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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2012年1月28日 (土)

エヴァンゲリオンと承認欲求

 繭さんがコメントで「定型の夫と接する上で、実は一番厄介なものが「自分の承認欲求」だったと感じることが多々あった」と書かれていましたが、無料動画サイトGyao!で今見られる(今月いっぱい)テレビアニメ版「エヴァンゲリオン」を見ていたら、最終話の一つ前から最終話にかけて、まさに「承認欲求」についての葛藤とその「解決」の物語でした。

 エヴァは前から見たかったので今回見られて良かったのですが、主人公のケンジなんて如何にも最近の心優しいナイーブな悩みと、自分でも気づかずに怒りを抱え続ける少年ですし、綾波レイのキャラクターにはアスペルガー的な世界観を私は勝手に感じてしまって、そういうところも面白かったです。

 ただ、「自分は何のために生きている?」「自分って何?」「つながりって何?」とかいうことをずっと問い続ける最後の二話については、結構鋭い問いを連発していて、それはここで議論になっているようなことにも深いつながりがある大事な問題を感じさせるんだけど、「解決」の仕方が私にはちょっとあっさりしすぎていて拍子抜けのところがありました。多分あれだとここに集っている皆さんの悩みにはまだ届かないなあと、なんか直感的に思いました。

 それはいいとして、でもやっぱり一世を風靡した作品ですし、綾波レイについて上に書きましたけれど、なんかそこに描かれている世界観が、アスペと定型の問題にひっかかってくる感じがするんです。ということは、アスペと定型の問題というのはなんだかすごく現代的な問題なんじゃないだろうかという気がします。そしてそのひとつ、しかも中心的なものの一つが「承認欲求」つまり「人に自分を認めて欲しい」という欲望です。

 それがうまくいかなくなって自分の価値がわかんなくなっているのが今の人間関係で(だから秋葉原事件みたいなことが起こるし)、お互いにその「承認欲求」の具体的な内容がずれて苦しむのがアスペと定型の間に生じやすい問題なんじゃないでしょうか。その意味でこの問題に悩む当事者である私たちは「時代の最先端」?

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コメント

エヴァンゲリオンは放送当時に見ていたので懐かしいです。
パンダさんおすすめの最後2話を見て来ました。

見直してみると、昔とは随分と違う感想になり、自分で驚きました。
当時は「………………それで終わり?」だったのですが、今日の感想は「濃縮し過ぎ!」でした。
特に最終話は、台詞のひとつひとつに、これまでの自分が何年も掛けて通過しながら見出し、実際に口にして来た(つい昨日も)言葉が重なりました。最後の「おめでとう」「ありがとう」は、ここ最近に経験した感覚で、とてもよく分かるものでした。

存在理由を求めることは、存在理由を喪うこと。
全ての答えは、自分の手の中に。
これに尽きるのだなぁと思いました。

私はまだ父と母に「ありがとう」と「さようなら」を言える段階ではありませんが、いつかその心持ちに辿り着けたらいいなと思います。
自由と不自由の話も面白かったです。

繭さん

「特に最終話は、台詞のひとつひとつに、これまでの自分が何年も掛けて通過しながら見出し、実際に口にして来た(つい昨日も)言葉が重なりました。最後の「おめでとう」「ありがとう」は、ここ最近に経験した感覚で、とてもよく分かるものでした。」

 へえ、そうなんですか。やっぱりそうなんだ、という気持ちもするし、そこまでそうなのかという気もします。

「全ての答えは、自分の手の中に。これに尽きるのだなぁと思いました。」

 多分この感覚の所で繭さんとカレンさんはすごく共鳴するところがあるのかなと、勝手に想像しているんですが、そこが私は違う所なんですね。ゼーレの(?)「人類補完計画」は私にはまだ効果が現れていないのかな (^_^)

 なんというか、私の場合は自分がすべての世界とつながっていると言うところに自分なりの答えを見いだそうとしています。自分は世界の一部ですし、世界が自分でもある。自分はだから有るようで無いし、無いようで有る、自分の手の中にすべての答えがあるとすれば、それは自分が世界だからで、でも同時に自分は世界の一部だから、そこにすべての答えがあるわけではない。そんな感じですね。なんか禅問答みたいだけど。

 たとえば繭さんが写真を撮っているときに、ある意味で被写体と一体になっているのかも知れなくて、そこには被写体と繭さん、そしてその二つを包み込む世界が一体となって写真を生み出している。そこに被写体の、そしてそれを見る繭さんの「真実」があって、「答え」があって、でもそれは小さな意味での繭さんという枠を最初から越えて成り立っている。そんな風に私は感じるんですね。その意味で自分の中に答えはない。ただしもちろん自分抜きで答えはない。

