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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2012年2月

2012年2月29日 (水)

中途半端な感覚

 最近、皆さんからのコメントにアスペの方からのものがとても増えていますね。それともうひとつ、定型の方からのものについても家族関係がとても順調にいっていると感じられるコメントがいくつもあったりして、嬉しくもあり、ちょっと不思議な感じもし、面白い(?)なあと思っています。

 アスペの方からのコメントはなんかちょっと堰を切ったように印象があるんですけれど、これまでROMでずっと読んでくださっていた方が次々に発言をしてくださっていると言うことでしょうか。もしそうなら何がそのきっかけになったのかも知りたいところです。アスペと定型の対話というこのブログの大きな目的で、その目的にとってもすごく大事な事だと思います。

 それでその色んな方のコメントを読ませていただいていると、なんだか今まで自分が少しずつ作ってきたアスペについてのイメージがまただいぶん揺れ動いて、もう一度一から作り直さなきゃいけないかなあと思ったりもするんです。どこがどういう風にと言うのはちょっと今はまだ分かんないんですけど、感覚として。

 あと、関係がうまく行っているご家庭の皆さんは、どういう風にしてそういう状態に至ったのかを是非教えていただきたい気がします。私の場合なんて、今の状態になるまでにある意味二十数年かかってるわけですもんね。厳しい状態になってからも十数年でしょうか。それが最初からずっと大きな問題が無く続いていらっしゃるのか、それともなんらかの困難を工夫で越えて今があるのか。

 思うんですけど、色んな方のブログの中にはアスペと定型の関係にほんとに苦しんでいる方のものがたくさんあるわけですけれど、それはアスペ定型カップルの中では場合によっては少数派だったりするかも知れない。多くのカップルはそんなに問題なくやり過ごしているのかも知れない。そんなことを考えてみたりするんです。なんか要するにどこか生き方の下手な人がアスペ定型カップルでも苦労しやすいとか、そう言うことがあるのか無いのか。私なんかはどっちかというとそっちかもしれないと思ったりもするもんですから。

 もしそうだとすれば、この場でやってきたようなアスペと定型の問題を考えることについても、ある程度限定された人についてはそういうことを考える必要があるんだとか、そんなことなのかもしれないし、そうでないのなら、多かれ少なかれアスペ定型カップルではここで考えているようなことが問題になるのかも知れないし、なんかその辺が気になるのかな。

 うーん、どう自分の今感じていることを言葉にすればいいのか迷っていますけど、私の中でアスペと定型の問題が解決しちゃったとか、そういうことはもちろんありません。でもその何をどう問題にして考えていけばいいのか、というところでなんだか今迷いというのか、よく分からなくなっているところがあるのかも知れません。この中途半端な感覚はいつまで続くのか…… (^ ^;)ゞ


 

2012年2月24日 (金)

好きって何?

 最近なんですけど、恋愛感情って何って、改めて考えさせられているところがあります。なんかアスペと定型では愛情の形か表現か内容か、よく分からないのですが、なんとなくズレがありますよね。なんとなくというか、大きくと言うべきかも知れませんが。

 それで最近、私のパートナーは「自分が本当にあなたのことが好きなのかもう一度考えてみる」とか言ってるんですけど、別に嫌われている感じはないですし、良くしてくれるとろは良くしてくれるし、「好きじゃないから別れましょう」みたいな話とは違う感じなんですけど。

 なんか、多分、「好きってなんなの?」ということを改めて考えてるんじゃないかと勝手に想像してるんですが、そうすると私の方も一体何だろう?と考え始めるようになったんですね。

 たとえば恋愛感情と夫婦愛ってどういう関係なんでしょう?恋愛感情の深まったのが夫婦愛とか?そこに性愛がどう関係するんでしょう?さらに家族愛とかもありますよね。とか考えるとなかなか難しくって (^ ^;)ゞ

