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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2012年5月21日 (月)

もう一つの世界

 テレビの楽しみ方について玄さんがコメントでこんな事を書かれています。「ASが「各人が必要な部分を抽出して楽しむもの」と捉えているのに対して、定型は「一緒の部分で同じ反応をして、楽しむポイントが同じであることを確認しあうもの」という認識??」

 定型についてはたしかにそういう部分もあるように思うし、それだけじゃなくて、なんとなくみんなばらばらに見ているときもあるような気がします。ただ、アスペの方と比べると「一緒」ということをお互いに確かめて安心している部分は多いのでしょうね。

 ところで「ASが「各人が必要な部分を抽出して楽しむもの」と捉えている」という玄さんの表現の仕方が、アスペの方たちの感覚を僕等が理解するときにかなり大事なんじゃないかなと言う気がするんです。まだうまく説明できなさそうですけれども、やっぱりポイントは「各人が」というところにあって、あくまでもひとりひとりが独立してあるいは別々に楽しむという感覚ですよね。

 もちろん、「たまたま」楽しむところが一緒だった、ということはあるわけだけど、それは言ってみれば偶然で、むしろそれぞれの人で違っていることが当たり前というか自然なこと、という感覚があるわけですよね?で、自分で楽しめるポイントが見つかればそれで十分ということになるのかな。少なくとも玄さんの書き方からはそんなイメージが湧いてきます。

 実際アスペの方にとって他人が同じものを楽しんでいることが全く自分には影響してこないのかどうか、それは私にはよく分かりません。第一いわゆる「自閉性」については「スペクトラム」なわけですから、人によってその度合いの強さもいろいろと考えるべきなのかも知れません。

 いや、そういうことを書きたかったのではないなあ。なんだろう?もうちょっと違うことを書きたかったんです。
 
 そうそう、そういう違いを「自閉性」の強さという言葉で表すのではなく、生き方と価値観の違いとして考えることが大事なような気がしてくるんです。玄さんの書かれている文章を見ていると。あるいは玄さんの表現の仕方と言ってもいいかもしれません。

 つまりこんな感じです。私たちは先天盲の方のことを想像するときに、自分の感じている、体験している世界から「目で見る世界」を引いて残ったものが先天盲の方の世界だという想像の仕方をしてしまいやすいですけど、実際に先天盲の方のお話しを聞いていると全然違うんですね。

 僕等にとっては見えないということは「異常」なことであって、「不便」でしかたがないことです。目をつぶって歩いてみればすぐに実感できます。でも、先天盲の方は目で見なくても、音で感じたり、風で感じたり、もちろん触って感じたり、そういう感覚がものすごく鋭くて、たとえばホテルのドアを開けると、そのドアを開ける音が部屋に反射して帰ってくる音を聞いて、部屋の大きさからベッドなどの位置まで、瞬時に分かってしまう。それが普通の世界で、別に不便も何もないわけです。

 同じように感情を表現したり理解したりする仕組みが定型と異なるアスペの方の場合、定型から見れば「感情を理解できない人」ということになるけど、本当は違う感情の理解の仕方をしているわけですよね。で、生まれてからずっとその世界で生きているわけだから、それこそが自然な世界であるはずです。

 もちろん先天盲の人も困ることがある。それは目の見える人たちとコミュニケーションしなければならないときです。どうしてもずれちゃうし、世の中目が見える人基準で作られているから、先天盲の人には使いづらいことだらけです。同じようにアスペの人にとっても世の中の仕組みはとてもややこしく対応しにくいものになっている。

 だからこそ目の見える人や定型の人から「障がい者」と呼ばれたりするわけですよね。

 でもそのことと、その人にとってごく自然な世界が僕なんかとはちょっと(あるいはだいぶん)違う形で存在して居るんだ、ということは間違いないような気がするんです。その世界に価値を感じていらっしゃるかどうかはいろいろでしょうけれど。で、何となく玄さんの言葉を読んでいると、なんかそういう私たちとは違う、ひとつの自立した世界がそこにある、ということを感じることが多いんですね。まだなんとなくそう感じる、という理解のレベルに留まっていますけれど。それでも私にとってはとても刺激的なことです。 

