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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2012年1月29日 (日)

アスペ同士の共感

 最近のジョンキルさん、繭さん、yukipomさんのコメントに最近「共感」という言葉がしばしば見られるように思います。改めてアスペの方同士でしっかり共感が成り立つことを実感しています。

 このブログを始めた頃は、「アスペの人は共感ができない」というような単純な決めつけの理解に近かったところが自分にも合ったように思うのですが、だんだんそうではないだろうという思いになってきました。みなさんのコメントなどを見ながらその思いは確信に近くなっていましたが、今回のことで改めて「安心して」そう思えるようになった感じがします。

 共感する中味はアスペと定型で感じ方の違いがあるわけですから、それに応じた違いが有るはずですけれど、アスペと定型の間の共感が難しいと言うことであって、ある条件の下ではどちらもアスペ同士、定型同士、共感し合うことができる。

 これもひとつの例ですけれど、このところ、「ここまで考えを進めると、アスペと定型と同じ仕組みを持っているんだなあ」と感じることが少しずつ増えてきた気がします。果たしてそういうものにたどり着けるのかどうか、最初はほんとに分かりませんでしたので、1年を経て、大きな変化だなと思います。

 それもアスペの皆さんが積極的に議論に参加して下さり、いろいろ教えて下さっていることがすごく大きいと思います。それも本当によく定型のことをアスペ的な視点で観察し、考えてその理解をわかりやすく書いて下さるので、ずいぶんと理想的ですね。

 この状態がさらに発展していけば、お互いに単純な見方で相手を決めつけてしまうようなことができなくなって、改めて理解し直し合おう、という状況ができてくれることが私の願いでもあります。みなさんどうぞよろしくお願いします。

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コメント

私も、最近のアスペルガーの方々の書き込みのおかげで、また一歩、夫への理解、そして、以前は知らなかった世界への理解が進みつつあります。

特に、繭さんもそうですが、ジョンキルさんやyukipomさんの場合は、私と「女性」という共通の基盤がありますから、男性でアスペルガーである夫と女性で定型である私を比較して考えるよりも、「アスペルガーと定型の違い」に絞ったところでの違いを考えやすいんですよね。

女性に語っていただくと、同じ女性として共感できるところが多いだけに、アスペルガーと定型の違いに気がつき易いのです。そして、男性である夫から聞いてわかっていることではあっても、女性から聞くと、より素直に聞ける・納得できるところがずいぶんと出てきます。そして、それを夫との関係においても、素直な気持ちでフィードバックしていけるように思っています。

それにしても、パンダさん、あらためてですが、こんな場を作っていただいて、ありがとうございます。

カレンさん

 考えてみると、男性のアスペルガーの方からは残念ながらほとんどコメントを頂いていないですね。ま、定型も含めて圧倒的に女性からのコメントが多いわけですけれど、男性ではjoさんがよくコメントを下さっていたので。

「それにしても、パンダさん、あらためてですが、こんな場を作っていただいて、ありがとうございます。」

 いえいえ、場はみなさんが作って下さっているということだと思います。御礼のことばなど不要にして、御礼のお金を頂けるとここのパンダは素直に喜びます (^_^)

特定不能の広汎性発達障害です。
他の方の事は分かりません。自閉度によっても違うかもしれません。
ただ、共感があるかないか、という表現は少し違うような気がします。
定型の方は間弾のない交流を求める、ASDの方はそばにいるだけでいい、そういう違いのような気がします。黒か白かでなく程度の問題です。
妻は多分定型です。帰宅すると当然会話になります。会話が嫌ではありません。しかし、問題は会話が始まるとなかなか終わらない事です。だんだん疲れてうっとうしくなります。耐えられなくなります。
猫もそうです。こちらがしつこくなでたり抱いたりすると逃げます。逆に猫がこちらに甘えてきて、特にえんえんと遊び相手を求められると疲れ果ててこちらが逃げ出したくなります。
一番いいのは、1.5mくらいのところにいてそれぞれくつろぐことです。ときどき相手を見て相手がくつろいだりしたいことをしているのを確認すると安心してこちらも寝たり本を読んだり自分のことに戻ります。猫も寝ながらときどきそうやって確認しているようです。こちらがいなくなるとないたり探したりします。
そういう距離感だと思います。
他の方は違うかもしれませんが。

私も、yosakuさんに似た感覚を持っています。

そうです。会話だって楽しいんです。でも、それはアスぺにとってはスポーツのようなもので、ずっと続けていることはできないのです。体力・気力の限界を超えて強制されたら、楽しむことなどできなくなりますよね・・・。

ちなみに、私は、「いっしょにいても、ひとり」って本のタイトルを初めて聞いた時、「そう、そういうさりげなく一緒にいる関係って理想だよね」って、ポシディブに感じていました。とんでもないずれでした・・・(苦笑)。

呼ばれて飛び出ました…

パンダさんは、「アスペと定型」と言うからには、私たち(って誰だ?)の問題を「定型と定型」という多数派とは質的にちがう特殊な問題として、特殊な解決を探っているのだろうか?

