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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2011年12月

2011年12月31日 (土)

小さなステップ

いよいよ今年も最後となりました。
このブログも二年目に突入し、
これからもどうぞよろしくお願いいたします。

いつも思うんですが、「自分とは違う理屈で生きている人と
どうやって多少でも理解を深め、共に生きていけるのか」
ということがすごく大きな課題だという気がします。

そのことはもちろんアスペと定型の問題に限らない。
だいたい男と女が一緒に暮らす、と言うこと自体だって
歌の文句じゃないけど「深くて暗い谷がある」わけですし、
世の中自分の理屈だけで他の人々を断罪して
力らで押さえ込もうというのが普通みたいになっています。

そういうの私は個人的に好きじゃないし、
できればそういうことをしないでも生きていける世の中になって欲しい。
アスペと定型のズレの問題は、言ってみれば偶然に
自分が背負ったわけだけど、
でももはやここまで来てそれが自分の人生の大部分
みたいになってくると、そこから離れては生きられない。
(最近はパートナーは格好いい男性がいればさっさとそっちに
のりかえようかなとか言ってますけど (^ ^;)ゞ )

だとすれば、この自分という小さな世界の中での問題に
ちゃんと向き合って何か前進をしていくことが、
大きな目で見れば、よのなかのそういういろいろな問題にも
小さな前進をもたらすんじゃないかと思います。

もちろん同じように考える人たちが多くなればなるほど
その歩みは速く、強くなっていきますけどね。

どうせ一朝一夕で解決するような簡単な問題ではないし、
じっくり焦らずみんなで道を探していければなと思います。
ここでの皆さんとの遣り取りも、
来年出す本も、その小さなステップの一つですね。


ありきたりですが、皆様どうぞ良いお年を!

2011年12月30日 (金)

耐えること=愛?

今日ちょっとおかしかったんですが、家に帰ってきている娘と三人で
ご飯を食べているときに、パートナーがわりと辛らつな言葉で
私に反論したんですね。

で、昔なら深く傷ついていたような話になるんだろうけど、
パートナーが「パンダだからそういう言い方で言った」と言うんです。

つまり、例の「自分モード」で「正直」に話したわけで、
自分がそれができるのはパンダだけだというわけです。

そうすると娘がすぐにちゃちゃを入れて、
「お、お父さんすごい愛されてるジャン」と言う。

ま、確かに他の人には言わないことを私にだけは言ってくれる(?)
ということだから、ほんとに特別扱いな訳だし、
そういう特別な存在として認めてくれているという意味で
娘の言うことは間違ってはいないわけですよね。

で、私としては喜んでいいのか、悲しんでいいのか、
とても複雑な心境になってしまうというわけです (^ ^;)ゞ
ま、今のところ喜びの方がやや勝っていますが。

なんか「愛って耐えることなのね」とかいう
臭いセリフが昔有りましたけど、そんな感じでしょう?


スキンシップについてはヒロさんの登場で
さらに面白い展開になりそうですけれども、
なんにんしても我が家ではまあ苦手な方な訳で、
定型的には私は非常に寂しい訳なんだけど、
でもそもそも「一緒に暮らしている」と言うこと自体が
アスペにとっては超級の特別待遇だ、
という話を聞かされると、う~ん!と考え込んでしまうのと
ちょっと似てますね。


あと思うのは、この話、ひっくり返して同じように考えることが
できるだろうか、ということです。

つまり、定型の私の側が「自分モード」で話すことで
パートナーには辛さが出てきてしまうんだけど、
でもそれは私が、相手がパートナーだからこそそうしたんだ、
みたいな話があるかどうか、ということですね。

うーん、なんか複雑そう。
だいたいアスペの人の「自分モード」というのと、
定型の「自分モード」もかなり違いがありそうで、
単純に比べられない感じもする。

あたまこんがらがりそうだから、今日はこの辺で退散します paper

2011年12月29日 (木)

心配と攻撃

引き続き批判されても……という話です。

今朝も起きがけにあることでなんか怒られて、
以前に比べると「ちょっと言い方は悪いかも知れないけど」
みたいな断りが最初に入るところが変化してるんですけど、
それでも今日はちょっとむかっと来たんですね。

