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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2012年4月

2012年4月25日 (水)

一緒に飲むとうれしい

 以前、パートナーが私のことを本当に好きなのかどうかもう一度じっくり考えてみる、ということを言っていたのですけれど、だいぶ日にちが経って先日「あれ、どうなったの?」と聞いたら、一応答えが出ていました。

 まず最初に「好きということはそうらしい」と言ってしばらくだまっていたので、「で?」と促すと、「ただ、心がときめくとかどきどきするとか、そういうことはない」と答えました。恋人時代はときめいたのかと聞いたら、「それはそうでしょう」ということでした。

 まあ、私の方も彼女を見てどきどきするようなことは今はありませんので (^ ^;)ゞ、その意味では同じようなものなのかも知れません。ただ、明らかに他人とは違うつながりを私は感じますし、一緒にいれば嬉しいですけれど、その辺はとくに「一緒にいること」について、やっぱり彼女の方が淡泊なことは間違いないようです。

 いずれにせよアスペとか定型とかにかかわらず、長年夫婦やって一緒に暮らしていれば、まあだいたいそんなものなのでしょうか。

 もちろんこういう感じになったのは比較的最近のことでしょう。お互いの関係がしんどくてしんどくて、もう離婚を深刻に考えていたつい2,3年前まではとてもじゃないですが、そんなのんびりした関係ではなかったですね。それを考えると、まあよくこのくらいまでは変化してきたものだ、と思います。

 そう言えばこのところコメントで何人かの方が私とパートナーとの関係がステキだと書いて下さっていました。それもびっくりといえばびっくりだったんですが、彼女にそれを伝えたらやっぱり驚いてました。どっちかというと前向きにものを考えるタイプの私は、そう書いて下さる皆さんの気持ちが分からないでありません。

 でもパートナーにしてみれば、今でもズレを抱えまくって、そのほかにもいろいろ問題も抱えていて、しんどい思いをしているということしか頭になかく、基本的にネガティヴにものを考える人なので、特に驚いたようです。先日のウサギさんのコメントも「ふーん」と何か印象深く読んでました。

 そう言えば、以前は夜に飲み物を飲むとき、パートナーは勝手に自分の分だけ入れてひとりで飲んでたんですね。で、私が「ついでに僕も一緒に飲みたいかどうか、聞いて欲しい」ということを言っていたんです。最初の内は「飲みたい人が勝手に入れればいい」という路線が崩れなかったんですが、何度か言ったり、私の方から聞いて入れてあげたりしている内に、彼女の方も聞いてくれるようになって、今はほぼ毎晩、いろいろが一段落した後に「何か飲む?」というのをどっちかからか言うようになっています。

 一緒に飲み物を入れて、それで飲みながら四方山話をする、というわけでもありません。ただお互いに勝手に飲んでいるだけです。でも私にとっては以前と比べて随分大きな変化に感じられます。場所も違うテーブルでだったり、飲んでるものももちろん違うし、話をするわけでもないんだけど、でも「一緒に入れて飲んでる」というだけで「一緒」感覚がぐっと出てくるんです。それがいいんですね。もっともこの感覚をいいと感じるのは私が定型だからでしょうけれど、その辺はパートナーの方もつきあってくれているようです。

 

 

 

 

2012年4月21日 (土)

頭から否定する?

 アスペの方は「仕事モード(他人モード)」と「自分モード」という二つのコミュニケーションの仕方があって、それがとてもはっきり違っている、という話がありました。

 例えば私のパートナーは仕事関係の電話に応対しているときの話し方など、感情の込め方話の合わせ方など、定型的な感覚で聞いていてほとんど違和感がないくらいまでになる(仕事モード)のですが、電話が終わったとたんに表情がすっと変わり、「愛想のない」と感じられるような普段の顔に戻っています(自分モード)。

 彼女がアスペと納得するまでは、「本当は愛想良くできるのに、僕に対して反感や拒絶感を持っているから、ああいう表情にサッと変わるんだ」と私はずっと信じ込んできていたし、それでものすごく辛い思いをしてきたわけです。