それとも、この問題(って何が問題だ?)が定型と定型でも起き得る一般の問題だから道徳の教科書によってみんなに刷り込まれたみんなの問題として解釈しようとしているのだろうか?

それが現代(っていつだ?)という価値の変動の時に呼応して、感じやすい私たちが(って誰が?)ただ先駆者として味わってる苦しみなのだから、一般的な解決を探っているのだろうか?

もしかして、早晩アスペは少数派ではなくなるぞと言ってるような気もする。。。

いやまてよ、たしかアスペは文化によっても定義されるってことのはずだった。この国ではアスペでも他の国では定型多数派に区分されるアスペがいたりする可能性はとっても大きいから。この国の定型家族の圧倒的多数は、かの国に連れて行けば、共依存症で治療対象じゃないかとも思う。もっとも、かの国の健全な精神の持ち主なら、この国では絶対にアスペだと思うけどね。だから移民のための教育機関なんてのが機能するわけだ。

最近(っていつだ?)、価値観が変動してるから自分の価値のモノサシもわかんないって人が多いし、誰でもそうなる場面も多い。でも、それは昔からのことで、終戦後なんかもっと桁違いの激動を通過したはず。それでたくさん自殺したけど。ハイテク業界なんかテクノロジーと一緒に特定のマシンや枠組みの教育、訓練を受けた人間を次々とスクラップにしているんだよ、日常的にね。

個人の中にしっかり根付いていたりする『地域文化』は、バーチャルに崩壊しつつある。でもその崩壊は、地域ごとに特殊な崩壊の仕方してたりするけど。で、そういう変動についていけない人って、頭の硬い中高年ってことになってるよね。もの心ついたときの環境には、誰でも普通は適応してるから。ホスピタリズムやストリートチルドレンの自閉症みたいな症状(状態像?)だって、だいたいが環境適応の結果だからね。

もし、この問題(どの問題?)が、ある年代に、あるていど釣鐘状に集中してるっていうならば、個体の○○期に一般に見られる症状だったりするってことはないだろうか?(子育て荷おろし症候群の一症状だったりして…ちょうど硬くなってくる年代だし)。私もね、晩婚でかなり妙な年頃に子育てしてるから、パンダさんたち(誰のこったって?私の中で勝手にイメージがあるんですよ)にかなり近い年代かも。私の家族のイメージだって、みなさん勝手に作って下さってるでしょう。それ絶対に虚像です。でしょ。

個の「こころ」の硬さなんて、それが『症状』かどうか『ビョーキ』かどうかなんて、「本人(だけか?)が苦しい」かどうかと「社会(ってどの範囲の?)に適応してる」かどうかで治療、矯正される必要があるかどうか決まってしまう。それでいいのかどうか、なんて悩むのも『ビョーキ』かもしれないけど。とすると、私たち(って誰?)、ある環境(家族という、個々が変化する複雑なシステム?)の変化に適応しきれない『ビョーキ』かな?メンバーの誰かが社会の掟(法)に触れるまでは。

やっぱ、よくわかんないな。昨年、配偶者の同胞が自殺したりして(言っとくけど、●●さんと私はパートナーではないっすよ。ねー)私にも奇妙な負荷のかかり方がありました。私個人的にはごく最近、子どものことで一段落ついたようなことがあって、それで疲れが出てるのかも。やっぱり荷おろし症候群の中の一つだったりしてね。

「発達」がざっくり言って放物線みたいなカーブを描くとして、下り坂に向かってる個体の、上り坂の時の特殊な問題(発達障害があったかどうか)なんてわかりっこないし、わかってどうすんだよって気もしてます。ましてや世代間の連鎖(配偶者や自分のアスペ親のこと)なんて、そこには感覚的には確かな実感があるにもかかわらず、因果関係(遺伝ということではなく、環境という意味で)ということになると、もっとずっとアヤシゲなつながりしか「理性的には」考えられない。下り坂の途上での問題なんだから、下り坂一般の問題として捉えるのが正論かなって考えてしまう。

昔は人生50年って言ってたのが、今の医療で無理やり引き伸ばしてるだけでしょう。ほんのちょっとした能力のかげりが直接に命を決定する所では、登山家なんか死ぬ人は40位で死んでるでしょう。私だって思い返せば運動能力、知能、学習力、判断力、健康など、総合的な生命パワーがピークだったのは、たぶんそのあたりの年代で、その後はいろんな能力のかげりははっきり感じてますから、家族の言動の中に認知できない、理解できない、対応できないことが自己のピーク時分に比べて増えてくるのは、いわば当たり前のことだとも思います。