で、なんでむかっと来るんだろうと思いながら聞いてたんですが、
やっぱり言うことが一方的に聞こえるんです。
とにかく「自分はこれが正しいと思っている」=「私は正しいことを言っている」
という主張に聞こえてしまう。

こっちの主張は最初から無視、あるいは存在しないような扱いに感じる。

それで以前なら、「そんな風にいきなり決めつけで来るんだったら、
こっちも理屈で対抗せざるを得ない」みたいな感じになる、
つまり「初っぱなから喧嘩を売られた」感じになっていたわけです。

で、そのつもりでこっちも喧嘩腰になって主張を始めると、
驚くことにパートナーーの方が「なんでそんなに私を責めるの?」
という態度に急変して、こちらが訳が分からなくなり、
なんだか一方的にこっちが相手をいじめているような
そんな気分にさせられてしまって何も言えなくなる。
そうやって不満ばかりがたまっていくわけです。

でも今日は我慢してそのまま話を聞いていたんです。
そうすると、だんだんとなぜ自分がそう言うことを言うのかについて
言葉の調子は相変わらずキツイ感じなんだけど、
だんだんとその理由が整理をされつつ語られるようになってくる。

で、その理由を聞いていると、ああなるほどなあと
思えるようになってくるんですね。
しかもその理由は本当にこちらのことを自分の知識や経験から
心配して言っているのだと言うことも分かってくる。

つまりこういうことなんだと思います。
「外向きモード」で話をするときには、相手に合わせてソフトにやる。
でもそれはものすごく精神的に負担がかかることでへとへとになる。
で、家庭ではできるだけ「自分モード」に戻りたいわけですから、
自分が思ったことをなんの飾りもなくストレートに表現する。

そうすると表現になんのクッションもなくなって
一見こちらのことを何も考えてくれていないような
一方的な主張の押し売りのように聞こえてしまう。
実際には本当に心配して言ってくれていることについてでもです。

ということで、パートナーが「自分モード」で一見「攻撃的」に来たときにも、
こちらは気持ちにクッションを置いてゆっくり話を聞き続けてみる
ということが意味がある場合がけっこうありそうだと感じました。

そう言えば最近私の言葉の中に「ふーん、そうなの?」
という相づちの打ち方が増えてきています。
相手の言うことに賛成している訳じゃないんだけど、直接反対はせず
まあそういう考え方もあるのかね、くらいの返し方ですね。
そうすると話はスムーズに展開して深まることが多い気がします。

2011年12月28日 (水)

批判がすっと入ってくる

ちょっと「前向き?」な話が続きますけれど、
パートナーと、特に私自身のことについて話をするとき、
以前はカチンと来て承伏できないことばかりでした。

私のことをまともに理解もせずに何をそんなこと言うんだ、
という気持ちが先に立つというのか、
そして言ってることがまともなことに聞こえないというか、
ひどく一面的な決めつけに思えるというか、

そんなこんなでダメだったんですね。

ところがここ数日、位の感じなんですけれど、
彼女のズバズバした批判がびっくりするくらい
すっと入ってくることが多いんです。

何か自分が変にこだわってこじれてしまっているところとか、
無駄な部分とかがある意味気持ちよく切り取られていく、
そんな感覚があったりします。

彼女が変わったのは、以前よりもっとストレートに
思ったことを言うようになったことで、
言ってみれば「外向きバージョン」じゃなくて、
「自分バージョン」で話をすることが多くなったことかな。

つまりはアスペ的に話をしてくれる訳です。
やっぱり以前の私なら耐えられなかったかも知れない。

それが不思議ですね。こんなに抵抗感なく
すっと聞けるようになってきているというのは。

良薬は口に苦し、という言葉がありますけど、
そういうことなんでしょうか。
でも苦いことはあっても辛いことはない。

何がそういう変化を生んだのか、まだよく分かりません。
ただ、自分が変化しつつあるのは感じています。
結構根っこの部分からの変化かなという気がする。

この変化、当面は一体なんなのか、ゆっくり考えてみたい
と思えることの一つですね。

2011年12月27日 (火)