 そのことに関係するようなことで、今日またひとつ分かったように思えることがありました。たとえば「今日は暑いねえ」とか、「あのひとの洋服、なんかおかしいね」とか、どんなことでもいいんですけど、パートナーに意見を求めると、断固としてそんなことはあり得ない、とでも言うような否定の言葉が返ってくることがとてもよくあります。

 定型の私としては当然(?)むかっと来たりするわけです。同じ否定するにしても言い方があるだろうと。「そうかもしれないけど、自分はこう思う」とか、「うーん、そうかなあ?」と軽く疑問で返すとか。それを「あなたは何を言ってるのか、客観的な真理はこうに決まってるじゃないか」とでも言うような雰囲気で断固否定するような言い方をする。

 なんでなのか、ずっと不思議だったんですね。そして今日散歩しながらまた同じようなことがあって、話をして分かったのは、彼女にとって私に断言調でそういう言い方をするのは、単に「自分にはそう感じられる」ということを言っているだけであって、それが真理だ、というようなことは全く考えもしていないと言うことでした。つまり断言調に聞こえるのは「自分の感じ方を断言している」だけのことだというわけです。

 じゃあパートナーがそういう言い方しかしない人なのかというと、それはそうじゃなくて、「うーん、私は○○だと思いますけど」みたいなことも言える人な訳です。ところがそれは「仕事モード」での話なんですね。「自分モード」にもどったときはそういう「前振り」というか、「言い訳」はすっ飛ばして、ストレートに個人的な感想を言う。それがあたかも私には私の個人的な感じ方や意見が頭から否定されたように感じてしまうと言うわけです。

 つまり、彼女としては素の自分に戻って話をしてくれているわけです。お客様向けではなく。そうすると私がむかっとしたりする。まあ、そういう仕組みが分かって、ああ、あの言い方は「個人的な意見を言っているつもりに過ぎないんだ」と頭では理解できるようになりましたから、これからはただむかっと来るだけではなくなって、もう少しクッションが入るでしょうけれど、「はあ、なるほどなあ」と思わせられたことでした。

 

2012年4月19日 (木)

アスペに慣れた?

 なんだか最近、パートナーがアスペルガーであることになれてきてしまった、という感じがしたりすることがあります。変な言い方ですね (^ ^;)ゞ

 まあ、一緒に暮らし始めてもう30年近くなるわけですから、そういう相手になれてること自体は当たり前なわけですけど、途中ほんとに大変な状態がずっと続いて、それが「アスペと定型」のズレという視点で理解し直していくことに最近なって、それで「こういうときアスペってどうなの?」「定型はこういうとき何を感じるわけ?」などとお互いに質問しあったり、そう言うやりとりが結構普通になってきて、そう言う意味で「パートナーがアスペルガーであることになれてきた」と感じるのかな。で、そういうのが特に特別な事じゃなくて、普通のことになってきている感じ。

 今でもお互い傷ついたり、声を荒げて言い合ったりすることも無くなってないですけど、一時に比べれば随分減っています。逆に、「あ、ここはお互い違うんだからきをつけなきゃ」と思うところは増えてきているかな。

 もともと若い頃、私が一目惚れしたんですけど、ここ半年くらい、そのころのことを思い出すことが多くなってきていて、改めて良く理由はわかんないけど、好きだなあと思ったりしています。でも嫌なところももちろんあるんですけど。

 そんな感じになってくると、彼女がアスペであると言うことが、それだけで何か重大なこと、決定的なこと、という感じはなくなってきますね。もしかりに誰かが「奥様がアスペルガーでいらっしゃると、いろいろと大変でしょう」とか同情してくれたりしたとすれば、私は「はあ?いや、別に今はそんなことないですけどね」とかえって不思議そうに答えそうな気もします。

 アスペと定型のズレによる問題が無くなっているわけではありません。ただ、そのことについてはお互いに問題だと理解して、少しずつでもどうにかしようという姿勢をお互いに共有しているということなのかな。で、そのことについては割に信頼感があります。

 もちろん、前の記事で書いたことと矛盾しているような感じもします。でもどちらも正直な気持ちです。

2012年4月15日 (日)

定型は何故傷つく?

