伝わらない思いやり
あららさんのコメントやyukipomさんのコメントなどを拝見していて、改めて感じることがあります。
それは最近、私自身がアスペ的な気遣いの仕方や、それがうまくt定型の相手に伝わらないときの悲しさや苦しさのようなものを、何となく感じ取り始めているような気がする、ということです。もちろんまだほんの一部のことについてですし、それももしかしたら全然勝手な思いこみの的外れかも知れないのですが、なんかそんな気がする。
yukipomさんのお話しを伺っていてもそう感じるし、パートナーと話していても感じるのですが、その「気遣い」は私から見てほんとに大きな「自己犠牲」を払ってでも行われるようなものに見える。いや、繭さんの意見などを聞くと、それは私の「過大評価」なのかもしれなくて、アスペの人の感覚はそういう「大きな自己犠牲」という感覚とはまた違うのかも知れないのですが、少なくとも定型的に(?)私としてはそう感じられる。
以前の自分にはそれはなかったんですね。仮にパートナーがそう訴えたとしても、「何をよくわからない、勝手なことをいっているんだろう」と言うくらいにしか思えなかったんです。それが今は何というのか、「本気で気遣っているんだ」というところまでなんとなく実感できるようになってきたんです。
「相手の幸せを大事に考えている」ということについても、以前はその具体的な言動をみると、とても相手を幸せにするようなものには感じられなくて、口先ばかりで何を言っていいるんだ、という反感が起こってしまう状態だったように思います。でも今は、私のパートナーにしても、ある意味自分の身を切るような思いで「相手の幸せ」を心配しているんだ、というふうに感じられることが増えてきた。
たしかに定型から見るとずれているんです。その思いやりの実際の表し方が。だから全然思いやりに思えないことが多い。定型には逆効果になることも多い。でもその思いやりの真剣さ、それが伝わらないときにパートナーが感じる苦しみにふと気がついてみると、「かわいそう」というのは偉そうな言い方になってしまいますが、なんかこちらの胸が痛くなるような気持ちになるんです。こんなに一生懸命なのにそれが伝わらずに無視されてしまうんだと思って。
話はややこしいというか、変なんですが、そういうふうに「伝わらない」とか「無視」してしまっているのは私なんですね。その思いやりがどうしても定型としての私が求めるものとはずれてしまう部分が大きいから、そうされたとしても実感として「うれしい、ありがたい」とすっと感じられないところがある。下手をすると反発してしまいます。
でもそういうことで「理解できない」し「無視」してしまっている自分なのに、それでもパートナーは「こんなにも切実に思いやりを持ってくれているんだ」と気づくことがある。それがある意味うれしくもあるんだけど、悲しくもある。申し訳ない気持ちにもなる。なんかすごく微妙です。
あららさんの「当初に比べるとASというキーワードを発見したおかげで、そうなのか!とだいぶ楽にはなりましたが、気持ちの共有という点では、ずっととてもさびしい感覚を引きずってます。」という言葉も分かる気がします。その強さは人によりいろいろかも知れないし、また変化もしていくのでしょうけれど、少なくとも私も今の段階ではどうしても「定型的な寂しさ」が残るんですね。そこは先日パートナーとも話したんですが、どうしたらいいのかわかりません。
うーん、これってお互いにそう言うところが有る訳なんだろうから、「おあいこさま」という話なんだろうか???
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