またもや個性のこと

昨日アスペの人の適職にある種のカウンセラーがあることを発見!
みたいな話を書いたら、ヒロさんからこんなコメントを頂きました。


(ヒロさん)
「私がそうなのですが、アスペルガー症候群で心が不安定になりやすい人
間にとっては他の方の辛い気持ちを聞くことはかなり危険です

気持ちがひきずられてしまって、自分と相手との境がわからなくなります」


うーん、なるほど~。とこれもちょっと唸りました。

私もブログで「個性を見ることが大事!」とか何度も書いてきたし、
今度出そうとしてる本でもそこが一つの大きなポイントなんだけど、
でもじゃあどういう個性があって、それがどういう風に意味を持つの?
という具体的な話は、経験が少ないから私はあんまりできないですもんね。


それでヒロさんのブログ「パニッキ」を覗かせて
頂いたんだけど、すんごく個性的。
で、夫のナリさん(?それとも「夫ナリ」という意味?)が、
めちゃいい感じの人で、ふーん、こんな人が世の中にいるんだあ、
と感心することしきりでした。

スキンシップについてもヒロさんの場合はもう「生きる手段」くらいに大事。
で、それをナリさんがまたいい感じでちゃんと受け止めてあげている。
へえ、スキンシップがそんな感じで大事なアスペの人もいるんだ!
と私はびっくりしてまたまた唸っちゃいました。
 

でもこういうのうれしいですね。
なんか「アスペだからこうだ」みたいなすごい狭い決めつけの世界じゃなくて、
アスペにも色んな人がいて、いろんな可能性があるんだ、という気になれる。
普通カウンセラー的なことなんて一番苦手と思われるだろうけど、
実はそれがばっちりの人もいる。もちろん合わない人も多いんだろうけど、
でもそこで決めつけちゃいけないと言うことが分かる。

(再びヒロさん)
「定型発達脳の方にも個人差があるのと同じくらい、
同じアスペルガー脳でも個人差があるのが当然だってことが世間に広まればいいな✿」

ほんとにそうですね。

ところでヒロさんの座右の銘が 「明日頑張ろう」 というのも良かったです。

2011年12月26日 (月)

アスペの天職カウンセラー?

今日も癒しを求めてブログの旅に出るパンダです。

なんか、足をこたつの中で動かすと、中に居るネコが威嚇して唸ってます。
あ、今外に出てきてしまいました。根性のないcatだ。

パートナーとけっこうじっくり話ができるようになってくると、
また新たな発見が色々あり、刺激的です。

昨日は彼女がほんとに優秀なある種のカウンセラーになってくれて、
私が抱えているぐちゃぐちゃした問題をスパッスパッと快刀乱麻、
もうすっきり整理してもらえて感激してしまいました。

そのためには他者の考えや性格などを推測理解する必要もあることで、
え~すげ~!っとこっちが思わされたり。
(ま、単に私がアホなだけとか…… (^ ^;)ゞ )
で非常に説得力ある現実的対応姿勢を教えてもらえる。

もうまじで尊敬のまなざしで、「なんでそんなことできるの?」
と聞いてみたんですが、本人が言うには、
一つにはとても現実的な問題についてのことだから、ということ、
それから二つ目が重要かなと思ったのですが、
他人のことだからそれができる、と言うのですね。
そこに自分が絡んできてしまうととたんに混乱してしまうらしい。
とりわけ自分の感情的な問題がからんでくると難しいとのこと。

パートナーは老人介護関係の仕事をして居るんですけれど、
老人の性格や心身状態、家族関係その他を考えながら、
その老人に適切な対処法やケアのプランなどを立てる能力は
職場でも評価されているそうです。
ご存じの方はご存じでしょうし、ご存じない方はご存じないでしょうが、
老人も本当に色んな人がいて、海千山千、一筋縄ではいかない
色んな意味で「大物」の方もぼちぼちいらっしゃるわけですね。
そういう方たちも含めてそれぞれにあった対応をできる。

IT関係は対人関係が苦手な人でも問題なく、
むしろ力を発揮できると言うことでアスペの人の有力な
活躍の場のひとつになってきているようですけれど、
なんと介護福祉という、まさに「対人関係の総本山」
みたいなところで、実はアスペの人が「適切な距離」をとりながら
素晴らしい仕事をできてしまうということがあるようです。

