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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2012年1月

2012年1月29日 (日)

アスペ同士の共感

 最近のジョンキルさん、繭さん、yukipomさんのコメントに最近「共感」という言葉がしばしば見られるように思います。改めてアスペの方同士でしっかり共感が成り立つことを実感しています。

 このブログを始めた頃は、「アスペの人は共感ができない」というような単純な決めつけの理解に近かったところが自分にも合ったように思うのですが、だんだんそうではないだろうという思いになってきました。みなさんのコメントなどを見ながらその思いは確信に近くなっていましたが、今回のことで改めて「安心して」そう思えるようになった感じがします。

 共感する中味はアスペと定型で感じ方の違いがあるわけですから、それに応じた違いが有るはずですけれど、アスペと定型の間の共感が難しいと言うことであって、ある条件の下ではどちらもアスペ同士、定型同士、共感し合うことができる。

 これもひとつの例ですけれど、このところ、「ここまで考えを進めると、アスペと定型と同じ仕組みを持っているんだなあ」と感じることが少しずつ増えてきた気がします。果たしてそういうものにたどり着けるのかどうか、最初はほんとに分かりませんでしたので、1年を経て、大きな変化だなと思います。

 それもアスペの皆さんが積極的に議論に参加して下さり、いろいろ教えて下さっていることがすごく大きいと思います。それも本当によく定型のことをアスペ的な視点で観察し、考えてその理解をわかりやすく書いて下さるので、ずいぶんと理想的ですね。

 この状態がさらに発展していけば、お互いに単純な見方で相手を決めつけてしまうようなことができなくなって、改めて理解し直し合おう、という状況ができてくれることが私の願いでもあります。みなさんどうぞよろしくお願いします。

2012年1月28日 (土)

エヴァンゲリオンと承認欲求

 繭さんがコメントで「定型の夫と接する上で、実は一番厄介なものが「自分の承認欲求」だったと感じることが多々あった」と書かれていましたが、無料動画サイトGyao!で今見られる(今月いっぱい)テレビアニメ版「エヴァンゲリオン」を見ていたら、最終話の一つ前から最終話にかけて、まさに「承認欲求」についての葛藤とその「解決」の物語でした。

 エヴァは前から見たかったので今回見られて良かったのですが、主人公のケンジなんて如何にも最近の心優しいナイーブな悩みと、自分でも気づかずに怒りを抱え続ける少年ですし、綾波レイのキャラクターにはアスペルガー的な世界観を私は勝手に感じてしまって、そういうところも面白かったです。

 ただ、「自分は何のために生きている?」「自分って何?」「つながりって何?」とかいうことをずっと問い続ける最後の二話については、結構鋭い問いを連発していて、それはここで議論になっているようなことにも深いつながりがある大事な問題を感じさせるんだけど、「解決」の仕方が私にはちょっとあっさりしすぎていて拍子抜けのところがありました。多分あれだとここに集っている皆さんの悩みにはまだ届かないなあと、なんか直感的に思いました。

 それはいいとして、でもやっぱり一世を風靡した作品ですし、綾波レイについて上に書きましたけれど、なんかそこに描かれている世界観が、アスペと定型の問題にひっかかってくる感じがするんです。ということは、アスペと定型の問題というのはなんだかすごく現代的な問題なんじゃないだろうかという気がします。そしてそのひとつ、しかも中心的なものの一つが「承認欲求」つまり「人に自分を認めて欲しい」という欲望です。

 それがうまくいかなくなって自分の価値がわかんなくなっているのが今の人間関係で(だから秋葉原事件みたいなことが起こるし)、お互いにその「承認欲求」の具体的な内容がずれて苦しむのがアスペと定型の間に生じやすい問題なんじゃないでしょうか。その意味でこの問題に悩む当事者である私たちは「時代の最先端」?

2012年1月27日 (金)

「無償の愛」への「見返り」

 このところいただいているコメントで、以前とすごく違うと実感するのはアスペルガー当事者の方からのご意見がすごく増えたと言うことです。なにしろ私は定型発達者という部類の人間らしいので、アスペの方の考え方や感じ方をいろいろ想像してみても、的外れになることが多くて、それを当事者の方から指摘していただけるというのは本当に有難いことだと思います。

 今朝もパートナーと話していて、「え?なんでそんな風に考えるの?」とびっくりすることがあって、朝の忙しい時間帯ですから、ゆっくり話しも出来なかったんですが、うちでもそう言うことの連続です。そこを少しずつ話し合って理解できるところは理解し合い、あるいは少しでも近づき合う、と言う作業を繰り返すしかないですね。ま、ある意味ではこれは定型同士の夫婦でも同じ事なのかも知れません。話し合う中味の質は異なっていたとしても。

 
 ところで前に「『必要』ということ」という記事の中でもご紹介した繭さんからいただいたコメントの文章

「ええと、「自分が夫をどれだけ幸せに出来たか」ではなくて、「夫はどれだけ幸せと感じているのか」なのです。」

 について、また考えたりしているのですが、なぜ自分が「相手をどれだけ幸せにできたか」にこだわってしまうのか、ということです。言ってみればそれは「無償の愛」ではないんですね。自分が相手の人に何かをしたことに対して、相手の人が「幸せになった(ということを何らかの形で感じさせてくれる)」という「見返り」を求めているわけです。

 そういえば昔中学生の頃か何か、武者小路実篤だったか誰だったか忘れましたが (^ ^;)ゞ 「愛は惜しみなく与う」とかいう言葉を聞きました。本当の愛は見返りを期待するのではなく、ただ愛することだという話だと思うんですが、本当に彼が生活全部の中でそれを貫けていたかというと、そんなはずはないと思ってしまいます。そんなの人間技じゃないと思うんですね。

 繭さんも私が繭さんの言葉を無償の愛のような意味で受け取ったことについて、それはそうじゃなくて、むしろ「利己と利己」の関係という感じなんだと訂正して下さいましたけど、そのことの意味って大きいと思います。

 「博愛」というものだって、きっとそれによって自分が何かを達成している、という「達成感」がその「見返り」としてあるんだと思います。そう、その「達成感」があるかないか、それがきっと大きい。

 定型が(あるいは私が?)「相手の人が幸せになることに自分が関われることがとても嬉しい」と感じ、そこに自分自身の価値を感じたりするのも、そういう「達成感」に関わることなんだと思います。だから、「実際にその人が幸せになっていそうかどうか」という「結果」がやっぱり気になる。「ありがとう」の一言はその「結果」なわけだし、笑顔になる、でもいいんです。うれしそうにしてくれればそれで満足する。

 ところがそういうはっきりした「結果」を相手から感じられないとき、読み取れないとき、すごく中途半端な気持ちになる。なんかこちらからのやりとりが相手で中断してしまったような、不安定な状態です。

 アスペの方はそういう「結果」とか「見返り」とかを求めないと言うことなんでしょうか。なんかそこがわかんなくなってきました。
 

2012年1月25日 (水)

伝わらない思いやり

 あららさんのコメントyukipomさんのコメントなどを拝見していて、改めて感じることがあります。

 それは最近、私自身がアスペ的な気遣いの仕方や、それがうまくt定型の相手に伝わらないときの悲しさや苦しさのようなものを、何となく感じ取り始めているような気がする、ということです。もちろんまだほんの一部のことについてですし、それももしかしたら全然勝手な思いこみの的外れかも知れないのですが、なんかそんな気がする。

 yukipomさんのお話しを伺っていてもそう感じるし、パートナーと話していても感じるのですが、その「気遣い」は私から見てほんとに大きな「自己犠牲」を払ってでも行われるようなものに見える。いや、繭さんの意見などを聞くと、それは私の「過大評価」なのかもしれなくて、アスペの人の感覚はそういう「大きな自己犠牲」という感覚とはまた違うのかも知れないのですが、少なくとも定型的に(?)私としてはそう感じられる。

