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アスペルガーと定型を共に生きる

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2012年1月21日 (土)

他者と他己

 昨日の記事で繭さんのコメントについて「自己中」じゃなくて「他己中」だと書きました。「他己」なんて、普通の国語辞典なんかにはきっと出てこない言い方だと思います。普通に書けば「他者中」ですよね。

 で、今朝、ふとあそこはやっぱり「他己中」ではなくて、「他者中」と書くべきだったんじゃないか、と思い、今日はそのことについて書こうかなと思っていました。

 そしたら案の定と言うべきか、ジョンキルさんからこんなコメントが入っていました。

「パンダさんの、「相手のことを純粋に考える」というご理解は、自分に当てはめて考えた場合には、過分なご評価のように思えてしまいます。だって、自分の幸せは、相手の幸せ同様、純粋に大切なことですから(笑)。」

 「他己」という言い方は、「自己」という言い方をもじったものですけれど、自己がどちらも「自(分)」と「己(おのれ)」で自分のことを指しているのに対して、他己は「他」の「己」なわけです。つまり他者なんだけど自分でもある。自分の分身のようなものとか、自分と切り離せない状態の他者という意味になります。

 でも考えてみるとアスペの人の場合、そこの所の区別はとてもはっきりしているように思えたんですね。「私は私、他者は他者」そこには明確な線引きがあって、私の幸せは私の幸せだし、他者の幸せは他者の幸せだし、どちらもそれぞれ別々に大事。だから「他己の幸せ」のように自分の幸せなんだか相手の幸せなんだか境界線が不明確な言い方は似合わないのではないか、そう思ったわけです。それで「他己中」ではなく、もっと境が明確な「他者中」と書くべきではなかったかと。

 
 ただ、そう書いたら問題がすっきり分かっちゃうかというと、やっぱりそうでもないというのは正直なところです。ジョンキルさんは「自分の幸せは、相手の幸せ同様、純粋に大切」と書かれています。たしかにそうなんだろうと思います。でも、この「相手」というのにも実際は色々あるわけですよね。純粋な博愛主義者であれば、たとえ相手がどんな人であれ、その幸せは自分にとって純粋に大切と言うことになるかも知れないけれど、定型にしろアスペにしろそれは実際にはまず無理ですよね。

 とくに自分にとって大切な「相手」というのがやっぱりあって、たとえば夫婦とかいう関係はそういう関係になる(のが望ましい? (^ ^;)ゞ )んだと思います。自分にとってパートナーは「自己」ではもちろんないんだけど、でも「他者」と言うこともできない、そういう特別の存在だと言うことは、定型でもアスペでも同じでしょう。で、少なくとも私の場合だと「他己(自分のような他者)」みたいな表現が比較的しっくりくるわけです。

 他方でアスペの人にとって、この「他己」みたいな言い方はしっくり来ないのではないか、という気がするのは上に書いたとおりで、でもだからといってそれで「他者」と割り切ってしまうと、今度は一般の他者とパートナーとの区別がつかなくなってしまう。

 なんかちょっと言葉のお遊びみたいになりそうですね。もうすこしちゃんと考えてわかりやすい言葉で自分が理解できるようになってからまた書くようにしてみます。今日も中途半端ですいません。

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