実際介護とか福祉とか、利用者との距離の取り方は
(要求にどこまで応じるか、応じてはいけない要求にどう対処するかなど)
ほんとに難しいことがあって、むしろ定型は下手だったりする。
そこを「切る」ところは冷静にすぱっと切って、
現実的に可能な対処をしっかりと考えることができるようなのです。

実は他にも違う職種の方で「これは天性のカウンセラーではないか」
と思えるような接し方をされてきたアスペの方のお話しも聞いたのですが、
それは制作中の本の方でお読み下さい。


そうやってものすごい能力を発揮してくれたパートナーですが、
今日(私にとっては)もっとシンプルな、簡単な話をしたら、
今度はびっくりするくらい、よくわからないと混乱してました w(゚o゚)w
なんだか面白いですね~。

2011年12月25日 (日)

正直者と嘘つき

昨日「癒し系」の話をしながら早速「イヤされない系」
になっちゃうかも知れないんですが (^ ^;)ゞ

たとえば私のパートナーとか、ここで議論して下さるアスペの方とか、
もちろん定型社会で生きていくための「外向きのモード」と
自分自身の感覚でいるときの「自分モード」の切り替えはあるんだけど、
でも、基本的には嘘をついたり相手を騙したり(って同じ事か (^ ^;)ゞ)
そういうずるさはないと暗黙の内に思いこんでいたところがあるんです。
ま、私のパートナーとの経験が一番大きいかも知れませんが。

ところが生育歴や対人関係の特徴などを見ていると
「あ、この人多分アスペだろうな」と思える人が知り合いにあって、
実際いろんなところで苦労されてたんで、
私にできる援助は「誠実に」やっていたつもりだったんだけど、
で、それには「本当に」感謝されていると思っていたんだけど、
それが全然嘘だったらしい、というショッキングな経験をしました。

私だけじゃなくて私の友達も同情して援助していたので、
彼も大ショックです。


「犬好きの人に悪い人はいない」というのはないように、
「アスペの人はすごく正直で誠実だ」みたいなことも当然ない
定型と同じように愚直な人もいれば口先で人をあしらって
適当に自分の都合の良いように生きていく人もいる、
というある意味当たり前の事実を思い知らされました。

やっぱり問題は個人個人ですね。
それともちろん環境もあるし。
そこにアスペという特徴が加わっていく。

だからある種のアスペの人にものすごく苦労した方が
その人の事しかアスペとしては知らないとすれば、
アスペのイメージがメチャクチャ偏って悪いものになったとしても、
それは仕方のない面もあるんだなと思います。

うちはパートナーがそう言う面で愚直で誠実な人でよかった~
(こういうのはあんまりいい言い方ではないかも……)

2011年12月24日 (土)

信頼と絆と理解

 最近(といってもここ二日ほどですが)の記事を読んで、
 「なんか固すぎる」という感想を頂きました。
 もともと癒し系のブログなんだから、というんですね。

 はあ、そうなのか! と思わされました (^ ^;)ゞ

 ちょっと自分自身に対する癒しマインドが不足気味だったのかも知れません。
 考えてみるとこのブログを書く事それ自体も、そしてみなさんから色んなコメントを頂いたり、
 そこで議論が展開される事も、どれも私にとってっはたしかに癒しだったんですね。
 
 で、自分にとって癒しになる事が、結果的にも上の方のように「癒し系」と
 感じていただくようなことになっていたのかもしれません。

 ま、自分自身は癒し系などという高級なものではなくて、卑しい系か
 嫌らしい系くらいがせいぜいだと思っていますけど (^_^;


 ところで相手を信頼するとか、絆で結ばれるとか、それって何の事なのか
 あらためてちょっと考える事があったんですが(え?これも固すぎ? (^ ^;)ゞ)

 たとえば「自分は相手の事を良く理解できている」というのが
 信頼や絆の前提条件とか言うんだとすれば、
 なかなか理解しにくい部分を持ち続けるアスペと定型の間では
 そもそも信頼や絆は持ちにくいという事になってしまいそうです。

 でも最近パートナーとじっくり話ができるようになってきて、
 「実際に理解できたかどうか」じゃなくて、
 「分からないなりになんとか理解しようとお互いにし続けている」
 ということで、なんか信頼感が出てくるような気がするんです。
 