 以前の自分にはそれはなかったんですね。仮にパートナーがそう訴えたとしても、「何をよくわからない、勝手なことをいっているんだろう」と言うくらいにしか思えなかったんです。それが今は何というのか、「本気で気遣っているんだ」というところまでなんとなく実感できるようになってきたんです。

 「相手の幸せを大事に考えている」ということについても、以前はその具体的な言動をみると、とても相手を幸せにするようなものには感じられなくて、口先ばかりで何を言っていいるんだ、という反感が起こってしまう状態だったように思います。でも今は、私のパートナーにしても、ある意味自分の身を切るような思いで「相手の幸せ」を心配しているんだ、というふうに感じられることが増えてきた。

 たしかに定型から見るとずれているんです。その思いやりの実際の表し方が。だから全然思いやりに思えないことが多い。定型には逆効果になることも多い。でもその思いやりの真剣さ、それが伝わらないときにパートナーが感じる苦しみにふと気がついてみると、「かわいそう」というのは偉そうな言い方になってしまいますが、なんかこちらの胸が痛くなるような気持ちになるんです。こんなに一生懸命なのにそれが伝わらずに無視されてしまうんだと思って。

 話はややこしいというか、変なんですが、そういうふうに「伝わらない」とか「無視」してしまっているのは私なんですね。その思いやりがどうしても定型としての私が求めるものとはずれてしまう部分が大きいから、そうされたとしても実感として「うれしい、ありがたい」とすっと感じられないところがある。下手をすると反発してしまいます。

 でもそういうことで「理解できない」し「無視」してしまっている自分なのに、それでもパートナーは「こんなにも切実に思いやりを持ってくれているんだ」と気づくことがある。それがある意味うれしくもあるんだけど、悲しくもある。申し訳ない気持ちにもなる。なんかすごく微妙です。

 あららさんの「当初に比べるとASというキーワードを発見したおかげで、そうなのか!とだいぶ楽にはなりましたが、気持ちの共有という点では、ずっととてもさびしい感覚を引きずってます。」という言葉も分かる気がします。その強さは人によりいろいろかも知れないし、また変化もしていくのでしょうけれど、少なくとも私も今の段階ではどうしても「定型的な寂しさ」が残るんですね。そこは先日パートナーとも話したんですが、どうしたらいいのかわかりません。

 うーん、これってお互いにそう言うところが有る訳なんだろうから、「おあいこさま」という話なんだろうか???

 

2012年1月21日 (土)

他者と他己

 昨日の記事で繭さんのコメントについて「自己中」じゃなくて「他己中」だと書きました。「他己」なんて、普通の国語辞典なんかにはきっと出てこない言い方だと思います。普通に書けば「他者中」ですよね。

 で、今朝、ふとあそこはやっぱり「他己中」ではなくて、「他者中」と書くべきだったんじゃないか、と思い、今日はそのことについて書こうかなと思っていました。

 そしたら案の定と言うべきか、ジョンキルさんからこんなコメントが入っていました。

「パンダさんの、「相手のことを純粋に考える」というご理解は、自分に当てはめて考えた場合には、過分なご評価のように思えてしまいます。だって、自分の幸せは、相手の幸せ同様、純粋に大切なことですから(笑)。」

 「他己」という言い方は、「自己」という言い方をもじったものですけれど、自己がどちらも「自(分)」と「己(おのれ)」で自分のことを指しているのに対して、他己は「他」の「己」なわけです。つまり他者なんだけど自分でもある。自分の分身のようなものとか、自分と切り離せない状態の他者という意味になります。

 でも考えてみるとアスペの人の場合、そこの所の区別はとてもはっきりしているように思えたんですね。「私は私、他者は他者」そこには明確な線引きがあって、私の幸せは私の幸せだし、他者の幸せは他者の幸せだし、どちらもそれぞれ別々に大事。だから「他己の幸せ」のように自分の幸せなんだか相手の幸せなんだか境界線が不明確な言い方は似合わないのではないか、そう思ったわけです。それで「他己中」ではなく、もっと境が明確な「他者中」と書くべきではなかったかと。

 
 ただ、そう書いたら問題がすっきり分かっちゃうかというと、やっぱりそうでもないというのは正直なところです。ジョンキルさんは「自分の幸せは、相手の幸せ同様、純粋に大切」と書かれています。たしかにそうなんだろうと思います。でも、この「相手」というのにも実際は色々あるわけですよね。純粋な博愛主義者であれば、たとえ相手がどんな人であれ、その幸せは自分にとって純粋に大切と言うことになるかも知れないけれど、定型にしろアスペにしろそれは実際にはまず無理ですよね。

 とくに自分にとって大切な「相手」というのがやっぱりあって、たとえば夫婦とかいう関係はそういう関係になる(のが望ましい? (^ ^;)ゞ )んだと思います。自分にとってパートナーは「自己」ではもちろんないんだけど、でも「他者」と言うこともできない、そういう特別の存在だと言うことは、定型でもアスペでも同じでしょう。で、少なくとも私の場合だと「他己(自分のような他者)」みたいな表現が比較的しっくりくるわけです。

 他方でアスペの人にとって、この「他己」みたいな言い方はしっくり来ないのではないか、という気がするのは上に書いたとおりで、でもだからといってそれで「他者」と割り切ってしまうと、今度は一般の他者とパートナーとの区別がつかなくなってしまう。

 なんかちょっと言葉のお遊びみたいになりそうですね。もうすこしちゃんと考えてわかりやすい言葉で自分が理解できるようになってからまた書くようにしてみます。今日も中途半端ですいません。

2012年1月20日 (金)

アスペと定型が交わるとき

 繭さんからいただいたコメントの中にこんな文章がありました。

「ええと、「自分が夫をどれだけ幸せに出来たか」ではなくて、「夫はどれだけ幸せと感じているのか」なのです。」

 みなさんはどうお感じでしょうか。ここまで来ると、アスペか定型かという違いに意味があるのだろうか、とそんなふうに私は感じました。

 アスペは自己中だという話があります。たしかに定型にはそう見える面が有るのでしょう。でも上の繭さんの文章はまさにその正反対です。私がどうかが問題なのではない。相手がどうかが問題なんだ。まさに「他己中」ですよね。はたして私自身を含め、定型の中でそこまで純粋に「相手のことを考える」といいう立場に立ちきれる人がどれだけいることでしょう???