 パートナーは時々こんな事を言います。自分が思ったとおりのことを話すとなぜかわからないけれど相手を傷つけてしまうことが良くある。だからそれくらいなら話をしないほうがいいと思う。

 たしかに何も話をしなければ「言葉」で相手を傷つけることはないのですが、それじゃあそもそもコミュニケーションが成り立ちません。なんでアスペの側にそのつもりがないのに、定型はしばしばアスペの側の言葉に傷つくのか、その理由が分かれば何か対処法が出てくるかも知れないと考え続けてきました。(もちろんその正反対に、定型にそのつもりがないのに、アスペの人が定型の発言に傷つく場合もあるのでしょうけれど、それは私にはまださらにわからない領域なので、とりあえずこっちのほうについて書きます)。

 今日も、わりと久しぶりに傷つくことがありました。久しぶり、ということは、それだけ減ってきていると言うことではありますけれど。

 どういうことだったかというと、これは良くあることなのですが、パートナーが話をするときに、何か怒っているような、あるいは無愛想な、機嫌が悪いような、そんな話し方に聞こえる場合がよくあります。そういう声のトーンで立て続けにいくつかのことを問われたりすると、なんだかこちらが悪いことをして責められているような気分になってくるんですね。実際に責められるべき事があるとは思えない場面でもです。

 それで、もう少し優しく話してくれない?とこちらは穏やかな、優しい調子で(自分ではそのつもり)話しかけていきます。そうするとどういう言い方をすればいいわけ?と聞き返してくるわけです。大体責めるような言い方をしているつもりもないし、自分には全然わからないから、ということで。

 そこで「たとえば今僕が話しているような話し方とか」と言ってみたんです。そのときです。「じゃあ、こんな言い方をしたらいいわけ?」と彼女がしゃべったしゃべり方が、まるで女の子がしなを作ってこびを売るような、そんな言い方をしてみせるわけです。

 私は会話がとげとげしい雰囲気にならないように、できるだけ明るく楽しそうな口調で話をしようと努力している(し、もともとそういう話し方が好きでもあります)のに、それをまるでこびを売るように表現されてしまったことで、私はとても傷つきました。そしてそれ以上話をする元気が無くなって、離れて自分の仕事を再開したんです。

 そういう私の反応を見ると、以前のパートナーとは違って、また自分が私のことを何か傷つけたんだな、という理解はしてくれるように今はなっています。それでしばらくしてからやってきて、何がどう問題で、どうしたらいいのかを相談に来ては呉れるんですね。

 話をしていてひとつ分かってきたように思うことは、彼女の場合、定型にとっての「こびを売る話し方」と「やさしい話し方」との理解に区別があいまいなところがある、ということでした。それで、私の「優しい話し方」を強調して真似しようとすると「こびを売る話し方」になってしまう。しかもそういう話し方をそういう場面で相手にすることは、相手の真面目な努力をからかったり侮辱したりすることになる、ということもぴんと来ていませんでした。

 ただ、興味深いのは、仕事がらみの電話での会話などでは、パートナーはそれなりに明るくやさしい話し方ができるんですね。それは私から見ても、仕事モードでちょっと無理して頑張ってるな、と感じられる話し方だったりはしますけれど、でも少なくともいやらしくこびを売るような話し方ではない。

 だから彼女も実際の場面では行動としてはこびを売るような話し方と明るい優しい話し方との区別はできているわけです。にもかかわらず、上に書いたような話し合いの時にはああいう表現の仕方になってしまう。

 パートナーに対してその仕事モードの時の話し方を例に挙げて説明をしたときには、彼女は「ああ、そうか」と言う感じでだいぶ納得するところがありそうでした。ただそれは今のところあくまで仕事モードでできることで、とてもしんどいことで、家でまでそれをそのまま要求することは私としても可哀想ですから、なんかうまい方法は無いものかと思うんですけれど。

