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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2012年5月

2012年5月28日 (月)

「さびしい」と「甘え」

 パートナーと話をしていて、またいろいろ考えさせられることがありました。ああ、そう言えば最近はパートナーの方から問題を投げかけてくることもしばしばになりましたし、一旦話し出すと2時間3時間というのも珍しくありません。話を成り立たせることそれ自体が大変だった時期を思えば、本当に変わったものです。

 今日書いてみようかなと思ったのは「さびしい」という言葉の感覚について彼女と私(アスペと定型?)の間にあるズレについてです。

 先日、宿泊を伴う外出をすることがあって、パートナーは自分の仕事もあるし、夜は一人でお留守番だったんですが、帰宅後に私が「僕がいなくて、さぞさびしかったでしょう」と、まあ冗談半分本気半分の軽口を叩いていたんですね。そうしたら彼女は「全然さびしくなかった」と言うわけです。まあそう言われるかなあとも思ってはいましたが、でもやっぱり現実にそう言われるとなんとなくこっちが寂しさを覚えます。例の「自分なんて居ても居なくてもどっちでもいい存在なんかなあ」と感じてしまうからですね。

 嘘でもいいから(というとアスペの方は不信感をもたれるかも知れないけど)「ああ、ちょっとはさびしかったわよ~」と言うか、あるいは逆に大げさに「何を言ってるの、あんたなんか居なくてどれだけせいせいしたか、のびのびしてたわよ」とふざけて言って笑うか、なんかそういう展開を何となく期待してしまうわけです。

 で、そういう話をしていたら、彼女が言うには「だって、どこで何をしているのかわかってるんだから、別に不安もないし」という訳です。うーん、それじゃあどこで何してるかわかっていれば、全然一緒じゃなくても平気なんだろうか?会えなくて寂しいという気持ちはおこらないんだろうか?とそこで私は悩んでしまう。

 彼女の方はもし逆の立場だったとしたら、「さびしかった」といわれることはとてもしんどいことだと言います。これがまたすぐにはわかんなくて、何のことだろうと頭の中は?マークだったんですが、話を聞いてみると「さびしかった」と言われると、「出かけてはいけなかったのだ、ずっと側に居なければいけなかったのだ」と責められ、「今後は外出してはいけない」と制約をかけられているような、そんな気持ちになるんだといいます。それを聞いて私はびっくり。

 その中間はないの?と聞きました。別に相手の外出を否定することはないんだけど、でもさびしかったと言うことで相手を求めている気持ちを伝える。そういう「さびしかった」はないのかと聞くんですが、どうもこの辺りが感覚がずれるようで、お互いにうまく話が通じ合いません。

 なんだろう?もしかすると「甘える」という感覚になんかうまく通じ合わないところがあるのかも知れません。

2012年5月21日 (月)

もう一つの世界

 テレビの楽しみ方について玄さんがコメントでこんな事を書かれています。「ASが「各人が必要な部分を抽出して楽しむもの」と捉えているのに対して、定型は「一緒の部分で同じ反応をして、楽しむポイントが同じであることを確認しあうもの」という認識??」

 定型についてはたしかにそういう部分もあるように思うし、それだけじゃなくて、なんとなくみんなばらばらに見ているときもあるような気がします。ただ、アスペの方と比べると「一緒」ということをお互いに確かめて安心している部分は多いのでしょうね。

 ところで「ASが「各人が必要な部分を抽出して楽しむもの」と捉えている」という玄さんの表現の仕方が、アスペの方たちの感覚を僕等が理解するときにかなり大事なんじゃないかなと言う気がするんです。まだうまく説明できなさそうですけれども、やっぱりポイントは「各人が」というところにあって、あくまでもひとりひとりが独立してあるいは別々に楽しむという感覚ですよね。

 もちろん、「たまたま」楽しむところが一緒だった、ということはあるわけだけど、それは言ってみれば偶然で、むしろそれぞれの人で違っていることが当たり前というか自然なこと、という感覚があるわけですよね?で、自分で楽しめるポイントが見つかればそれで十分ということになるのかな。少なくとも玄さんの書き方からはそんなイメージが湧いてきます。

 実際アスペの方にとって他人が同じものを楽しんでいることが全く自分には影響してこないのかどうか、それは私にはよく分かりません。第一いわゆる「自閉性」については「スペクトラム」なわけですから、人によってその度合いの強さもいろいろと考えるべきなのかも知れません。