 もちろん繭さんがアスペではないとか、アスペを越えているとか、そういうことを言いたいのではないです。繭さんは私が知っているかぎり(と言ってもブログ上でですが (^ ^;)ゞ)、今も立派にアスペを生きていらっしゃいます。その生き方は定型とはすごく違う。それなのに、繭さんの上の言葉はアスペという狭い枠を越えて、ちゃんと定型の人間の気持ちにもある種の理想として響いてくるものだと思えるのです。

 私はこれからもアスペと定型の違い、そのズレにこだわり続けようと思います。でも、そのズレと共に?、ズレを深めたところに?、越えたところに?…… 何と言っていいかいい言葉が見つかりませんが、この言葉のようにお互いが交わるところが生み出されている。

 定型同士だって実際はお互いに相当ズレながら生きています。でもあんまりそう言うことを気にしないことが多いし、また実際にお互いに交わっているところも少なくないでしょう。でも、ほんとに突き詰めていったときに、この繭さんの言葉のように、アスペと定型の間にも交わるところが確かに見いだされる。

 そのことを実感できたことは、アスペと定型の問題を考える上でも、一人の人間として生きていく上でも、私にはとても大きな意味を持ちそうです。

 

2012年1月19日 (木)

「必要」ということのズレ

 昨日ご紹介したジョンキルさんのコメントをパートナーに読んでもらったら、めずらしく読み終わった直後に「うーん」と声を出し、それから感想を聞いたら「たしかに書かれていることがするどいと思う」ということでした。

 そして引き続き今日は繭さんのコメントで「ジョンキルさんのお話、とてもよく分かることばかりです。」ということ。

 一人ひとりの個人差の他にも、アスペにはタイプが分けられたりもしているようですけれど、少なくとも私のパートナーとジョンキルさんと繭さんと、その三人にはとてもよく通じ合うものがあるんですね。そしてそこは多分定型の方には共通してとても分かりづらい部分になっている。繭さんが

 「私は友人たちとはジョンキルさんご夫妻のような感動の共有の仕方をしていたので、夫の求めている共有が全然分からず、「なんでこんなに色々と訊いてきて、うっとおしいことを求めるのだろう?」と思ったこともありました…(^ ^;」

 と書かれていることなど、ほんとに我が家と同じです。もちろん私がパートナーからそう思われる方な訳で、何かを見たりしたあとに感想を聞くと「それを聞いてどうするわけ?」とか「何て言って欲しいの?」とか困った顔で言われて、そのたびに私はどう答えていいか分からなくなるんですが。

 「パンダさんが折に触れて書かれている、「自分は必要とされているのか?」というのも夫に言われて、なんだかよく分かりませんでした。私は夫に満足していればそれで充分で、必要とかそういう役割的なものは、一緒にいる上で分担し合うことはあっても、それが目的になることはありません。」

 と書かれていることについても、繭さんが書かれている「必要」という言葉のニュアンス自体がどうも定型の私から見るとすでにズレを含んでいるように感じます。そこで私たちがいう「必要」というのはなにか役割分担をするようなものではなくて、「精神的に(あるいは気持ちとして)求めている」というような事だと思います。

 でも、この「精神的に(あるいは気持ちとして)求めている」という言い方自体が、もしかするとアスペの方には伝わりにくい定型的な独特の感覚なのかも知れません。

 これは私の勝手な想像なのですが、アスペの方は自分が抱えた自分の心の問題は、他の人に言葉で支えられたりするものだという感覚が薄いのかも知れない。だから自分の心に起こった問題は自分が責任を持って対処しなければならず、人に助けを求められるものではないと思う。

 定型がよくやる慰めや励ましといった言葉かけも余り意味を持たないと感じる。当然自分の方から相手にそういう「意味のない」言葉かけを本気でしようという気持ちにもなりにくいし、相手からそれを求めようとも思わない。そういうことが有るんじゃないでしょうか。

 もしそうなら、慰めや励ましなどは直接問題を解決する訳じゃないけど、その人の気持ちを支えるような大切な力を持った言葉だと感じている定型の方は、そうやって言葉で支え合おうとする関係を相手から求められないと、「自分はこの人を支えるために必要とされていない」という風に感じてしまうことになります。繭さんは

 「「貴方がいないと生きて行けない」と言われたら、私はその人から離れようと考えますし、実際そうして来ました。」

 と書かれていますけれど、その相手の人は「自分にとってあなたはそれほどに支えになっている素晴らしい人なんだ」ということを伝えているように思います。その人にとってそれは繭さんに対する最高の賛美でしょう。

 でも多分繭さんにとってそれは「負担」なのですよね?自分に相手の人を支えられる力などあるはずもないのに、そんな無理なことを要求する関係はとても受け入れられない、と感じられるのではないでしょうか?どうしてそんな風に自分に「依存」してくるのだろうかと思ってしまう。最近のみなさんやパートナーとのやりとりをしながら、もしかしてそういうことなのかなと考えてみました。そう考えると、

 「どんな底地にいようが、自分を幸せにする努力をする人が好きなのです。「貴方といると、人生が充実する」と言われたいし、言いたいです(^ ^)」

 と書かれていることも分かる感じがします。まずはお互い、自分自身で努力することが大前提なんですよね?ただ大事なことは、自分自身で努力すると言っても、それだけだと別に結婚している必要もない。勝手にそれぞれ努力していればいいわけで。だから「貴方といると」自分自身が努力できる、というそういう関係が大事になるのかなあと思いました。

 そういう関係も私はある意味では「相手に支えられる」と言えなくもないと思いますし、あるいは「お互いに支え合っている」と言えなくもないと思える。でも、繭さんには多分ちょっと感覚的に違うことなのかも知れません。「相手が頑張って努力をしていいる姿を見て、自分も刺激を受けて励まされ、頑張ろうという気になる」という方がもしかすると近いのではないかと思ったりしますけれど、どんなものでしょう?もしかするとちょっと違う意味かも知れないとも思いますけれど。


 うーんと、なんか自分で書いていて、もうひとつすっきりと整理できない感じが残ります。大体こういうようなことが大事な問題として有るんじゃないかなという気がするんですが、もうちょっといい説明の仕方が有りそうな気がします。(もちろん、それ以前に全然私の思い違いの可能性もあります (^ ^;)ゞ )

 ちょっと欲求不満というか、スッキリしないで気持ち悪さが残りますけれど、今日の所はこの辺で…… m(_ _)m 

  
 

2012年1月18日 (水)

アスペの恋はドライ?純愛?

 ジョンキルさんが私にとってまたとても刺激的で考えさせられるコメントを下さいました。

「私は、今の夫に会った時、自分と同じ疎外感をずっと感じながら生きてきた人に初めて会った、そして多分最後の人だと思いました。」

 定型の場合だと、中々他人に理解してもらえない深い苦しみの体験を共有し、「共感してもらえる」人というのはとても大事な人であることが多いと思います。そのつらさを分かってもらえることで「癒される」思いもするし、また相手のつらさを理解することで同情もする。男女であればそれが恋愛感情につながっていくことも少なくないと思います。ジョンキルさんにとってもそれは劇的な出会い、と私には感じられたのですけれど、それはやはり恋愛感情にそのままつながって行かれたのかどうか、次の文章を読んでちょっと分からなくなりました。

「でも、結婚は嫌でした(それまで私の恋愛対象は、常に自分の欠点をカバーしてくれそうな人ばかりでした)。何より、今の夫とは、どうしても子供を育てていくことが考えられなかったからです(当時、アスぺの知識はなかったのですが、本能的にそう思ったのですね。そして、それは正解だったと今でも思います。)。」

 「それまでの恋愛対象は」と書かれているので、多分夫さんにも恋愛感情を持たれたけれど、結婚は考えられなかったという意味でしょうか。自分の欠点をカバーしてくれる人で、一緒に子どもを育てられる人ならば結婚を考えたけれど、それがないので恋愛に終わると最初は考えられたと言うことなのかな。

 そして何より次の文章は本当に驚きでした。

「それなのに結婚に踏み切ったきっかけは、彼が仕事で海外に行くことになったことでした。それは、当時、治安がよくないと言われていた場所でした。「もしこの人が傷ついたり死んだりしら、その連絡は、彼の年老いたご両親に行くんだな。なんか残酷だな。私に最初に知らせてもらえればその方がいいな。」と考えたのです。そしてその数日後、役所に婚姻届を出しました。私は、結婚とは、社会的に連帯責任者を明確に定義するための制度だと考えています。」