 逆にうわべだけ通じ合っているような振りをして実は全然そうじゃない
 とかいうことが明らかになっちゃうと、すごい不信感になりますね。
 こっちが一生懸命理解しようとしてるのに、裏切られた感じになる。

 なんかおのろけみたいになると恥ずかしいんですが、 (^ ^;)ゞ
 でもパートナーとの間にはなんかそういう不信感が生まれそうにない。
 本人は自分が馬鹿で不器用だからと言っていますけど、
 そんな感じじゃなくて、ある意味ではアスペの頑固さが
 すなおにこちらに向いてくれていてそうなっている感じがする。

 
 で、定型同士だって相手の事が全部分かるなんてむしろ気持ち悪いし、
 昨日も書いたけどそんなことあり得ないことでしょう?
 その意味では「分からない事がある」ということは、
 それだけではお互い信頼しあえないとかいうのとは違うんですよね。
 問題は「分からない」だから「そのことにどうしようとするのか」
 と言うお互いの(片一方だけでは無理)姿勢なんじゃないでしょうか。

 そうするとどうしたらお互いにそういう姿勢になれるのか、
 ということが大事な問題になるわけですけど、
 ここはかなり難問がいろいろありそうですね。
 そのカップルカップルによっても全然違いそう。

penguinvirgoheartsnailsnowgeminiariescatspaloveletterdogcapricornustaurussunaries

 
  

2011年12月23日 (金)

スキンシップ

久しぶりに二日連続です。

本の原稿書きの方はパートナーに「長すぎる」とか「くどすぎる」などと指摘されて、
少しずつ修正しながらぼちぼち作業しています。

なんというか、ある意味気持ちいいくらいにいらない単語とか文章とか節とか、
スパッスパッと切り落としてくれます。
そのあたり、(日本的)定型の人の「遠慮してマイルドに」という感じはなくて、
逆に言えばまどろっこしくなくて、さばさばした感じなんですよね。

無駄を極限までこそぎ落として、本当に大事な部分だけを残す。
俳句とか侘び寂びの世界みたいですけど、なかなか難しいです。


ところで今日も「スキンシップ」の話をしてたんですけれど、
定型の場合はたとえばしんどいときとか、悲しいときとか、
背中をさすってもらったり抱きしめてもらったりというスキンシップは
心を安らがせてもらえる大事なものですよね。

でもパートナーにとっては原則としてはそういうことにならない。
なんでなんだろうというはなしなんですが、
人に触れられると緊張するということのようです。
緊張ってどういう事かというと、常に相手の次の行動が気になって
皮膚に意識が行き、身構え続ける状態になる、というようなことらしい。
それで特に長い時間の接触は疲れてしまうようです。

だから、自分の方も相手に身を委ねてホッとする、
という感じはまずないようなんです。

接触が全部ダメというわけでもなくて、
たとえばパートナーの場合は猫はしばしば抱いてます。
なぜてごろごろ言わせて安らいでる感じがする。
じゃあ赤ん坊はどうかと聞くと、赤ん坊でも同じように
泣いている赤ん坊を抱きしめて泣きやませてあげたりとかは問題ないという。

じゃあ要するに自分がコントロールできる範囲なら
安心してスキンシップできて、それができない相手だと
緊張してしまうんだろうかと聞いてみたんですが、
そう単純な話でもないらしい。

赤ん坊を抱いて泣きやませる事についても、
どうも何かが違うらしくて、私はすっかり忘れていたんですが、
子どもが小さいときに、よく「それじゃあだめだ、こんな風に共感的に」
と僕の方が何度もやってみせていたようです。
でもその「こんな風に」というのは全く理解できなかったとの事でした。

スキンシップは当然セクシャルな欲望の問題にもつながる大事な問題で、
ぼちぼちラブロマンスの映画でも一緒に見ながら色々話そうか
とかいう話にもなってきました。

2011年12月22日 (木)

誤解の積み重ね

 このブログもほぼ1年を経過したところで10万ヒットになりました。

 始めた頃はほんとに自分の気持ちの整理のためくらいのことで、数人の方が見て下さればいいくらいの積もりでしたけれど、それだけ問題は広く大きいのだなあと、改めて思います。

 考えてみれば仮に人口の1%の方がアスペだとして、みなさんが結婚されるとすれば、日本だけで260万カップルくらいがアスペと定型夫婦になる勘定ですね。子ども人口や未婚者を差し引いたとしても200万はくだらないでしょう。