 人類愛とか博愛とか、なんかそんなすごいものとは違うんだろうとは思うんですけど。やっぱり具体的な個人同士の間の愛なんだろうし。

 私の場合は、定型は大体そうじゃないかと思ってるんだけど、やっぱり好きっていう感情と性愛は切り離せないところがあります。でももしかするとアスペの方はその辺が意外に切り離せたり、結びつきがそれほど強くなかったりと言うことがあるんじゃないだろうか、という気がするんですね。

 そうするとそのズレの問題はやっぱり真面目に考えるべき結構大きな問題の一つだと思うんだけど、どう考えたらいいのか、実際どうなのかも含めて、まだよく分からないです。(なんかわかんないことだらけですね (^ ^;)ゞ) 

2012年2月22日 (水)

繭さんのコメント

 えっと、以下は繭さんから頂いたコメントそのまんまなんですけど (^ ^;)ゞ、読み直してみてもほんとにすごいことを書いていらっしゃるような気がして、じゃあそれが何がすごいんだろうとか、私の方で考えて自分の考えを書く力もまだなくて、でも多くの方に読んでいただきたい気持ちがして、それで勝手に記事の方に拝借してしまいました (^ ^;)ゞ
 
 ひとつだけ、すごく考えさせられたポイントを書くとすれば、韓国の恨というのは、知り合いの話を聞く限りではどんどん深まっていくこと、積み重なっていくことが大事なんだそうです。それが生きていることなんだって。で、それがあるから人と人の結びつきが深まっていく。それに対して繭さんの恨(的なもの?)は「ありがとう、そしてさようなら」という方向になにか消え去っていく感じがしました。正反対ですね。でもそのどちらの生き方も、その人にとって大事な人生を送るための生き方なんですね。

 他にも沢山大切なことが書かれていると思うんだけど、どうぞ皆さん自身で味わって下さい m(_ _)m

==========================
懐かしい記事にコメントです(^ ^)
この一年程の間に、自分でも驚くほどにものの感じ方が変わっていたことに気付いたこの頃です。

以前、パンダさんが韓国の人の持つ「恨(ハン)」という感情について話して下さったのを思い出して、少しネットで拾い読みをしてみました。感情という言葉では表せない「在りよう」のようなものなのだなぁというのが感想です。私の受けた印象は、執着、自責、プライド、愛情、しがらみ、憎悪、依存…などなどでした。

私の恨と考えて真っ先に浮かぶのは両親、特に母への負の感情、恨みや憎悪、愛情、執着などは、今はかなり薄いものになって来ています。
母は母であればいい、娘を愛しながらも向き合うことが出来ないのも、伴侶を憎み蔑みながら婚姻生活を続けたのも、親や子供の為(=所為)と自分を縛り付けたのも、全て母自身に含まれることなのだから、それを私が変える必要を感じなくなりました。適切な心の距離が生まれるだけです。
結局のところ、人は自分の選択によって生きるのが最良で最善、そして一番幸せなのだと思うようになりました。例え本人が苦しみ、のたうちまわっていようとも。

私は、自分の苦しみが長い間分かりませんでした。だから、私には苦しむ必要があったのだと、今は思います。「どこまで辛くなれば、私は自分の苦しみに気付く? どこまで痛んだら、私は自分を守る?」ずっと自分にそう問いかけられ続けていたことに気付かずに、自分を許さず、労わらず、愛さなかったのは私自身なのだなぁと、今の私はそう感じています。

最近、自分の負の感情が他者に向けられている時「おっと、自分をおろそかにしているサインが出てる」と思うようになりました。本当はそう感じているだけなのに、「理由」を相手に探している自分に気付くのです。感情に理由や言い訳は必要ないなぁと分かったら、とてもシンプルになりました。怒って、泣いて、笑って、踊って(笑)全部が私ですから。そうしたら、他者や自分や事柄に執着しないでも大丈夫みたいです。