 

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コメント

パンダさんの「他人が同じものを楽しんでいることが全く自分には影響してこないのかどうか」に関して。僕の感覚では「他人と違うことがデフォルト」ですから、「偶然の一致」に出会うと、意外性とともに強いシンパシーを抱きますね。それ以外は、他人の興味を妨げることなく、互いの異なるセンスを尊重する精神、と言えるかもしれません。
「自閉」という単語も、僕自身がAS・自閉症スペクトラムという概念を知ってから印象がずいぶん変わりました。「自ら閉ざす」と書くので、自主的に表現をしないことを選んでいるかの様に読めますが、全く違うことはご存知と思います。
僕の解釈ですが、情報の「受け止め、保存、呼び出し、加工、表現」のプロセス毎の得意過ぎることや苦手なことに凸凹があり、各プロセスでの方法にもマジョリティとは異なる多様な別回路を使っているかのような人々がいます。彼等の中で特にコミュニケーションや社会性や情報処理に偏りが目立つグループを一緒くたに一つの袋に入れた呼称が「自閉症スペクトラム」なのではないかと捉えています。内容が多様で、特性の重なり具合も様々なので、全体を押し延べると「スペクトラム」態なのは無理もないと思います。
自閉症スペクトラムの人は、環境によっては対人関係などで軋轢が大きくなり日常生活に困る程の状況も生じうる。そういう状況を「医療あるいは公的支援によって改善する」アプローチのターゲットが「アスペルガー『障害』」等と呼ばれるのです。障害ありきでは無いと、申し上げたいのです。
ついでに言うと、私的支援(家庭内や友人関係)の場面では、「特性」の理解は重要ですが、「障害」の単語を強調することはあまり良くないと感じています。

知覚障害との比喩は私もずいぶん考えました。目を閉じたり、耳を塞いだりしてみて、「こんな世界?」と勝手に想像していました。「でもきっと違うよね」ってことも。欠けている感覚と引換えに発達している感覚が私にはないから。そこから先は、『想像』の道が断たれてしまいます。

そしてその「想像のできなさ」というのは健常者どうしでも同じであることにも気づきます。他人の知覚を通して世界を体験するのは所詮無理ですから、まったく違う世界がそこにはある。少なくとも「視点」は同じではあり得ない。するとその相手にとっての「想像のできなさ」に自分をはめ込んで『想像』するに、相手から見た自分こそが、「いわゆるアスペルガー的行動」を取っていることにまで想像が至ってしまいます。

例えば、パンダさんが、

>嘘でもいいから「ああ、ちょっとはさびしかったわよ~」と言うか、あるいは逆に大げさに「何を言ってるの、あんたなんか居なくてどれだけせいせいしたか、のびのびしてたわよ」とふざけて言って笑うか、なんかそういう展開を何となく期待してしまうわけです。

と言うのを、世界が自分の予測どおりにならないとパニクるという「見通しの悪さ」という発達障害的特徴に、鏡の反対側からは見えているはずだというところまで想像してしまいます。

そういう作業をひとつひとつやっていくと、どちらが『障害』なのかどうかをつきとめる可能性は「ふつうは…」という数の論理に頼ることになるのですが、家族という閉じた空間は、その論理が有効に働かないです。メンバーの数が少なすぎて。結局、外の社会で不都合が起きるかどうかにかかっている。だから、「うまく仕事もできてる人は障害とは言えない」っていうような、破綻を診断的特徴にもってくるような医者もいる始末。死んだからを理由に「ああ、あれは病気だったね」というんでは医者じゃないと思うんですがねぇ。

実際、日常において家族と経済と時間、空間(抽象的でやっかいなもの)を共有して一緒に生活すると、「それではうまくいかないに決まってるでしょう、こうやって欲しい」と感じるポイントが多すぎて、衝突や心理ストレスになってたまっていく。

つまり、双方が破滅に向かう行進から出られないレミングみたいになるんですね。そしてその破綻した行動パターンが習い性になっていく。

それで、私はウツになったとき自身が成人用の発達障害の検査を受けることにしたんです。自分が少数派の認知パターンを採用しているかどうかを自分で判断することは、原理的に無理ですから。結果が「白」と出て一瞬ホッとしても、医師からの結果の伝え方にも幾通りかの可能性があることを知ると結局、不可知のことだったんですよ。カサンドラにとってもね。

