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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2012年2月 4日 (土)

「違う」というスタートライン

 wakabaさんからのコメントを拝見していて、どういうのか、痛みを感じてしまいました。wakabaさんが突き当たって苦しんでいらっしゃる問題は、簡単に答えを見いだせるようなものではなく、そういう場合、一体どうやって問題に向き合っていったらいいのだろうと、常々思っていることなのです。

 このブログの主宰者、(というか要するにパンダ (^ ^;)ゞ ) の基本的な姿勢としては、アスペと定型のどちらかの視点からだけではなく、両方の視点から対話することを「模索しよう」ということ、その模索の結果、答えが「これからも共に生きていこう」でも「お互いに別々の道を歩もう」でも、それはどちらでもよく、逆に言えば最初からどちらかに決めつけてはいけないと言うこと、その答えはお二人の育ちやなれそめ、その後の経過や周りの状況、ご本人の性格などいろんな要素がからまってそれぞれのカップルでみんな個性的なものであること、そんなことを大事にしています。

 そしてそこではお互いの「対話」が大事になるのですけれど、まずはそういう関係になること自体に大きな困難がある。場合によってはそのこと自体を諦めざるを得ないこともあり得ると思うんです。それはwakabaさんがおっしゃるような「アスペの方の脳タイプ」とか、「自閉症スペクトラム」のどこに位置するかとか(それらもアスペの方の方の「個性」の一部ですね)、そういうことによって大きく影響されてしまう。お互いの個人的な精神的努力だけではなかなか届かない、あるいは他の人以上に大きな努力が必要とされる部分もやっぱり有るだろうと思うんです。

 私としては、ですから可能な限り「対話的な関係」が可能になる方法を考えていきたいし、そのためには「アスペと定型のズレ」があるという共通理解がかなり重要らしいとも思いますけれど、すべてのカップルでそれを本当に追求できるのか、ということはやっぱり何とも言えない。無理矢理片方の人だけがそれを追求し続けて、却って精神がぼろぼろになって再起不能に近くなる場合だってありそうに思えます。

 このことについて今の自分として考えられることは、最初の内は噛み合わなくてお互いに傷ついたりすることが多少は繰り返されたりしても、とにかくお互いが努力するような姿勢が共有されている場合にはいいとしても、どちらか一方だけがものすごく苦しんで努力して、相手の人はどう見てもそう思えないような状況がずっと続くようなことは、やっぱり避けなければならないんじゃないか、ということです。

 自己犠牲自体が本当に自分の喜びになるような価値観をお持ちの方なら、あるいはそれでもいいのかもしれません。「私さえ我慢すればみんなが幸せになれる」と真から思えることに喜びを感じられる場合ですね。でもそうでない場合、自分が幸せに近づけないことは、結局全体の幸せを減らすことにもなる。もちろんこれもお子さんがいらっしゃる場合にはお子さんの幸せの問題も絡めて考えなければいけないから、単純に答えが出ることではないですけれど。

 wakabaさんの状況が具体的にどういう例に当てはまるのか、あるいはまた全然違う話なのか、私にはもちろん分かりませんけれど、けれども「お互いに向き合って対話的に問題に取り組んでいこう」という間柄にたどり着くこと自体の難しさ、wakabaさんの言い方では「自分はこう思うけど、相手は違うのだ。というスタートラインにはどうやったら立てるのでしょうか」ということ、そのことの難しさを考えるとき、やはり胸が痛まずにはおれない感じがします。

 「私はあなたとは違うんだ」ということを折に触れて繰り返し話すこと、態度で示すこと、そういうことは効果がある程度有るんでしょうか。多分ちょっとやったくらいではほとんど見過ごされて終わりのような気もしますけれど。

 どなたかこういう問題になにか経験やお知恵をお持ちの方がいらっしゃるといいんですが。

 

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コメント

パンダさん、このような場を作って下さったこと感謝いたします。

大好きな人と結婚し、できることなら添い遂げたいです。
楽しいだけの日々だと問題は起こらないのですが、病めるとき、苦しいときに途端に歯車が狂いだします。

パンダさんがおっしゃるように、無理矢理片方の人だけが共通認識に対して追求し続けて、却って精神がぼろぼろになって再起不能に近くなる場合にいきつきそうな気もしていますし、それ以前に自分が折れてしまうか、自暴自棄になってしまいそうです。