私が自分に向き合うことを生活のメインに出来たのは、3年前に緑ゆたかな地に転居できたこと、それを期に親から物理的な距離を保てたこと、専業主婦という仮名のひきこもり生活を「必要な時間」と言って与えてくれた夫と、私をよく知る友人たちがいてくれたこと、素晴らしい人たちと出会えたこと、沢山の要因が重なって得られた貴重な機会でした(進行形)。

自分が掘り、そして埋め続けた穴を掘り返し、中身を見詰める作業は、自分という醜い存在を直視することそのものでした。醜い、腐臭を放つヘドロのようなものが沢山出て来ました。そんなものででも、私はその穴を埋めたかったし、それが愛情なのだとすら考えていました。それらは「私自身」という認識を持つことによって、「愛おしく、切ない記憶」へと変わりつつあります。
昨年末に久し振りに大切な友人と話をした時、少しだけ心境の変化を話したら「穴に降りてきた?」と尋ねられ、「うん、いっぱいドロドロが出てきたよ」と答えました。その同じ彼女から以前に「好きなだけ苦しみなさい。見守ってるから」と言われていたのでした。本当に、私には「好きなだけ苦しむこと」が必要だったなぁとしみじみ思います。

両親への思いがなくなることはありませんが、少しづつ「ありがとう。さようなら(byエヴァ)」が近付いているような感触のする心持ちです。これからも私は過去の記憶に、泣いて叫んで怒鳴ると思いますが、なんだかそれはもう余り親に向かわないような気がしています。ただ感情はそこにあって、自分で味わって、もし伝えたかったら伝えてみる。相手がどう反応するのかは自分のものではない…それでいいのだなぁと思っています。
悟りの境地ではなくて、感情的な生き物としてありたいなぁと思います(^ ^)

人が生きようと選択し続けるものに、ポジティブもネガティブもないのかもしれません。強いて言えば「生きる」ことそのものがポジティブなことのように思われてなりません。
日々浮き沈みしつつ、これからも生きて行きたいです。
今、久し振りに穏やかな冬眠をしています(私の冬眠は、穏やか~激しい落ち込みの間のいくつかのパターンがあります)。気持ちの整理はだいたい終わりつつありますが、もうしばらくぼーっとしていそうです。
関わって下さった方々への報告と、沢山の感謝を込めて、余りアスペルガーとは関係のない内容ですが、書かせて戴きました。

2012年2月21日 (火)

ブログの曲がり角?

 最近、ブログに何を書こうかとちょっと考えることがよくあります。何でなのか、自分でもまだはっきり分かりませんが、いろんな理由がありそうです。

 ひとつにはパートナーとの関係が大きく変わって、問題が無くなったわけではないけれど、でもある種の安定状態になったことがあるかも知れません。以前のように「ものすごく深刻に考え込む」という感じは無くなってきていることは確かです。だから、自分がパートナーとの関係ですごく傷ついたりして書かずにおれない、考えずにおれない、という感じは無くなっている。

 よく言えば少しゆとりを持ってこの問題を考えられるようになってきているのかも知れません。でも逆に言えば、緊迫感が足りなくなって、大事なこと、皆さんにとって意味のあることをあまり書けなくなってしまうということもあるかもしれない。それはある意味では残念なことだけど、かといって無理矢理緊迫感を作り出す、と言うのも本末転倒ですしね。それはそれで仕方がない(?)ことかもしれません。

 それから、こちらで考えるより、本作りの方で考える方に力がいっている、ということもありそうです。できるだけ自己満足に終わらず、多くの方に読んで参考にしていただけるような本にしたいのですが、果たしてどこまでそれができるか。そこで考えていることはこちらの方にはまだ書けませんし、それも理由かも。

