2017年12月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31            

掲示板最近の話題

フォト

アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

« 2012年2月 | トップページ | 2012年4月 »

2012年3月

2012年3月31日 (土)

「大人数について」byさかなやさん

以下、さかなやさんからいただいたメールです。折角ですので記事の方に載せさせていただきます。

===========================

私は大人数で集まるのが苦手です。
たとえば、正月などで家族が集まるのがつらいです。
両親、兄夫婦、姉夫婦とはそこそこの好意を持ってつきあっているつもりなのですが、
全員そろって7人になると半ばパニックになってしまいます。イライラすることもあります。
仕事の打ち合わせなどでも、よく知っている人がいれば合計4人までは大丈夫ですが、
いろいろ用事が重なって合計5人、6人で、自宅でお茶出しなど加わると、もう限界を超えてなにがなんだかわからない、ということになります。
「そろってお邪魔します」なんて言われると夜逃げしたくなります。
でも、定型のひとは大勢揃うの好きですよね。みんなじゃないのでしょうか? 
大人数の飲み会は、昔から苦手です。パーティーなんて必要がなければ絶対行きません。
仕事上や地域の行事などで仕方ないこともありますが、へとへとになります。

同窓会とか絶対に出ません。
ツイッター、フェイスブックなどが出てきたときに、一応アカウントだけは持っていますが、
同級生とか昔の同僚とか知らないひととか無差別に繋がっていったいなにが楽しいのか、と強い反発を感じました。
群れるのが嫌いというのは以前から言っていたのですが、それは体質的に苦手なことなのだなと思うようになりました。

アスペのひとにはそういった傾向はままあると思われるのですが、
大人数問題、群れる問題を皆さんがどう考え、どのように対応したり回避したりしているのか、
またパートナーの方がどういうふうにお考えになったりパニックになりがちな相手を支えてくださっているのか、興味があります。

大人数はダメだけど1対1なら全く問題なしと私は、深く考えずに思っていますが、
これも友人知人ならいいけれど、結婚するとなると新たな問題がたくさん出てくるということになるのでしょうね。
このあたりは未だに想像もつかない分野です。

2012年3月29日 (木)

普通と言うこと

 コメント欄の議論で「普通」ということが問題になっています。
 普通ってなんなんでしょう?

 平均的な人?
 でもこの世の中平均的な人なんているでしょうか。
 
 コンピューターで顔写真をいじって美人を作る方法というのがあります。
 それは沢山の女性の顔写真を集めてその特徴から平均した顔を作るんです。
 「平均顔」とか言われていたと思います。
 
 で、そういう平均顔に近い人は「美人だね」と言われることになります。
 そうすると「沢山の平均顔とは違う人たち」から作った「平均顔」ですから、
 大部分の人、多数派、マジョリティーは「平均顔」ではないんですね。

 そう考えると、平均顔の人はどこをとっても平均なわけですから、
 逆に言えば個性のない顔、と言うことにもなります。
 どこにも個性のない顔って、珍しいですよね。
 平均って、意外に「稀な人」のことだったりします。

 そんなこと言っても、私たち「普通はね」とよく言いますよね。
 (アスペの方は言わないのかしら?)
 その場合の「普通」というのは「だいたいみんな」みたいな意味があります。
 
 「だいたいみんな」のあとに何が付くか。
 「そうしてる・そう考えてる・そう感じる……」などですよね。
 ではその後は?

 「だから」が付くことが多いのでしょう。「あなたもそうすべきなのです」

 こうなってくると「普通」というのは単に多い少ないの問題ではなくて、
 なんだか道徳的なお説教のにおいがしてきます。
 「普通」=よいこと。「変わってる」=わるいこと。

 ビートたけしが昔このからくりを使って面白い標語を作りました。
 「赤信号、みんなで渡れば怖くない」
 信号無視の悪い人が大勢になることで悪い人じゃ無くなっちゃう。

 
 私は、自分自身が「平均的な人」でもないし、「普通」でもない
 いわゆる「個性派」だと思ってるし思われているから、
 そういう「普通」の考え方は嫌いなんです。

 なんか、勝手にある基準を押しつけられて、自分の個性を
 無視されるような、そんな気持ちになります。
 逆に個性的な人が面白くて好きです。

 でも、その自分が、パートナーとの関係ではついつい
 「普通はね」と言いたくなってしまうんです。
 なんでなんでしょう?
 