原因が遺伝子であるにせよ生育環境であるにせよ親のせいだと私は思うのです。「環境か、遺伝か」のはもう問う必要がない。負の連鎖を断ち切ることが前を向いて生きることなんですが、、、正負の判断もできかねるときがあるんだなぁ。誠実であろうとすればするほどに。

玄さん

「自閉症スペクトラムの人は、環境によっては対人関係などで軋轢が大きくなり日常生活に困る程の状況も生じうる。そういう状況を「医療あるいは公的支援によって改善する」アプローチのターゲットが「アスペルガー『障害』」等と呼ばれるのです。障害ありきでは無いと、申し上げたいのです。ついでに言うと、私的支援(家庭内や友人関係)の場面では、「特性」の理解は重要ですが、「障害」の単語を強調することはあまり良くない」

 これ、理解できる範囲では完全に同意です。「障がい」が先に立つのはやっぱり変だし、状況によってそれが目立つ場合、それなりに工夫が必要な場合があるというのが本当だろうと思います。だから家族という親密な個性的な関係が大事な部分では特に「障がい」という偏った見方から出発してしまうと、変に身動きが取れなくなってよくないと思います。それはお互いにある種の個性として「アスペ的な部分」と「定型的な部分」があること、その間には大きなズレがあって、それがお互いを苦しめることがあることを理解する、ということとは別のことだと思うんですね。

 あと「「自ら閉ざす」と書くので、自主的に表現をしないことを選んでいるかの様に読めますが、全く違うことはご存知と思います。」と書いて下さった部分なんですが、もうちょっと説明していただけますか?ちょっと理解に自信がないので……


joさん

「>嘘でもいいから「ああ、ちょっとはさびしかったわよ~」と言うか、あるいは逆に大げさに「何を言ってるの、あんたなんか居なくてどれだけせいせいしたか、のびのびしてたわよ」とふざけて言って笑うか、なんかそういう展開を何となく期待してしまうわけです。

と言うのを、世界が自分の予測どおりにならないとパニクるという「見通しの悪さ」という発達障害的特徴に、鏡の反対側からは見えているはずだというところまで想像してしまいます。」

 と書かれているところ、joさんの基本的な視点の一つなんだろうと思うんですが、そして、「相対化してみる」ことの重要性については全く同感なんですが、ただ「無限の相対化」という話になると気持ちがついて行かなくなってしまいます。なんというか何でもありの世界に落ち込んでしまう。

 もちろんほんとに世界が何でもありなんだったらそれで正しいと思うんですけど、実際そんなことはなくて、僕等むちゃくちゃ制約のかかった世界の中で不自由に暮らしていて、ただその不自由を気にしてないか不自由を利用して一定程度自由を作っているか、そんなようなものだと思うんです。上の例についてもやっぱりそんな風にあっさり相対化できるかなあと感じてしまうところの一つです。

 道徳的な判断にしても、しょせん相対的だと言うところがあって、何が正しいなんて絶対的に決まるものではないんだけど、でも僕等の体がどんな道徳でも受け入れられるかというとそうじゃないんですよね。どうしても抵抗感のあるものもある。皆さんはどう感じるか分かんないけど、インカのあの生け贄の儀式なんて、当時の彼らにとっては神聖そのもので、当の生け贄になる人も誇り高く死んでいったのかも知れないんですけど、私は生理的に受け付けないんです。そういうの。もちろん彼らのその行為を非難したり止めたりはできないんだけど、自分の生きている社会でそれを許す気にはどうしてもなれない。

 なんかそういうところでも人間ってとっても「不自由」で「融通が利かなく」て、つまりは無限の相対化なんて最初からできないようにできちゃってるんだと思うんですね。問題はそういう不自由さをたっぷり背負って、その上でどううまく生きていくか、でしかないと思うし、そのときにある範囲での相対化が意味を持つんだという気がします。joさんのコメントを拝見していて、ときどき引っかかってしまうポイントです。

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