 で、本題に戻りますが、定型も定型同士の会話の中で、相手の言い方をわざと少し極端にしてまねをしてからかったり、冗談を言って相手を軽く貶めて遊んだりすることがあります。でもそれはやり過ぎると完全に逆効果で対立関係にもなりかねない、そういう微妙なところでのやりとりになっていることがあります。アスペの人は上の例から考えると、その微妙な違いに気づいて調整するのが苦手で、「結果として悪気無くやりすぎてしまう」ということがあるのではないでしょうか。その結果、定型の側は深く傷ついてしまう。

 他にもいろんな場合があるでしょうし、このことについてもどこまで上のような説明でいえるのか、はっきりはわかりませんが、一つの可能性としてそういうこともあるのかなと思いました。

 

2012年4月12日 (木)

被害者意識

 このブログを書き始めた頃、多分何度かそのことについて書いたような気がするんですが、私が何かを話し合おうとすると、パートナーはそれを全てと言っていいくらい、自分が責められていると受け止め、そして被害者のような態度で対応されるので、とても困ったことがありました。

 ふと考えてみると、最近はその点についてはそんなに強く感じることが無くなっているみたいです。ところがそうなってみると、なのかどうかわかりませんが、今度は自分の方に被害者意識が知らず知らずに持ち上がっていることが多いことに気がつくようになりました。

 アスペの方には失礼な内容にもなるかも知れませんし、しかもアスペの方から見れば的外れの感じ方になるような気がするのですが、ここは正直に「自分はこう感じてしまう」ということを大事にして考えていきたいので(それは自分のその感じ方が正しい、という意味ではなくて、なぜかどうしてもそう感じてしまうと言う意味です)、このまま感じるままに書き進めてみます。

 それは、「どうしてこんな当たり前のことが伝わらないんだろう」というような感覚、「何でこんな当然のことを正面から否定されなければならないんだろう」という感覚がどうしてもときどき頭を持ち上げてくると言うことです。以前、玄さんがアスペの方はそういう「普通」とか「当たり前」にどれほど苦しめられていることか、というようなことをアスペルガー当事者の立場から書いていらっしゃいました。それはきっとそうだろうと思います。でもある意味興味深いことに、その同じ言葉で定型は「被害者意識」に陥って苦しんでいる、というところがあるような気がします。

 「当たり前のことが成立しないなんて、ひどいじゃないか」「普通に対応してもらえないなんて不当じゃないか」「なんで自分は<人並み>の扱いをしてもらえないんだ」……そんな被害者意識です。

 これ、相手の人が問題なくできるはずなのにしない、というのならそういう被害者意識を持ってもそれこそ当たり前なんですよね。ところがお互いのズレによって相手にとっては決して当たり前のことではない、と言うときにこの被害者意識はややこしい、やっかいな物になってしまいます。

 だって、自分が文句を言いたくなるのは、自分には当たり前にできる(そう考えられる)ことを相手が「できない」時な訳です。その「できない」ことを「普通じゃない」とか責めて、そして自分を被害者だと感じてしまうわけですから、冷静に考えればひどい考え方だとも言える。それは頭では分かるんだけど、なんか気持ちの上で残ってしまうんですね。そういう感じ方が。

 もちろん、これは定型一般に言えるものかどうかはわかりません。私の性格がすごく関係している可能性もあります。でも、正直やっかいなものとして完全には消えてくれません、今のところは。

 何となく思うんですけれど、「相手と対等」という意識がそこにややこしく絡んできているようにも感じます。私はパートナーとは対等な関係でいたいという思いがやっぱりあって、その「対等」ということの意味が「同じことができる」というようなことに知らず知らずにすり替わっていたりする。 うーん、でもそういう考え方自体、なんか自分が上だという思い上がりの結果なのかなあ。