 いや、そういうことを書きたかったのではないなあ。なんだろう?もうちょっと違うことを書きたかったんです。
 
 そうそう、そういう違いを「自閉性」の強さという言葉で表すのではなく、生き方と価値観の違いとして考えることが大事なような気がしてくるんです。玄さんの書かれている文章を見ていると。あるいは玄さんの表現の仕方と言ってもいいかもしれません。

 つまりこんな感じです。私たちは先天盲の方のことを想像するときに、自分の感じている、体験している世界から「目で見る世界」を引いて残ったものが先天盲の方の世界だという想像の仕方をしてしまいやすいですけど、実際に先天盲の方のお話しを聞いていると全然違うんですね。

 僕等にとっては見えないということは「異常」なことであって、「不便」でしかたがないことです。目をつぶって歩いてみればすぐに実感できます。でも、先天盲の方は目で見なくても、音で感じたり、風で感じたり、もちろん触って感じたり、そういう感覚がものすごく鋭くて、たとえばホテルのドアを開けると、そのドアを開ける音が部屋に反射して帰ってくる音を聞いて、部屋の大きさからベッドなどの位置まで、瞬時に分かってしまう。それが普通の世界で、別に不便も何もないわけです。

 同じように感情を表現したり理解したりする仕組みが定型と異なるアスペの方の場合、定型から見れば「感情を理解できない人」ということになるけど、本当は違う感情の理解の仕方をしているわけですよね。で、生まれてからずっとその世界で生きているわけだから、それこそが自然な世界であるはずです。

 もちろん先天盲の人も困ることがある。それは目の見える人たちとコミュニケーションしなければならないときです。どうしてもずれちゃうし、世の中目が見える人基準で作られているから、先天盲の人には使いづらいことだらけです。同じようにアスペの人にとっても世の中の仕組みはとてもややこしく対応しにくいものになっている。

 だからこそ目の見える人や定型の人から「障がい者」と呼ばれたりするわけですよね。

 でもそのことと、その人にとってごく自然な世界が僕なんかとはちょっと(あるいはだいぶん)違う形で存在して居るんだ、ということは間違いないような気がするんです。その世界に価値を感じていらっしゃるかどうかはいろいろでしょうけれど。で、何となく玄さんの言葉を読んでいると、なんかそういう私たちとは違う、ひとつの自立した世界がそこにある、ということを感じることが多いんですね。まだなんとなくそう感じる、という理解のレベルに留まっていますけれど。それでも私にとってはとても刺激的なことです。 

 

2012年5月20日 (日)

不機嫌の訳

 今朝、掃除をしながらパートナーが何となく不機嫌だったんですね。で、私はすぐ自分がなにか気に入らないことをしてしまったんだろうかと心配するたちなので、ちょっと緊張しながらパソコンでメールを打っていたらやっぱり来ました。「何やってるの?」と聞いてくるんです。不機嫌そうに。

 で、「メール打ってるんだけど」というと引き続き「誰に?」。で、「○○さんへの返事を書いてるとこ」というとなんだかご機嫌が悪い感じ。別に○○さんだから問題なのではないんですけど。「何か気分を害するようなことあったの?」と私は聞くんだけど、「別に。わからない」というお返事。

 それからしばらくして掃除しながら彼女が突然「あ、何で変えちゃうの?」と怒ったように言うので、吃驚したんですが、私が知らないうちにテレビのリモコンを腕で押してしまったみたいで、チャンネルが変わったんですね。別にわざとやった訳じゃないので、「あ、ごめん、知らないうちに押しちゃったみたい」と言いましたが、「そんなことは分かってる」と言いながらなんだかブリブリしてチャンネルを戻していました。

 なんでそんなに機嫌が悪いんだろう?この間の話し合いが変にひきずっているんだろうか?とか、困ったなあーと思いながらいたんですが、しばらくして掃除を終わってテレビを見ている彼女を見ながら、ふと思いついたことがありました。

 彼女はその番組をすごく見たかったんです。というか、毎週欠かさず見ている番組なんです。ところが(どうしてかは私には分からないけど)掃除と重なってしまったんですね。で、ゆっくり見ることができずにイライラし始めた。ふと見ると私がのんびりパソコンをやっているので、なんかむしゃくしゃした。しかもその番組を途中で急に切り換えられてしまった(たとえ単なる間違いであっても)ので、そのむしゃくしゃがさらに激しくなった、そういうことだったんだ、と思ったんです。

