方は脳内の感情の回路にアンプ(増幅器)が常設されているようですね。自分や他人の感情をぐるぐる回転させて、わずかな感情を瞬時に拡大しているように見えます。ASはこのアンプのスイッチが切れているので、自分や他人の感情を検知しても、それが行動の理由になるほどの音量にならない。スルーされてしまうのだと思っています。」

 から少し書き始めてみたいと思います。

 この喩え、とてもわかりやすくて、思わず「そうそう!」という感じになりました。多分定型の場合はアンプで拡大して表情や声や体の動きという「スピーカー」で大きな「音」で鳴らすことで他の人に知らせるんです。で、他の人もその「音」を体で感じて、共鳴したり、あるいは逆に「嫌な音だなあ」と反発して怒りの感情を持ったりするんです。いずれにしてもなかなか冷静に受け流すことができない。

 ただし、多分玄さんもそういうことを言いたいわけではないと思いますけれど、アスペの方が感情そのものが少ない、というわけではないですよね。ただそれを「外(他人)」に向けて拡大して表現する、というアンプの機能が小さかったり、そのアンプが反応する刺激の範囲が定型とずれているだけで。自分の中では複雑な感情が長く長く渦巻くこともある。例えばFOXさんはコメント

 「死別に関しては、自分と親のことで考えると、誰もがもつように親に対しては複雑な感情を持っておりましたので、親が死んだら自分はどういう気持ちになるのだろう?と想像していました。やはり当時は、その時がこないとわからない、と思っていました。実際に親が死んだとき、私は深い喪失感で悲嘆にくれ、途方に暮れ、長期間、まともに日常生活を営むことさえ困難になりました。その喪失感が薄れるのに数年を要しました。」

 と書いていらっしゃいます。深い感情がないなんていうことはない。

 で、今パートナーと少し話をしていてああなるほどなあと改めて思ったことがあるんですが、定型は自分が落ち込んだときとか、やっぱり人に慰めて欲しい、というような感じを持つことが多いんですよね。もちろん一時的には一人にしておいて欲しいと思うこともあるけど、それも何時までもということでもないし。つまり、自分のしんどい感情をおさめるのに、他人の存在が大切になっているわけです。

 それに対してアスペの方は、パートナーの場合もそうですけど、基本的に自分の中で解決されるのを待たれるようですね。しんどいときには定型の反対に一人になりたいという話が良く聞かれますけど、それもそういうことなのでしょう。当然、自分のしんどさを人にアピールするような「アンプ」の装置は必要がないことになります。

 記事「笑いのツボ」にトマトさんが寄せて下さったコメントに、

 「(冗談やだじゃれが大好きなアスペの友人が)ただ・・・真剣な場面でも、真剣であるべき場面でも、つい茶化すようなジョークを飛ばし、相手を怒らすようなことが多々あったので「とにかく今日は、ダジャレやジョーク禁止ね」と言い聞かせて、施設探しをしていたから、彼は「僕もとても苦労した」と切々と訴えたのです。」

 という話を紹介されていますが、これも上の話にどこかつながる気がします。というのは、このアスペの友人の方の場合、とにかくだじゃれやジョークが好きで「とまらない」感じなんだけど、それは必ずしも「回りと一緒に楽しもう」という感じではない気がするわけです。一番は自分の中で楽しむことに目的がある感じで、だから定型的には状況から言って真面目でなければならないところでそれを禁じられることが苦しくてしょうがない。

 基本的には自分の問題は自分で解決すべきと感じるアスペの方と、他人に訴えて話を聞いてもらったりアドバイスをもらったり慰められたり勇気づけられたりしながら問題を解決したい定型と、そのズレは大きいなあ、と思います。

 だから定型の人はアスペのパートナーの方を「冷たい」と感じたりすることが多くなるのでしょう。「一緒に悩んで助けて欲しい」と感じるところで、「それはあなたの問題なのだから、あなた自身が解決するしかないんだ」という姿勢で対応されるとすれば、自分を切り捨てられたような気持ちになってしまうからです。でも、多分アスペの方からすれば、それは冷たいとか何とかとは全然関係なく、ほんとうに自分の問題を解決できるのは自分しかいないと心から感じられているのではないかと思うんですね。だから正直にそういう姿勢で相手にも臨む。

 「悩みの解決」「感情のやりとり」について、それだけ大きなズレを持っている二人が、それでも一緒に暮らしていくことの意味はどこにあるのか。はたしてそれだけずれている二人が、そういう二人だからこそできる「助け合い」というものはあるのか。考えていくべき大きな問題がその辺にありそうな気がします。

 

2012年6月 2日 (土)

また寂しい話

 記事「さびしいと甘え」にアスペの方々が寄せてくださったいくつものコメントを拝見しながら、う~ん、と考え込んでしまう感じがします。

 一緒にいるか居ないか、ということと、さびしいかさびしくないか、ということはアスペの方たちにとっては直接は結びつかないものと言うことなのですよね?私なんかは子供が小さいころ、仕事で1年間海外に出たときに、行きの飛行機の中で見送りに来た家族のことを思いながら、やっぱり涙が出ましたもん。なんかそういう「別れの悲しみ」とかもないのでしょうか。私のパートナーも別にそのとき泣かなかったみたいだし。子どもは泣いたと言ってたけど。

