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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2012年1月14日 (土)

アスペの人のつつましさ

前の私の記事「アスペ的共感?」にジョンキルさんからコメントを寄せていただきましたが、この説明、私にはとてもわかりやすい感じがして嬉しかったです。

書いて下さっていることについては何か私の方で付け加えて説明したくなるようなことは全然なくて、そのとてもわかりやすい説明にただ「ああ、なるほどなあ」と頷いてしまうばかりです。定型の人間に対してもこんなにわかりやすく説明が成り立つんだとすれば、「お互いに翻訳しながら理解を広げていく」可能性がすごく大きく感じられて、それで嬉しいのかも知れません。

「美しい景色」を見たときに、それを心ゆくまで堪能するためには、となりの人がそれについてごちゃごちゃ話しかけてきたりされるのは邪魔で、まずはひたすら自分の中でじっくりその美しさに浸り尽くしていたい。そしてその感動を自分自身の中でゆっくりと時間をかけて消化していきたい……という考え方、言われてみればああそういうことかと分かる気がします。「本当にそうだね」と心の底からわかるのではないけど、でも「ああなるほどなあ」という感じでは分かる。

それから自分にもそういうことが有るだろうかと考えてみます。「感激の余りしばらく声も出ない」ということはありますね。でもそのまま黙り込んでしまうようなことはやっぱりなさそうに思う。一緒にそれを見た人がいれば「もう、言葉にならないくらい、感動したね」とでも言うかも。それとか「しばらくこの感動の余韻に静かに浸っていたいね」とか。そして一段落したら猛烈に話し出したりして……

思い出したことがあるんですが、私がパートナーとつきあい始めて間もない頃のことです。彼女がほとんど人もこないような小さな池に私を連れて行って、そこに一輪だけ咲いた蓮の花を「ほら」という感じで見せてくれたんです。ふっくら開いた薄いピンクの花弁の中にあわい黄色の花托が、やさしくやわらかく濡れそぼった処女のようで、どきっとするような美しさでした。

で、そのとき、彼女は一言も言わないんですね。ただ私にそれを見せたかったという感じ。もちろん本人も美しさに感動していたんでしょう。でも何も言わない。そのことが、なんだかその後も私の心にちょっと不思議な、でもいい思い出としてずっと残ってきたんです。その不思議をいまジョンキルさんに明かしてもらいました。

はっきりした記憶はないんですが、多分そのとき私は「すごくきれいだね」とか「こんなにきれいだって知らなかった」とか、何か言っていたと思います。でも、それに対しても特に返事はなかったような気がする。


そのとき自分が味わった感動を、共有したいという気持ちが、パートナーにはあったように思います。それは定型的に言えば「共感したい」という言葉になるんだろうけれど、やっぱり微妙に違う気がする。ジョンキルさんの書かれているように、深い感動はそれぞれの人が自分の心でするもの、というのがアスペ的な感じ方で、だからといって自分一人だけの秘密にしておかなければならないことはなく、とりわけ「お気に入り」の人には教えてあげたいと思ったりする。それをどう感じるかは相手の問題で感動を共有する=共感することは無理に求めないんだけど、でも相手の人が相手の人なりの感動をする可能性は分けてあげたいのかもしれない。

ちょっと言葉を換えると、感動する気持ち自体を共有するというより、感動する場所、感動するものを共有しようとされるんじゃないかな。

そう考えると、繭さんのあのとても素敵な写真のことがまたわかりやすくなる気もします。最小限簡単な説明が文章でついていることは有るけれど、基本的には写真と、それからよく考え込まれたそれぞれの写真タイトルだけで作られたブログ。

私はよくその写真を見て一瞬声にならないような驚き、感動を味わうんですけれど、あのブログのファンはここに来る皆さんの中にも多くて、そして「癒される」という思いを持つ方が多いんですね。私もよく分かる気がします。繭さんの写真には、そのちいさな世界にいろんな小さな物語があるんだけど、なんていうのか、やかましくないんです。夜寝るときに子どもに絵本を読んであげるときのように、静かにそっと優しく語られる物語。悲しい物語やうれしいものがたり、寂しい物語やちょっと賑やかな物語など、いろんな物語があるけれど、でもどれも小声でささやいている。もちろんそこにどんな物語を聞くかは見る人の勝手です。

繭さんは繭さん自身がそこで感じた物語がある。そこに繭さんの感動もある。でも繭さんは写真を掲載することで、その繭さんの感動、繭さんの物語りを私たちに押しつけてくるわけじゃなくて、繭さんが感動した「もの・景色」をそこに置いてくれるわけです。それに感動するかどうか、どう感動するのかは私たちに任されている。そんな感じだから私たちは安心して自分の気持ちでそれを見ることができる。でも「他の人もどういうふうにか感動してくれる人があると嬉しいな」とは繭さんも感じている。


アスペルガーの人の(定型からの)イメージの一つとして、こだわりが強くて、自分のやり方に相手を従わせようとする(特に相手が子どもの場合などは強く出やすい)、というものがあるように思います。そして実際我が家ではその問題がほんとに深刻な状況を作っていきました。けれどもジョンキルさんの説明を手がかりに、こんなふうにパートナーとの思い出を考えたり、繭さんの写真を考えたりしてみると、「おしつけがましい」どころか、全く逆に本当につつましくひとに接する姿も感じ取れるようになるんですね。なんかすごいなあと思います。

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コメント

とりあげてくださってありがとうございます。

パンダさんはお気づきのように、定型の中にいろいろな人がいるように、アスぺの中にもいろいろな人がいます。

パンダさんの奥さまはどのようにお考えなのか、私にはわかりません。パンダさんは奥さまのことを思いやるお気持ちがとても強い方ですので、私がこのようなことを申し上げるのは僭越というか、言わずもがなのことだとは思うのですが、奥さまご自身のお気持ちに寄り添っていただければ、と思います。

自分のやり方に相手を従わせようとするのは、定型(というよりアスぺ以外)もアスぺも同じだと思います。特に、相手によかれと思って(思い込んで)のアドバイスやしつけは、相手を追い詰め傷つけてしまいがちですよね。受ける側も、自分への愛情も同時に感じるので逃げ出すことや否定することができずに、そのまま大人になってしまったりすることも多いように思います。もっとも、適切に機能している家庭の子供は、反抗期を経て大人同士の関係へと成長していくのでしょうけれども。

ただ、アスぺの場合、人間関係を「相手の考えを尊重しているということを態度で示すにはどうふるまえばよいかというノウハウの理解」でこなしていたりしますから、相手が未成熟で全面的にこちらに依存する関係の場合、「じゃあ、私の考えに従うってことでいいよね」という風に振る舞ってしまいがちなのかもしれませんね。私には子供はいませんが、会社の人間関係で思い当たる節があります。よほど気をつけなくては、と、改めて思いました。

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