 考えてみるとこれ、すごいことで、200万カップルなら人口で400万人。大都市に匹敵するくらいの人たちです。(注:このあたりの数字、「緋の獅子」さんのご指摘を頂いて修正しました。)それだけの方たちが気がついているか、気がついていないか、アスペと定型の間にあるズレを抱えながら日々を暮らしている。気がついている人なんてほんの一握りではないでしょうか。

 あとの大部分の方はずれたりしていても、鷹揚に構えてあんまり気にしてないか、なんか変だという思いを抱えながらそのまま生きているか、苦しみながら全く手がかりなしの状態に放置されているか、ということなんでしょう。

 いずれにせよ「鷹揚に構えてあんまり気にしていない」というカップルも上の推定人口から考えればきっと相当数いらっしゃるんでしょうね。その方たちにとっては、私たちがここでああでもない、こうでもないと考えて、何とか理解を深め、お互いの調整の仕方や上手な離婚の仕方を考える、という作業は別になくてもいいのでしょう。

 でもやっぱり僕等の場合はそれは無理で、どうしても考えざるを得ない訳ですから、そういう私たちに「もっと鷹揚になれ」と言われても意味がない。それぞれの状態、状況に合わせてじっくり考えていくしかありません。

 
 最近、またパートナーとかなりじっくり話し込む機会が増えているんですが(そのこと自体、昔を考えるとびっくりするような変化ですが)、話す毎にやっぱりお互いが抱えていた理解のズレが見えてくる。そしてこれは定型の私から見ての印象ですが、何か比較的小さなことで生じたちょっとした「誤解」が、彼女の中で驚くほど重要な意味を持って固まり、がっちりと抱え込まれてそれを中心に「誤解」の積み重なった世界ができあがっちゃう、ということを何度か感じました。そしてそういう「誤解」が積み重なってできた見方を足場に私に対応してくると、その「誤解」の積み重ねが分からない私の方は、彼女がどういう発想でそういう発言をするのかが全く分からない。理屈がメチャクチャなように感じてしまうんです。でも丁寧に「誤解」の大本に遡って話を聞いていくと、「ああそういうことかあ」と思える場合もある。

 その話を息子にしたら、「そんなの定型の会話だってめちゃくちゃで、よくあれで通じ合ってると思ってるなと思う。ほんとに話が一致しているのは15%くらいじゃない?」とか言ってました。ま、井戸端会議とか、大体そういうものだと思いますけど、それでもなお定型同士の場合とアスペと定型間の違いを考えると、定型同士の場合は、仮に話し合っていてズレが発見されれば、比較的その理由について遡って発見しやすく、調整しやすいのだけれど、アスペと定型間ではズレまでは発見できたとしても、どこからそういうズレが出てくるのかがすごく難しい。

 なんで難しいのかと考えたときに、その一つの理由が、上に書いたような、途中で修正がされずにどんどん進んでしまう「誤解」の積み重ねなのかなと思います。それを一つ一つ解いていく、というのも時間と根気のいる作業ですね。「なんでそんな面倒なことするの?」と言われるかも知れません。でもまあ「そこに山があるから」とでも言ったらいいのでしょうか。もともと人生山登りみたいなものだし、時々景色を見たり路傍の高山植物を見たり、楽しみもありますものね。

2011年12月18日 (日)

一人にして欲しい

 カレンさんご夫妻のところでも、なにやらどんぱちがあったようですけれど、アスペと定型の問題にお互い一緒に取り組んでいこう、という風になったカップルが、そのまま穏やかな日々を過ごす、なんてことはないですよね。だって定型同士のカップルだって喧嘩したり仲直りしたり、というのの繰り返しが普通で、まあ、中には「喧嘩してるとこ見た事ない」というような夫婦もあるのはありますけど、それほど一般的と言う事もないでしょう。

 家でもこれまで随分いろいろな事について話し合いをしてきました。それでほんとにいろいろ新しい事がわかって、新しい工夫ができて、新しい絆が作られて、という感じで来ていますが、でもやっぱりときどき、頭の中が堂々巡りでどうにも先が見えないような沈んだ気持ちになる事もあります。そう言うときは話し合っても堂々巡りになってるわけですから、そうすると話し合う気力がなくなってくる。