 逆に長く離れていた後に再会したときに嬉しくて泣いてしまうとか、それもないのかな。私の場合、1年して帰ったとき、なんかちょっとした用事があったらしいけど、空港にも迎えにも来てくれなくて、玄関にもなかなか出てこないし笑顔で「おかえり!」とうれしそうにもされなかったし、涙ももちろん無かったし、とにかく拍子抜けというのか、がっかりというのか、ある程度予想はしていたけれどでも実際そうなってみるとかなりショッキングだったことを思い出します。なんか、自分ってパートナーにとってはどうでもいい存在なんかなあ、といういつもの印象を当時はすごく強めました。

 今はそのことと自分が彼女にとってどうでもいい存在ということとは別のことだ、と頭では分かってきてますけど、でもたとえば自分が死んだ後、彼女はそんなにさびしくはないのかなあとか、そういうことは考えたりしますね。聞いてみたら「それはわからない」という答えでしたけど。

 私の方はもし彼女が先に死んじゃったら、きっと寂しい思いをするんだと思うんです。「それはわからない」じゃなくて、間違いなくそうなると思う。もちろん時間が経てばその思いは段々薄れては行くでしょうけれど、でもまあ1年とか位はほんとに寂しさをかみしめ続けるんじゃないかな。あんまり考えたくもないですけど。で、彼女の方はそうなるかどうかわからない、ということを聞くと、やっぱりそのことがまた寂しく感じてしまうんですね。

 ああ、そういえば子どものころ、夏休みになると母親の実家に結構長期滞在してたんだけど、夏休みも終わりに近づいて帰るときには、やっぱり駅を出る列車の中でずっと泣いてましたね。おばあちゃんやおばさんたちや従兄弟と別れるのがつらくてさびしくて。

 うーん、だからやっぱり定型の多くは「親しい人と一緒にいること」は嬉しいことで、親しい人と離れなければいけない状況は悲しいしさびしいし、つらいことなんですよ。なんでって言われると困るんだけど (^ ^;)ゞ とにかくそう。だからアスペの方たちが一緒にいるかどうかとさびしさとは別の問題、と言われるのがほんとにわかんない。むつかしい。

 なんか、このあたりもいろんな問題につながっていく、すごく大事な問題が隠れてるんだろうという気がしますね。

 

2012年6月 1日 (金)

離婚も結婚も個性

 今日も「アスペルガーと定型を共に生きる:危機から生還した夫婦の対話」の本の校正作業をやっていましたが、発売まであと二ヶ月を切りました。あるご夫婦の対話を中心に作った本ですけれど、ほんとにお二人やお子さん、そして出版社の方の気持ちがこもった本になったなあという気がしています。

 客観的に見てどんな評価になるのかは全然私には分からないわけですけれど、でもそのお二人の体験談から何人かの方たちはきっとご自分の問題について、何かを得てくださるだろう、という確信はあります。ただそれがどれほど広い範囲の方にとってそうなのかはわからなのですけれどもね。

 本の装丁についてもちょっとしたエピソードがあって、前評判もいいのですけれど、早く発売になってそのあたり、いろいろ宣伝したい気分です (^ ^;)ゞ

 改めて全体を読んでみて、言ってみればお二人のこれまでの人生が詰まった本なわけですけれど、一番苦しかったころはもちろんのこと、その前もお二人の人生とアスペと定型というお互いの「個性」の問題は切り離しようもなく結びついていて、そして新しい出発を迎えたこれからもまた、欠かすことの出来ない大事なものとしてお二人にはアスペと定型という問題を共に生きて行かれるんだなあと感じます。

 それは何かマイナスの意味で「抱えている」という感じではないんですよね。もちろんどんな夫婦でも多かれ少なかれ喧嘩するでしょうし(全然しない夫婦も希にあるみたいですけど)、お二人だってアスペと定型のズレがやっぱりからんで喧嘩になることだってこれからもあるんだろうと思います。でもそれはほんとにどんな夫婦だってそれぞれの仕方で喧嘩してるのと同じ事でしょう。そんなことより、お互いのそういう違い、個性の組み合わせをお二人はこれからも大事なものとして一緒に生きて行かれるんだろうなあ、という感じがします。

 
 これまでも繰り返し書いてきたように、アスペと定型夫婦が必ずそういう方向に進むべきだとは私は思いません。やっぱりある意味縁がなくて、あるいはどうしても相性が合わなくて、別れた方がいいカップルだってあるはずです。それは定型同士のカップルだって同じ事。結婚がそれぞれのカップル毎に個性的であるように、離婚するかどうかだってそれぞれのカップル毎に個性的に決めるのが当たり前だと思います。

 じゃあ自分たちはどっちなんだろう?ということを考える上でも、たとえばこの本のお二人の場合と比べてみて考えるということにきっと意味があるだろうと思います。なんか手がかりが得られるんじゃないかな。

 うーん、なんか本の宣伝ばっかりしてますね (^ ^;)ゞ
 もっとしたい気持ちもあるけど、この辺で自制しておきます <(. .)>

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