 そう思いついてからなんだかおかしくなってしまって、それでその番組が終わった後で、「何で機嫌が悪かったかわかった」と笑いながら言ったんですね。「なんなのよ」と言うので、上のような説明をして、「そうでしょう?」と聞くと、「そうかもね。」と言い、機嫌はちょっと直っている様子。その後「だから何だって言うのよ」と聞いてきました。私は「いやあ、これまで中々わかんなかった不機嫌の原因がわかって嬉しくてね」と答えたというエピソードです。

 
 今日に限らず、パートナーが機嫌悪そうなとき、こちらから見ていてその理由が分からないだけでなく、本人に聞いても「別に機嫌悪くはない」と言ったり「わからない」といったり、そういうことがとても多いのです。で、私はそれにずっと困惑し続けてきたんだけど、今日はじめてわかった(ように思った)んですね。ある意味非常に単純なことだったわけですけど。

 これからのお互いの関係の調整にとって、今回の「成功」の経験がなんかちょっと生きてくるような気がして、私は嬉しくてにやにやしました。

2012年5月19日 (土)

染みついた「定型」

 昨晩はまたパートナーの言葉でショックを受けてしまうことがありました。私の方からは何でショックを受けたのかをずっと説明し、彼女の方からは何故そういうことを言ったのかを説明し、お互い分からないところを聞き合う、ということが続きました。……と書くと冷静な話し合い、という感じに読めるかも知れませんが、実際はお互いにショックを受けて緊迫した雰囲気で時に相手を責めるような、時にげっそりと落胆するような口調でのやりとりも沢山ありました。

 私はしんどくもなりましたし、途中から気持ちを落ち着かせるためにもソファーに横になって目をつぶりながら話す、というよくやるパターンを昨日もやったのですが、それを見ていて、パートナーは「自分はやっぱりあなたのことをそうやって辛い気持ちにさせてしまうだけの人間なんだ」と言ってまた落ち込むんです。

 数日前に私は彼女のことを「失いたくない存在」と感じていると言っていたので、そのことは感じてもらえないのかというのですが、実感としては自分は人を苦しめるだけの存在で、そんな価値がない人間だと思えると言うんですね。

 たしかにアスペと定型のズレは私たちの間に長い間理由の分からない苦しみを生みだし続けてきましたし、また子どもたちにも深い傷を与えてしまいました。それを「定型の視点」で言えば、彼女のせいになってしまいます。彼女が定型だったらもっとおだやかにすんでいたことが「アスペだから」そうなってしまったのだと。で、彼女はやっぱりその定型の視点で自分を責めるんですね。

 でも、「アスペ」ということは知らなかったとは言え、アスペだからこそ持っている雰囲気とか、そういうものに惹かれて私は彼女と一緒になった部分が大きいわけですし、定型のこの私とアスペのその彼女の間にしか今の子どもは産まれなかったのですから、そういう家族の中で問題が起こったとしても、それは「アスペのせい」ではなくて、「アスペと定型のズレ」を知らず、それにうまく対処できなかったせいのはずです。

 そういうことはこれまでも何度も私は繰り返し言ってきましたし、彼女もそう考えてもらえることはうれしいと何度か口に出しても言ってくれています。そしてズレが生じたときは彼女も一生懸命考えようとしてくれる。

 そうなんだけど、やっぱりどうしてもふかいところで「アスペの自分が悪いんだ」という思いが消えないし、「自分は価値のない人間だ」という気持ちが折に触れて顔を出してくるようなんです。

 正直な話、かく言う私自身も「被害者意識」が完全に消えては居ません。「ああいう対応をされたから自分は苦しんだんだ」とか「あんなやり方をされたから子どもは苦しんだんだ」という、定型的な視点からの思いは(自分が定型だから当たり前なのかも知れませんが)どうしても完全には無くならない。そのことは彼女に対しても正直に話をしています。もちろん、そういう自分を乗り越えたいんだ、ということを伝えながらですけれども。

 その意味ではやっぱりここでも「お互い様」というところがあるのかもしれません。ほんとに定型の視点で価値判断をするということが、体の芯までしみこんでしまって頭でちょっと考えたからそこから自由になれる、というような簡単なものではないし、そういう多数派定型の視点は、定型世界で育ってきたアスペの彼女にも深く深く染みついてしまっている部分があるわけですね。

