2017年12月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31            

掲示板最近の話題

フォト

アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

« 夫婦と恋人とセックスと | トップページ | 玄さんと上下関係を語る »

2012年3月19日 (月)

アスペと定型の上下関係

 なんだか自分の中でよくわからなくてもやもやしている問題の一つに、アスペと定型の間に上下関係が生まれることをどう考えたらいいんだろう、ということがあります。

 人って「自分より立場の弱い人には援助しなければならない」という義務感のようなものが多少なりとも備わっているように思います。震災時に多くの方がボランティアに行ったり、義援金その他を送ったりというのもそういうことだし、子供や老人、「障がい」者など体の弱い人に手を貸すのはいいことだ、と考えられるのもそうでしょう。もちろん実際にはしない人が多いから「優先座席」みたいなものを作るわけですけど、でも「優先座席」を作ってでもそういう「援助」はしなければならないと社会的には考えられているわけだし、しない人は暗黙の内に責められているわけです。

 でもこの一見すばらしい関係には難しいところがあって、援助する側は上で援助される側は下だ、という感覚が露骨にか、あるいは知らず知らずにか、紛れ込むことが多いと思えます。

 たとえば今の世の中、基本的に定型に合わせて作られていますから、最初からアスペの人には不利にできています。当然色んな場面でアスペの人の「成績」は悪い。で、その悪い成績の分を定型が「手助けして<あげる>」ということになる。アスペの人は定型に「迷惑」をかけていて、「配慮して<もらう>」ことが必要で、だから負い目を感じなければいけないような構図になっている。

 もちろんそれ以前にアスペについての理解自体が世の中に行き渡っていないですから、まともに手助けしてもらえることすらなく、「できないやつだ」「使い物にならない」等といって排除されたりいじめられたりもするわけです。そうならずに自分の才能で活躍される方もあるけれど、その割合はとても低いのではないでしょうか。

 
 自分自身について反省してみると、昔から子供好きで遊んであげたり世話をしたりもわりとしていたと思いますが、そう言うときはどっちかというと「兄貴肌」だったような気がします。つまりそこには一種の「上下関係」が入っているわけですね。

 学生時代とかはカナータイプの自閉の子供と遊ぶアルバイトをやっていたりしましたが、最初の頃は「こんなこともできないなんてかわいそう」という「上から目線」がありました。この「かわいそう」は、だから自分はそれができるという優越感の裏返しのような所もある。

 そのうちに「こんなに大変な障がいを持ちながらそれでも頑張って生きてるなんてすごい」という「尊敬」が生まれて「それに比べて自分は全然楽して生きてるだけじゃない」と逆に「下から目線」で見る時期がやってきました。上下がひっくり返ったわけですが、どっちにしろ「上下関係」で見てますよね。

 そして随分してから「ああ、この子はこの子の大変さを頑張って生きているし、自分は自分の大変さを自分なりに生きているんだ。その意味では<自分の大変さをそれぞれ生きる仲間>なんだ」という感じがしてきて、一応「上下」ではなくて「平等な仲間」という気持ちも生まれてきました。今でもいろんな「障がい」を抱えて生きている人を見ると「あの人も頑張ってるなあ」という「横から目線」の気持ちが生まれることが多いです。

 でもその「横から目線」というか、平等だという感じというか、それが果たしてどこまで自分の中で自然なものになって「上下」で見る見方を消しているか、と改めて考えると、うーん、と思わざるを得ないんです。

 さかなやさんがコメントで定型の側の「普通」にアスペがどれだけ苦しめられるか、ということを書かれていましたが、パートナーとの関係で、やっぱり定型的な「普通」にしがみついている自分を感じることがしばしばあるんですね。

 いや、自分は定型なんだから、定型としてはそれが「普通」だというのは当然なんですけど、パートナーは違う「普通」を持っている、ということを頭では理解しても感情が付いていかないことがある。自分の方は定型的な「普通」を「我慢」してパートナーに「譲って<あげて>いる」のに、それがどれだけ理解されているんだろうか、どこまで「感謝して<もらえ>ている」んだろうかというような、またもや上下関係で見るような思いが頭をもたげることが正直あるんです。特にジョンキルさんも書いて下さっているように、そのお互いの「普通」のズレが「発達のレベルのズレ」と思えるようなことになると、さらに「上下関係」というような理解になってしまいやすい。

 「相手にあわせて<あげている>」んだ、とか「我慢して<あげている>」んだとか、そういう上から目線の理解の仕方を止めて、自然にお互いに横から目線で普通につきあえるにはどうしたらいいんでしょう?それともむしろ「兄貴肌」を発揮して上から目線を残し続けた方がいいんでしょうか?

