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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2012年1月20日 (金)

アスペと定型が交わるとき

 繭さんからいただいたコメントの中にこんな文章がありました。

「ええと、「自分が夫をどれだけ幸せに出来たか」ではなくて、「夫はどれだけ幸せと感じているのか」なのです。」

 みなさんはどうお感じでしょうか。ここまで来ると、アスペか定型かという違いに意味があるのだろうか、とそんなふうに私は感じました。

 アスペは自己中だという話があります。たしかに定型にはそう見える面が有るのでしょう。でも上の繭さんの文章はまさにその正反対です。私がどうかが問題なのではない。相手がどうかが問題なんだ。まさに「他己中」ですよね。はたして私自身を含め、定型の中でそこまで純粋に「相手のことを考える」といいう立場に立ちきれる人がどれだけいることでしょう???

 もちろん繭さんがアスペではないとか、アスペを越えているとか、そういうことを言いたいのではないです。繭さんは私が知っているかぎり(と言ってもブログ上でですが (^ ^;)ゞ)、今も立派にアスペを生きていらっしゃいます。その生き方は定型とはすごく違う。それなのに、繭さんの上の言葉はアスペという狭い枠を越えて、ちゃんと定型の人間の気持ちにもある種の理想として響いてくるものだと思えるのです。

 私はこれからもアスペと定型の違い、そのズレにこだわり続けようと思います。でも、そのズレと共に?、ズレを深めたところに?、越えたところに?…… 何と言っていいかいい言葉が見つかりませんが、この言葉のようにお互いが交わるところが生み出されている。

 定型同士だって実際はお互いに相当ズレながら生きています。でもあんまりそう言うことを気にしないことが多いし、また実際にお互いに交わっているところも少なくないでしょう。でも、ほんとに突き詰めていったときに、この繭さんの言葉のように、アスペと定型の間にも交わるところが確かに見いだされる。

 そのことを実感できたことは、アスペと定型の問題を考える上でも、一人の人間として生きていく上でも、私にはとても大きな意味を持ちそうです。

 

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コメント

私も繭さんの言葉がよくわかります。アスぺの求めるのは、「結果として得られた状態」なのです。例えば、私(多分繭さんも?)の場合、一人一人が他の人に邪魔されることなく自分の好きなことができていて、そこで感じる全員の「幸せ度」の合計が最大になっていることが、理想の状態のように考えてしまうのですね。一方、パンダさんの、「相手のことを純粋に考える」というご理解は、自分に当てはめて考えた場合には、過分なご評価のように思えてしまいます。だって、自分の幸せは、相手の幸せ同様、純粋に大切なことですから(笑)。

もしも、昨日の相手の幸せ度が100で、今日も100。だけど、その中に占める自分がやってあげたことで得られた幸せ度が、昨日は70だったけれど今日は10だった。ということがあった場合、パンダさんはがっかりされてしまうのかもしれないと思いました。あるいは、「本当だったら自分の70に、その他の90が合わさって160にできたはずなのに、せっかくの特別の日が昨日と同じ、普通の幸せで終わっちゃって物足りない」と思われるのでしょうか。でも、私だったら、「自分が相手をどれだけ幸せにできたか」はあまり関係ないので、昨日も今日も同じ、相手にとっていい日だったと思うような気がします。「今日は、90の幸せが他にあったんだ。それを私が邪魔したりしなくて、90を満喫できたみたいだ。よかったな。」って考えてしまうのではないかと。

逆に、アスぺが100の枠の中で90に浸っている最中に、その様子を見ていた定型の方に「よし、今日は幸せ度160を目指そう!」と働きかけられた時、「なんで急に60増やすなんて無理なことを要求するわけ!?」とパニックになって、いきなりお互いの幸せ度マイナス100、なんてことってありそうな気が…(反省)。
パンダさんのお言葉をきっかけに、一人で没頭し始めた時には「あ、今日は160まで行ける日なのかもしれない」という風に、考えを柔軟にすることを意識して心掛けないと、知らずに定型を傷つけてしまうことになるのかも、と、あらためて考えさせていただくことができました。ありがとうございました。

私が離婚を決めた理由が主人にとって「私と居るよりも別れる事のほうが幸せ」だと感じるから離婚をすることにしました。
3人の子供が居るのですが、引き取らないことに決めたのも「私と居るよりも主人と居たほうが幸せ」だと感じるからです。
それで、相手を重視した選択をすることで自分が犠牲になるかといえばそうではなくて、すべてにおいてよりよい選択が出来ているのであればそのことに納得できるので、犠牲感や不幸感はそれほどありません。
「別れたい」と伝え辛い事を伝えてくるほどに自分が相手に対して満足できる存在ではなかったということに申し訳なさを感じるし、それを引き伸ばしても幸せではないと感じます。
離婚の話をすると周囲の方は「慰謝料」や「親権」を主張するようにおっしゃられるケースが多いですが、そうすることで「自分の大好きな家族」に負担を強いることのほうが辛いと感じます。
別れる悲しさや寂しさはありますが、負担になっている罪悪感を抱えるほうが辛いのです。