 あ、そうか。私は今まである意味単純化に「定型には定型の視点」があって「アスペにはアスペの視点」がある、というようなことを考えてきましたけど、ほんとはもっともっと複雑なんですね。なぜなら「アスペの視点」というものは絶対に純粋に作られていない。常に多数派の定型に取り囲まれて、その多数派の世界になんとか順応しようとする努力の中で「アスペ的な性格を持った定型的な視点」として作られていくはずです。その意味で、もう出発点から「平等な、対等な関係」なんていうものはないといっていい。最初からアスペにとっても定型有利に視点が作られてしまっているわけです。

 そういうすごいややこしさを含みながら、どう「対等」に、あるいは「お互いが自分に素直に自然に」生きながら関係を作っていけるのか。そういう問題にこれからも取り組んでいかないといけないんだなあ。

2012年5月18日 (金)

笑いのツボ

 一つ仕事を終えてはふーっとため息をついて休み、また少し力を貯めて次の仕事に取りかかる、という感じの日々を送っています。一日にいくつでも並行して仕事を切り換えながら進めていたころとはやっぱり違いますね。本来の私は今のようなテンポの方が合って居るんだと思うんですが (^ ^;)ゞ

 パートナーとやりとりしていて、「冗談」というのがなかなかお互いに難しいなあと思います。こっちはユーモアのつもりで言ったことで気分を非常に害されてしまったり、パートナーが気楽に言った言葉にこっちが傷ついてしまったり。

 アスペの方は「常に文字通りに理解する」とよく言われますが、もしそうだとするとそもそも「冗談」は一切成り立たないことになります。だって「冗談」っていうのは「本気」でないことを言うわけで、でもほんのちょっと本気も混じってたりするっこともあったりなかったり、その微妙なズレや曖昧さを楽しむわけですからね。「文字どおり」の世界しか無ければ通用しないことになります。

 ただ、ほんとにそんなに単純なのかなとは思うんです。だってアスペの方だって意外に冗談ぽいことを言うことがあるような気がするし……具体例を今すぐ思いつかないので説得力が無いんですが (^ ^;)ゞ


 いずれにせよ、仮にアスペ的冗談があったとしても、定型的冗談とはその「ツボ」がすごく違う場合が多いんでしょうね。ああそういえばテレビを見ていてパートナーが面白い場面で「ツボにはまった」と笑い続けることがたまにあります。その場合は私もちょっと面白く感じていたりしているので、全然重ならないわけではないと思うんですが。

 あと、私の場合はそうやって彼女が楽しそうに笑っているのを見ると、こちらも笑いたくなるし、なんかほんわかと幸せな気分になるんですが、その逆はどうなんでしょう?ないとも断言できないけど、やっぱり少ないとは言えると思います。そこは定型的には残念というか、悲しいところですね。もっともアスペの方でも人によっていろいろかもしれませんけれど。

 定型にとっては「冗談」は人間関係の潤滑油みたいなもんですから、いい関係作りには欠かせないもののように思いますし、だからこそ、そこにズレがあったりすると、関係がぎくしゃくしてしまいますね。

 それがどういうズレなのか、なんか今の私にはわかりません。大きな謎の壁として立ちはだかっている感じです。みなさんはどう感じられるのでしょう。

 

2012年5月12日 (土)

え?なんで怒られるの?

 先日夕食のときのことです。パートナーと一緒に夕食のおかずやご飯をテーブルに並べていました。ご飯茶碗はパートナーがそれぞれの場所に置きました。それで並べ終わって食べ始めようかなというときになって、パートナーが「これ間違ってるじゃない」とご飯茶碗の場所を入れ替えました。つまり私の所にパートナーのものが、パートナーの所に私のものが置いてあったのです。

 そこでまた不思議に思ったのが「これ間違ってるじゃない」と言ったときの彼女の言い方なんですね。上に書いたとおり、間違ったのは私ではなくてパートナー自身でした。ところが私の耳にはその言い方が、私が間違ったことを責めているような口調に聞こえたのです。言葉としても「あ、間違っちゃった」ではなく「これ間違ってるじゃない」でしたし、うまく書けませんけれどイントネーションもなんか他人を責めるときのようなイントネーションに聞こえるんです。

 で、念のために「これ、僕が置いたんじゃないよね」と確かめると、パートナーはそれはちゃんと分かっています。自分が間違えたと思っている。だから私を責めるつもりはもちろんない訳なんです。ところが定型の私が聞くと(ということだと思うんですが)なんだか私が責められているように聞こえてしまう。