 定型的に考えれば、自分にとって一番失いたくない人であるはずの恋愛相手の「死」を考えることが結婚の直接の理由になる。ちょっと普通には想像できないような理由でした。しかも「結婚とは、社会的に連帯責任者を明確にするための制度」と書かれていて、この表現だけだとなんだか相手の借金の連帯保証人になってあげる、みたいなものすごくドライな関係を想像してしまったりします。そこに「愛情」というようなものが全然関係ないように見えてしまって驚くのです。

 で、私なりに可能な限り想像力を使って定型的に言い換えてみると、こういう事なのでしょうか。「自分はこの人の死という一番大変な事態、最悪の事態まですべてを想定して、そこまで考えてそれでも最後まで面倒を見てあげられるように一緒になりたいと思う。そしてそういうことができる関係になるためには、この社会では「結婚」という制度を利用するしかないから、自分はこの人と結婚するのだ」

 もしそう言う意味なら、逆にすごく純粋に相手の人を深く深く思ったから、結婚されたんだと理解できるようになります。ドライな関係などと言うよりむしろ「純愛」とでもいうような感じ。そのどちらなのか、あるいはどちらでもないのか、今の私にはわからないままです。

「定型の方は、一緒にいることで共感しあう関係を作っていけることこそが、結婚の意味だと思われるのだなあ、と、改めて少し驚き、というか感動しました。私は、同じ価値観なので邪魔にならない人が、いざという時に役立てる距離にいることこそが、結婚の意味だと、今も思っています。」

 定型の結婚と言っても、家同士の結婚で本人たちは二の次、みたいな場合には、それこそ結婚の意味は「一緒に家を守ること」とかになるんだと思いますが、そこでも「一緒に守る」みたいなことが入るわけですし、「同じ価値観で邪魔にならない」というのではなく、「同じ価値観をもって一緒に家族生活を作る」というような表現の方がたぶんしっくり来る人が多いと思います。やっぱり「一緒に」がポイントかも知れないですね。そこが薄れてくると、なんだかバラバラの家族で幸せ感がないように感じてしまう。

 それに対してジョンキルさんの書かれていることで言えば、アスペ同士の夫婦の場合は「一緒にいること」ではなくて、必要なときに助けられるように「適切な距離を保っておく」ことが結婚というわけですね。この「一緒にいる」と「適切な距離を保つ」ということと、なんだかそれぞれの夫婦の特徴の違いを表す言葉として、意外に重要かもしれません。

 「夫に不満があるとすれば、苦手なことが似ているので、私がいざ助けを求めたくなる時に、彼は私以上にパニックになっていることですね。・・・あれ、これって、定型の女性がアスぺの男性に抱きがちな不満によく似ていますね(苦笑)。」

 これは私もしばしば経験してきたことです (^ ^;)ゞ

2012年1月16日 (月)

結婚の意味のズレ

これまでに書いた記事にも少しずつ触れてきていると思いますけれど、アスペと定型で、「結婚生活」に求めるものがすごくずれているのではないか、という結構深刻な問題があると思います。そのことを昨日の話の続きで考えてみようかなと思います。

どういうことかというと、やっぱり「共感的な関係」の求め方のズレですね。定型の方はパートナーと感情的な交流を求めたいという思いが強い。それはたとえば世間話を共有したいとか、辛いときや嬉しいときやその時々の思いを共有したいとか、スキンシップで心のやすらぎを共有したいとか、色んな事があると思うんだけれど、そういう思いが強い。

じゃあアスペの方はというと、それが全然ないとは言えないかも知れません。でも少なくともその求め方は随分違うような気がするし、その「強さ」も全然違うと思えるんですね。

だから、定型でも特に(定型的な)共感的関係を求める傾向が強い人ほど、そのギャップに苦しむことになります。このブログでも「砂漠に水を撒くような感覚」とか、いくつかの言葉で表現してきたみたいに、自分から相手に向けた共感を求める気持ちに何の見返りもなく、まるでブラックホールのように自分のそのエネルギーがただ吸い込まれてしまうように感じたりする。鬱になるひとつの原因なのかなと思います。

それで、定型的な感覚でそのことを普通に考えると、要するに相手が自分に興味がないんだとか、自分を無視しているんだとか、拒絶しているんだとか、そんな風に感じて苦しむわけですよね。少なくとも私の場合はそれが強かった。だからそれがたまっていくと、「もう一緒に暮らしている意味はない」という思いに駆られるようになってくるし、離婚を考える原因の一つにもなります。

ところが以前にも書きましたけれど、パートナーの説明を聞いてほんとに驚いたのは、彼女の方はその状態でも結婚をしていることに十分に意味があると考えていたことでした。だから私が離婚の気持ちをほのめかしたり、あるいはかなり離婚に近い言葉を語り始めたときにも、結婚の継続と言うことについてはそれほど危機感を持っていなかったのです。あとで聞いてこれもびっくりでしたし、ある意味で私の独り相撲とも言えたわけで、そのショックも大きかった。

なんでアスペの人にとってそれで「十分な意味がある」のかと言えば、これも前に書いたように、パートナーが説明してくれることで言えば、「自分にとっては他人と一緒に暮らすと言うことはものすごく大変なことで、普通は受け入れられないことなのに、それを一緒に暮らしていられるということは、そこまで相手を受け入れているということで、それはものすごい特別待遇なんだ」という話です。だから彼女にとってはそれだけでも私は他の人とは全く違う扱いをしている特別な人間なんですね。

で、私にとっては上に書いたような共感的な関係が拒絶されるように感じるから、「これじゃあ赤の他人と一緒じゃない」と思ってしまう。もう、感じ方の強烈なズレですね。


そこで昨日の話とのつながりなんですけれど、ジョンキルさんの話だと(そしてそれを読んだ私のパートナーも賛成していましたが)、アスペの場合、感動はまずは自分の中でじっくりと味わい尽くしたい。それを邪魔されるのはいやなんですね。

ただ自分が一人である程度時間をかけて味わい尽くした後に、それについて話をすることはできる。「韓流ドラマを一緒に見る」に書いたことで言えば、ドラマを見た後にはそれなりに話ができます。(見ている時でも彼女から簡単な質問が入る程度のことは有りますが)けれども、それほどものすごく盛り上がるという訳でもないし、その意味では以前の私なら物足りなさを感じていただろうと思います。

でも、こう考えてみたんです。そこで彼女にとってまず一番に大事なことは、それを「私と見る」という状態を共有することなのかなと。ジョンキルさんにとっても多分美しい景色を友達と「一緒に見る」こと自体は大丈夫なのでしょう。邪魔されない限りは。さらに夫さんとそれをすることは「大事なこと」になるのかもしれません。少なくとも私のパートナーはその私の意見に「そうかもしれない」と言っていました。

上に書いたように、私のパートナーにとっては結婚というのはまず「一緒に生活をすること」そのもののようです。何かを共感しあえるような関係を求めていると言うよりも、「しっかりと生活を共有する」ことが何よりも大事なことのように感じます。だからパートナーはそういうことが一緒にできる特別な人間として、私を求めていると言うことになるのかも知れません。

そういう風に考えてみると、「共感的な関係を一切拒絶され、果ては自分という人間を拒絶されている。彼女にとって自分という人間は意味がない」と感じていた頃とは違い、自分は彼女なりの仕方で必要とされている人間なのかなあという気がしてきます。もちろんそこには「私はこういう風に彼女から必要とされたい」と感じていることとの間にやっぱりズレが有るわけですから、問題がなくなってハッピーハッピーというわけにはいかないのですが、「何も意味がない」と感じてしまう状態よりはよほど楽になるのは確かです。