一緒にいても一人の感覚でいることが平気な相手は、わたしにとっては他人の間柄(相手に関して無関心)に対してか、嫌いな人への感覚なので、大好きな人へそれと同じ感覚をもつというのはとても難しいです。
大好きな人から大嫌いな人、もしくはどうでもいい人に格下げすれば、夫にとって居心地のいい場所を提供できるのかもしれませんが、その方法はあまりにも稚拙だし、悲しいし、わたしの人生って何なんだろうなと思います。

夫の感覚にあわせるのも難しく、かといって自分の感覚を尊重すると苦しくなってきます。

アスペルガーの要素を多分に持っていたとしても、それぞれ各個人個人、スペクトルの位置は違いますし、擦り合わせの作業は各カップルごと違うものだとも思いますが、擦り合わせの必要性すら認識してもらえないのがとても歯がゆいです。

たぶんどちらも苦しいんだと思いますよ。苦しんでるということすら気がつかない場合は多々あると思いますがね。言ってみりゃ気付いてしまった方が「損」ですよ。

遺伝か環境かはともかく、幼い頃からその感覚を持って成長してきた人に、「あんたはこの感覚が欠けている」と言っても全く意味なさないです。だってあなたは「3本目の手がないから不器用だ」と言われて3本目の手を使って器用になろうという努力はできないでしょう。自閉系の人は、背中の感覚が希薄だというのはよく知られてます。でも背中はあるんですよ。

私の印象はこうです。あなたはこう考えるみたいだけど、私はちがうんだ、ということをいくら伝えても、「私はあなたとはちがうんだ」ということが絶対に伝わらないということを前提に共同生活を成り立たせるスタートラインにはどうやったら立てるのか、という感じなんですけど。

だってお互いが理解できることの外側にある何かを理解する必要があるわけですから。

媒介となる「物理的な現実」をあてにしないで進まなくてはいけない、という感じですかね。群盲が象を撫でてる…と思いきや、実はまったく別の動物を撫でていたことは、どちらの盲も気がつきようがないような感じがしますけど。

困難な状況が必要以上に長引くとしたら、それは向き合うのを避けている何か別の問題があるのではないかと考えるようになってきています。KSさんたちが自己のAC問題の中に何かを見出したような、「何か」です。まだわかりません。

はじめてコメントします。
れおなるどといいます。アラサー未婚の女です。最近別れた彼がいます。7年前に出会い、友達として遊びはじめ、その2年後、付き合い始めました。1年後同棲を始めましたが、考えのズレを埋められず、同棲を解消。5年の付き合いが終わりました。
ただ、これまでに何回か別れたり戻ったりを繰り返してきました。別れた原因は、彼の考え方や思いが全く伝わってこず、私が不安になってしまったり、八つ当たりしてしまったり、私のこと、必要じゃないでしょなんてことを聞いてしまったり…と、私と彼の考え方があまりに違いすぎたためと思っています。
でも、ときどき彼に言われた言葉を思い出しては、どうして理解できなかったのか、どうして気持ちを察知してあげられなかったのか、後悔する毎日です。
そんな時、彼が発した言葉をネットで検索したら、このサイトがヒットしました。
いろいろ読んでいくと、私や彼の状況がピタリと一致するものばかりで、私がこれまで彼にしてきたことは、最悪なことだと感じました。
これまで、彼の気持ちや行動が全く分からなかったし理解できなかったのですが、今なら察することができそうなのに、別れてしまってからでは遅いですね…
長くなってしまいましたが、またのぞかせていただき、今更ですが、人との付き合い方を勉強したいと思います。

joさん

おっしゃるとおりだと思います。3本目の手のお話、常々考えていたことでした。

困難な状況が必要以上に長引くとしたら、それは向き合うのを避けている何か別の問題があるのではないかということも、考えてみます。
わたしがど定型タイプなので、アスペルガー的な感覚をまったく知らずに夫に接してきた期間もあったので、知らないがゆえの言葉を投げかけたことは多々あったと思います。