 なんかうまく言えませんが、最近そのあたりがモヤモヤしている感じがします。

« 夫婦と恋人とセックスと | トップページ | 玄さんと上下関係を語る »

コメント

パンダさんの兄貴肌、頼もしいです。

ジョンキルさんのメンテナンスという言葉と意味合いが違う使い方かもしれませんが、
定型のひとは細かく部品を分解してメンテナンスができるのに対して、
アスペは簡単には分解ができない部品でできているようにイメージしたりします。
だからとりあえず「まるごと受け入れる」ということをしないと難しいのかな、と。

アスペの人間は「悪いところがあったらはっきり言葉で言ってね」とよく言うと思います。
私も言うし、友達もそうです。
でも定型のひとが繊細に気を遣ってくれて、
でも細かい部品からの話だと、こちらが屁理屈を言ってしまったりしてうまくいかない。
一旦まるごと受け入れたよ、全体はOKなんだよ、と言ってもらえると、
そのあとズバズバ言われても、びっくりするほど素直になれたりもします。

でも、これは自分の性格、わがままですかね?
うまく言えなくてすみません。

すみません追記です。

部分部分で交流できる定型の方が「対等」にできるとしたら、
いちいち「まるごと」になるアスペは、「面倒みてもらう」「理解が足りない」っていうことで、
本題の上下関係と繋がる部分もあるのかなと思います。

ただしその上下関係を感じるかということは、
アスペのひとそれぞれの自己評価と、他者認識。開き直りによって異なると思います。

二つ以上の同質のものがあれば、必ず上下がでてくる。これは生物の本能だと思います。(人間以外の生物の方がもっと明確です。植物だって、同種の個体間では激しい生存競争があります。「世界で一つだけの花」の歌詞にだまされてはいけないと思います。)ただし、何が上で何が下かという「座標軸」は、その場や時で変化するもの。

定型もアスぺも、お互い、自分の土俵にいるときは、上から目線で相手を助けてあれればいいのではないでしょうか。同じ空間にいても、4次元めの軸で違う土俵に同時に立つことは可能ですし。これこそアスぺがいつもやって(やらかして?)いることかもしれませんが。


パンダさんが、私が定型の方に受け入れてもらいやすい表現になるよう定型らしいと思われる軸を意識して書いた、「発達のレベルのズレ」という表現のニュアンスを敏感に察知され、とりあげてくださったこと、改めてすごいなと思いました。定型でも、軸の違いを繊細に受け止められる方もいらっしゃるのだなあ、と感じました。

・・・というように、私自身は、定型社会ではその軸に配慮するよう心掛けてはいるものの、私個人の中では、相当偏った自分の軸での上から目線で生きています。開き直りタイプの見本のような存在かもしれません。そのくせ、人間関係で迷子になった時には、定型の方の助けがないとどうにも立ち行かなくなって、親切に甘えさせていただくことになります。ありがたいことです。

そういうアルバイトがあるんですね〜  それと、上下関係の感覚について、興味深く読みました。思いついたことは、パンダさんと趣旨と全然違っているかもしれないので、あらかじめ済みません。僕は日常生活で、定型の方々の考え方として「上下関係を意識したい、できれば上に立ちたい」という本能的なものがあるように感じています。それに対してASによっては(僕がそうなのですが)上下関係に無頓着という特性の出方がありえます。上昇意識を持ちにくいASや、上下関係の認識が抜けてだと思うのですが、適切な敬語を使わなかったりするASもあるようです。(もちろん、上下関係に厳しいASもいるでしょう。)すべての状況を敬語で通すASがいますが、言葉遣いの上下の使い分けが面倒なのでは?と推測しています。