2012年1月14日 (土)

アスペの人のつつましさ

前の私の記事「アスペ的共感?」にジョンキルさんからコメントを寄せていただきましたが、この説明、私にはとてもわかりやすい感じがして嬉しかったです。

書いて下さっていることについては何か私の方で付け加えて説明したくなるようなことは全然なくて、そのとてもわかりやすい説明にただ「ああ、なるほどなあ」と頷いてしまうばかりです。定型の人間に対してもこんなにわかりやすく説明が成り立つんだとすれば、「お互いに翻訳しながら理解を広げていく」可能性がすごく大きく感じられて、それで嬉しいのかも知れません。

「美しい景色」を見たときに、それを心ゆくまで堪能するためには、となりの人がそれについてごちゃごちゃ話しかけてきたりされるのは邪魔で、まずはひたすら自分の中でじっくりその美しさに浸り尽くしていたい。そしてその感動を自分自身の中でゆっくりと時間をかけて消化していきたい……という考え方、言われてみればああそういうことかと分かる気がします。「本当にそうだね」と心の底からわかるのではないけど、でも「ああなるほどなあ」という感じでは分かる。

それから自分にもそういうことが有るだろうかと考えてみます。「感激の余りしばらく声も出ない」ということはありますね。でもそのまま黙り込んでしまうようなことはやっぱりなさそうに思う。一緒にそれを見た人がいれば「もう、言葉にならないくらい、感動したね」とでも言うかも。それとか「しばらくこの感動の余韻に静かに浸っていたいね」とか。そして一段落したら猛烈に話し出したりして……

思い出したことがあるんですが、私がパートナーとつきあい始めて間もない頃のことです。彼女がほとんど人もこないような小さな池に私を連れて行って、そこに一輪だけ咲いた蓮の花を「ほら」という感じで見せてくれたんです。ふっくら開いた薄いピンクの花弁の中にあわい黄色の花托が、やさしくやわらかく濡れそぼった処女のようで、どきっとするような美しさでした。

で、そのとき、彼女は一言も言わないんですね。ただ私にそれを見せたかったという感じ。もちろん本人も美しさに感動していたんでしょう。でも何も言わない。そのことが、なんだかその後も私の心にちょっと不思議な、でもいい思い出としてずっと残ってきたんです。その不思議をいまジョンキルさんに明かしてもらいました。

はっきりした記憶はないんですが、多分そのとき私は「すごくきれいだね」とか「こんなにきれいだって知らなかった」とか、何か言っていたと思います。でも、それに対しても特に返事はなかったような気がする。


そのとき自分が味わった感動を、共有したいという気持ちが、パートナーにはあったように思います。それは定型的に言えば「共感したい」という言葉になるんだろうけれど、やっぱり微妙に違う気がする。ジョンキルさんの書かれているように、深い感動はそれぞれの人が自分の心でするもの、というのがアスペ的な感じ方で、だからといって自分一人だけの秘密にしておかなければならないことはなく、とりわけ「お気に入り」の人には教えてあげたいと思ったりする。それをどう感じるかは相手の問題で感動を共有する=共感することは無理に求めないんだけど、でも相手の人が相手の人なりの感動をする可能性は分けてあげたいのかもしれない。

ちょっと言葉を換えると、感動する気持ち自体を共有するというより、感動する場所、感動するものを共有しようとされるんじゃないかな。

そう考えると、繭さんのあのとても素敵な写真のことがまたわかりやすくなる気もします。最小限簡単な説明が文章でついていることは有るけれど、基本的には写真と、それからよく考え込まれたそれぞれの写真タイトルだけで作られたブログ。

私はよくその写真を見て一瞬声にならないような驚き、感動を味わうんですけれど、あのブログのファンはここに来る皆さんの中にも多くて、そして「癒される」という思いを持つ方が多いんですね。私もよく分かる気がします。繭さんの写真には、そのちいさな世界にいろんな小さな物語があるんだけど、なんていうのか、やかましくないんです。夜寝るときに子どもに絵本を読んであげるときのように、静かにそっと優しく語られる物語。悲しい物語やうれしいものがたり、寂しい物語やちょっと賑やかな物語など、いろんな物語があるけれど、でもどれも小声でささやいている。もちろんそこにどんな物語を聞くかは見る人の勝手です。

繭さんは繭さん自身がそこで感じた物語がある。そこに繭さんの感動もある。でも繭さんは写真を掲載することで、その繭さんの感動、繭さんの物語りを私たちに押しつけてくるわけじゃなくて、繭さんが感動した「もの・景色」をそこに置いてくれるわけです。それに感動するかどうか、どう感動するのかは私たちに任されている。そんな感じだから私たちは安心して自分の気持ちでそれを見ることができる。でも「他の人もどういうふうにか感動してくれる人があると嬉しいな」とは繭さんも感じている。


アスペルガーの人の(定型からの)イメージの一つとして、こだわりが強くて、自分のやり方に相手を従わせようとする(特に相手が子どもの場合などは強く出やすい)、というものがあるように思います。そして実際我が家ではその問題がほんとに深刻な状況を作っていきました。けれどもジョンキルさんの説明を手がかりに、こんなふうにパートナーとの思い出を考えたり、繭さんの写真を考えたりしてみると、「おしつけがましい」どころか、全く逆に本当につつましくひとに接する姿も感じ取れるようになるんですね。なんかすごいなあと思います。

2012年1月12日 (木)

アスペ的共感?

私の記事「溝はどう埋まる?」に下さったジョンキルさんのコメントの、

「「よかったね」の後が続かないから、「よかったね」と言いたくない気持ち、私にはすごくわかります。」

という文章、内容をつっこんで考えることをしなければ、定型にとってもとても自然な、共感的な文章のように感じますがどうでしょうか。ジョンキルさんが自分の体験で本当に苦労されてきたことと、私のパートナーの話がすごく重なって、そして共感が生まれている。

この共感と、定型の共感とは、なんか違いがあるのでしょうか?

そのあとにジョンキルさんが

「もし私だったら、例えば仕事上のお客さんとか、あまり頻繁には会わない人に同じことを言われたら、話を合わせるのが礼儀だと考えて「よかったですねー。」と言うと思うのですが、いつも一緒にいる相手だとつらいな、と思います。」

と続けて書かれるところまで来ると、定型の人は「あれ?」っとクエスチョンマークがつき始めそうです。「よかったね」って、単に「礼儀」で言うだけのことではなくて、自分も嬉しいから言うことだって多いと思っているからでしょう。

で、

「なぜなら、ある程度近い相手の場合、 共感してもらったと思ってうれしくなって、更に深い共感を要求する会話が始まってしまうことが多いからです。その場合、こちらは、「相手はこういうことをうれしいと思うんだ」という理解に基づいて、相手に喜んで「もらえるよう話を合わせているだけで、自分の内側からわいてきた感情ではないので、用意したセリフが尽きた時点でその先はもう真っ白です。」

となるとさらにクエスチョンマークが増えそう。特に「ある程度遠い相手の場合」ならもしかしたらそういうこともあるかもしれないけど、ここでは「ある程度近い相手の場合」ですものね。「近い相手」だけど「共感が成り立たない」ということを、ジョンキルさんは私のパートナーと「共感」しているわけです。なんか定型の私から見ると不思議というか面白いというか。

もう一度この共感と定型の共感とは、なんか違いがあるのか、と言う問題に戻ると、「共感している」という「形」は同じように見えます。ただ、何に共感しているかの「内容」が定型とは違っているらしい。

たとえば定型同士の関係で喩えてみるとこういう事でしょうか。辛い辛い韓国料理が大好きな二人が、汗をかきかきそれをたべて「おいしいねえ」と共感している。でも辛いの大嫌いな別の二人はその姿を見てしら~としていて、なんの共感も生じない。逆にべたべたにあまいスイーツが好きなその二人がそういうのを食べて「最高!」とか共感してるのを見て、先の二人は「おえ~」っとなっている。

どちらの二人も共感は成り立っているんだけど、その二組の間では共感の中味が全然正反対になっている。そういうことは定型同士でも珍しくはないはずです。

さて、上のジョンキルさんの共感と定型の共感と、その違いはやっぱり同じようなことなのでしょうか。それともそれに加えてなにか別の要素が有るのでしょうか?あるいはちょっと見一緒なだけで実は全然違う?

