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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2012年1月12日 (木)

アスペ的共感?

私の記事「溝はどう埋まる?」に下さったジョンキルさんのコメントの、

「「よかったね」の後が続かないから、「よかったね」と言いたくない気持ち、私にはすごくわかります。」

という文章、内容をつっこんで考えることをしなければ、定型にとってもとても自然な、共感的な文章のように感じますがどうでしょうか。ジョンキルさんが自分の体験で本当に苦労されてきたことと、私のパートナーの話がすごく重なって、そして共感が生まれている。

この共感と、定型の共感とは、なんか違いがあるのでしょうか?

そのあとにジョンキルさんが

「もし私だったら、例えば仕事上のお客さんとか、あまり頻繁には会わない人に同じことを言われたら、話を合わせるのが礼儀だと考えて「よかったですねー。」と言うと思うのですが、いつも一緒にいる相手だとつらいな、と思います。」

と続けて書かれるところまで来ると、定型の人は「あれ?」っとクエスチョンマークがつき始めそうです。「よかったね」って、単に「礼儀」で言うだけのことではなくて、自分も嬉しいから言うことだって多いと思っているからでしょう。

で、

「なぜなら、ある程度近い相手の場合、 共感してもらったと思ってうれしくなって、更に深い共感を要求する会話が始まってしまうことが多いからです。その場合、こちらは、「相手はこういうことをうれしいと思うんだ」という理解に基づいて、相手に喜んで「もらえるよう話を合わせているだけで、自分の内側からわいてきた感情ではないので、用意したセリフが尽きた時点でその先はもう真っ白です。」

となるとさらにクエスチョンマークが増えそう。特に「ある程度遠い相手の場合」ならもしかしたらそういうこともあるかもしれないけど、ここでは「ある程度近い相手の場合」ですものね。「近い相手」だけど「共感が成り立たない」ということを、ジョンキルさんは私のパートナーと「共感」しているわけです。なんか定型の私から見ると不思議というか面白いというか。

もう一度この共感と定型の共感とは、なんか違いがあるのか、と言う問題に戻ると、「共感している」という「形」は同じように見えます。ただ、何に共感しているかの「内容」が定型とは違っているらしい。

たとえば定型同士の関係で喩えてみるとこういう事でしょうか。辛い辛い韓国料理が大好きな二人が、汗をかきかきそれをたべて「おいしいねえ」と共感している。でも辛いの大嫌いな別の二人はその姿を見てしら~としていて、なんの共感も生じない。逆にべたべたにあまいスイーツが好きなその二人がそういうのを食べて「最高!」とか共感してるのを見て、先の二人は「おえ~」っとなっている。

どちらの二人も共感は成り立っているんだけど、その二組の間では共感の中味が全然正反対になっている。そういうことは定型同士でも珍しくはないはずです。

さて、上のジョンキルさんの共感と定型の共感と、その違いはやっぱり同じようなことなのでしょうか。それともそれに加えてなにか別の要素が有るのでしょうか?あるいはちょっと見一緒なだけで実は全然違う?

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コメント

はじめまして〜。彼女がアスペルガー症候群じゃないかと思ってるものです。このブログの様に発達障害の方のパートナーの感じ方や接し方が中々無くて、このブログ主様の考え方がわかってとても助かります。本当に申し訳無いのですが、一度相談させて頂けないでしょうか?宜しくお願い致します!

英司さん

 はじめまして、どうぞよろしく。
 ブログが多少なりともお役に立てて嬉しいです。

 個人的にご相談にのるというのは色んな意味で無理ですが、
 コメントにお書きいただいたり、原稿をメールでお送りいただいて
 記事の方に掲載させていただいたりして、
 ここに来られる皆さんで考えて知恵を出し合う、
 という形になればいいと思います。
 そうすれば他の皆さんにも大事な参考になるはずです。

 プライバシーの問題などにちょっと工夫がいるかも知れませんが、
 もともと匿名の場でもありますし、
 ギブアンドテイクの精神でやっていければと思います。

私が大学生の時、人間関係の達人という形容がぴったりな、人気者の同級生と話をしていて驚いたことがあります。
彼は、「旅行は一人で行きたくないよな。だって、もしすっごいきれいな景色を見たとしたら、誰かとすげーって話しながら一緒に感動したいじゃん。例え普段どんなに嫌だと思っていた奴でもさ。」と言いました。私は、たしか、彼に気を使って「そうだね」と答えたと思いますが、本心では以下のように考えていました。「え?感動を味わっているときに周りに人がいたら、自分の世界に浸れないじゃん。せっかく美しい景色を堪能できるときに、周囲との会話に気を配ることにエネルギーをとられなきゃいけないなんて最悪。ま、嫌な人だったら、無視してればいいけど。」

それから数年後、私は自分に似た人と結婚しました。
夫と旅行しても、その道中で無理に話をしなくて済むので気が楽です。
でも、お互い、自分が感動した光景は、相手にも見てもらいたいのです。同じ場所で、同じ景色を、美しいと思った経験は共有したいのです。でも、感動の最中は、それぞれが一人で自由に、心行くまでそれを味わっていたい。

ある程度時間がたってその感動が頭の中で整理されたとき、はじめて、「あのときの景色はすごかったな」って共有することが楽しめるようになります。感動が深ければ深いほど、整理に必要な時間も長くかかります。旅行で見た美しい景色なら、話をするのはだいたい1週間後くらいでしょうか。

誰かと感動を共有して、より感動を深めていきたいのか、感動は一人で追及し、ひと段落した後に感動した事実を共有したいのかが違いなのかなあ、と、個人的には思っています。

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