 で、そういうようなことは今回が初めてのことではなく、時々あるんですね。「あれ?なんで僕が責められて居るんだろう?」と感じてしまうようなことが。しかも聞いてみると彼女に少なくとも意識的にはそのつもりはなかったりする。


 よく分からないんですが、もしかするとパートナーは自分の失敗を自分で責めるようにしてその言葉を自分に向けて言っているのかも知れません。ある意味独り言のように。でも、仮に定型がそんな風に独り言で自分を責めるときは、回りに人がいる場合には誤解をされないように「もう、私ってだめね」とか、なんか言葉を付けたりすることが多いように思えます。でもそれはないので、周囲が責められているように感じられてしまう。

 もしそうだとすれば、そういう仕組みがわからない定型の方はそんな風に自分が責められたように言われて怒りだすかもしれないし、逆にアスペの方はなんで自分が自分の失敗を自分で怒っているのに相手が怒り出すのかが分からなくて喧嘩になる、ということも有りそうな気がします。

 なんか細かいところでこういうことがわりと良くあることで、ひとつひとつは小さな事に思えても、たまってくると意外と気分を害したりしやすい問題なので、一体どういうことなのか、どういうズレがあるのか、これからも気をつけて見て考えてみたいなと思っています。

2012年5月 9日 (水)

砕かれた鏡

 久しぶりに三日連続の記事です (^ ^;)ゞ

 Glassfishさんからパンダ夫妻に壮絶な時期があったというのは想像できない、というようなことを書いていただいて、うーん、確かにあの頃のことを思えば今はまるで別世界だなあと自分でも感じます。でもたしかに、そのころは「死」というものさえすごく身近なものだったのは間違いありません。しかも家族全員そうだったとなれば、やっぱり壮絶ですよね。

 何でそれを「乗り越える」ことになったのかといえば、はっきりとは自分でも分からないんですけれど、すくなくとも「自分が努力したから」とか、そう言うことではなかったと思います。むしろ逆で、全ての努力が行き詰まって、ある意味で自分が崩壊してしまった、それまで必死で守っていた自分が壊れてしまった、そこが始まりだったと思えるんです。

 もちろん、そのバラバラに崩壊した自分を少しずつ立て直していき、パートナーとの関係を作り直していく時には努力はしていますけれど、努力が先にあったのではないですね。

 ああ、思い出しました。その自分が壊れてしまって、少しずつ自分を拾い集めていた時期に、たしか「こなごなに砕かれた鏡にも、新しい景色が映される」という、「千と千尋」のエンディングのフレーズが身に染みていましたね。あの歌詞はいいですね。


 それで、今そのことに関連して思うのは、パートナーにとってこの私の立て直しの過程というのは、どんなふうに感じられ、彼女にとってどういう意味があったんだろうかと言うことです。もちろん私の立て直しというのは彼女との関係の立て直しと決して切り離せないものでしたけれども、というか、私にとってはそれそのものと言える位のものでしたけれども、それが彼女にとってはどういう受け止め方、感じ方をされていたんでしょう。私は自分自身が文字どおり一度崩壊した、という感覚なんだけれど、彼女はそのあたりどうなんでしょう。なんか少し違う気もします。

 その辺もなんか難しいです。今の私にはよくわかりません。何となく違いがあるんだろうなと思えるくらいで。でもその違いにはきっと大きな、大切な意味があるんだろう、と言う気がします。別にあせることもありませんし、ゆっくりと考えていきたいことです。

 

2012年5月 8日 (火)

対等って何?

 このところ私にとってはハードな緊張を強いられる仕事があって、そのほかにもいくつかやることが重なっていたものですから、記事を書く気持ちの余裕も少なくなっていましたし、昔と違って今はそういうときは無理をしない、という姿勢になったもので、ますます書かないままという状態が多くなりました。

 とりあえず、その一番緊張する仕事が無事一段落したので、気持ちに余裕ができたら昨日に引き続いて何かを書いてみたくなりました。といってもはっきりと何を書きたい、というものが最初から有る訳じゃないんですが(^ ^;)ゞ