 なんか、お互いに自分よりもできることを認め合って、それを心から尊敬できるようになればまた違うんでしょうか。ああ、なんかむつかしい…… (^ ^;)ゞ

2012年4月11日 (水)

アドバイスを下さい

 葛藤を経て、夫から「思いやりがないから、自分がなんのために頑張っているのか分からない」と離婚を申し出られ、夫の幸せのためにもと身をひくことにして、夫と別居されたアスペ当事者のyukipomさんからメールを頂きました。その後子どものこともあってか夫から離婚については考え直しているような話があり、すっかり離婚に向けて気持ち等を整理されてつつあったyukipomさんはとても戸惑われたとのことです。そのため、できればみなさんからアドバイスを頂きたいと言うことで、次のような文章を頂きました。


「定型さんにとっての「思いやり」って離婚に繋がるくらいのものだし、やっぱりものすごくウエイトが重いものなのでしょうか?そして、どういう風に振舞ったら思いやろうとしていると感じてもらえるのでしょうか?

自分なりの思いやりは伝わらない事がわかっているので伝わる方法を考えないといけないと思いましたが、旦那さんの事を思いやろうとしていないわけではない事を伝える方法がわかりません。

聞くのが早いのでしょうが聞いてからやるのって定型さんにとって思いやりの行動じゃないんですよね?そのあたりのことを教えていただけたらうれしいです。よろしくお願いします。」


 こういう問題は多分多くのアスペ定型夫婦の間で抱えられていることでしょうし、皆さんからもコメントでお知恵を頂ければ(あるいはちょっとした感想のようなことでもいいと思います)、と思います。私からもどうぞよろしくお願いします。

2012年4月 9日 (月)

お花見

 昨日パートナーと散歩がてらお花見に行ってきました。

 といっても私はこの辺、どこに咲いてたっけなあという感じでわかんなくて、普段から仕事柄よく場所を知っている彼女の後を付いていくだけでした。

 1時間半くらい歩いて、全部で三カ所の桜を見て回りました。そのたびに私は、ああ、ここにも咲いていたっけ、というような感じだったんですが、最後の公園の桜でベンチに腰掛けながら周囲の花を見ていてふと思い出しました。

 パートナーはいつものように、特に「きれいだね」とか「満開にはもうちょっとかな」とか、花を見ながら何かを話しかけるでもなく、ただだまって桜を見ています。で、私がぼそぼそと気がついたことを話したりしている。でもパートナーは別に機嫌が悪いわけではないんですよね。なんとなく楽しんでいる雰囲気で私の横で一人で桜を見ている。

 以前繭さんがそういうことについて解説をして下さいました。それはパートナーとつきあい始めた頃の小さな思い出をとてもよく説明してくれるように感じられました。そのことをふと思い出したんです。

 定型の感覚では折角一緒に景色を楽しみながら、なにか話をしたいところでしょう。もちろん美しさに圧倒されて声も出ないようなこともあるでしょうけれど、それはそれで「言葉にならないねえ」とかくらいは言葉にしたりすると思います。でもアスペの彼女は違う。ただ、自分の知っている、お気に入りの場所に連れて行ってくれて、あとはただ何も言わずに私が桜を楽しむに任せるのです。

 それがアスペ的な「好意」の表し方なんだなあ、ということを、昨日はちょっと感覚的にも実感する思いがしました。そしてパートナーに「これって好意の表し方なんだよね」と言ったら、「そう?」とか言うので、「きれいだねとか、何も言わずにただ見せてくれている」という話をしたら、「きれいかどうか、それはその人その人が感じることで、私がどうこういうことじゃないし」と繭さんと同じようなことを言っていました。でも自分が気に入ったところを見せてくれる、というのはやはり「特別待遇」なわけです。だから「好意なんでしょう」と言うと「ふーん」というような感じで、積極的に否定するでもなく、肯定するでもなく、でもなんとなく「そういうことかな」という雰囲気でした。

 アスペ的な好意は桜の花びらの色のように淡く静かに楽しむべきものなのかも知れませんね。

2012年4月 6日 (金)