 あと、皆さんから頂くコメントの常連さんがだいぶ入れ替わって雰囲気が変わったことも何か影響しているかも知れません。記事で私が書いていることも上のような理由で変わってきていることも原因の一つかも知れませんけれど、コメントと私の記事とのやりとり、みたいな感じが前より少なくなってきた感じもして、そこはちょっと寂しく感じたりします。(ブログを見に来てくださる方の数は以前より随分増えているんですけれどね)

 書きたいことが無くなることはこれからもないだろうと思いますけれど、何かちょっと変化の時期、お肌の曲がり角(?)にさしかかっているのかも知れません。最近生活の変化と共に他の問題で考えるべき事がいろいろ重なってきていることもあるかもしれませんが。

 それにしても繭さんの最新コメント、なんか迫力だったなあ。こういうコメントも頂けるというのは本当に有難く思っています。私のこんな記事よりよっぽど意味がありますよね。

2012年2月19日 (日)

定型の言うことはわからない

 このブログもひとつのきっかけになって、ご自分がアスペと気づかれた方からメールを頂きました。そう言ってくださった方はこれまで初めてでなかったかと思いますが、他にもいらっしゃるのかも知れないですね。いずれにせよ、そういう働きもこのブログが実際に果たしている、と教えていただけたことは有難いことでした。

 その方は、私のパートナーや繭さんやジョンキルさんなど、アスペルガーの皆さんが語ることについて非常に良く分かるのに、私やその他の定型の方の言うことがすごくわかりにくい、と思われたそうです。私はできるだけアスペの皆さんにも伝わりやすい書き方を心がけようとしているのですが、実際には何をどうすればそうなるのかがよく分かりません。そしてやはりわかりにくいのですね。

 世の中では「アスペルガーはわかりにくい」と言うことになっていますけれど、逆に「定型はわかりにくい」と言っていただけることの大切さを改めて実感します。このブログの基本的な見方、つまり「アスペと定型はそれぞれの<理解の仕方>を持っていて、それがずれていて<お互いにわかりにくいんだ>」ということを改めて実感させていただけるからです。

 その方が「いくつか気がついた点」として以下の三つのことを書いてくださいました。


「定型のひとのすることで一番わからないのが私に共感を求めることであるが、アスペの友人とは深く共感しあう」

「定型のひとはアスペ的な発言をしたとき、或いはアスペ診断で参ったことなどについては、共感できない」

「アスペについて定型のひとが書いたことは本当に難しい」(だから自覚が遅れる?)


 それぞれについて私が感じたことを書いてみたいと思います。1番目はこのブログでも何度か「アスペ同士の共感」について考えてきたわけですが、そのことをとてもはっきり書いてくださっています。やっぱりそうなのか!という思いです。

 2番目は、たしかにアスペ的な発言をされたときにはどうしても驚きや反感が先に立ってしまい、冷静になって「理解」することは可能でも、共感することは難しいというのは事実ですね。というか、そういう発言をアスペ的発言というのでしょうけれど。だからアスペと定型の間でどんな共感も成り立たない、ということとは違うようにも思います。

 3番目は、これは上に書いたことともつながりますね。結局定型はアスペの方について、定型の見方でしか理解できないのでしょう。だからいくら定型的に説明をしたとしても、アスペの方にはわかりにくい。ということは、アスペの方が自分たちをアスペ的に説明する、ということが、特にアスペの人にとってとても大事だと言うことになるのかも知れません。

 そんな風に指摘していただいた問題について、今制作中のアスペ定型夫婦による対話の本では一体どうなるのか。どんな風に皆さんに受け止めていただけるのか、今も作業の途中ですけれど、正直予想がつかない感じです。とにかく次の対話のきっかけになれば成功かな。

 

2012年2月16日 (木)

アスペ定型家族と猫

 私のパートナーは動物(ただし足の数が非常に多い物と無いものを除く)が好きです。高校時代は生物クラブかなんかでネズミの解剖とか喜んでしていたようですし、家ではハツカネズミを飼っていて部屋に走り回らせたりしていたようです。で、今も私の家には小さい頃に拾われてきた二匹の野良出身の猫が家猫として飼われています。