 もちろん「普通はこうだから、あなたもそれに従いなさい」
 と言いたいわけではないんです。そういう攻撃的な感じではない。
 むしろ逆に「そんな風に文句言われるけど、普通は……」
 と言い訳のように、おいつめられて防衛的に使うことが多い気がします。
 自分はそんなにメチャクチャなことを言ってるんじゃないんだよ、
 ということを伝えたいという感じもあるなあ。

 だけどやっぱり言われた彼女の側からすると、
 「普通」という言葉が出れば「だからそうすべきだ」と言われている
 と感じやすいような気がします。
 まあ、多分、立場をかえて自分がそう言われたとしても
 そう感じることが多いような気もします。……むつかしい。

 
 それにしてもなんで「普通」って言いたくなるのか。
 やっぱり「多数派」に頼りたい、という気持ちがあるんでしょうか?
 うーん、そうは思いたくないけど、でも完全に否定できるかと言われると
 ちょっと自信がありません。
 
 なんか定型が人と話をするときには、
 たとえ一対一で話をしているときにでも、
 第三者の人、他の人たちはその議論をどう見るだろうか、
 どう考えるだろうかということを、頭の中でどっか考えてるのかも。
 だからその二人の議論の「位置」をときどき確認したくて
 「普通は」という言葉を使いたくなるのかも知れません。
 それは「普通通りにすべきだ」という意味ではなくて。

2012年3月26日 (月)

誉めてくれない

 私がパートナーとの関係でさびしいなあと思うことの一つは「誉めてくれない」ということです。私自身は定型の中でも「誉められて伸びる」というか、「豚もおだてりゃ木に登る」というか (^ ^;)ゞ そういうタイプなので、お世辞とかではなくて誉めてもらえるのはうれしいんですね。で、なんか力になる。

 それに対してパートナーの方は、これは子供時代にずっと否定され続けてきた経験が大きいんじゃないかと思うんですが、「廊下の電気消し忘れている」とか「洗濯物のたたみ方が違ってる」とか、なんかまず文句が出てくるんです。ま、内容的には言われてもしょうがないところもあるんですが、誉めることとのバランスがないというか……

 で、昨日その辺の話をしていたら、誉めるところについては「あなたならそのくらいできても当然でしょう」と思うんだそうです。だからあえて言うこともない。で、豚パンダは木に登れないんですね。

 そういう「誉めてもらえない=認めてもらえない」ところは私としては悲しいんで、そういうとパートナーは自分にはそういうことを言う能力は無いから、それがどうしても必要なんだったら、それができる相手の人を探してもらうしかない、とか言われてしまいます。

 そうすると、外の世界(仕事だの何だの)では「認めてもらえる」ということがあって、それは嬉しいことな訳で、ところがある意味で一番認めて欲しい家でパートナーになかなか「認めてもらえない」ということになってしまう。これ、中々悲しいことで、どう受け止めて対処していったらいいのかなあというのが今の一つの悩みですね。

 ただ、このことはアスペと定型だから生まれるズレの問題なのか、一般に人間関係・夫婦関係の中でありうることなのかと考えると、まあ後者のような気もするし、むつかしいです (^ ^;)ゞ

2012年3月22日 (木)

玄さんと上下関係を語る

 玄さんからまたすごいコメントを頂きました。もう全部引用させていただきながら考えてみます。

「僕は日常生活で、定型の方々の考え方として「上下関係を意識したい、できれば上に立ちたい」という本能的なものがあるように感じています。それに対してASによっては(僕がそうなのですが)上下関係に無頓着という特性の出方がありえます。上昇意識を持ちにくいASや、上下関係の認識が抜けてだと思うのですが、適切な敬語を使わなかったりするASもあるようです。(もちろん、上下関係に厳しいASもいるでしょう。)すべての状況を敬語で通すASがいますが、言葉遣いの上下の使い分けが面倒なのでは?と推測しています。」

 ジョンキルさんの話では植物だってそうだという話もありましたけれど(あ、下に玄さんも書かれていますね)、やっぱり定型ってお猿さんタイプって言うか、集団作ってしかもお互い役割分担とか複雑にしながら生きているから、上下関係とかも作るのが当たり前になってるんでしょうね。だから「できれば上に立ちたい」という本能のようなものを玄さんが感じられたとしても無理はないかなと思います。