 もともと自分自身の気持ちの整理のために始めたブログですが、その後一年と5ヶ月くらいを経過して、読みに来てくださる方、読んでくださる頁数は増えたり減ったりしながらも、全体としては少しずつ着実に増えてきています。しかもときおりコメントにこのブログで助かっている、みたいなことまで書いてくださる方があって、自分本位でやっているパンダとしてはなんだか申し訳ないような気恥ずかしい思いにもなります。

 一体どんなふうにお役に立っているのかも、それぞれの方でいろいろなようです。ただ一つ共通して言えることは、アスペも定型も両方の立場の人がいろんな意見や情報を交わして、かなり「対等」な感じでやりとりできる場になっていることが、それぞれの方にとって参考になるということのようですね。それは私としても本当に嬉しいことです。

 対等って、でもなかなか難しいんですよね。たとえば能力ということを考えたって、「この人なんでこんなに頭いいんだろう」とか、そういうことありますよね?私はあるんですが、そうするとその意味では対等なんてあり得ない感じがする。性格にしたって何でこの人こんなに性格がいいんだろう、とか思うと、全然太刀打ちする気持ちも起こらないくらいだったりする。対等なんてとんでもないという感じ。

 そういう面から見ると、対等って、ほとんどあり得ないことのように思えてきます。

 それなのに(?)、でもこのブログでのコメントの遣り取りとか見ていても、アスペと定型の方のやりとりはやっぱり対等に感じられたりする。そのときの対等って能力がどうのこうのとか、そういうこととはきっとちょっと違うんだろうと思います。

 なんなのかなあ。一つちょっと思うのは、能力とか関係なしに、お互いに真面目に相手の言うことをきいたり、真面目に答えたり、そういうのはなんか対等な感じ、という風に思えます。適当にあしらったり相手をバカにしたりとかわざと傷つけようとしたりしないで。

 そうすると、たとえば相手の人が「できない」とか「きづかない」ことについて、一方的に気遣ってお互いの関係を保ったりするのは、これは対等な関係になるんでしょうか?まあ、お互いにそれをやりあっているのなら、バランスが取れていると言えるでしょうから、対等かも知れないですね。でももしほんとに一方的な場合は対等とは言えない感じがする。

 じゃあ何が何でも対等な関係じゃなきゃいけないのか、と考え出すと、これもまたちょっと難しい感じがする。それぞれの「能力」でできることをやって、その「できること」がアンバランスがあっても、お互いにそれがそれほど苦にならなくて、関係がうまくいくならそれはそれでいいのかもしれないし。どっちかが一方的に損をしてとか、力で押さえつけられて、というのは嫌ですけどね。そうじゃない場合。

 うーんと、つまり人によってできることは違うんだし、いろんな「能力」だってそれぞれに「上下」があるんだから、そこを基準に「対等な関係」考えてもあんまり意味が無くて、「そのひとなりにまあ頑張ってるんじゃない?」という感じがお互いに持てればそれで「対等」とか。それならお互いの間に不信感もそんなに湧かないだろうし、逆にそれなりの信頼感が保てそうな気がします。

 ああ、そうかもしれないなあ。またちょっと考えてみよう。

 

2012年5月 7日 (月)

共通の「敵」

 7月に出る「アスペルガーと定型を共に生きる:危機から生還した夫婦の対話」の中のエピソードに、アスペと定型の矛盾が比較的長い間そのご夫婦であまりひどく表立たなかった理由の一つとして、夫婦が「共通の敵」を抱えていた、というお話しがありました。その「敵」と一緒に闘う仲間のような感じになっていたので、それで矛盾が表立たなかったのだろうとおっしゃるのです。(だからそれが無くなったら、命がけの凄絶な夫婦の闘いの日々になっていった)

 ある意味私の所も命がけの凄絶な時期を子どもたちを巻き込んでしまいながら過ごしてきたわけですけれども(親はっても子は育つ!)、その後、アスペと定型のズレという問題をお互いに共有できるようになってからは全く事態が変わりました。そしてそのこともある意味で「共通の敵」を今私たち夫婦が抱えたことになるんじゃないかなと思いました。

 というのは、たとえば昨日も夜に二人で話をして、私は自分の気持ちがある部分で落ち着いてきていることについて、一種の自分の成長として話を始め、そしてパートナーが幸せになることが自分の大きな一つの目標だ、という話で終わって、まあすっきりして寝たんですね。