 どうも猫に対する待遇は私に対する待遇より良いのではないか、と思うこともあり (^ ^;)ゞ、パートナーに聞いてみると「当然じゃない」というような反応が返ってきます (T T)。猫とのスキンシップもよくやっています。どうやら人間より猫の方が安心できるようです。今考えてみると、猫に対しては私には決して見せないような嬉しそうな軟らかい表情もよく見せてますね……(T T)

 どなたかがコメントで猫がアスペと定型の家族の中にいるのはいい、と書かれていたと思いますが、そうなのかもしれません。私の妹が私の家に遊びに来たときに、うちでは猫が大事な役割をしているねと言っていました。子供たちにもとても大きな意味を持っていたようです。

 ペットが家族の一員として大事な役割を持っている、という話は時々聞きますけれど、それってなんなのでしょう?その中でも特にアスペと定型の家族の中で重要な意味を持つとすれば、それってなんなのでしょう?アスペの人(少なくとも私のパートナーの場合)が猫との間では人間よりも感情的な交流を持ちやすそうに見えるのは何でなんでしょう?

 それは、うーんと、えーっと、だから、その、私にはよく分かりません (^ ^;)ゞ
 おしまい。

 

 

2012年2月15日 (水)

いろんな交流の在り方

 ジョンキルさんがコメントでこんなことを書いてくださいました。

 「定型との真の交流をあきらめてアスぺ同士の結婚に逃げ、自分はよくても子供ができたらその子を幸せにできないだろうという確信のもと子作りからも逃げ、日常会話が全く成立しない自分でも、本能的な社会に関わりたい欲望を満たすための手段として仕事を利用して生きて、本来の人間的交流とやらから逃げながらも、何とか生き延びている私は、何も語る資格はないように思います。」

 いつもするどいコメントを頂いて喜んでいたので、「何も語る資格はない」と書かれていたことに驚きを感じました。ご自分の状況をとても真剣に、真面目に考えてそう自分のことを考えられたのだと思います。それはそれとして分かる気もします。と同時に、このブログにいろいろ真剣なコメントを下さっていたことも間違いのないことだと思います。そしてそれもまた「定型との交流」の一部だと思うんですね。

 アスペと定型の交流というのは、いろんな形があっていいのだと思います。ある時は夫婦のように密接な他人の(?)関係、ある時は親子のように密接な切れない関係、ある時は友人のように適度に距離を置く関係、またある時はネット上での遣り取りのように、識らない者同士の関係。

 それぞれにそれぞれの関係の取り方があって、それぞれの人が自分にあった形でやりやすい交流の形を模索していけばいいのではないでしょうか。その中でネット上でブログのコメントを書く、というような交流の仕方が何か「芯の交流ではない」というようなことはないのではないか、いや、とても大事な交流の一つだと私は感じています。

 そんな風に感じられるのは、私自身がこのブログに記事を書いたり、皆さんからコメントを頂いたりすることで、ほんとに沢山のことを考えたり、あるいは教えていただいたりしてきたからです。それは決して何かアスペルガー問題の「専門書」を読めば分かるようなことではなくて、もっと身近に大事な問題だったりする。少なくとも私自身にとってはそういう大事な意味を持つ交流の場ですし、ときどきコメントの中でそういう意味のことを書いてくださる方も何人かいらっしゃいます。

 ということで、ジョンキルさんもみなさんも、今後とも是非、いろんな交流の仕方の一つとして、そしてその中でも多分直接話し合うのには困難が伴いがちなアスペと定型の関係では使いやすい道具の一つとして、このブログなどをせいぜいご利用下さい。

 

2012年2月10日 (金)

怨みをどうする?