2012年1月10日 (火)

ブログのほんわかつながり

このブログにお寄せいただくコメントを拝見していると、そのコメントを下さっている方だけではなくて、その方のパートナーの方の感想やご意見も合わせて書いて下さっていることが時々あるんですね。

そういうのに出会ったとき、なんだかうれしくなります。何というのか、このブログのみなさんの議論を「家族で共有している」という感じがするからかな。単にブログを読んで下さっている方だけのものではなくて、そこから家族の中に話題が拡がっていくという感じ。

アスペと定型の対話の場になればいいなあ、ということはこのブログを作るときの願いの一つだったわけですけれど、でもそれがブログの上のコメント上を越えて、あるいはパソコンを越えて家庭の中にまで拡がっている感じがします。それは私が予想していなかった嬉しい広がりだと思います。そうやってここでの対話に厚みが出てくる。

それに、これは定型の方に強い傾向なのかも知れないけれど、たとえば繭さんが夫さんの感想を紹介して下さった、そういう感想を読んで、私がなんだか力づけられたり、夫さんに親しみを感じたりします。お会いしたこともないのに、「ああ、この方いい方だなあ」と勝手にイメージしちゃったりしている (^ ^;)

定型とアスペのズレを知って、それを調整する工夫を考える、ということはこのブログの大事な役割だと思うけど、それだけじゃなくて、なんだかそういうコメントを通して人と人がつながり、しかもコメントを越えてつながっていく感じが出てくるって言うこともとても大事な役割になるんじゃないでしょうか。そうやってそれまで孤立した感じになっていた私たちがなんかつながって支え合っているような「気分」になったりしますものね。

もちろん直接お会いしていろいろ話し合ったりすれば、さらに濃いつながりができるのかも知れないですけれど、必ずしもそういうのがなくても、ほんわかとしたつながりの感じができてくるんだなあと思いました。結構心地よい感じがします。

ネタバレ禁止?平気?

ブログなどで物語り(映画や小説など)を紹介するばあい、よく「ネタバレがありますのでご注意下さい」とかいう注意書きがあったりしますよね。つまり、まだそれを見てない人は先が分かっちゃうから見ない方がいいですよ、という警告なわけですけど、私のパートナーはこれが全然平気だと言います。

で、とても興味を持って「じゃあ、推理小説とかでも平気なの?」と聞いてみたんですが、これも「全然平気」との答えでびっくりしました。「そんなこと言ったら推理小説とか二度三度読めないじゃない」と言うんです。

そうは言っても少なくとも最初に見るときは「誰が犯人だろう?」とか読者が推理する楽しみがあって、それを小説家だって苦労してどんでん返しを作ったりして書くわけだと思うんだけど、「そういう楽しみは分からないではないけど、だからといって別にネタバレがあっても全然構わない」というんです。

いや、それがアスペと定型の違いに関係があるのかどうかはよく分かりません。たんに個性の問題なのかも知れない。でも、物語の最初の楽しみ方にすごく大きな違いがあるのはたしかですよね。それはどういうことなのか、なんでなのか、なにを意味しているのか。私は今とっても不思議感に浸っています。

2012年1月 9日 (月)

韓流ドラマを一緒に見る

最近、パートナーと一緒に韓流ドラマを一緒に見る、というようなことを始めてみました。どっちが言い出したのかな。昔私が言って、最近彼女が改めて言い出したのかも知れませんが。

お好きな方はご存じの通り、韓流ドラマはなかなか「熱い」んですね。今見てるのはラブコメディ(チェ・ガンヒ主演のMBC作成「あんぱん」)ですが、男性の押しの強さにしても女性同志の中での「強引さ」にしても、パートナーは「え?何?これ、普通なの?」とか驚いたりしています。話の設定なんかは昔の日本の少女漫画そのものだと言ったりしていますけれど。

私自身は韓国に暮らしたこともないし、韓国人の友達が何人かいて、結構つっこんだ話もすることがあって、ドラマや映画もまあまあ見る、というような程度なので、「これ、韓国で普通?」とか聞かれても、答えられないことも多いんですが、韓国がどうのこうのではなくて、「日本の定型でも普通」というのもあるので、それはそう答えます。そうすると彼女は「へえ」と改めて驚いたり感心したり。

定型とアスペの違いも見えてくるし、日本と韓国の違いも見えてくるし、「人間関係いろいろだなあ」というのが見えてきて面白いです。日本のドラマでももちろんできる部分はあるはずですが、ただそれだと「定型とアスペの違い」の方ばかりが強調されちゃって、下手をすると「やっぱり正しい人間関係はこのドラマの定型のやりとりの仕方だ」という風に決めつけられちゃうかも知れないんだけど、そこに日韓の文化の違いの話が入ってくると、「日本の定型も絶対じゃないね」という感じになりますし、もうちょっと柔らかく問題を考えられるような気がします。

今のところそうやってドラマを見ながら気楽に話をしているのはお互いに面白くて、結構お互いの理解のためにも効果的な気がしています。ひとつの方法としておすすめかも。

2012年1月 8日 (日)

溝はどう埋まる?

 パートナーと話し合っていると、以前ならとても落ち込んでいた彼女の言動が「ああ、アスペ的だなあ」と、ある程度余裕を持ってうけとめられる、という変化は今はかなり普通になっています。

 もちろん、どうしてそういう言動の仕方になるのか、ということについては中々理解できない場合も多いのですし、程度は随分楽になってもやはり寂しかったり、悲しかったり、傷ついたり、ということが全然なくなるわけではないんですね。

 たとえば、ある知り合いの方からメールを頂いて、その内容がとても勇気づけられるものだったんです。それで、パートナーにも良かったら読んでみて、というと、読んでくれました。で、読んでくれたんですが、それで終わりでそれ以上の反応はないんです。やっぱりアスペ的だなあと私はそのとき思いました。

 時間が経ってから聞いてみたんですけれど、そのメールで私が勇気づけられただろうなと言うのは、それはまあ分かったそうです。もちろん私が勇気づけられたことはプラスのことで、否定的なことではありません。でもだからといって、そこで何か私に声を掛けたくなるとか、かけないといけない気持ちになるとか、そういうことはないようなんです。

 そこで私は「多くの定型の人の場合、そういうときは『よかったね』と声を掛けてもらえると、すごく嬉しくなると思う」と言ってみたんですが、彼女は「『よかったね』と言って、それで終わりであと話が続かないでしょう」と真面目に言ってました。「よかったね」という言葉かけにあんまり意味がないと感じて居るみたいです。