やっかいだったのは、「認識の自己中は原理的に避けられないし、原理的に意識できないことだ」ということを私は気付いている(と思う?)ので、「私は定型だ!」という感覚が持てなかったことかもしれないです。それはカサンドラ症候群というものかもしれないけれど、成人のためのアスペ検査まで受けなければならなかった。その結果、私は医師に定型だと言われても、「私は定型だ!」という確かな感覚(っていったい何でしょうね?)が得られたわけではないのです。その、まさにそのことが理由で、私は非定型とも思える(ような気がする)のです。

「やっぱ、わかんないな。」このセリフがいつも頭の中でワンワン鳴り響いている今日このごろです。

なぬっ、お呼びでない?
こらまた失礼。

定型の人同士の日常会話は、目的が「共感」になっているように見えます。
なので、「共感のない会話は会話じゃない」位に思っているのかなと感じています。

私にとっては、会話の目的は「気持ちや感情も含めた、情報交換」が第一です。共感は偶然得られた喜びなので、それがなくても会話だと思っています。

夫の言うには、彼(定型)の共感の仕方は「チューニング」なのだそうです。相手の気持ちに自分の感覚を近付けて、同じ気持ちになるようにする…と説明してくれました。
この説明を借りると、私の共感は、自分と相手の周波数帯が偶々重なった時に発生するもの…という風に説明出来ます。

夫と話している時、私はつい「違い」について話してしまいます。違いを上げることは私にとっては「発見♪」なのですが、夫からは、いきなり違いから会話が始まるのは、戸惑いと寂しさがあると言われています。
なるべく最初に共通点を見付けて、それから違いに発展するのはOKらしいので、そのように気を付けたいと思っていますが、楽しい話題である程「違い」に目が行ってしまうのが困り所です(^^;

学生の頃です。寮で同級生一人、後輩一人と会話していました。
経緯は覚えていませんが、何故か会話についての会話になっていました。
自分が「会話はまだよく知らない人を知るためにするもので、その人がどういう人かある程度わかったら、それ以上会話してもあまり面白くないし意味がない」と言ったら二人とも笑いました。
そして言われました。「それが面白いんじゃないか!」
自分より普段無口に見える後輩もそれに同意しているようだったので少し以外でした。
もちろん自分も友人関係というものを維持するために雑談にあわせたり冗談を言うように勤めてはいましたが、本音は前述のとおりだったのです。
それで、彼等および世間の多数の人たちにとっては会話とは面白くてつい浸ってしまうゲームのようなもので、たまたま自分はそのゲームに興味がなかったのだと思っていました。

joさん

 お久しぶり!
 お懐かしさとうれしさに感涙です!
 
 にしても、相変わらず難しい! (^ ^;)ゞ
 とりあえず、わかりそうなところで、

「パンダさんは、「アスペと定型」と言うからには、私たち(って誰だ?)の問題を「定型と定型」という多数派とは質的にちがう特殊な問題として、特殊な解決を探っているのだろうか?」

 だと思いますけど。定型と定型では起こりにくい問題が頻発する、という現象は比定しようもないと思うので……


「それとも、この問題(って何が問題だ?)が定型と定型でも起き得る一般の問題だから道徳の教科書によってみんなに刷り込まれたみんなの問題として解釈しようとしているのだろうか?」

 はい。これもそうだと思いますけど。というか、問題を深めて広げて考えていくとそう言う面が見えてくるんだと思うんですね。

「それが現代(っていつだ?)という価値の変動の時に呼応して、感じやすい私たちが(って誰が?)ただ先駆者として味わってる苦しみなのだから、一般的な解決を探っているのだろうか?」

 「先駆者」はモデルを作れると思うんだけど、実際に解決するのはそのひとそのひとひとりひとりみんな違った個性を持ったカップルなので、モデルは参考にしかならないと思います。その意味では一般的な解決ではなくて、具体的な解決を探っているわけだけど、その具体的な解決のためには一般的なモデルが参考にはなる、ということだと思います。

 というこのあたりで力尽きました…… (^ ^;)ゞ


繭さん

 「夫の言うには、彼(定型)の共感の仕方は「チューニング」なのだそうです。相手の気持ちに自分の感覚を近付けて、同じ気持ちになるようにする…と説明してくれました。」

 夫さんの比喩、実感としてよくわかる!


yosakuさん

 はじめまして。どうぞよろしくお願いします。
 yosakuさんのような体験、アスペの方には随分共有されているみたいな感じですね。私なんかパートナーとずっと一緒に暮らしていても、そういう感じ方の違いに気づくのは難しかったです。
 またいろいろ体験を教えて下さい。


 

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