joさんや他の皆さんのコメントを拝見したり、自分たち自身のことを考えたりしていて、最近改めてつくづく思い始めたことなのですが、人間って自分の内にたまった負の感情(怒りとか怨みとか憎しみとか……)を、やはりどこかで素直に表現することがとても大事なのではないでしょうか。

 このブログはどちらかというと「前向きに考える」という姿勢なんだと思います。だからコメントなんかでもそういう負の感情をストレートに表現しづらいところがあるでしょう。でも、たとえば配偶者の会「井戸端掲示板」などにはかなりストレートにみなさん自分の言葉で自分の苦しみや怒り、悲しみ、怨みなども書かれている。

 どっちがいいとか、そういうことを決めることにはあんまり意味はないと思うんだけど、でもどっちも同じくらい必要なんじゃないかと、そういう気がします。

 もちろん、負の感情をそれこそ「殺し合い」みたいな関係に発展させてしまうのは良くないと思います。でも逆に「前向き」の姿勢を必死で無理に続けて「自分を殺してしまう」ことになるのもそれと同じくらいよくないことでしょう。前向きの思いと負の思いと、その両方をうまく表現しながらお互いに生き延びていくことが大事なはず。

 
 カレン夫妻は「前向きに乗り越えてきた」お二人のように思えるけど、でも前に「井戸端掲示板」でも書いたみたいに、そのプロセスの中にはたとえばカレンさんが自分で記憶が無くなるくらいに思い切り自分の負の感情をカレンの夫さんにはき出すという経験があったんですね。そしてカレンの夫さんがそれを正面から受け止め、お二人の関係はどうもそこで大きく変わられている。

 かく言う私はカレン夫妻の後塵を拝していますが、最近そのお互いの「負の感情」が気になって仕方がないし、私の方はパートナーにぶつけたい気持ちが繰り返し湧いてくるんです。同時に彼女のそれも聞きたいし。

 もちろんその「ぶつけかた」は難しいわけですけれど、でも変にオブラートに包むのではなく、かといって怒りで我を忘れたり、絶望的な気持ちなるのでもなく、しかし正直に伝えることはできないものか。なんかそれができなければ、自分の中にオリのようにたまったものが、いつまでも自分を苦しめるような気がするし、結果としてそれはお互いの関係にとってもよくないような気がします。

 

2012年2月 6日 (月)

ズレが共有されないとき

 続けてwakabaさんのコメントを引き合いに出して申し訳ありませんが、

「アスペルガーの要素を多分に持っていたとしても、それぞれ各個人個人、スペクトルの位置は違いますし、擦り合わせの作業は各カップルごと違うものだとも思いますが、擦り合わせの必要性すら認識してもらえないのがとても歯がゆいです。」

 と書かれていることもまた頭を抱える感じです。
 果たしてそう言うときにどうしたらいいのか、多分一般的な答えというのも無いんだろうと思いますが、今ちょっと希望を持ちたいなと思っていることがあります。

 今度出版社さんが出して下さる本(早ければ連休くらい、遅くとも夏までには出る予定)は、アスペと定型のひと組の夫婦のお話をずっと語っていただく内容です。そこではそれぞれの方の生い立ちも語られていますし、結婚までの経過、結婚後困難を経て離婚話や別居になり、その後二人の道を改めて歩まれる、という経緯を語っていただいているのですが、今はお幸せそうですし、お二人で問題(アスペと定型のズレ)を共有できて「乗り越えた」夫婦の例になるのでしょう。

 普通はそういう「成功」したカップルの話を紹介するのは「みんなこんなふうにやればうまく行きますよ」という宣伝のようなものだと思うのですが、そういう本にはしたくないと思っています。

 実際そううまく事が進まないカップルもたくさんある。なぜそこがうまくいったりうまく行かなかったりするのか、ということを、たとえば今度の本を読みながら少しでも手がかりになるようなことを見つけていただきたいと思うのです。