れおなるどさん

 はじめまして。どうぞよろしくお願いします。

 ご自分のことを振り返って随分責めていらっしゃいますけれど、
 もちろんおわかりで書いていらっしゃるのだろうとは思いますが、
 「そういうことだったんだ!」と分かって過去を見るのと、
 それが全然分からない状態でその場にいるのでは
 ほんとうに違うと思います。

 私も分からないときはほんとにひどい状態でした。
 もちろん分かっても即解決!というほど簡単ではないですけれど。

 お互いにそのズレに気づかないことでお互いが苦しんだ、
 悲しいけれどそういう現実なのだろうと思います。
 それ以上にご自分を責められることはないですよね。
 この体験を今後に生かすことが一番大事だと思います。

 きっと言わずもがなのことでしょうね。失礼しました。

パンダさん。

ありがとうございました。コメントを読んで、涙が出てきました。
いろいろ後悔したって、もうしてしまったことは仕方がないですよね。

彼と別れてから3か月程ですが、信頼できる友達に相談しても、気持ちの整理がつかず、気分が沈みがちだったので、カウンセリングに行こうと思っていたところでした。
私も彼も、どちらも間違っていなかったし、こうなってしまったのも、仕方がないと、今では理解できます。彼との性格の不一致を悩んでいた3か月が嘘のように、今は気持ちがスッキリしています。

ただ、これから彼との関係をどうするか…実は、たまにメールや電話をするのは続いているからです。ほぼ私からですが。
別れているわけですから、関わらないのが当たり前かもしれません。でも、アスペの疑いがあり、気分に波のある彼を理解できそうな今、関わりを避けることができません。
今はなるべくそっとしておくべき…そう考えています。

どこの誰かも分からない私のコメントに答えてくださり、ありがとうございました。勝手ですが、悩んでたのが私一人じゃないんだと思うと、なぜか心強くなれます。私の性格が悪い、彼の育ってきた環境が悪い…もう自分や彼を責めることはやめます。

またいろいろ勉強させてください。

wakabaさん
はじめまして。私は前にも書いたけど、検査でどうやら定型らしいけど、カサンドラ症候群(変なのは私の方?)でウツになりました。

>わたしがど定型タイプなので、アスペルガー的な感覚をまったく知らずに夫に接してきた期間もあったので、知らないがゆえの言葉を投げかけたことは多々あったと思います。

アスペルガーのことを知らずに激しく衝突していたときの方が私は健康でした。喧嘩ばかりで困難でしたが、自分の足許がぐらぐらする恐怖には怯えなくてよかったですから。

それを止めるのは発達やら自閉やら精神分析の本を読んで勉強するほかなかったです。道徳は、、、麻薬にすぎませんでしたから。

知って勉強して、知識をためて相手を慮って、ということをしてみても、衝突は起こるのです。感覚の違い、認識の違い、自己の立ち位置を扱う様の違い、etc.によるものです。快と不快の基準が違っていることが大きいと思います。

衝突がおきてしまうと、やはり言葉で調整しようとします。そんな自分の言葉をみて、自己嫌悪になる、ということは、知って、勉強して、考えてすればするほど大きくなってきてるような気がします。だって相手が、それをできないことを知ってしまい理解しようとするプロセスなのですから、自分が言って自分に許されることがどんどん狭められていくのです。

これは別のタイプの地獄ですよ。自分で自分をズタズタにする。

それぞれがそれぞれの基盤を持って立ち行くことができることを確認する必要があるような気がします。すでに共依存関係になっていないことを確認するためです。カレンさんの別居はこの意味があったのではないか、いったん共依存をリセットし得たのではないか、という気がしてます。

joさん

コメントありがとうございます。

快不快の基準が違うというところ、大きいと思います。
頭ではなんとなくはわかったような気がしても、生理的に拒否してしまう感覚もあります。
それと、ほんとうにできないことなのか、ほんとはできるんじゃないか。というところで、期待してしまったり、絶望してしまったり、一人芝居の気持ちの上下があります。

この問題にフォーカスしても問題の核心に近づくことはできない。後で振り返ってみて、問題の核心が変容していることに気がつくような問題なんだろうなと思っています。

今のわたしにはまだ違いを受け入れる素養がないんだと思います。日々の生活を丁寧に生きて行くことにフォーカスしようかなと思い始めています。物理的な自立をまず目指して、精神的な自立を目指したいです。腐らず、怒らず、なるべくハッピーに暮らすために、セルフメンテナンスを優先します。そうやっていくうちに違う水平線が見えるようになったらいいなと自分に期待をこめて。