 と同時に、私なんかどっちかというと無責任派なのか、上に立つのってめんどくさいから誰かやって~という方です。集団の縛りがきついところはそうもいかないだろうけど、緩ければ下の方でへらへらわりと自由に気楽にやってられるから、そっちの方が好みに合ってるというのか…… (^ ^;)ゞ

 アスペの方はそれに対してやっぱり一匹狼的というのか、猫的というのか(というとまた単純化しすぎとjoさんに怒られますけど (^ ^;)ゞ )、玄さんみたいにそもそも上下関係があんまり気にならない人が多いんじゃないでしょうか。だからおっしゃるように、そもそも敬語なんて必要を感じられていないから苦手なんですよね。

「さて、上下関係はASと定型の間だから、できるのでしょうか?僕は、どんな状況でも人が二人いれば、必ず序列ができると思うのです。(ジョンキルさんも言及されていますね。)それは年齢でも身長でも、何でもいいですし、もちろんその基準によって入れ替わることになります。上下は必ずしも優劣ではなく、「リードする役とフォローする役」の様に役割分担だったりで、補完しあう意識です。ですから、僕は「パートナーは対等」とは考えていません。常にリードとフォローが存在し、場面によって容易に入れ替わる。ASと定型のふたりだったとしても、です。」

 そうですね。序列ができるというか、まあ作るんでしょうね。それがたとえば鼻毛の数の多い少ないとかで社会的には意味無いような「序列」もあれば、スプリンターの足の速さみたいに社会的にすごく価値あるものと見られているものもある。価値あるものならそこに上下があれば「対等」ではなくなるのも分かります。だからおっしゃるようにアスペと定型でも場面によって「対等」でなくなる序列が生まれるのは間違いないと私も思います。いびきの賑やかさではパートナーと「対等」ではないかと私はひそかに思ってはいますけれど (^o^)

「僕の観察によれば、定型の「普通」の人間関係は、優越的立場がどちらなのかを決めることで成り立つように見えます。ASに対しては、上下関係の確認がうまくいかないので、混乱するとともに違和感を感じつつ下に見る、という印象があります。ASは、混乱を感じとりつつ卑屈になることを強要される?という状況もありえます。
「合わせてあげる」というのは「お互いに工夫しながら」のはずで、上から目線側だけの専売特許ではないと思いますよ。どうでしょうか?」

 これ、ナルホドと思いました。特にアスペの方とは上下関係の確認がうまくいかないというあたり。これを読んで思い出すんですけど、たとえば私が社会的に認められてまあ誉められる(「上」と見られる)ような立場に立ったりしたときに、ちょっと恥ずかしい思いもあるけど、まあ嬉しくもあって、そんなときにパートナーにもその喜びを共感して欲しかったりします。でもだいたいは「あ、そう」と言われるくらい、よくて「あ、そう。よかったね」とあっさり言われる位で、「だからどうなの?」という感じなんです。で、私は寂しい思いをするんですが、これも「優越的立場」というものへの感覚の違いが根っこにあるのかもしれないなあと思いました。

 <合わせてあげる>については確かにおっしゃるようにお互いに工夫しながら対等に、という場合もありますね。私が書いたときは一方的に相手に合わせてあげる、というケースをイメージしながら書きましたけど。たしかに横から目線のお互いに<合わせてあげる>はあると思います。

「 後は蛇足なのですが、
震災などにふれての援助や、ご老人に席を譲るなどの行為については、それが出来る状態を持ちかつ実行することによって保たれるプライドのようなものが、当たり前にそれを実行させ、受ける側は必要な分を受け取るのに感謝こそすれ卑屈になる必要は無い。そういうのが大事と思えます。。。僕の考えであって、一般的ではないでしょうけど。席を譲らない人の気持ちはわかりませんが、若くてもひどく疲れていて席に座りたいこともあるでしょうし、責めることはないと思います。」

 この「プライド」というのは優越感とは違うものなのか、その一種なのかというのはちょっと疑問として残りました。受け取る側が卑屈になる必要はない、というのは頭では分かりますし、大事だと思うんですが、実際には卑屈になってしまう場合が多いように思えるのと、あと逆にまれに尊大になるケースもあるかなと思います。若い人は、きっといつも気分的に疲れているんでしょうね。なんかそんな世の中のような気はします。

「ASは人によっては障害者手帳をとる人もいますが、当然、ご老人には席を譲ります。ASは定型の方が興味がなかったりネガティブに思う仕事に抵抗なく取り組めることがあり、そういう場面ではASが上になる可能性があるのはお分かり頂けると思います。多分、ASは上になったことを誇らないでしょうけどね。
必要なことは、ASがその特性に合った職場や環境に出会うことです。」