 そしたら今朝、パートナーは昨晩よく眠れなかったと言うことで、「あれはパンダにとって平和な話だったのか」と聞くんです。「平和な」というニュアンスがよく分かんなくて、「喧嘩の話じゃない、自分としてよかったと感じたことの話だった」と答えたわけですが、彼女の方はその話の中で自分にとって辛いことが前面に出てきて、しんどくて寝られなかったというのです。ああ、またもや激しいずれた会話だったのかとちょっと愕然としました。

 けれども以前と違って、そういうズレがストレートに厳しい言い争いになったりすることは今はまずありません。ちょっとムキになって言い合う感じになることはあるけど、それは喧嘩というのとはまた違うし。で、なんでそうなのかというと、やっぱり「今うまくやりとりがいかないのは、お互いに考え方や感じ方、理解の仕方にズレがあるからだ」と思い合っているからなんです。

 だから、お互いにうまく行かないのは自分のせいでもないし相手のせいでもないし「ズレ」というもののせいだ、というふうに、なんか外に「敵=ズレ」を作って一緒にそれと闘う、それを解決しようと努力する、という姿勢になりやすい状態なんだと思えます。

 まあ、そういう思いは見てると私の方がより強いような感じもします。パートナーの方は頭ではそれはそう考えても、どうしてもいつもの傾向で「結局は自分が悪いんだ」という思いに陥りがちな気がするんですね。もっと前向きに一緒に考えられたらいいのになと、私は思うんですけれど、なかなかそう簡単なことではないようです。

 
 この「外に敵を作る」というやり方は、「仲間同士の結束を高める」ためにあっちこっちで使われる常套手段ですよね。大きく見れば国と国の間だって、自分の国が不安定になると政治家がよくやるのが回りに敵を作って国内を固めようとすることです。小さく見ればいじめる相手を作っていじめる子ども同士が固まるみたいなのもあるし。

 そういうのは私はすごく嫌いなんですけど、でも「ズレ」を敵にするんだったら全然問題ないなあと思います。誰かを一方的に責めるわけではないし、お互いに相手のことを考えながら、「ズレ」を何とかしようとするわけですから。そういう「共通の敵との闘い」では相手を傷つけることはないし、むしろ傷つけてしまったらその闘いは負けになるわけです。それだったら「共通の敵」作りというのはとてもいい方法なんじゃないかと思います。

 

2012年5月 2日 (水)

ブリッコが好き?

 ちょっと(私の能力のなさのせいで)緊張する仕事が続いていましたが、昨日でそれが一段落。ほっとしてどっと疲れが出ました~。有能な人がうらやましい今日この頃です (^ ^;)ゞ

 で、何を書こうと思ってたんだっけなあ?
 あ、そうそう、今作っている本(「アスペルガーと定型を共に生きる:危機から生還した夫婦の対話」)の中に出てくるエピソードで、どなたかのコメントで挙げられた事例とよくつながる話があったんで、それを書こうと思ってたんでした。でもそれ、どの事例だったっけ?(情けな~ (;´д`)トホホ…)

 ま、またそれは思い出したらのことにして……
 
 アスペ当事者のさかなやさんがコメントに

「でも、好きな人と一緒にいることは楽しいんですよ。趣味の話だけで一日終わっても満足なんです。黙って一緒にいるだけでもいい。でも、いろんなことを話せないと、定型さんは満足しないんでしょうか。」

 と書かれています。これね、ほんとに言われないと分からない。いや、定型でも「黙って二人で寄り添っている」みたいにスキンシップ付きとかでそういうのあったりすると思いますけど、さかなやさんが書かれているのは多分そうじゃないですよね。ほんとにただ一緒にいる「だけ」のことだったり。

 で、しかも私から見て表情は特に「うれしそう」には見えない。「嫌そう」には見えないんですけど。もちろん(?)見つめ合って「にっこり」ということもない。
 
 この間、その辺の話をパートナーとしていたら、彼女は「要するにあなたはブリッコみたいなのが好きなわけだよね」とか言われました (*o*) なんか嬉しそうににこにこして近づいてくるのはブリッコなんですかね?彼女のイメージの中では。

 そう言われてみると(それを仮にブリッコと言うなら)、定型の世界ってブリッコだらけですよね。みんなニコニコブリッコごっこ。私もしっかりブリッコしています。でも別に相手を騙してやろうと思ってるわけでもないし、ただ楽しい感じの方がいいからなんですけどね。冗談とかも言い合って。たしかにみんな無理してニコニコしすぎだよ、と思うときもあるにはあるけれど。

 


 

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