2017年8月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31    

掲示板最近の話題

フォト

アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

« ブログの曲がり角? | トップページ | 好きって何? »

2012年2月22日 (水)

繭さんのコメント

 えっと、以下は繭さんから頂いたコメントそのまんまなんですけど (^ ^;)ゞ、読み直してみてもほんとにすごいことを書いていらっしゃるような気がして、じゃあそれが何がすごいんだろうとか、私の方で考えて自分の考えを書く力もまだなくて、でも多くの方に読んでいただきたい気持ちがして、それで勝手に記事の方に拝借してしまいました (^ ^;)ゞ
 
 ひとつだけ、すごく考えさせられたポイントを書くとすれば、韓国の恨というのは、知り合いの話を聞く限りではどんどん深まっていくこと、積み重なっていくことが大事なんだそうです。それが生きていることなんだって。で、それがあるから人と人の結びつきが深まっていく。それに対して繭さんの恨(的なもの?)は「ありがとう、そしてさようなら」という方向になにか消え去っていく感じがしました。正反対ですね。でもそのどちらの生き方も、その人にとって大事な人生を送るための生き方なんですね。

 他にも沢山大切なことが書かれていると思うんだけど、どうぞ皆さん自身で味わって下さい m(_ _)m

==========================
懐かしい記事にコメントです(^ ^)
この一年程の間に、自分でも驚くほどにものの感じ方が変わっていたことに気付いたこの頃です。

以前、パンダさんが韓国の人の持つ「恨(ハン)」という感情について話して下さったのを思い出して、少しネットで拾い読みをしてみました。感情という言葉では表せない「在りよう」のようなものなのだなぁというのが感想です。私の受けた印象は、執着、自責、プライド、愛情、しがらみ、憎悪、依存…などなどでした。

私の恨と考えて真っ先に浮かぶのは両親、特に母への負の感情、恨みや憎悪、愛情、執着などは、今はかなり薄いものになって来ています。
母は母であればいい、娘を愛しながらも向き合うことが出来ないのも、伴侶を憎み蔑みながら婚姻生活を続けたのも、親や子供の為(=所為)と自分を縛り付けたのも、全て母自身に含まれることなのだから、それを私が変える必要を感じなくなりました。適切な心の距離が生まれるだけです。
結局のところ、人は自分の選択によって生きるのが最良で最善、そして一番幸せなのだと思うようになりました。例え本人が苦しみ、のたうちまわっていようとも。

私は、自分の苦しみが長い間分かりませんでした。だから、私には苦しむ必要があったのだと、今は思います。「どこまで辛くなれば、私は自分の苦しみに気付く? どこまで痛んだら、私は自分を守る?」ずっと自分にそう問いかけられ続けていたことに気付かずに、自分を許さず、労わらず、愛さなかったのは私自身なのだなぁと、今の私はそう感じています。

最近、自分の負の感情が他者に向けられている時「おっと、自分をおろそかにしているサインが出てる」と思うようになりました。本当はそう感じているだけなのに、「理由」を相手に探している自分に気付くのです。感情に理由や言い訳は必要ないなぁと分かったら、とてもシンプルになりました。怒って、泣いて、笑って、踊って(笑)全部が私ですから。そうしたら、他者や自分や事柄に執着しないでも大丈夫みたいです。

私が自分に向き合うことを生活のメインに出来たのは、3年前に緑ゆたかな地に転居できたこと、それを期に親から物理的な距離を保てたこと、専業主婦という仮名のひきこもり生活を「必要な時間」と言って与えてくれた夫と、私をよく知る友人たちがいてくれたこと、素晴らしい人たちと出会えたこと、沢山の要因が重なって得られた貴重な機会でした(進行形)。

自分が掘り、そして埋め続けた穴を掘り返し、中身を見詰める作業は、自分という醜い存在を直視することそのものでした。醜い、腐臭を放つヘドロのようなものが沢山出て来ました。そんなものででも、私はその穴を埋めたかったし、それが愛情なのだとすら考えていました。それらは「私自身」という認識を持つことによって、「愛おしく、切ない記憶」へと変わりつつあります。
昨年末に久し振りに大切な友人と話をした時、少しだけ心境の変化を話したら「穴に降りてきた?」と尋ねられ、「うん、いっぱいドロドロが出てきたよ」と答えました。その同じ彼女から以前に「好きなだけ苦しみなさい。見守ってるから」と言われていたのでした。本当に、私には「好きなだけ苦しむこと」が必要だったなぁとしみじみ思います。

両親への思いがなくなることはありませんが、少しづつ「ありがとう。さようなら(byエヴァ)」が近付いているような感触のする心持ちです。これからも私は過去の記憶に、泣いて叫んで怒鳴ると思いますが、なんだかそれはもう余り親に向かわないような気がしています。ただ感情はそこにあって、自分で味わって、もし伝えたかったら伝えてみる。相手がどう反応するのかは自分のものではない…それでいいのだなぁと思っています。
悟りの境地ではなくて、感情的な生き物としてありたいなぁと思います(^ ^)

人が生きようと選択し続けるものに、ポジティブもネガティブもないのかもしれません。強いて言えば「生きる」ことそのものがポジティブなことのように思われてなりません。
日々浮き沈みしつつ、これからも生きて行きたいです。
今、久し振りに穏やかな冬眠をしています(私の冬眠は、穏やか~激しい落ち込みの間のいくつかのパターンがあります)。気持ちの整理はだいたい終わりつつありますが、もうしばらくぼーっとしていそうです。
関わって下さった方々への報告と、沢山の感謝を込めて、余りアスペルガーとは関係のない内容ですが、書かせて戴きました。

« ブログの曲がり角? | トップページ | 好きって何? »

コメント

「どこまで辛くなれば、」の部分が胸に迫りました。独身の頃の事ですが身に覚えがあります。精神的な自傷行為というか、自分を追い詰めて、いつになったら本能が危険回避を叫び出すのか、もう一人の自分が見つめている感じ。自分には心が無いことを証明する任務があるかの様に、冷淡を自分にも他人にも演じていました。
見合い結婚なのですが、はじめは家内は辛かったと思います。子どもの成長と共に、再構成があったように思います。

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1449293/44215753

この記事へのトラックバック一覧です: 繭さんのコメント:

« ブログの曲がり角? | トップページ | 好きって何? »

最近のトラックバック

無料ブログはココログ