 そうか!アスペの方は上になっても誇らないんですね!それは定型からすると美徳に見える。なるほど。私が自分のやったことがうまくいったときなんかパートナーに嬉しくて報告すると「それで、誉めて欲しいわけ?」とか言われてがっくりくることが良くあるんですけど、「成功を誇らない」のが当たり前だ、と考えるとそれも分かる感じがしてきます。

 そして最後に書かれていること、理想ですね。それぞれの人が自分に合った世界を切り開いていくことで、この世の中全体も豊かに拡がっていくことになれば、それはステキなことだと思います。そのときは序列があっても色んな序列があって、上下関係が固定化することもないし、上になったり下になったり、リードしたりされたり、色んな関係をみんなで楽しめればいいですね。なんのでこぼこもなくて一律平板、真っ平らというのも考えてみると気持ち悪いことでしょうし。

2012年3月19日 (月)

アスペと定型の上下関係

 なんだか自分の中でよくわからなくてもやもやしている問題の一つに、アスペと定型の間に上下関係が生まれることをどう考えたらいいんだろう、ということがあります。

 人って「自分より立場の弱い人には援助しなければならない」という義務感のようなものが多少なりとも備わっているように思います。震災時に多くの方がボランティアに行ったり、義援金その他を送ったりというのもそういうことだし、子供や老人、「障がい」者など体の弱い人に手を貸すのはいいことだ、と考えられるのもそうでしょう。もちろん実際にはしない人が多いから「優先座席」みたいなものを作るわけですけど、でも「優先座席」を作ってでもそういう「援助」はしなければならないと社会的には考えられているわけだし、しない人は暗黙の内に責められているわけです。

 でもこの一見すばらしい関係には難しいところがあって、援助する側は上で援助される側は下だ、という感覚が露骨にか、あるいは知らず知らずにか、紛れ込むことが多いと思えます。

 たとえば今の世の中、基本的に定型に合わせて作られていますから、最初からアスペの人には不利にできています。当然色んな場面でアスペの人の「成績」は悪い。で、その悪い成績の分を定型が「手助けして<あげる>」ということになる。アスペの人は定型に「迷惑」をかけていて、「配慮して<もらう>」ことが必要で、だから負い目を感じなければいけないような構図になっている。

 もちろんそれ以前にアスペについての理解自体が世の中に行き渡っていないですから、まともに手助けしてもらえることすらなく、「できないやつだ」「使い物にならない」等といって排除されたりいじめられたりもするわけです。そうならずに自分の才能で活躍される方もあるけれど、その割合はとても低いのではないでしょうか。

 
 自分自身について反省してみると、昔から子供好きで遊んであげたり世話をしたりもわりとしていたと思いますが、そう言うときはどっちかというと「兄貴肌」だったような気がします。つまりそこには一種の「上下関係」が入っているわけですね。

 学生時代とかはカナータイプの自閉の子供と遊ぶアルバイトをやっていたりしましたが、最初の頃は「こんなこともできないなんてかわいそう」という「上から目線」がありました。この「かわいそう」は、だから自分はそれができるという優越感の裏返しのような所もある。

 そのうちに「こんなに大変な障がいを持ちながらそれでも頑張って生きてるなんてすごい」という「尊敬」が生まれて「それに比べて自分は全然楽して生きてるだけじゃない」と逆に「下から目線」で見る時期がやってきました。上下がひっくり返ったわけですが、どっちにしろ「上下関係」で見てますよね。

 そして随分してから「ああ、この子はこの子の大変さを頑張って生きているし、自分は自分の大変さを自分なりに生きているんだ。その意味では<自分の大変さをそれぞれ生きる仲間>なんだ」という感じがしてきて、一応「上下」ではなくて「平等な仲間」という気持ちも生まれてきました。今でもいろんな「障がい」を抱えて生きている人を見ると「あの人も頑張ってるなあ」という「横から目線」の気持ちが生まれることが多いです。

 でもその「横から目線」というか、平等だという感じというか、それが果たしてどこまで自分の中で自然なものになって「上下」で見る見方を消しているか、と改めて考えると、うーん、と思わざるを得ないんです。