 それは「こんなにカップルの状況やそれぞれの個性などが違うのであれば、自分の所のカップルではこんな風にうまく行くことはあり得ない」という判断になるかも知れないし、あるいは「違うんだけど、ここのところを参考に、自分たちにあった形を模索すればもしかして新しい可能性が見えてくるかも知れない」という気持ちになられるかも知れない。

 そのどちらになるかはもちろん私にはわからないことですし、またどちらにも理由があるのでしょうから、どちらがよくてどちらが悪いとも思いませんが、でも色んな方にとって、今の状況から次の一歩を考える上で、ひとつの手がかりになって欲しい、そんな風に思います。

2012年2月 4日 (土)

「違う」というスタートライン

 wakabaさんからのコメントを拝見していて、どういうのか、痛みを感じてしまいました。wakabaさんが突き当たって苦しんでいらっしゃる問題は、簡単に答えを見いだせるようなものではなく、そういう場合、一体どうやって問題に向き合っていったらいいのだろうと、常々思っていることなのです。

 このブログの主宰者、(というか要するにパンダ (^ ^;)ゞ ) の基本的な姿勢としては、アスペと定型のどちらかの視点からだけではなく、両方の視点から対話することを「模索しよう」ということ、その模索の結果、答えが「これからも共に生きていこう」でも「お互いに別々の道を歩もう」でも、それはどちらでもよく、逆に言えば最初からどちらかに決めつけてはいけないと言うこと、その答えはお二人の育ちやなれそめ、その後の経過や周りの状況、ご本人の性格などいろんな要素がからまってそれぞれのカップルでみんな個性的なものであること、そんなことを大事にしています。

 そしてそこではお互いの「対話」が大事になるのですけれど、まずはそういう関係になること自体に大きな困難がある。場合によってはそのこと自体を諦めざるを得ないこともあり得ると思うんです。それはwakabaさんがおっしゃるような「アスペの方の脳タイプ」とか、「自閉症スペクトラム」のどこに位置するかとか(それらもアスペの方の方の「個性」の一部ですね)、そういうことによって大きく影響されてしまう。お互いの個人的な精神的努力だけではなかなか届かない、あるいは他の人以上に大きな努力が必要とされる部分もやっぱり有るだろうと思うんです。

 私としては、ですから可能な限り「対話的な関係」が可能になる方法を考えていきたいし、そのためには「アスペと定型のズレ」があるという共通理解がかなり重要らしいとも思いますけれど、すべてのカップルでそれを本当に追求できるのか、ということはやっぱり何とも言えない。無理矢理片方の人だけがそれを追求し続けて、却って精神がぼろぼろになって再起不能に近くなる場合だってありそうに思えます。

 このことについて今の自分として考えられることは、最初の内は噛み合わなくてお互いに傷ついたりすることが多少は繰り返されたりしても、とにかくお互いが努力するような姿勢が共有されている場合にはいいとしても、どちらか一方だけがものすごく苦しんで努力して、相手の人はどう見てもそう思えないような状況がずっと続くようなことは、やっぱり避けなければならないんじゃないか、ということです。

 自己犠牲自体が本当に自分の喜びになるような価値観をお持ちの方なら、あるいはそれでもいいのかもしれません。「私さえ我慢すればみんなが幸せになれる」と真から思えることに喜びを感じられる場合ですね。でもそうでない場合、自分が幸せに近づけないことは、結局全体の幸せを減らすことにもなる。もちろんこれもお子さんがいらっしゃる場合にはお子さんの幸せの問題も絡めて考えなければいけないから、単純に答えが出ることではないですけれど。

 wakabaさんの状況が具体的にどういう例に当てはまるのか、あるいはまた全然違う話なのか、私にはもちろん分かりませんけれど、けれども「お互いに向き合って対話的に問題に取り組んでいこう」という間柄にたどり着くこと自体の難しさ、wakabaさんの言い方では「自分はこう思うけど、相手は違うのだ。というスタートラインにはどうやったら立てるのでしょうか」ということ、そのことの難しさを考えるとき、やはり胸が痛まずにはおれない感じがします。