タイミング的に私事を書き連ねてしまいましたが、周囲の方に言われる「いい人」という言葉の意味がなんとなくわかりました。
アスペの言葉を文字通りに受け取る部分も影響しているのかもしれません。
小さい頃に言われた「ひとりはみんなのために、みんなはひとりのために」といったような単語をそのまま受け止めて大きくなったのかもなぁと思いました(笑)
私にとって、自分の理想こそが「なるべき自分」で「やるべき行為」と思っているのかもしれないと思いました。

yukipomさん、私も同じような考え方をすると思います。
全体の結果としての最大化に貢献することが、自分の満足につながるのですよね。

ジョンキルさん

「アスぺが100の枠の中で90に浸っている最中に、その様子を見ていた定型の方に「よし、今日は幸せ度160を目指そう!」と働きかけられた時、「なんで急に60増やすなんて無理なことを要求するわけ!?」とパニックになって、いきなりお互いの幸せ度マイナス100、なんてことってありそうな気が」

 ここが一度読んだときによく分かりませんでした (^ ^;)ゞ
 二度読んでちょっと分かった感じが出てきました (^_^)
 三度読んで「へえ、そんなことがあるのか」と思いました (^o^)
 折角自分で90の幸せに浸っているところに、外から揺さぶりをかけられたら
 それで折角の幸せが崩されてしまう、という感じなのでしょうか。


yukipomさん

 yukipomさんのお話しを読んで、わたしもやっぱり本当に「いい人」という言葉が思い浮かびましたし、また「身を引く」とか「自己犠牲」という言葉も思い浮かびました。私のパートナーはyukipomさんの書かれていることがよくわかると言います。そんなに「いいひと」なのに「身を引」かなければならないという現実が、なんだか私には悲しいです。でもそれはyukipomさんにとって、とても大切な選択なんですよね。

ジョンキルさんのコメントに、「そうなんです!」と心の中で何度も頷きました。私が上手く説明できないことを的確に書かれていて、痒いところに手が届いた気持ちです。

そして、 yukipomさんのお話、とても理解できます。自己犠牲ではなくて、納得と満足を求められた結果の選択だったのではないでしょうか(私がそうなので ^^)。私は子供はおりませんが、夫に対して似たようなことを考え、口にしたことが何度かありました。

パンダさんの書いて下さったこと、私も褒められ過ぎと思います(^ ^; でも良く受け取ろうと考えて下さるお気持ちは、とっても嬉しいです(^ ^)
利己と利他という言葉を使うとしたら、私の感覚は「利己と利己」といったものです。自分がどうしたら満足できるのかは自分が一番分かる。平行して、他者の満足は他者自身にお任せしよう…というような。

ひとつ思い出したエピソードがあります。夫と交際中の頃、二人でどこかへ出掛けようという話をすると、私は自分の一番行きたい所を言い、夫ははじめから自身と私の折衷案を出していました。当時は夫が何故そんなことをするのか理解できず、けんかになったこともありました。
私が考えていたことは、行きたい所が異なってもいいし、それぞれが一番楽しめることを教えあうのは楽しいこと。それをお互いに出し合って、それから折衷案を考えるのも良し、どちらかに合わせるのも良し、場合によっては別々に行くのもまた楽しい。その話し合いを楽しくしたいのに、何故彼は自分の一番を教えてくれないのだろう…と、さみしく不満に思っていました。そして、私が自分の一番を言うことは、彼にとっては自分を考慮されずにさみしいことだったのだとは、考え付きもしませんでした。
今は夫が協力してくれ、したいことを言ってくれるので嬉しいです。お互い譲り合ったり、時には別々に楽しんだりしています。例え自分は興味のないことでも、自分が納得した上で譲って、大切な人がとても満足しているのを見られるのなら、(心に余裕があれば)そのことがとても満足なので、充分楽しめます。出来ればそういう時には、相手には手放しで満喫して貰えたら嬉しいです。そうすれば、私の満足度が上がるので♪

ただ、逆の立場も同じ事を想定して発言するのは控えた方がいいのだろうと思っています。特に家の外では、自分のしたいことを言うと相手の希望を押し退けた上での発言と受け取られるのだと夫から学びました。交際初期に「我侭だね」と言われることしばしばだった理由の一部は、こういった考え方の違いだったのだろうと思っています。それを除けた後にどうなのかは分かりませんが(^ ^)

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