 さかなやさんがコメントで定型の側の「普通」にアスペがどれだけ苦しめられるか、ということを書かれていましたが、パートナーとの関係で、やっぱり定型的な「普通」にしがみついている自分を感じることがしばしばあるんですね。

 いや、自分は定型なんだから、定型としてはそれが「普通」だというのは当然なんですけど、パートナーは違う「普通」を持っている、ということを頭では理解しても感情が付いていかないことがある。自分の方は定型的な「普通」を「我慢」してパートナーに「譲って<あげて>いる」のに、それがどれだけ理解されているんだろうか、どこまで「感謝して<もらえ>ている」んだろうかというような、またもや上下関係で見るような思いが頭をもたげることが正直あるんです。特にジョンキルさんも書いて下さっているように、そのお互いの「普通」のズレが「発達のレベルのズレ」と思えるようなことになると、さらに「上下関係」というような理解になってしまいやすい。

 「相手にあわせて<あげている>」んだ、とか「我慢して<あげている>」んだとか、そういう上から目線の理解の仕方を止めて、自然にお互いに横から目線で普通につきあえるにはどうしたらいいんでしょう?それともむしろ「兄貴肌」を発揮して上から目線を残し続けた方がいいんでしょうか?

 なんかうまく言えませんが、最近そのあたりがモヤモヤしている感じがします。

2012年3月16日 (金)

夫婦と恋人とセックスと

 結婚前と結婚後でアスペの人の態度ががらっと変わることがある、という話は何度か取り上げてきました。それは定型の方から見れば、あたかも「釣った魚には餌をやらない」とでもうように感じられたりする変化なのですが、アスペの方から見れば、それは「もう結婚という安定した状態に入ったのだから、いろいろお互いに努力して関係を作ったりする恋愛時期の恋人関係とは違って、家族という関係が自然に続くんだ(だから家族としての仕事などは大事になるけれど、夫婦関係を努力して維持するというのはむしろ変で、自然にしていればいい)」というような感覚があるのではないか、と私には理解されました。

 定型にしろアスペにしろ、「家族」というのは、たとえば子供の頃、家庭を維持する為に何か努力する、というようなことはまず無くって、家というのは生まれたときから自然にそこにあって、自分は自然に自分として振る舞っていても、家族の一員でなくなることはないのが普通です。そこは友達関係とは全然違う。友達関係はお互いに努力して相手にあわせたり、相手のために何かをしあったりすることが大事だけれど、家族はそれは「なくても」家族であることに変わりはない。

 もし子供の頃に経験してきた家族のそのイメージをそのまま夫婦関係に持ち込んだとしたら、家族というのはもう何か努力するとかしないとかに関係なく「家族」で、多少ごたごたがあっても「続くこと」が当たり前だし、恋愛時代のように無理して相手に「他人モード(自分が苦手な人付き合いの仕方を、周囲に合わせて一生懸命まねして頑張る)」で接する必要が無く、「自分モード(自分にとって自然な振る舞い方をする)」で気楽にすればいいということになります。

 ところが定型にとっては夫婦というのは恋人関係の直接の延長上にありますから、結婚式を挙げたからと言ってそれが急にがらっと変わるものではなく、むしろ新婚時代は恋人関係以上に熱々になることを期待していたりする。結婚して何年も何十年もすれば、そこまでの「新鮮な関係」は失われていくでしょうけれど、でも年をとっても熱い感じのカップルもあって、それはそれで周囲の定型の人たちからうらやましがられたり賞賛されたりもする。定型にとって「家族の中の夫婦関係」はそういうものだと私は思うのです。

 もしそうなら定型とアスペの間の「結婚」についての見方、「家族」のイメージはある大事な部分でものすごくずれてしまっていることになります。そして少なくとも定型の側から見ると、そのずれは「この結婚に意味があるんだろうか」と苦しむ原因にもなるような、そういう種類の深刻さを含んでいるように思います。ところが逆にその定型の抱える深刻な悩みは、自分は自分なりにちゃんと家族の一員として立派に努力して振る舞っていると感じているアスペの人にとってはおよそ理解しがたいものになるのではないかと、そんなふうに感じられるのです。


 なんかこの「家族」について、自分では今までの中では一番お互いの「ズレ」について整理して理解できたような気がしているのですが、それはジョンキルさんのコメントを読ませていただいて衝撃を受け、なにかこれまで頭の中でもうひとつスッキリしなかったものがパシッと整理されたような感じがしたからです。割と短いコメントなので、そのままこちらにも転載させていただきましょう。