 それに対する私の説明はこんな感じでした。「たしかにそれで終わりになるかも知れないけど、でもそれで十分なんだと思う。だって、『よかった』という気持ちを共有したいと思って居るわけだから、そういわれたら、その共有の感じが得られるから、それでいいんだけど」

 もし彼女にお願いすれば、そう言う場合にはとりあえず「よかったね」と言ってくれる「習慣」を身につけてくれるかも知れません。でも、それはなにか気持ちがこもっていない単なる「ことば」に終わってしまうのではないかという気もするんですね。自発的に言いたくて言うのではなくて、言わされて言っているようなものですから。

 それとも仮にそんなに強い気持ちがこもってなくても、私の方はそれなりにうれしくなって、それでまあ少しうれしくなるのかもしれません。そこは実際よくわかりません。それに、「言わされる」方だって、負担感を感じるようだと悪いなと思うし、そこもよくわからない。

 「外向きモード」で世の中に無理に合わせて頑張ってやっているような形で私に対してくれれば、そう言う問題のいくつかは「解決」するでしょう。でもそれはあくまで「外向き」に無理してやっていることだから、「自分モード」のパートナーとつきあっていることではなくなってしまいます。言ってみれば他人とやりとりしているようなもの。

 でも本来の彼女の姿である「自分モード」につきあっていると、どうしても大なり小なり満たされないものが生み出され続けてしまう。

 そのところ、どうやって埋め合わせていけるのか、あるいは埋め合わせは無理で、何か考え方を変え、付き合い方を変えていかなければならないのか、それともまた全然違う「解決法」がありうるのか。むつかしいところです。

 

2012年1月 6日 (金)

「ズレ」の共有の意味

 このところこのブログにアスペの方からのコメントが多く寄せられるようになりました。これまでは定型の方たちのコメントの中に、ときどきアスペの方のコメントが混じるという感じが多かったのですが、もう少しアスペの方も参加して下さる方がおおくなるといいなと思っていたので、嬉しいです。

 また、アスペの方どうしのやりとりもその中で行われているのも、もしかするとここでは初めてくらいかも知れません。そうすると、ある意味で当然のことだけど、定型とアスペの間だけではなくて、アスペの方どうしのやりとりにもズレが出てきたり、書いた人の想定していなかったところで相手の方が傷ついたり、ということも起こるわけですね。

 中国には「喧嘩をしなけりゃともだちじゃない」という言い方も有るみたいだし、日本でも「雨降って地固まる」と言うし、お二人のやりとりが良い意味で真剣な、そして前向きなものへと展開するといいなと思ったりしています。(あ、今また投稿がありました。やっぱり私が中途半端に口出しすることもないような、それに言い方によってはまたさらにずれた話をしてしまう気もします)

 あ、そろそろ洗濯物を取り込まなければ…… てんてんてん…… 終了!

 ふと気がつくとちょっと日が長くなってきましたね。冬至を過ぎてるんですね。

 
 ところで、このブログではアスペと定型というズレをお互いに抱え込んでいるとカップルの両方が知ることで、関係が凄く変わるみたいということを書いてきました。

 わたしのところではその状態になって2年弱になるわけですけれど、その他のこともあったにしても、ほんとに天と地くらいに変化が起こりました。別に問題がなくなった、というわけではなくて、問題の受け止め方が全然かわっちゃったんですね。そうすると精神的にも全然違ってきます。

 何がどうかわってくるのかなあとちょっと考えてみるんですが、ひとつは問題が起こっても単にお互いに相手のせいにするのではなくて、アスペと定型の「ズレ」のせいにできるということがあります。悪いのは相手ではなくて「ズレ」なんだ、と言う形で気持ちを切り換えることができる。(もちろん、それでもやっぱり傷つく、というのが完全になくなるわけではないとは思いますけど、かなり和らぐ)。

 それから「ズレ」が問題なら、その「ズレ」という「原因」を一緒に探ることでなんか解決のための方法がみつかる「かもしれない」という気分も出てくる。とにかく何が何だかわからなくて、五里霧中でただしんどいだけという状態から比べれば、天国のようなものです。

 そうすると、今までは問題が起こればそれは二人の対立を意味していたのに、今度は「一緒に問題を考える」といいう「二人の共通の課題」に意味が変わってくる。喧嘩でなくて共同作業になる可能性が出てくるわけです。

 そして前にもちょっと書いたように、そういうことを丁寧に繰り返していくうちに、お互いの間に信頼感が積み重なっていくようになる。それは「理解できたから信頼する」のではなくて「理解しようと努力し合っている」ことへの信頼感です。


 もちろん、いいことばかりでもないんでしょうね。たとえばせっかく「ズレ」てるんだという理解をお互いに共有できたとしても、「これだけずれているならもうむりだね」ということになるかもしれない。ある意味ではそうやってお互いに納得して「見切りを付けられる」=「新しい人生をお互いに歩み始められる」と考えればプラスなのかも知れませんが。

 ズレの原因を一緒に探ると言っても、それが簡単にできるのならある意味苦労はないわけですから、結構根気のいる作業になったりするし、問題によっては頑張ってもやっぱりわかんないねえで終わる可能性も覚悟しないといけない。多分、ある程度はこつのようなものが有るのだろうとは思うのですが、まだ言葉になるほど分かりませんし、第一、性格的にぐちゃぐちゃ長ったらしく話し合うのは嫌いだ!みたいな人の場合はむつかしいことになるかもしれない。

 私の場合は、今の気分としては、ああうちの夫婦というのは、こういう「ズレ」をずっと抱え続けながら、それを少しずつでも理解し合う過程を一緒にすごすことが、つまりは夫婦生活の大事な一部なんだな。という感じがしています。問題のない夫婦なんてまずそうそうないでしょうし、その問題もまた千差万別。その中でたまたまうちはアスペと定型というズレの問題が重要になってる、そういう夫婦だ、という感じでしょうか。

 だからそういうズレを抱え込んでいることを不幸だとか、運が悪いとか、そういう感覚は少なくとも今はないように感じます。こういうのも二年前には考えられなかったようなことですね。ま、また五年十年と積み重なっていくとどうなるのかはわかりませんけれど、今はそういう感じです。
 
 

2012年1月 4日 (水)

愚痴の話

ヒロさん私の記事からこんなことを書かれています。

 「愚痴……!!!
 私には理解不能なものですね」

そうでした。思い出しました。

私ももうだいぶ前になるけど、あるアスペの方のブログを
紹介する中で、その方が職場で他の人たちが
「陰口」を平気で言うのをきいてとても苦しかった
ということを書いていらっしゃるのを紹介したことがありました。

本当は本人に注意すればいいものを
他の人に文句を言うのが愚痴とか陰口でしょうけれど、
なんで定型はそういうことをやるのか、
アスペの方からはわかりにくい(方が多い?)わけですよね?