さて、上下関係はASと定型の間だから、できるのでしょうか?僕は、どんな状況でも人が二人いれば、必ず序列ができると思うのです。(ジョンキルさんも言及されていますね。)それは年齢でも身長でも、何でもいいですし、もちろんその基準によって入れ替わることになります。上下は必ずしも優劣ではなく、「リードする役とフォローする役」の様に役割分担だったりで、補完しあう意識です。ですから、僕は「パートナーは対等」とは考えていません。常にリードとフォローが存在し、場面によって容易に入れ替わる。ASと定型のふたりだったとしても、です。
僕の観察によれば、定型の「普通」の人間関係は、優越的立場がどちらなのかを決めることで成り立つように見えます。ASに対しては、上下関係の確認がうまくいかないので、混乱するとともに違和感を感じつつ下に見る、という印象があります。ASは、混乱を感じとりつつ卑屈になることを強要される?という状況もありえます。
「合わせてあげる」というのは「お互いに工夫しながら」のはずで、上から目線側だけの専売特許ではないと思いますよ。どうでしょうか?

 後は蛇足なのですが、
震災などにふれての援助や、ご老人に席を譲るなどの行為については、それが出来る状態を持ちかつ実行することによって保たれるプライドのようなものが、当たり前にそれを実行させ、受ける側は必要な分を受け取るのに感謝こそすれ卑屈になる必要は無い。そういうのが大事と思えます。。。僕の考えであって、一般的ではないでしょうけど。席を譲らない人の気持ちはわかりませんが、若くてもひどく疲れていて席に座りたいこともあるでしょうし、責めることはないと思います。
ASは人によっては障害者手帳をとる人もいますが、当然、ご老人には席を譲ります。ASは定型の方が興味がなかったりネガティブに思う仕事に抵抗なく取り組めることがあり、そういう場面ではASが上になる可能性があるのはお分かり頂けると思います。多分、ASは上になったことを誇らないでしょうけどね。
必要なことは、ASがその特性に合った職場や環境に出会うことです。

さかなやさん

 「でも細かい部品からの話だと、こちらが屁理屈を言ってしまったりしてうまくいかない。」

 ここの気持ちの動き方、すごく興味があります。なんでへりくつを言いたくなるんでしょう?
 それにしても全体を受け入れるってなかなか大変ですよね。凡人としては。

ジョンキルさん

 「同じ空間にいても、4次元めの軸で違う土俵に同時に立つことは可能ですし。これこそアスぺがいつもやって(やらかして?)いることかもしれませんが。」

 この四次元目の軸って、そこ、もう少し詳しく知りたい!
 というか、そこがなかなかきっと言葉になりにくいんでしょうけれどね。
 なんとか言葉にならないものか。
 絵でもいいですけど。
 あ、もしかして繭さんの写真(http://parantica.blog123.fc2.com/)はそういうものかな?

パンダさま

屁理屈というのは「気持ちの話はあといいから事実から話してくれ」ということなどです。
逆に、事実をしっかり提示してくれるひとが、誠実だと私には思えます。

定型が部品の分解修理だとしたらアスペはOSの修正版インストールってことでどうでしょう?
それが「まるごと」という意味で、部品を全部足した「まるごと」ではないです。

さかなやさんのコメント、わかる気がします。パッチを当てるよりも、全消去してフルインストールした方が気持ちいい、みたいな。それで連想したのが、「話し合うより別れた方がスッキリするでしょ」というフレーズ。いい例えじゃなくて申し訳ないのですが、相手を好きかどうかよりも気持ちの整理をしたい衝動がその瞬間を支配することもあるのかも。余計なこと書きました。。。