「私もスキンシップは苦手です。
でも、セックスは別です。だって、はじめて他人と本当に関われたという実感を持てた行為でしたもの。若かったあの頃、「私の存在そのものが他の人に受け入れてもらえている。やっとわかった、こんないい方法があったんだ。これさえあれば生きていける」って、真剣に思いましたもの。
でも、それは、私の慣れ親しんだ日常とは別のもの。
そして、結婚って日常生活ですよね。ですから、セックスがなくても一緒にいられる相手が見つかったからこそ、私は結婚したのだと思います。」

 まずひとつ目の衝撃は、スキンシップは苦手、でもセックスは別で「これさえあれば生きていける」とまで思われたということ。私はセックスというのはスキンシップの延長上、その一番濃厚なもの位のイメージだったので、なんか頭がぶっ飛ぶくらい((^ ^;)ゞ)この意見にびっくりしました。しかもセックスが「自分の存在そのものを他人に受け入れてもらえること」という風に感じるのは、私も全くそうなのですが、それは私が定型だからで、アスペの人はそういうことはないのではないか、と勝手に思いこんでいたところがあるからです。(だって、私からすればその前々段階のスキンシップでさえ嫌と思われているのですから)

 そして二つ目の衝撃は、「でも、それは、私の慣れ親しんだ日常とは別のもの。」という形ですぱっと日常から切り離され、で、結婚は日常だから結婚とセックスは結びつかない、という話になっていることです。定型の夫婦でも「倦怠期」には「永のごぶさた」になることがあるでしょうし、今の日本社会では「セックスレス」がすごく増えているらしいですね。でもそれは一種の「社会問題」として新聞に取り上げられたりする。人から聞いた話ですけれど、アメリカなんかだと一週間セックスが無ければそれを離婚の理由にもできるんだとか。それくらい結婚とセックスは密接に結びついていると思っていたのですが、その「思いこみ」を見事に切り捨てられた感じがしました。

 そしてここでも「結婚は日常生活」という言葉で言われて、だから、ということでセックスという関係がそこから外されているわけです。私としては「日常的に存在が受け入れられる」(=結婚生活でもセックスが大事な意味を持つ)ということが必要ではないのか、ということが新たな疑問なのですけれど、いずれにせよほんとに二重三重に衝撃的なコメントで、そのおかげで私の理解がすごく進んだように感じられるところがあります。


 ただしスキンシップが苦手、ということについて、玄さんのコメントによれば、子供と接する体験によって、スキンシップがとても大切なものとして感じられるようになった、ということです。定型同様、アスペの方の中にも子供好きの方もそうでない方もいらっしゃるでしょうから、玄さんのこういう変化がどの程度一般的なのかは私には分かりませんけれど、でも少なくとも一部のアスペの方にはそんな形でスキンシップへの考え方、感じ方に変化が訪れ、定型とその点で理解し合える部分が拡がることがあるんだなあというのは、とても大事なことと思いましたし、そういう事実はとても新鮮な感じがしました。

 

 


 

2012年3月 8日 (木)

嬉しいけど申し訳ない

 今日は「手伝い」を巡ってパートナーと微妙な対立になってしまいました。

 彼女は私を手伝ってくれたんだけど、ある理由でそれは彼女にとってとてもしんどいことでもあって、そのことを私が十分理解していなかったんですね。そのことが分かってパートナーは傷ついてしまいました。

 そういうことがあったものだから、私はそれ以上手伝ってもらうのが「申し訳ない」気持ちになって、次も手伝ってくれるというのをためらったんです。そして「それは申し訳なくて」と言ったんですが、今度はそれが「手伝いの拒否」と理解されてしまったようでした。「手伝って欲しくない訳なのね」というわけです。

 いや、そうじゃなくて、しんどいのを我慢させてしまうのが申し訳なくて……となんどか繰り返しましたが、なかなかうまく通じない感じがしました。多分、「自分がそのしんどさのことも考えた上で、なおかつ手伝いを申し出ているのだから、それを受け入れるのをためらうと言うことは、手伝ってもらうのが嫌で拒否していることなんだ」という風に理解されたのかなと思います。

 「いや、嫌なんじゃ無くって、嬉しいんだけど、申し訳ないんだ」、と言うんですが、何かスッキリしない感じでした。

 それからしばらく(といっても結構な時間)気まずい雰囲気の時間が流れた後、パートナーが「私があなたのことを考えて手伝いたい、というのはいらないことな訳?」と聞かれたので、なんでか急に嬉しくなって、「そんなことはない。凄く嬉しいよ。ありがとう」と言って、結局手伝ってもらうことになりました。