機が熟すとき

 お互いの間にアスペと定型のズレがある、ということをお互いが前向きに共有できるには、それができる「機が熟すとき」があるかも知れないと言うことをミドリさんのコメントのお返事に書いたところ、ミドリさんもまた同じような感想をお持ちのようでした

 このブログではみなさんから教えていただいた経験などもふまえながら、自分たちの間の苦しみにはアスペと定型のズレが関わっている、という理解を共有したとき、二人の関係が大きく変わるきっかけになりうる、ということを何度も考えてきました。けれども問題は決して簡単ではなく、たとえば定型の側が最初に気がついて、善意で「あなたはアスペルガーではないのか」と問いかけたとしても、その「善意」がそのまま受け止められることはむしろ少ないかも知れません。逆に「自分を障がい者にしたてて問題を誤魔化そうとしている」「悪いのは全部自分だと言おうとしている」と受け止められるかも知れないし、そうなれば激しい抵抗や怒りにあって、もう二度とその話ができないくらいの雰囲気になるかもしれません。

 私の場合は、義父がかなり強いアスペルガー(または高機能自閉)で、社会的には技術畑で管理的な地位にまで進んだ人ですけれども、私とのコミュニケーションは明らかに難しい人でした。もちろん仲が悪いとかいいとかという話ではありません。その強烈なイメージと対比すれば、私のパートナーはとてもスムーズにコミュニケーションが取れる相手だったので、私は自閉的な傾向は性格的にあるけれど、それは性格の範囲の問題だとずっと思っていました。それで彼女が本を読んで自分から自分はアスペルガーだと思う、と言い始めたときも、本心から「そんなことはないでしょう」と言っていた時期もありました。
 
 つまりうちの場合は本人が自分がアスペだと言い出し、回りが性格的なことでしょうとそれを否定するところから始まって、最終的にお互いが「ああ、やっぱりアスペだね」という意見の一致を見たわけです。そうなるにはそれなりのお互いの厳しい関係の展開や大きな出来事がひとつのきっかけとして働いたことも事実で、そう言う意味で「機が熟していた」のだろうと思うし、それがお互いに反発で終わるのではなく、「そのことを前提に問題に一緒に向き合っていこう」という気持ちを生み出したことになります。

 もちろんそういうお互いの「合意」ができた後も、話し合いですんなり問題が解決していくわけもなく、そもそも話し合いを成り立たせることそれ自体からいろんな問題にぶつかったし、いろんな工夫を経てきているわけですけれども。ここでもそのうちのいくつかは書いてきたと思います。

 
 さて、そんな風に「機が熟して」関係が前向きに変わることもあると同時に、ミドリさんが書かれているように、そもそも「機が熟す必要がない」夫婦もあるのかもしれません。というより、人口の1%とかその前後とかいう推定数を考えれば、むしろ大多数のアスペ定型夫婦がそういう意識を持たずに暮らしている、と考える方がいいのだろうと思います。

 ミドリさんの義理のご両親の場合は、ミドリさんから見て変わっているけれどステキな関係とも見えるようでしたし、うまくいけばそういう関係にもなれるのかも知れません。私の義理の両親の場合は、これは私の見方でパートナーはどう見ているか分かりませんが、それとは逆に非常に冷めた関係であったように思います。これは私の全くの勝手な想像に過ぎないのですが、アスペ定型夫婦にしばしばあるように、義母は人とのコミュニケーションにはもともととても篤い人のように思います。同窓会のつながりも未だに大事にしているし、地域のつながりや在日外国人労働者とのつながりも大事にするようなタイプの人です。当然(?)夫に求めるつながりも大きかったのではないかと思います。けれどもそれが得られることはなかった。

 そして多分、ある悲しい出来事をきっかけにして、完全に気持ちが冷めてしまったように感じられるのです。ただ「離婚」という選択肢はなかったようでした。そして病気に倒れた義父の面倒を長期間最後まで見て見送りました。