パンダさん、

私の「4時限目の軸」って、玄さんのおっしゃる「役割分担」に近い意味だと思います。「定型の方が興味がなかったりネガティブに思う仕事に抵抗なく取り組める」特性を生かして、「みんなが嫌がる仕事をやり抜いたで賞No.1」とかいう軸で活躍できるということですね。
もっとも、自分としては、それが結構楽しいから自然にやっていたりすることだったりして、むしろそういう時は「好きなことだけに集中させてもらえてありがとうございました。そんなに褒めていただいてすんません。」という気持ちだったりします。
そして、私がそういう仕事をこなしている間に、表で花形業務をこなしてくれる人がいます。その人に私のアイディアを伝えることで、その考えを私自身が他の人に話をするよりも100倍も1,000倍も魅力的に表現してくれて、結果的に、私一人では絶対に届かなかったところにまで私の考えを広めてもらえたりするのです。同じ目的に向かっていても、違う価値観の軸で、それぞれ最高に幸せだったりします。そういう軸って、世間一般の価値観を3次元の世界とすれば、それとは別に設定可能だと思うので、あえて4次元という表現を使いましたが、かえってわかりにくくなってしまったようで、申し訳ありません。

そして、そういう独自の軸をその場で見出すことが、常に最大かつ緊急の課題であることは、玄さん同様、私にもあてはまります。

ちなみに、上昇志向の有無は、アスぺとは別の要素で、アスぺにも定型にも、それぞれに強い人と弱い人がいるように思います。

ジョンキルさん

 お書きになっている役割分担の状態が私の思う「理想的な状態」で、それを今の厳しい状況の中で少しでも見つけて広げていくことが喫緊の課題であるわけですね。

 そのような視点を4次元という言葉で表現されたのは面白いなあと思います。既成の単一の価値観を越えて、でもお互いに異なる価値観をそのまま残したまま、お互いにとって有難い新たな評価の組み合わせ次元を作り出していくことをそう表現する。いやあ面白い発想だし、僕も使わせてもらおうかな (^ ^;)

 アスペにも上昇志向の強い人がいるというお話し、ああそうなのか、という気もするし、言われてみればそうだよなあ、という気もするし、いずれにせよちょっと新鮮でした。なぜアスペにも上昇試行の強い人がいるのか、改めて考えてみたい気がします。

さかなやさん

 「屁理屈というのは「気持ちの話はあといいから事実から話してくれ」ということなどです。
逆に、事実をしっかり提示してくれるひとが、誠実だと私には思えます。」

 へりくつをどういう意味で書かれたのかは分かりましたし、それが誠実とどうつながるのかも分かりました。ただ、興味深いのは、そういう感じのことをへりくつとは私は呼ばないなあと思ったことです。というのは私の場合、一見理屈が通っているような言い方をしていながら、実際は論理的でない、自分に都合がいいことを言っているだけの話をへりくつと思っていたからです。だからさかなやさんが挙げて下さった例はへりくつと言うよりも一応筋の通った要求で、ただし、相手や状況によってはその人の気分を害することがあるかもしれない、そんな例に見えます。

 「事実を伝える方が誠実」ということ、たとえば大変な緊急事態の時などは定型にとってもそういう場合があると思います。そんなときにごちゃごちゃ自分の気持ちを語られても早急な対策がとれないですものね。でもそれ以外の時には、気持ちも語ってもらってそれに対して必要があればケアもして、心理的な態勢も立て直して一緒に次のステップに進む、というのが定型が理想とするパターンのようです。考えてみるといかにも定型とアスペのズレの典型例のように思えます。

 

cp2m9害者のブログには「発達障害者は奴隷にならないと生きていけない」と書いてましたし、
私自身は元恋人から「カタワはもっと謙虚になりなさい」などと言われたことがあります。
露骨な態度はなくとも、対等にせっしていたら微妙な態度をとられます。やはり発達はへりくだった態度でひたすら相手を上に立てないと反感を持たれるんだなと感じます。
逆に支援者が「助けてあげなきゃ」というスタンスも私達を下に見てるわけです。それが善意でやってあげようとなるか、悪意で奴隷や侮辱する対象となるかのどちらかです。
どちらにしても私達のプライドはズタズタです。

カタワは現在では差別用語ですが、カタワはカタワです。
鈍くさい発達障害者や知的障害者は定型者の支援なしには生きていけません。
なので、頭の障害者と定型者が対等な関係を築くのは永遠に無理です。
それを発達や知的は受け入れるしかない、それだけです。

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1449293/44550003

この記事へのトラックバック一覧です: アスペと定型の上下関係:

« 夫婦と恋人とセックスと | トップページ | 玄さんと上下関係を語る »

最近のトラックバック

無料ブログはココログ