 なんかあまりに素朴な、ある意味で些細な話かも知れませんけれど、なにか大事なことでもあるような気がしたので、とりあえず書いてみることにしました。
 

2012年3月 6日 (火)

性愛とプラトニックラブ

 玄さんyukipomさんが性愛やセックスの問題についてあえて書いて下さいました。夫婦関係ではとても大事なことなんだけど、なかなか表だって話ができにくいところでもありますよね。ありがとうございます。

 玄さんが「「相手への性愛」と名付くものは?と問われると明確でないかな〜」と書かれたところに、「ああ、やっぱりそうなのか!」と深く頷くところがありました。長年の疑問が少なくとも部分的に解けた感じがあります。こういう問題については「定型はこうだ」という決めつけ的な言い方はもちろん、「定型はこういう傾向が強い」といった少しマイルドな言い方についても、そういうふうに言うことに私は自信が持ちにくいのですが、ただ、すくなくとも私自身についていえば、「相手への性愛」というのはとても大事なことなんですね。

 もちろん一般的には男性の方は性愛の対象は「誰でもいいんだ(あるいは幅広いんだ)」というような傾向があるということは言われていますけれど、でも少なくとも「好き」という感情とその「相手への性愛」はやっぱり結びつきが強いと思います。なにか特殊な事情がない限りはそこを切り離す、ということは考えにくい感じがするんです。

 ですから、玄さんがそこで「明確でないかな~」と言われたことが、とても印象深いんです。ああ、アスペの方はやっぱりそこが切り離せるんだ、と思えて。そしてそう思うと、パートナーの言うことがわかりやすくなる感じがあるんです。なんかパートナーの言う「愛」は言ってみればプラトニックラブの世界のように感じます。あるいはもうすこし広げて言えば家族愛的な感じかな。でももちろん博愛とかいうものではなくて、もっと限定されたものです。

 「恋人」「夫婦」「家族」といった関係についての理解にも、お互いに結構大きなズレがあるんじゃないだろうか。そんなことを思います。これから考えていくべき大きな課題の一つですね。

 yukipomさんの場合は、元の夫さんにも相当の葛藤があって後のことなんでしょうけれど、定型の一人の私としてはその言い方や離婚理由などを伺っていると、「それにしてもそういう言い方は無いでしょう」、という気がしました。そしてそれを素直に受け入れたyukipomさんはほんとに素直で優しい方なんだなと思いました。

 

2012年3月 5日 (月)

誠実なのに傷つく

 アスペ当事者の方から次々にコメントを頂きました。まだ頭が整理されないのですが、書きながら考えてみます。

 yukipomさんからは記事「矛盾したアスペ像」に対して「「誠実だと思う」という事と「ズレで傷付く」と言うことってカテゴリーが違う」という指摘を頂きました。カテゴリーってなんなのか、ちょっとぴんと来ないところがあるのですが、いずれにしても、「別のこと」だというのは間違いないと思います。

 この「カテゴリーが違う」というのはジョンキルさんが書かれているように、「ズレる人」=「誠実でない人」という考え方が私の中にあるようだと感じられたので、「いやそれは別の話だよ」ということで書いて下さったのでしょうか。

 ジョンキルさんはそのことを書かれた後で、本当は「ズレる人」=「誠実でない人」ではなくて、ずれたからといって、「誠実であるとは言えない」ということ(つまり「誠実でないと断言できるわけではなくて、誠実の可能性もあるんだけど、ただその可能性は低い……ややこしい (^ ^;)ゞ)なのに、そこでアスペの人は「誠実じゃない」とすぐに決めつけられてしまうことを、パンダが悲しんでいるのではないか、と書かれています。

 で、もしお二人の書かれていることがそういう意味なのだとすれば、私が書きたかったこととはやはりずれがあると感じます。簡単に言うとこういうことなんですね。

 アスペの人には「誠実に生きている部分」も「普通に生きている部分」もあるでしょうし「傷つけられる部分」もある。同じように定型の人にも「誠実に生きている部分」も「普通に生きている部分」もあるし「傷つけられる部分」もある。