 そのあたり、「人類補完計画」はどう考えるのか、劇場版の「エヴァンゲリオン」とかも見てみたいなあと思ったりしています (^ ^;)ゞ

パンダさん

仰っている世界のイメージ、「自分は世界の一部で、世界が自分でもある。自分はだから有るようで無いし、無いようで有る」よく分かります。私も同じような感じ方をしています。(カレンさんもそんな風に仰ってましたが、正確にはご本人に^^)

答えもやはり、世界の一部であり、世界そのものでもある。だから、有るようで無いし、無いようである…という風に、最近の私は感じています。

こんな感じです。
世界と私と答えは等価であり、全であり、無である。どの人も同じく。
私が手の中に握り締めていた答えは、はじめから有ったけれども、握り締めている限りは無かった。
けれども、手を開くとそれは私の手からは喪われ、無になってしまう。
私は失うことを恐れ、自分の手の中に世界と私と答えを握り締め続け、それは同時に失い続けることだった。
手を開き、世界と私と答えを喪った時に、はじめて私は私を見付け、世界と私と答えの存在を信じました。
恐れていた無は、全でもあり、自由というものでした。とても、とても畏ろしいもの。
今の私は、自由を畏れつつ、味わい始め、時々逃げたり(逃げられませんが)戻ったりしています。

>たとえば繭さんが写真を撮っているときに、ある意味で被写体と一体になっているのかも知れなくて、そこには被写体と繭さん、そしてその二つを包み込む世界が一体となって写真を生み出している。そこに被写体の、そしてそれを見る繭さんの「真実」があって、「答え」があって、でもそれは小さな意味での繭さんという枠を最初から越えて成り立っている。そんな風に私は感じるんですね。その意味で自分の中に答えはない。ただしもちろん自分抜きで答えはない。

パンダさんは「絶対的な真の世界」があって、それが「真実の答え」という風に考えていらっしゃるのかなと思いました。その影響を受けた「個々の世界、個々の真実・答え」がそれぞれもまた影響しあいながら存在するイメージなのかなと。
私は絶対世界という感覚がないので、そこは違うみたいです(とっても楽しいです♪)

私の場合は、真実も、答えも、枠を持たず、それらの広がる世界が、私という小さな鏡の中に映りこんでいるようなイメージを持っています。そして、どちらも実像である。
私の鏡に映った世界と、世界の鏡に映った私。どちらがどちらを含んでいるのか…という。
結局、「私」がいないと「私に相対する世界」は存在しないし、「私」が変化すると、「世界」も変化する。それぞれの逆もまた然りで。それが「真実」で「答え」なのだと思っています。
この世界観においては、他者の世界は自分に内包するものであり、自分の世界は他者に内包されるものでもあります。
だから、自分が答えで、他者もまた答えで、どちらも真実なのだと思います。

楽しくて、延々と書いてしまいました(^ ^)

劇場版「エヴァンゲリオン」は一番最初の作品を劇場で見た筈なのですが、ほとんど覚えておらず、こちらも今見たら、違って見えるのかもしれません。
夫にパンダさんとの話をしたら、彼もエヴァに興味を示したので、そのうちレンタルして一緒に見ようと話しています。その後で映画も見てみたいです。

繭さん

 「恐れていた無は、全でもあり、自由というものでした。とても、とても畏ろしいもの。
今の私は、自由を畏れつつ、味わい始め、時々逃げたり(逃げられませんが)戻ったりしています。」

 この直前までの話はほんとに「ああ、一緒じゃん」と思えるところが多かったのですが、ここで「無」が「畏ろしい」というところで、「あれ?ちょっとずれた?」と思いました。なんで畏ろしいという感じになるのか、まだよくわかりません。

 「パンダさんは「絶対的な真の世界」があって、それが「真実の答え」という風に考えていらっしゃるのかなと思いました。その影響を受けた「個々の世界、個々の真実・答え」がそれぞれもまた影響しあいながら存在するイメージなのかなと。」

 私は「絶対的な」(つまりいつでもどこでもどんなときにも通用する、固定的なというような)真の世界という物はないし、「真実の答え」というものも固定的な物としてはないと思っています。ただし、あるとき、ある視点から見たときにはその視点から見える唯一の答えはある。ちょっと視点をずらすとまた変わるんですけどね。そんなイメージを持っています。ということで、「残念ながら(?)」その後に繭さんが書いていることには全然違和感有りません~ (^_^)v

 これがご縁でお二人でエヴァを見られるとのこと。うれしいですね。夫さんによろしくお伝え下さいませ。

パンダさん

残念(?)でした~! でも、同じも楽しいのでお得です(^ ^)v

自由は、そうれはもう、畏ろしいです。不自由は、簡単で楽で安心です。
人やものごとを理解出来ない不安は、不自由になれない不安と思うこの頃です。

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