 そういうとき、「ああ、ひとりにしておいてほしいなあ」とふと思う事があったんですね。いつもは逆なんですよ。パートナーの方が問題を抱えたときには「一人にしておいて欲しい」と感じ、僕の方は「一緒にいて欲しい」と思う。それが私も「一人にしておいて欲しい」になったわけです。

 それでふと思ったんですけれど、アスペルガーの方はホントに小さな子どもの頃から、周りから理解されることなく、また理解されるような表現もできず、ずっと「理解しあえない世界」で生きてこられてるわけですよね。周囲から受ける注意だとか、助言だとか、慰めだとか、そういうものも意味が分からない。自分の辛さを訴えても理解してもらえない。そういう積み重ねの中で、「理解し合う事」に対してやっぱり相当根深い絶望感が育っても当然のような気がしたんです。

 で、悪循環になるわけだけど、結局誰も自分の悩みを解決してくれないのだとすれば、あるいは「好意」でいろいろ意見を呉れる事が却って自分には混乱を生むだけだとすれば、むしろそういう他人の関わりは一切ない状態で、自分一人で考えた方がましだ。そんな状態になってもおかしくないと、自分の経験を通して思ったんです。

 このあたり、ほんとはどうなのか、よくわかりませんが、アスペルガーの人でも子どもの頃にかなり受容されて育った方と、ほんとに理解されずに場合によって拒絶されて育った方と、もしこの「一人にしておいて欲しい」ということにちてなにか違いがあるのなら、少なくともその気持ちの一部分は「育った環境」によってつくられたものかも知れません。

2011年12月10日 (土)

ちらっと予告宣伝

またまた、またまた、長のご無沙汰をしておりました。
いろいろバタバタと忙しく、したがって鬱性の疲れがどっと押し寄せるものですから、
なかなかこちらまでたどり着くエネルギーがなくて……(^ ^;)ゞ

うーんと、忙しさの一部分は実は今本を作ろうとしているんです。
何時できるか、まだ見通しははっきり立たないんですが、
とにかく今までにないアスペと定型の本を作ろうと思っています。

今までにないというのは、アスペの人と定型の人が対話をして
それを本にしちゃうということ。
私は司会者の役割で登場するつもりです。
主人公はあくまでこの問題の「当事者」です。
ま、もちろん私も当事者ではあるんだけど、
今回は脇役に徹します。

かかりつけの精神科のお医者さんに話したら
それ、面白そうだね、とすぐに言ってくれました。
やっぱり医者と患者、とか、健常者(定型)と障害者とかいう
「上下関係」じゃなくて、あくまでもおたがい「当事者」ということで、
語り合う事でなんかお互いにあたらしいことを発見していく事。
そういうことをやりたいんですね。

あとこちらのブログに皆さんが書き込んでくださる事を見ていても、
とにかく夫婦によって、人によってすごく多様性があるというか、
バリエーションが豊かというか、そんな気がします。
だから、この本でもそこは大事にしたい。

つまり「アスペと定型の夫婦はこういうものだ」
という決めつけの話をするんじゃなくって、
ある夫婦で、たまたま一方がアスペルガーの特徴を持っていて、
他方が定型の特徴を持っているこの二人は
こんな風に喧嘩したり仲良くしたり、悩んだり喜んだりして生きてますよ~
というのを紹介する本にしたいんですね。

だから、最初の方にはお二人を生い立ちを紹介する部分を作ります。
ここはもう大体できてきてるんですが、ほんとにどちらも個性的でね。
で、その個性が二人の結婚へとつながっていくような感じがする。

だから、アスペと定型の夫婦が出くわす問題だって、
ある程度共通するところはもちろんあるんだけど、
突っ込んでそこを何とかしていこうとしたりすれば、
そもそも一人ひとりの持ってる個性の所にまで踏み込んで
考えていく必要があるんだなあということがよくわかります。

そのほかにも面白い工夫を考えているんですけど、
そこは本ができたらのお楽しみにしておきますね。

パンダが出す初めての本になりますが、さて対話するのは誰でしょう?
それもまだ秘密です。
また具体的に出版の見通しが立ったら大々的に宣伝しちゃいますね。

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