そしてそういう愚痴とか陰口とかは
とても卑怯だとか汚いことに思える。
本人に対してはいい顔をしていたりする場合には
特にそうですよね。まるっきり嘘を言ってるわけですから。


ではなんでそんな「卑怯」なことを定型はするのかについて
私なりにちょっと考えてみたいと思います。
アスペの皆さんはどう感じられるでしょうか?
他の定型の皆さんはどう思われるでしょうか。


定型の場合、よく言えば人とのつながりを大事にします。
悪く言えば自立せずにとにかく群れたがります。

なぜかというと、よく言えば助け合えるからです。
悪く言えば数がいるほど有利だからです。

けれども人と人が距離を近く保とうとすると、
どうしてもお互いに合わないところや不満なところが
だんだんと見えてきてしまいます。

そういうときにどうするのかというと、
定型の場合「直接言うと角が立つ(相手を不快な気持ちにさせる)」
というふうに考えやすい。(特に日本ではそれが強力ですね)

だから、定型はいろんな形で「間接的に伝える」という方法を
工夫して、ショックを和らげる方法を模索してきました。

そうやってよく言えばできるだけ激しい対立を避ける、
悪く言えば適当に誤魔化すようにするわけです。

アスペの人が苦手と言われる「間接的な要求」とかもそうですね。
直接言うと「命令した」みたいになって上下関係のようになるので、
それをマイルドにして「相手が自分の意思でそうする」ように
「間接的」に要求して上下関係の命令みたいな感じを和らげるわけです。


愚痴もそういう、よく言えばはげしい対立を避けるための、
悪く言えば誤魔化してしまうための手段だと思います。

直接文句を相手に言うと相手と喧嘩になるかも知れない。
でも例えば相手が上司の場合とか、立場によっては
喧嘩できない場合があるし、喧嘩したくない場合もある。

そんなときには文句を言えずに不満がたまってしまいます。
そこで、第三者に愚痴を言うわけです。
第三者は当事者じゃないので、比較的冷静に聞けるし、
話にも共感してもらえるかも知れない。

定型の場合は共感してもらえたら、
それだけで問題は解決してないのにちょっとすっきりして
元気になったりすることがあるので、それでもOKです。

また、その愚痴がだんだん人から人へと拡がることもあります。
それはその愚痴の内容がみんなが納得できるような場合です。
そうすると同じ不満を持った人の集団ができるんですね。

そうやって集団ができるようになると、
相手が上司であっても数の力で対抗できたりすることもある。
で、上司がそのみんなの不満に気がつくと、
それを直してくれる場合もあるわけです。

結果的に激しい喧嘩とか対立がなくても
問題が解決することになります。

もちろんこれはうまくいったばあいのことで、
だいたいは愚痴をこぼしておしまいになることが多いでしょう。
でもそうやって定型はよくいえばお互いに支え合い、
悪く言えば裏でごまかして生きているんだと思います。


このあたり、他人とどうつながりを作って
生きていこうとするかについての
アスペと定型の違いをよく表す例になるかもしれません。


いろいろ勝手に想像しながら書いてみましたが、
みなさんはどう思われますでしょう。

2012年1月 3日 (火)

パニック映画とアクション映画

映画とかテレビドラマとか、とっくにパニックものに多いけど、
危険が襲うシーンで登場人物がお互いに抱き合って
大声を上げたりしているところがあったりしますよね。

お化け屋敷に入って怖いときにお互いに抱きつき合うとか。
カップルなんかはそれが目的で入ったりするのかも知れない (^o^)

でもそれが成功するのはどうも定型カップルに偏るかも知れません。
というのは、少なくとも私のパートナーの場合は
危険に直面したときに抱きつかれるのはだめなんです。
もちろん抱きつく方も。

ではなにがいいかというと、たとえば背中合わせになること、
つまり自分の死角になる部分をお互いに守る形になること。
これは実際の姿勢の場合でも、その他の種類の場面での
行動としても比喩的にはそういうことらしいです。

同じ映画でもアクション映画などになると、
主人公が背中合わせで仲間とお互いに守り合う姿勢をとったりしますよね。
そのときに抱きつき合っていては相手にやられておしまいです。
そう考えるとアスペ的な協力関係の方がよほど合理的に思えます。

昔の剣豪とか、アスペルガーの人が多かったりしたんでしょうか?

2012年1月 2日 (月)

理解するけど対応がズレる

パートナーと話をしていて(というのが連日ですね)、
ある面では自分よりよほど人の感情を理解して居るなあと
正直思うことがそれなりにあるんです。

今まではそんなこと思ったこともなかったんですけれど、
なんでなんでしょう。できないという思いこみだったのか、
なんかちょっとした「翻訳」ができるようになってそう思えるようになったのか、
よく分からないんですけれど。

で、逆に言えば、自分の方が人の気持ちを理解できてないなあとか、
そう思うことがあるわけですね。
そういうときには「あれ~、なんか自分って人の感情理解について
すごいボコッと抜け落ちているところがあるんだろうか」
とマジで不安になったりもします。

こういう不安をアスペの人は常に感じさせられているのかもしれないですね。


今日話していてなるほどなあと思ったことがあったんですが、
そんなに理解できるんなら、いい相談相手にもなれるじゃない、
と言うと、そこは違うんだそうです。

何故かというと、「相手がそういうとき、そう感じるのは分かる。
でも、そう相手が感じたときに、どう対応するのがいいのかが分からない」
というわけです。

で、定型同士だと、(もちろん個人差ありですが)
「自分がそう言うときにどうしてほしいか」
ということを考えてそれに沿って対応すればうまく行くことが多い。
ところが、アスペの人の場合、「自分がして欲しいこと」を
そのまますると、全然逆の効果だったりしちゃうわけですね。

これまで出てきた話だと「悩んでるときには放っておく」とか。


この話、いつでも誰にでも通用するのかどうかは分かりませんけれど、
でも少なくともそういう場合がそれなりにあるというのは興味深いですよね。
「理解」は共有される。でも「どう表現するか」「どう応答するか」が共有されない。

アスペのひとは「共感が苦手だ」という言い方は
そういう視点から考え直してみる必要がないんだろうかと思います。
このこともまたぼちぼち考えていきたいことですね。

2012年1月 1日 (日)

文化の伝い手

新年あけましておめでとうございます。fuji
今年が皆さんにとって稔り多い年しでありますように!

今でこそ随分緩くなったり少なくなったりしていますけれど、
お正月にしろお盆にしろ、人間って「儀式」や「儀礼」とか多いですよね。
「礼儀」とか「しきたり」とか……

それってすごく「型にはまった行動」が大事なんだけど、
その一つ一つの行動にどういう意味があるのかは
誰も知らないことが多い。

昔読んで面白かったんですが、孔子の家では、つい最近まで
毎日庭の鍋でお湯を沸かすしきたりがあったんですって。
で、もう千年単位でそれをやり続けてきた訳なんだけど、
もともとそのことにどういう意味があるかは誰も知らなくなっていて、
ただそのしきたりだけが続いている。
だから湧かしても何に使うわけではなくて、
ただそのまま冷めてしまうだけなんです。

ちょっとw(゚o゚)wだけど、実際孔子の直系の子孫が書いてました。

こだわりの行動って、自閉系の人の行動の特徴みたいに言われるけど、
でもこの世の中ってそういう理由ははっきりわからない
こだわりの行動をみんなでずっとやり続けているところがたくさんありますよね。
アスペと定型で違いを見つけるとすれば、そのこだわりの行動を
みんなでするか、ひとりでするかということなのかな。

でももしかするとそういうこだわりの「儀式」なんかができてくる過程とか
それを代々引き継いでいく過程には
もしかすると昔のアスペの人たちがすごく活躍したかも知れない。

私なんかいい加減だからそういう「型」を守るとか言うのが全然苦手で、
でもそういう「型」をきっちり守らないと気持ちがすまない人たちが居て、
その人たちがそういう私のような適当な人間にも
「型」を守らせてきたのかも知れないですよね。

そう言う意味ではアスペの人は文化の大事な伝い手という役割を
もしかしたら果たしてきたかもしれないなあと、なんとなく思ったりしています。

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