 言葉だけだとアスペも定型も同じだ、と言うことになっちゃうんだけど、それぞれにズレがあるんですね。だからたとえば私がパートナーの「ものすごく深い誠実さ」を実感するようになったのは比較的最近の事だったりします。それまではわたし(定型?)にとってはそのことは特にそんなに深い誠実さを現す意味がないように思えることだったのです。だから「普通のこと」として見過ごしていた。

 逆に私がすごく誠実にしようとしていることが、パートナーにとっては「普通」のことで、全然気がつかれていないこともありました。そんな風にお互いに「誠実」と「普通」がずれて理解されていて、コミュニケーションがうまくとれない。もっとズレが大きくなると一方が「誠実」にやっていることが、相手にとっては「傷つくこと」になったりすることさえあるわけです。逆に、以前KSさんが書かれていましたが、むしろこちらが「悪意」に近い気持ちでやったことが、相手にとってはわかりやすくてよかったりすることもある。

 そんな風に何が「誠実」とか「普通」とか「傷つく」とか、そういうことがお互いにずれてしまってうまく噛み合わない。そういうときに一生懸命「誠実」であることが全然相手に伝わらないというのはほんとに悲しいことだし、それからそういう誠実さをすごく持った人なのに、そのことには気がつかれなくて、「相手を傷つける」ところばかりが目立ってしまい、そこで評価されてしまうというのも悲しいことだと思うんです。

 それから、「こんなに誠実な人なのに、その人がこんなに自分を傷つける(た)んだ」ということもほんとに悲しいことです。ここはジョンキルさんがおっしゃるように「こういう誠実さを持っている人なら、こんな行動はとらないだろう」という定型の目で見たときのショックになりますけれど。そこもやっぱり定型とアスペのズレから来ることなんですよね。

 と、書いてみましたが、私の(定型の?)書くことはやっぱりアスペの方にはわかりにくいことがあるようですので、これもまたわかりにくいかも知れません。分からないところはどうぞご質問なりご意見なり下さい。少しずつズレを調整して理解に近づけたらいいなと思います。

2012年3月 1日 (木)

矛盾したアスペ像

 最近、アスペの方が離婚を決意されるときに、自分が積極的に離婚をしたいわけではなくて、相手や家族の幸せを考えて自分が離れる方がいいと、自分自身も思えるようになってそう決意する、というお話しをいくつか見聞きします。だから相手が嫌いになるわけでもないし、離婚後も相手の幸せを願っていたりする。

 yukipomさんもそんな感じでいくつかのコメントを下さっています()。なんだかほんとうに誠実で、真剣に相手のことを考えて悩まれ、相手のために身を引かれる。しかも相手のことを考えたとしても、アスペと定型のズレのせいで、そこがうまく調整できなかったりして、その誠実さが伝わらない、ということを考えると、何か胸が締め付けられるような悲しい思いになります。

 私自身、パートナーが持っているそういう誠実さに気がついたのはそんなに昔のことではありません。ほんとにここ1,2年のことです。そしてやっぱり言うんですね。もし僕の前に自分(彼女)では満たされないものを満たしてくれる人が現れたら、その人と一緒になってほしいと。そうやって僕が幸せになれば自分も嬉しい。ただ、時々相談したいことができたら会って相談にのってくれればうれしい。そんなことを言うんです。私はありがたいような悲しいようなかわいそうなような、何て答えていいのか分からない気持ちになります。

 だからといって彼女が「自分モード」でいるときには、やっぱり「え?」っと驚いたり、軽く傷ついたり、何か責められているような気分になったり……、といったことが無くなっているわけではない。そういうズレは、以前よりはマイルドになっているとはいえ、やっぱり続いているんです。

 私の中で「こんなにも誠実に相手のことを考えて一生懸命なアスペの人」という像と、「こんなにも定型とずれて相手のことを考えられずに傷つけるアスペの人」という像が、矛盾したままふたつそのままボーンと自分の中に居座ってしまっている感じがします。その矛盾した二つのイメージは、当分私の中で矛盾したままにふくらんでいきそうな気がします。

 もちろん、そういう矛盾を抱え込んでいることは、ある種の困惑を抱え込んでいることでもあります。問題を抱え込んでいると言ってもいいかもしれません。その問題にどう向き合っていけばいいのか。もしかすると昨日「中途半端な感覚」と書いたことも、この矛盾に関係してくる部分があるかも知れません。

« 2012年2月 | トップページ | 2012年4月 »

最近のトラックバック

無料ブログはココログ