 「私はあなたとは違うんだ」ということを折に触れて繰り返し話すこと、態度で示すこと、そういうことは効果がある程度有るんでしょうか。多分ちょっとやったくらいではほとんど見過ごされて終わりのような気もしますけれど。

 どなたかこういう問題になにか経験やお知恵をお持ちの方がいらっしゃるといいんですが。

 

2012年2月 2日 (木)

ズレのしんどさにどう向き合う?

 昨日、アスペと定型の「同じ」という面がいろいろ見えてきた気がするという話を書きました。「同じ」というのは「全く同じ」という意味ではもちろんありません。すごく抽象的にみると、「同じ」面が見えてくるということでした。だから、その「同じ」ことだけど具体的に見るとお互い正反対のことをやっていたりして、本人同士は「同じ」などとはとても考えられないようなものだったりする訳です。

 たとえば落ち込んでいる相手に寄っていって慰めるか、放っておくか、そのやり方は正反対なんだけど、どちらもそれが「相手のため」だと理解しているのは同じ。それが分からないときはお互いに「何で相手はこんな事をするんだろう」と思いますから、それが積み重なれば深刻な不信感にもなります。

 でも、それが実は自分のためにそうしてくれているんだ、ということが本当に実感されてくると、相変わらずそのやり方にはなじめなくても、なにか信頼感がでてくるというのは面白いことだという気がします。信頼感が出てくると、つながりが維持されます。つながりが維持されると、次の可能性が感じられるようになる。

 ただ、ズレの部分のしんどさがそれで消えてしまうわけではないので(少なくとも今の私のレベルではきれいさっぱりとは到底いきません)、その問題にどう向き合っていくのかは私にとってはまだまだこれからの課題です。考えてみると最近パートナーと話す内容はそれに関することが多くなってきているように思います。

2012年2月 1日 (水)

「同じ」が見えてくること

 今日パートナーと話していて、「相手に自分を認めて欲しい」という思いは同じなんだという話になりました。そして認めてもらえればとても嬉しいと言うことも。
 
 ただ、何を認めて欲しいのか、どういう風に認めて欲しいのか、どうすれば認めることになるのか、そこにアスペと定型のズレが生まれるのですね。

 共感の話も微妙な問題が残っているようでもありますが、でもやはりアスペであれ定型であれ共感はするし、そして共感は決してマイナスのものではない。ただ、どういうことにどんなふうに、どんな強さで共感するのかがやっぱり異なる。

 側にいて欲しい、ということも同じなのかも知れません。ただ側にいてどうして欲しいのか、どのくらい側にいて欲しいのか(距離のこと)、そう言うことにズレがある。

 そんなふうにアスペと定型の間で、ある程度一般的に言えば「お互い同じじゃない」言えるところがこのところほんとに次々と見えてきているような気がするんです。ただ、その中味がすごく違ったりするので、ふつうはとても同じに思えなかったりするだけとも言えそうです。

 同じと言うことが大切なのか、それともズレの方が重要なのか、私はどちらとも決められません。どちらも大事だと思います。「同じ」という面を感じていられるからズレの問題にも取り組めるのだし、ズレの問題を深めて考えていくから「同じ」という面も見えてくる。それは言ってみればひとつのことの二つの面なのかも知れません。

 これまで私は異文化のことについて、そういう「同じ」と「ズレ」の関係のことを感じることが良くありました。それはとりあえず定型同士の関係の問題でした。でも異文化問題そのものとは違うんですが、やっぱり定型とアスペの間にも「同じ」と「ズレ」の問題がある意味で似たような形であるんだなと、そういう確信に近い思いができあがってきています。

 これからも大事に考えていきたいポイントです。

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