どこかで相手がど定型だったらしなくていいことだよなあと思うところもあるし、どんな相手でも、程度の差はあれ、同じ事だと思ったりもします。


wakabaさんのコメントにまったくまったく激しく同意です。

以前パンダさんに感じた、「あれ、これ私じゃない?」って感じ。「共感」ってんでしょうかね?あれから1年以上経て、パンダさんと私はかなり違うことが「感じ」られるようになってきました。パンダさんだけが成長したのかな。私、『共感渇望症状』(造語です)だったりして。

今回のコメントを書き込みを通じて、ずっと以前に書き込んだ「手足を一本ずづちぎられていく感じ」の正体が見えてきました。

私はさまざまな異質な文化圏でのプロジェクトを経験してコミュニケーターとしてそれなりの自負があったのだと思います。が、こと配偶者とのコミュニケーションでは、試してみるコミュニケーションがことごとく歪曲して伝わる。捏造としか思えない「事実」が加わったりする。そんな中で、使ってみるコミュニケーションの技術アイテムなり、チャンネルなり、モードなりが、どんどん狭められていったのです。非言語的なコミュニケーションがほとんど通じないのは、ご存知のとおり。皮肉や婉曲も使えない。モデルを示しても解釈がとんでもなかったり。直接的な指摘には激しい反発、さりとて、さりげない提示には気付かない。。。。

元来が楽天的だったので、「これがだめなら、あれがあるさ」って感じの私だったのですが、10年以上を経て、もはや万策尽き果てて満身創痍で打つ術のない状況で絶望しているのだと思います。もちろんその途中では、子供の療育所の親研修や「自閉」関連の本などから仕入れた非定型なコミュニケーション技術を試したりと、前進も怠ってはいなかったつもりです。ここでも、発達途上の子供では奏功した非定型なやり方も、大人の配偶者を相手に効果が上がらないという絶望もありました。そこに「境界性人格障害?」の疑念、そっち方面のリサーチをすると、とことん絶望的な答えが横たわっていたりする。

もし、ほんとうにそうだったら逃げ出す勇気がいるのじゃないか、とも思うのです。登頂を果たしても遭難してしまったら栄光はないですからねぇ。「程度の差」と自分をなだめて進み続けてズブズブと共依存にひきずりこまれて深みはまってから、「程度の差」と思ってたことこそが「質の差」であったことに気付いた感じもなきにしもあらずです。

子供の発達が病的状態をどうにか脱出してくれたことで、拮抗していた何かが崩れ始めたのですけれど、向き合うのを延期してきた現実とは、、、荒れ果てた自分を発見してます。すっかり荒地になってしまった自分を耕すこと、、、からですかね。

wakabaさんへ

こんにちは。
役に立つかわかりませんが、我が家では
「アイメッセージ」と「アクショントーク」がコミュニケーション方法として
うまく機能しています。
私も妻も昔はアイメッセージなどという言葉を知らなかったので、
毎回妻に駄目だしされました。
日本型の言い回しは、妻にとって脅迫的に聞こえるらしいのです。
言葉にしないで相手をコントロールしようなんて卑怯だ、と。
日本人的にははっきり言うほうが押し付けがましいと感じてしまうのですが。

最初は抵抗がありましたが、慣れると私も快適です。
他の問題もあるようなので、これだけで解決するとは思えませんが、
もしwakabaさんの夫が定型だったとしても、良い方法だと思います。

オレンジさん

コメントありがとうございます。
アイメッセージ、どんな関係でも誤解をうまずに伝えたい事を伝えられますよね。
アイメッセージを子供に対しては意識してするようにできても、夫には意地なのか甘えなのか素直な表現できないとき多々あります。
私が長年のクセで、つい察して欲しいモードで話してしまうと、夫はイラっとするみたいです。頼みたいのだったら、お願いしますといえばいいでしょ!と言われます。そういう風に言われると、こっちもイラっとするのですが、オレンジさんのおっしゃるとおり、私もアイメッセージが習慣化して使えるように、意識的にやっていこうと思います。
ありがとうございました。

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