 今私が思うのは、「お互いに機が熟する」ということは義理の両親の場合もう当然ないわけですが、義母が「あの苦しさはそういう理由がからんでいたのか」ということを知るということについて「機が熟する」ということがあるのかないのか、ということです。とてもむつかしいことと感じます。なぜならそれは自分の娘がやはりアスペであるということを知ることにもつながりうるからです。そしてそのことが義母にとってプラスの意味を持つことがあるかどうか、私にはわからないからです。だから今の私にはそこは全く触ることのできない部分になっています。そう言う意味では機は熟していないのでしょうね。そしてこれからも機が熟することがあるかどうか、むしろなさそうな気がしています。いいとか悪いとか言う問題とは別にして。

2012年4月 2日 (月)

アスペと定型の共通点発見?

はじめて投稿されるというかものはしさんから、「普通と言うこと」の記事に、なんだかすごく刺激的なコメントを頂きました。かものはしさんご自身もアスペルガー当事者と言うことです。以下、その刺激的なコメントの部分です。

 「「普通は」とか「みんなは」とかは、沢山、言われてきていて、その度になぜ、そんな事がわかるのだろう、なぜそんな自信があるのだろうとずっと不思議に思ってきました。診断されてから、当事者の方の記事を読んでいた時に、自分が多数派側の感覚になったことがありました。教えられたわけでも、研究したわけでも、努力したわけでもないのに、当たり前に、その感覚があり、確かめたわけでもないのに、みんなもそうだという自信みたいなものがありました。とっても不思議な感覚でした。なるほど、みんなには、こういう確かな感覚があるんだなあと思いました。自分の場合だと、その感覚は、当たり前すぎて、「どうして」の説明ができません。適当な言葉がみあたりません。
そうすると「普通は」とかの言葉を使ってしまいそうです。
本当に不思議でした。なぜ「私は」ではなく「みんなは」という感覚になるのか。もちろん、責める気持ちも、集団を頼る気持ちもありません。脳の不思議でしょうか?」

 「普通」とか「みんな」って言い立てるのは、定型の特徴だという印象がありましたけど、かものはしさんはアスペの側からそういう感覚を持たれたんですね。

 「教えられたわけでも、研究したわけでも、努力したわけでもないのに、……確かめたわけでもないのに、みんなもそうだという自信みたいなものがありました」

 これって、定型が自分のことを「普通」とか「多数派」と思うときとほとんど一緒だと思います。「こうするのが普通じゃない」と定型が言うとき、別に調査して本当にそう言う人が多いのかを確かめてなんかいない。ただ、自分がそれまでつきあってきた人にそう言う人がたまたま多かったと言うだけだったりします。それでも本人は結構自信満々に、あたりまえのように「普通」だと主張しちゃうんです(で、それが実は普通でないということが資料で示されたりするとすごいショックを受けたりする)。

 私がすごく興味深く思ったのは、少なくともかものはしさんはそういう感覚を定型と共有されている、ということです。で、なんだろうと考えると、「もちろん、責める気持ちも、集団を頼る気持ちもありません」と書かれているし、上下関係の問題とかともちょっと違いそうです。それよりもしかすると「あ、こういう風に感じるのは自分一人じゃないんだ。同じように感じる人たちがいるんだ」と思って、ある意味で安心したり、自分を受け入れられるようになったりする、ということが関係しているんじゃないでしょうか。「自分一人がこういうことで苦労している訳じゃない」と知ることでちょっとほっとしたり。

 もしアスペの皆さんにもそういう方が多いのであれば、アスペと定型の間にまた一つ、共有できる気持ちの動き方というものが見つかったような気がします。もちろん「こういう風に感じるのは自分一人じゃないんだ」というときの「こういう風な感じ方」の具体的な中身は定型とアスペで全然違ったりはするわけですが、でもそれを他の人たちと共有できたときにそれがプラスの意味を持つというところがアスペと定型で同じということになります。

 みなさんの経験なども伺いながら少し慎重に考えていきたいところですけど、いずれにしても刺激的!

 

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